「今咲いてますのは、ホンの丸咲か、牡丹種ぐらいなものです」と学士は高瀬に言った。「真実の獅子や手長と成ったら、どうしても後れますネ。そのうちに一つ塾の先生方を御呼び申したい……何がなくとも皆さんに集って頂いて、これで一杯進げられるようだと可いんですけれど……」
翌朝高瀬は塾へ出ようとして、例のように鉄道の踏切のところへ出た。線路を渡って行く塾の生徒などもあった。丁度そこで与良町の方からやって来る子安に逢った。毎時言い合せたように皆なの落合うところだ。高瀬は子安を待合せて、一諸に塾の方へ歩いた。
線路側の柵について先へ歩いて行く広岡学士の後姿も見えた。
「広岡先生が行くナ」と高瀬が言った。
子安も歩き歩き、「なんでもあの先生が上田から通って被入っしゃる時分には、大変お酒に酔って、往来の雪の中に転がっていたことがあるなんて――そんな話ですネ」
「私も聞きました」
「どうして広岡先生のような人がこんな地方へ入り込んで来たものでしょう」
「それは、君、誰も知らない――」
塾の門前に近いところで、二人は学士に追い附いた。
朝顔の話はそこでも学士の口から出た。
「高瀬さん、今朝も咲きましたよ」
「どうも先生の朝顔はむずかしくッて、私にはまだよく解りません」と高瀬は笑いながら言った。
「町の方でポツポツ見に来て下さる方もあります……好きな人もあるんですネ……しかし私はまだ、この土地にはホントに御馴染が薄い……」
学士は半ば独語のように言った。
正木大尉が桑畠の石垣を廻ってニコニコしながら歩いて来た。皆な連立って教員室の方へ行って見ると、桜井先生は早くから来て詰掛けていた。先生は朝のうちに一度中棚まで歩きに行って来たとも言った。
塾の庭にある樹木の緑も深い。清しそうなアカシヤの下には石に腰掛けて本を開ける生徒もある。濃い桜の葉の蔭には土俵が出来て、そこで無邪気な相撲の声が起る。この山の上へ来て二度七月をする高瀬には、学校の窓から見える谷や岡が余程親しいものと成って来た。その田圃側は、高瀬が行っては草を藉き、土の臭気を嗅ぎ、百姓の仕事を眺め、畠の中で吸う嬰児の乳の音を聞いたりなどして、暇さえあれば歩き廻るのを楽みとするところだ。一度消えた夏らしい白い雲が復た窓の外へ帰って来た。高瀬はその熱を帯びた、陰影の多い雲の形から、青空を流れる遠い水蒸気の群まで、見分けがつくように成った。
休みの時間毎に、高瀬は窓へ行った。極く幼少い時の記憶が彼の胸に浮んで来た。彼は自分もまた髪を長くし、手造りにした藁の草履を穿いていたような田舎の少年であったことを思出した。河へ抄いに行った鰍を思出した。榎の樹の下で橿鳥が落して行った青い斑の入った羽を拾ったことを思出した。栗の樹に居た虫を思出した。その虫を踏み潰して、緑色に流れる血から糸を取り、酢に漬け、引き延ばし、乾し固め、それで魚を釣ったことを思出した。彼は又、生きた蛙を捕えて、皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、蛙の肉の一片に紙を添えて餌をさがしに来る蜂に与え、そんなことをして蜂の巣の在所を知ったことを思出した。彼は都会の人の知らない蜂の子のようなものを好んで食ったばかりでなく、田圃側に葉を垂れている「すいこぎ」、虎杖、それから「すい葉」という木の葉で食べられるのを生でムシャムシャ食ったことを思出した。
高瀬の胸に眠っていた少年時代の記憶はそれからそれと復活って来た。彼は幾年となく思出したことも無い生れ故郷の空で遠い山のかなたに狐火の燃えるのを望んだことを思出した。気味の悪い夜鷹が夕方にはよく頭の上を飛び廻ったことを思出した。彼は初めて入学した村の小学校で狐がついたという生徒の一人を見たことを思出した……
学士が窓のところへ来た。
「広岡先生の御国はどちらなんですか」と高瀬が聞いた。
「越後」
と学士は答えた。
昼過に高瀬が塾を出ようとすると、急に門の外で、
「この野郎打殺してくれるぞ」
と呼ぶ声が起った。音吉の弟は人をめがけて大きな石を振揚げている。
「あれで、冗談ですぜ」
と学士もそこへ来て言って、高瀬に笑って見せた。
荒い人達のすることは高瀬を呆れさせた。しかしその野蛮な戯れは都会の退屈な饒舌にも勝って彼を悦ばせた。彼はしばらくこの地方に足を留め、心易い先生方の中で働いて、もっともっと素朴な百姓の生活をよく知りたいと言った。谷の向うの谷、山の向うの山に彼の心は馳せた。
それから二年ばかりの月日が過ぎた。約束の任期が満ちても高瀬は暇を貰って帰ろうとは言わなかった。「勉強するには、田舎の方が好い」そんなことを言って、反って彼は腰を落着けた。
更に二年ほど過ぎた。塾では更に教室も建増したし、教員の手も増した。日下部といって塾のためには忠実な教員も出来たし、洋画家の泉も一週に一日か二日程ずつは小県の自宅の方から通って来てくれる。しかし以前のような賑かな笑い声は次第に減って行った。皆な黙って働くように成った。
教員室は以前の幹事室兼帯でも手狭なので、二階の角にあった教室をあけて、そっちの方へ引越した。そこに大きな火鉢を置いた。鉄瓶の湯はいつでも沸いていた。正木大尉は舶来の刻煙草を巻きに来ることもあるが、以前のようにはあまり話し込まない。幹事室の方に籠って、暇さえあれば独りで手習をした。桜井先生は用にだけ来て、音吉が汲んで出す茶を飲んで、復た隣の自分の室の方へ行った。受持の時間が済めば、先生は頭巾のような隠士風の帽子を冠って、最早若樹と言えないほど鬱陶しく枝の込んだ庭の桜の下を自分の屋敷かさもなければ中棚の別荘の方へ帰って行った。
子安も黙って了った。子安は町の医者の娘と結婚して、士族屋敷の方に持った新しいホームから通って来た。後から仲間入をした日下部――この教員はまた性来黙っているような人だ。
この教員室の空気の中で、広岡先生は由緒のありそうな古い彫のある銀煙管の音をポンポン響かせた。高瀬は癖のように肩を動って、甘そうに煙草を燻して、楼階を降りては生徒を教えに行った。
ある日、高瀬は受持の授業を終って、学士の教室の側を通った。学士も日課を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒に説明していた。机の上には大理石の屑、塩酸の壜、コップなどが置いてあった。蝋燭の火も燃えていた。学士は手にしたコップをすこし傾げて見せた。炭素がその玻璃板の間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。
高瀬は戸口に立って眺めていた。
無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬという話をすると、それを聞いた生徒の一人がすっくと起立った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿を顕した。
「ア、虫を取りに行った」
と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく戻って来て、捕えたものを学士に勧めた。
「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「怒ってる――螫すぞ螫すぞ」
と口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反らして、螫されまいとする様子をした。蜂はコップの中へ押し入れられた。それを見た生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」と言うものも有った。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶えて、死んだ。
「最早マイりましたかネ」と学士も笑った。
間もなく学士は高瀬と一緒に成った。二人が教員室の方へ戻って行った時は、誰もそこに残っていなかった。桜井先生の室の戸も閉っていた。
正木大尉も帰った後だった。学士は幹事室に預けてある自分の弓を取りに行って、復た高瀬の側へ来た。
「どうです、弓は。この節はあまり御彎きに成りませんネ」
誘うように言う学士と連立って、高瀬はやがて校舎の前の石段を降りた。
生徒も大抵帰って行った。音吉が独り残って教室々々を掃除する音は余計に周囲をヒッソリとさせた。音吉の妻は子供を背負いながら夫の手伝いに来て、門に近い教室の内で働いていた。
学士は親しげな調子で高瀬に話した。
「音さんの細君はもと正木先生の許に奉公していたんですッてネ。音さんが先生の家の畠を造りに行くうちに、畢寛出来たんでしょう……先生があの二人を夫婦にしてやったんでしょうネ」
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