「ええ、まあボツボツ集めてます……なんにも子供に遺して置く物もありませんから、せめて書籍でも遺そうと思いまして……」
大尉は黒い袴の中へ両手を差入れながら笑った。
その日、高瀬は始めて広岡理学士に紹介された。上田町から汽車で通って来るという。高瀬から見れば親と子ほども年の違った学者だ。
「高瀬さんは三年という御約束で、私共の塾へ来て下さいました」
先生は今度雇い入れた新教員のことを学士に話した。
初めての授業を終って、復た高瀬がこの二階へ引返して来る頃は、丁度二番の下り汽車が東京の方から着いた。盛んな蒸汽の音が塾の直ぐ前で起った。年のいかない生徒等は門の外へ出て、いずれも線路側の柵に取附き、通り過ぎる列車を見ようとした。
「どうも汽車の音が喧しくて仕様が有りません。授業中にあいつをやられようものなら、硝子へ響いて、稽古も出来ない位です」
大尉は一寸高瀬の側へ来て、言って、一緒に停車場の方へ向いた窓から見下した。大急ぎで駈出して行く広岡理学士の姿が見えた。学士は風呂敷包から古い杖まで忘れずに持って、上田行の汽車に乗り後れまいとした。
これと擦違いに越後の方からやって来た上り汽車がやがて汽笛の音を残して、東京を指して行って了った頃は、高瀬も塾の庭を帰って行った。周囲にはあたかも船が出た後の港の静かさが有った。塾の庭にある桜は濃い淡い樹の影を地に落していた。谷づたいに高瀬は独り桑畠の間を帰りながら、都会から遁れて来た自分の身を考えた。彼が近い身の辺にあった見せかけの生活から――甲斐も無い反抗と心労とから――その他あらゆるものから遁れて来た自分の身を考えた。もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることは無いか。そのために、彼は他にもあった教師の口を断り、すこし土でも掘って見ようと思って、わざわざこの寂しい田舎へ入って来た。
「高瀬さん、一体貴方はお幾つなんですか――」
桜井先生の奥さんは庭づたいに隣の家の方から廻って来た高瀬に尋ねた。奥さんは縁側のところに出て、子供に鶏を見せていた。
高瀬は庭に立ちながら、「二十八です」と答えた。
「まだお若いんですねえ」
「そう言えば、奥さんはお幾つです。女の方の年齢というものは、よく分らないものですネ」
「私ですか――貴方より二つ上――」
奥さんは聞かなくても可いことを鑿って聞いたという顔付で、やや皮肉に笑って、復た子供と一緒に鶏の方を見た。淡黄な色の雛は幾羽となく母鶏の羽翅に隠れた。
先生が庭を廻って来た。町の方に見つけた借家へ案内しよう、という先生に随いて、高瀬はやがてこの屋敷を出た。
城門前の石碑のあるあたりから、鉄道の線路を越え、二人は砂まじりの窪い道を歩いて行った。並んだ石垣と桑畠との見える小高い耕地の上の方には大手門の残ったのが裏側から望まれた。先生はその高い瓦屋根を高瀬に指して見せた。初めて先生が小諸へ移って来た時は、その太い格子の嵌った窓と重い扉のある城門の楼上が先生の仮の住居であったという話をして聞かせた――丁度、先生はお伽話でもして聞かせるように。
坂道を上ると、大手の跡へ出る。士族地の方へ行く細い流がその辺の町の間を流れて来ている。二人は広岡理学士の噂などをしながら歩いた。
先生は思いやるように、
「広岡さんも今、上田で数学の塾を開いてますが、余程の逆境でしょう……まあ、私共も先生に同情して、いくらかの時間を助けに来て頂くことにしたんです……それに、君、吾々の塾も中学の設備をして、認可でも受けようというには、肩書のある人が居ないと一寸これで都合が悪いからネ」
高瀬も笑った。
細い流について行ったところに、本町の裏手に続いた一区域がある。落葉松の垣で囲われた草葺屋根の家が先生の高瀬を連れて行って見せたところだ。近くまで汁粉屋が借りていたとかで、古い穴のあいた襖、煤けた壁、汚れた障子などが眼につく。炬燵を切ったあたりは畳も焼け焦げて、紙を貼り着けてある。住み荒した跡だ。
「まあ、こんなものでしょう」
と先生は高瀬に言って、一緒に奥の方まで見て廻った。
「一寸、今、他に貸すような家も見当りません……妙なもので、これで壁でも張って、畳でも入替えて御覧なさい、どうにか住めるように成るもんですよ」
と復た先生が言った。
同じ士族屋敷風の建物でも、これはいくらか後で出来たものらしく、蚕の種紙をあきなう町の商人の所有に成っていた。高瀬はすこしばかりの畠の地所を附けてここを借りることにした。
小使いの音吉が来て三尺四方ばかりの炉を新規に築き上げてくれた頃、高瀬は先生の隣屋敷の方からここへ移った。
家の裏には別に細い流があって、石の間を落ちている。山の方から来る荒い冷い性質の水だ。飲料には用いられないが、砂でも流れない時は顔を洗うに好い。そこにも高瀬は生のままの刺激を見つけた。この粗末ながらも新しい住居で、高瀬は婚約のあった人を迎える仕度をした。月の末に、彼は結婚した。
長く東京で年月を送って来た高瀬には、塾の周囲だけでも眼に映るものが多かった。庭にある桜の花は開いて見ると八重で、花束のように密集ったやつが教室の窓に近く咲き乱れた。濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁にも映った。学生等は幹に隠れ、枝につかまり、まるで小鳥かなんどのようにその下を遊び廻って戯れた。
「広岡先生も随分関わない人ですネ」
と高瀬が桜井先生と正木大尉との居る前で言うと、大尉は笑って、
「関わないんじゃなくて、関えないんでしょう……」
と言った。そういう大尉は着物から羽織まで惜げもなく筒袖にして、塾のために働こうという意気込を示していた。
この半ば家庭のような学校から、高瀬は自分の家の方へ帰って行くと、頼んで置いた鍬が届いていた。塾で体操の教師をしている小山が届けてくれた。小山の家は町の鍛冶屋だ。チョン髷を結った阿爺さんが鍛ってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成あるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。
不思議な風体の百姓が出来上った。高瀬は頬冠り、尻端折りで、股引も穿いていない。それに素足だ。柵の外を行く人はクスクス笑って通った。とは言え高瀬は関わず働き始めた。掘起した土の中からは、どうかすると可憐な穎割葉が李の種について出て来る。彼は地から直接に身体へ伝わる言い難い快感を覚えた。時には畠の土を取って、それを自分の脚の弱い皮膚に擦り着けた。
塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。
毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置いて、家へ帰ればこの畠へ出た。ある日、音吉が馬鈴薯の種を籠に入れて持って来て見ると、漸く高瀬は畠の地ならしを済ましたところだった。彼の妻――お島はまだ新婚して間もない髪を手拭で包み、紅い色の腰巻などを見せ、土掘りの手伝いには似合わない都会風な風俗で、土のついた雑草の根だの石塊などを運んでいた。
「奥さん、御精が出ますネ」
と音吉は笑いながら声を掛けて、高瀬の掘起した畠を見た。サクの切り方が浅かった。音吉は高瀬から鍬を受取って、もっと深く切って見せた。
「この辺は、まるで焼石と砂ばかりのようなものでごわす。上州辺と違って碌な野菜も出来やせん」
と音吉が言った。
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