私の學資は毎月極めて郷里から送つて寄して呉れるといふ風には成つて居ませんでした。これには私は多少の不安を感じて居ました。すると、ある時のこと長兄の許から手紙が來て、金は纏めて豐田の小父さんの方へ送つたから買ひたい物があらば買へ、苦しい中でも貴樣達は東京へ出してあるのだから、その積りで勉強せよ、と言つて寄しました。幾度私はその手紙を繰返し讀んで見て、兄の言葉に勵まされたか知れません。丁度、故中村正直氏の書いたナポレオンの小傳が私の手に入りました。傳記らしい傳記で私が初めて讀んだのは恐らくその小册子です。中でも、ナポレオンの青年時代のことは酷く私の心を動かしました。私は例の日光の射し込む窓の下で獨りその小傳を開いては感激の涙を流すやうに成りました。
斯ういふ物に感じ易い私の少年時代が一方では極く無作法な荒くれた時でも有りました。姉がまだ東京に居ました頃、あの家の二階の袋戸棚の前へ幼い甥を呼びつけて、その戸棚の中に入れて置いた燒饅頭が何日の間にか失くなつたことを責めたことが有りました。私はそれを見て、心の中で甥の行ひを笑つたり憐んだりしました。どうでせう、その私が豐田さんの家へ來てからは甥を笑へなく成りました。私は白状します、どうかすると私はお腹が空いて空いて堪らないことが有りました。さういふ時には我知らず甥と同じ行ひに出て、煮付けた唐辛の葉などはよく摘みました。私は又、自分の空腹を滿す爲でも何でもないのに、酒屋へ使に行つた歸りなどには往來で酢の罎を傾げて、人知れずそれを舐めて見たりしました。
注意深い豐田のお婆さんでも左樣々々は氣が附きません。私はそれを好い事にして、ある日、酒屋から酒を買つて戻りました。煮物にでも使ふのでしたらう。小父さんはあまり酒をやらない方でしたから。私が持つて歸つた罎の酒は減つて居ました。
『高い酒屋だねえ。』
とお婆さんに言はれた時は、思はず私は紅く成りました。
午後の三時は毎日私の樂みにした時でした。物のキマリの好い豐田さんの家では、三時といふと必と煎餅なり燒芋なりが出ました。あのウマさうに氣の出るやつを輪切にした水芋か、黄色くホコ/\した栗芋かにブツカる時には殊に嬉しく思ひました。夏にでも成ると、土藏の廂間から涼しい風の來るところへ御櫃を持出して、その上から竹の簾を掛けて置いても、まだそれでも暑さに蒸されて御櫃の臭氣が御飯に移ることがあります。儉約なお婆さんは、それを握飯に丹精して、醤油で味を附けまして、熱い火で燒いたのをお茶の時に出しました。いかに三時が待遠しくても、終にはその握飯の微かな臭氣が私の鼻に附いて了ひました。折角丹精して造へることを思ふと、お婆さんの氣を惡くさせたくない。私の癖として、人が惡い顏をするのを見ては居られません。そこで私は握飯の遣り場に窮つて、玄關の小部屋の縁の下へそツと藏つて置くことにしました。土藏造で床も高く出來て居ましたから。斯の人の知らない倉庫を暮の煤拂には開けなければ成りませんでした。その時は實はハラ/\しました。
私の生れた家では子供に金錢は持たせない習慣でした。それが癖に成つて、私は東京へ出て來てからも自分で金錢を所有したことは少く、餘分なものは家の人に預けました。時とすると豐田さんへ來る客から土産がはりとして包んだ金錢を貰つたことも有りましたが、それよりか珍しい風景の彩色した版畫でも貰つた時の方が私には難有かつたのです。私は子供の時分から金錢に對しては淡泊な方でした。で、私は唐辛の葉の煮たのなどは摘んでも、他の所有する金錢を欲しいといふ心は起りませんでした。ところが、それが全く私に無いとは言へません。有ります。私は別に何を買ひたいでは無し、それで居ながら不圖さういふ心に成つたのです。その一時の出來心で私の爲たことは、知られずに濟んだとは言へ、今だに私は冷汗の流れるやうな心地が殘つて居ます。
ある物語の中に、私はあの當時のことを思出して書きつけて見たことも有りました。
『小母の寢床はもう其時分から敷いて有つた。すこし小母が氣分の好い時には、池の金魚の見えるところへ人を集めて、病を慰める爲に花札を引いた。其時自分は雨だの日の出だのを畫いてある札を持つて見て、「青たん」とか「三光」とかいふことを始めて習つた。よく臺所の方では、小母の爲に牛肉のソップを製へた。儉約な祖母さんはそのソップ渣へ味を附けて自分等にも食はせたが、終にはそのにほひが鼻へ着いて、誰も食ふ氣に成れなかつた。仕方が無いから、祖母さんはそれを乾して三時の茶といふと出した。そのソップを製へる爲に生の牛肉を細かく賽の目に切つて、口の長い大きな徳利へ入れる。是がまた一役で、氣の長いものでなければ勤まらなかつた。丁度奧の二階には、小父の親戚に當る年老いた漢學者が親子連で來て世話に成つて居て、結句牛肉の切り役は斯の温厚な白髮の老先生に
つた。老先生が眼鏡を掛て、階下で牛肉を切つて居る間は、奧の二階は閑寂として居る。そこには先生の書籍が置並べてある。机の上には先生の置き忘れた金錢がある。その金錢を十錢許り盜んだものがある――この盜みをしたものが自分だ……』
金錢を置き忘れる位の老先生のことですから、斯の私の行ひも別段詮議されずに終つたのでせう。慚愧の情はずつと後に成つてその年老いた漢學者の沒する頃までも續いて居ました。私が老先生の靈前へと思つて、香奠を封じた手紙を書いた時にも、活々と胸に浮んだのはそのことでした。假令金錢は僅かでも、私には全く左樣いふ心を起したことが無いとは言へないのですから。
金錢はあまり欲しいとは思はなかつたが、品物は欲しいと思つた。私は斯ういふ言ひ
しをして自分の少年時代に爲たことを辯解しようとも思ひません。取りましたから取りました。どういふものか、ふいとそんな量見に成りました。それが私の幼い日の中で掻消すことの出來ない記憶の一つとして殘つて居るのです。
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