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幼き日(おさなきひ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 10:56:35  点击:  切换到繁體中文


        六

 落着く先は姉の家でした。長兄に引連れられて山の中から出て來た私達兄弟の少年は、はじめて大きな都會の空氣に觸れ、日頃故郷の方でよく噂の出る姉とも一緒に成ることが出來たのです。前にも御話しました通り、姉は私が覺えの無いほど極く幼少ちひさな時分に嫁入した人でした。
 田舍者が多勢で押掛けて來た姉の家は、銀座の裏側にあたる閑靜な町の角にあつて、灰色な圓柱の並んだ、古風な煉瓦造りの一つでした。二階には四間ばかりの部屋がありました。その一室ひとま硝子窓ガラスまどから町の裏側の屋根だの物干だのの見えるところが私達兄弟の勉強部屋によからうと言はれて、そこで私は銀さんと一緒に新規な机を並べ、夜はその部屋で二人枕を並べて寢ました。田舍に居た頃とは違ひ、こゝでは茶の出る時間も午後と定つて居て、甥と一緒に茶うけの豆せんべいなどを買ひに行き、廣い爐邊でノンキに食事をしつけたものが今度は姉の家の祖母おばあさんや姉夫婦の側にかしこまつて、銀さんと御取膳で食ふことに成りました。
『どうだ、是がオサシミだ。』
 と姉に言はれて、私は初めてオサシミといふものを口に入れて見たことを覺えて居ます。姉が馳走振に取つて呉れた新鮮な魚肉よりも、故郷の方で食べ慣れた鹽辛い鮭の方が私の口にひました。一年に一度づゝ年取の晩の膳についた鹽鰤しほぶりの味などは私には忘れられないものでした。
 その頃の姉はまだ若く見える人で、物の言ひ方なども、ハキ/\として居て、私の知らないことは深切に教へて呉れ、萬事につけて私をいたはつて呉れました。斯の愛情は少年の私には難有いものでした。私の故郷の習慣で、他の朋輩を呼ぶには『わりや』と言ひ、自分のことは奈樣どんな目上の人の前でも、『おれ』でしたが、その時都會の少年のやうに言葉遣ひを習ひ、『君』とか『僕』とかいふ言葉も姉からをそはりました。
 姉が私の爲に種々と注意をして呉れたことは、次の一例を御話しただけで解らうと思ひます。子供の時分に私はよく鼻液はなが出ました。それを兩方の袖口で拭きましたから何時でも私の着物には鼻液が干乾ひからび着いて光つて居りました。そればかりでなく、着物の胸のあたりをも汚したものです。姉はそれを見て取つて、私が食事の時に茶碗を胸に當てることは止せと言ひましたが、自然とついた癖は直さうと思つても容易に直りませんでした。何時の間にか私の茶碗は胸のところに當つて居ました。そこで姉は一計を案出しました。四角に切つた鐵葉ブリキきれに紐を着けまして、食事の度に私に掛けさせることにしたのです。
『御飯!』
 といふ聲を聞くと、私は客があるか無いかを第一に思ひました。姉の家の人達は兎も角も、知らない客の前でブリキを自分の首に掛けるほどキマリの惡いことは有りませんでした。全く、ブリキの前垂には私も弱らせられました。でもその御蔭で、カチリと茶碗の音がする度に自分でも氣が着いて、着物を汚す癖は直つて行きました。
 姉の夫といふは背の隆い、立派な威嚴のある人でした。國から出て來て、一時は大藏省の官吏にも成りました。斯の人と兄とは極く親しい間柄で、私のことも親身の弟のやうに見て呉れ、私のために數寄屋河岸にある小學校を選んで呉れました。斯の人は又、鷹揚にあごを撫でながら私を前に置いて論語の素讀を授けて呉れたり、閑暇ひまな時には東京の町々だの公園だのを見せに連れて歩いて呉れました。私は未だに斯の人が當時流行はやつた獵虎らつこの帽子を冠つた紳士らしい風采を覺えて居ます。それから觀兵式の日に連れられて行つて、初めて樽柿といふものを買つて宛行あてがはれたことなどを覺えて居ます。その頃のことを思出すと海の見える座敷で海苔の香氣にほひを嗅いだことが私の幼い記憶に浮び揚つて來ます。なんでも其日は姉の家のものが皆な揃つて外出して、私はめづらしい處で一緒に食事をしたやうに思ひますが、それが品川邊の料理屋であつたか何處であつたかは、よく覺えません。唯海苔の香氣の記憶だけ、しかも鼻の先へ匂つて來るやうに殘つて居ます。そんな風にして私は諸方はう/″\へ連れられて行きました。
 姉夫婦の傍には私は一年あまりしか居りませんでしたが、しかしその間に受けた愛情は少年の私の心に深く刻み着けられました。それからずつと後に成つて、姉の夫の身の上には種々な變化が起り、その行ひには烈しい非難を受けるやうな事もありました。さういふ中でも、猶私が周圍の人のやうには姉の夫を考へて居なかつたといふは、全く斯の少年の時に受けた温い深切の爲で――丁度、それが一點の燈火ともしびの如くに私の心の奧に燃えて居たからであります。
 素朴な私の田舍の家と違ひ、姉の家にはまた別の空氣がありました。そこの祖母おばあさんは名古屋風の趣味を持つた人で、綺麗に片附けた下座敷へ琴を取出して時々なぐさみに掻鳴しました。甥は私よりは三つも下の少年でしたが、謠曲うたひの文句などを諳記して居て、斯の祖母さんの側でよく歌ひました。
 二階座敷で時折樂しい酒宴さかもりのあつたことも、客を款待もてなすことの好きな姉の夫の氣風をあらはして居りました。同じ銀座の町の近くには、矢張同郷の豐田さんといふ人が住んで居て、折につけて呼ばれて來ました。その使に行くのが何時でも私でした。ゆつくり酒を酌みかはすといふ夜などは、豐田さんは興に乘つて歌ひ出すことが有りました。いかめしい顏附に似合はない豐田さんの洒落しやれは皆なを笑はせました。姉の夫もすゞしい好い音聲で故郷の方の俗謠などを歌ひましたが、その聲には私は聞きれる位でした。
 斯うして寛濶な家庭の中でも、姉は物のキマリの好いことを悦んでそれを私に話して聞かせたものです。例へば、日曜毎に訪ねて來る同郷の青年があるとか、その青年が甥のところへ買つて持つて來るものは鹽煎餅と定つて居るとか、それを缺かしたことが無いとか、そんなことまで姉の心を悦ばせました。
 銀さんと私とは姉の家から同じ小學校へ通ひましたが一年ばかり經つうちに銀さんの方は學校を退いてしまひました。銀さんは學問よりも商業で身を立てるやうにと姉夫婦から説き勸められて、日本橋のある紙問屋へ奉公に行くことに成りました。國から二番目の兄に養父が上京した節、銀さんも御店おたなの方から暇を貰つて逢ひに來たことが有りました。その時は皆な揃つて記念の寫眞を撮りました。その中で銀さん一人は商人らしい前垂掛で撮れて居ます。
 姉が年寄から子供まで連れて夫と一緒に歸國する前には、種々なことが有りました。ある日、私は姉に言ひ附けられて、今迄行つたことの無い家へ使に出掛けたことを覺えて居ます。姉は祖母さんに内證で、箪笥の中から自分の着物を取出して風呂敷包にして私に背負はせました。私の行つた先は店頭みせさきに暗い暖簾のれんの掛つた家です。番頭が居まして、私が背負つて行つた着物を一枚々々ひろげて見て、通ひ帳の中へ御金を入れて私に渡しました。私は子供心にもいくらか斯の意味を悟りました。姉のところへ引返してから、斯ういふ使はもう御免だと言つて、姉を笑はせたことが有りました。さういふ中でも、姉は祖母さんの膳にだけ新しいオサシミをつけました。祖母さんの好きな物は何よりオサシミでしたから……
 姉と一緒に居た間、私は殆んど忿怒いかりといふものも知らなかつたほど自分の少年らしい性質が延びて行つたことを感じます。甥の下にはまだ頑是ぐわんぜない年頃の姪が一人ありました。その姪は姉が東京に家を持つてから生れた子供です。あの日、私が學校から歸つて來て自分の机のところへ行つて見ますと大事に/\して置いた新しい洋綴の帳面には目茶苦茶に何か書き散してありました。斯の亂暴な行ひは直に小さな姪のいたづらと知れましたが、そのために自分の忿怒いかり奈何どうすることも出來ませんでした。私はその帳面を引裂いて了ひました。口惜しかつたと思つたことは、その時ぐらゐのものです。一體に姉は清潔好きれいずきでしたから、私は姉を悦ばせようと思つて表や庭の掃除をよくやりました。ある時、二階の硝子窓の外にある露臺へ夏の雨が來ました。私はその雨降の中へ出て、汚れたトタンの上を洗つて、姉を悦ばせたことも有りました。どうかすると姉は夫や子供と共に寢室を離れないで居る朝などには、早起の祖母さんが階下したでブツ/\言ひます。さういふ時に、姉を呼び起しに行くのは私の役※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りでした。
 姉の家族が故郷へ向けて出發した日のことは、まだいくらか私の眼にあります。白い髮の祖母さんから、子供まで、皆な國まで買切の人力車くるまに乘つて出掛けました。姉の居た家には鷲津さんが入ることに成りました。で、私は親身の姉の手から『鷲津の姉さん』と呼ぶ人の手に渡されたのです。
 鷲津さんの家族はたつた親子二人ぎりでした。禿頭に細いチヨン髷を結つて居た老爺おぢいさんと、その娘にあたる獨身の姉さんと。斯の老爺さんは私達の隣國の舊藩士で、過去つた時代には相應の高い地位に居たとやら。多藝な人で、和歌の添削などをするかたはら、その家へ移つて來てからは碁會所の看板を掛けました。鷲津の姉さんはまた女でも可成に碁の打てる人でしたから、部屋々々に毛氈まうせんなどを敷き、重い碁盤を置き、客が來ればその相手に成りました。
 一人東京に殘されました少年の私の身に取つては、斯の同じ家の内が全く別の世界のやうに成りました。姉は私のことを鷲津さんによく頼んで置いて歸つて行つたのですが、最早私の周圍には以前のやうな注意を拂つて呉れる人は居りませんでした。私はそれを感じました。のみならず、私は周圍の冷淡な人達に對して自分の少年らしい感情を隱すやうに成りました。たま/\學校から歸つて來て見ると、老爺さんは鏡に向つて眉間みけんこぶを氣にして居ます。なんでも其瘤は非常に大きなニキビの塊だといふことでした。どうして、年は取つてもなか/\の洒落ものでしたから、到頭老爺さんは剃刀を取出して、自分でそのニキビの塊を切りました。そんなことを見る度に、私は斯の年甲斐のない老人に對してさげすみの念を抱きました。
 斯ういふ家庭の空氣でしたから、自然と私の心は屋外そとの方へ向ひました。私も早や東京へ出たての時のやうに髮などを長く垂れ下げて、黄八丈の羽織をヨソイキに着るやうな少年ではありませんでした。毎朝數寄屋河岸へ通ふ途中で一緒に成る男や女の學校友達の顏は、私には親しいものと成つて來ました。その頃普通教育は男も女も合併の時分で、私は一方に炭屋の子息むすこさんと席を並べ、一方には時計屋の娘やある官吏の娘などと並んで腰掛けました。斯の官吏の娘の家は私達が住むと同じ町の並びにありました。姉妹きやうだいで學校へ通つて居ました。何がなしに私はその家の前を通るのを樂みにして、私が居る家と同じ型の圓柱、同じ型の窓を望んでは、そこに同級の女の友達が住むことを懷しみました。その頃は又、學級の編成の都合かして、生徒を上の組へ飛ばせるといふことが有りました。その時、私は炭屋の子息さんと時計屋の娘と三人で上の組にみ入れられましたが、官吏の娘だけは元の組に殘りました。休みの時間に、時計屋の娘が先生の前に來て、自分一人昇級するのをブツ/\言ふものが有ると言つて、訴へたことを覺えて居ます。私は氣のたかぶつた時計屋の娘よりも、シヨゲた官吏の娘の方を可哀さうだと思つたことも有りました。
 鷲津の姉さんは色の淺黒い、瘠ぎすな、男性的の婦人でそれに驚くほど氣の短い性質を有つて居ました。その性急せつかちなことは、鍋に仕掛けた芋でも人參でも十分煮えるのを待つて居られないといふ程でした。早く煮て、早く食つて、早く膳を片附けて了ひたい……それが姉さんの癖でしたから、私も學校の方へ氣がかれる時などは、生煮なまにえの物でも何でもサツサと掻込んで、成るべく早いことをやりました。それでも姉さんには急き立てられました。そんな風にして私は一年ばかりも斯の婦人に養はれましたが、二番目の兄が國から上京して斯のさまを見た時は、私のために心配し始めた位でした。鷲津の姉さんの早く、早くで、しまひには私は青く成つて了ひました。

        七

 私は極く早い頃から臆病な性質をあらはしました。銀さんは國に居る頃から私と違ひまして、木登りの惡戲いたづらから脚に大きなとげなどが差さつても親達に見つかる迄はそれを隱して居るといふ方でしたが、私はひとの身體の疼痛いたみを想像するにも堪へませんでした。東京へ修業に出て來てからも、二番目の兄に連れられて寄席などへ遊びに行きますと、中入前あたりには妙に私は心細く成つて來るのが癖でした。斯の兄は其頃から度々上京しまして旅屋やどやに日を送りましたから、私もよく銀座邊の寄席へは連れられて行きましたが、騷がしい樂屋の鳴物だの役者の假白こわいろだのを聞いて居ると、何時でも私は堪へ難いほどの不安な念に襲はれました。その度に、私は兄一人を殘して置いて、寄席から逃げて歸り/\しました。それほど私は臆病でした。
 一方から言へば私は八歳の昔に早や初戀を感じたほどの少年で(そのことは既に貴女に御話しましたが)、その私が鷲津の姉さんのやうな家庭の空氣の中に置かれて、種々な大人の淫蕩みだらを見たり聞いたりしながら、しかも少年らしい多くの誘惑から自分を護り得たといふのも、一つは斯の臆病からだと自分で思ひ當ることが有ります。
 二番目の兄は鷲津の姉さんの傍に長く私を置くことを好みませんでした。そこで私は姉や兄達の懇意な豐田さんの家の方へ引取られて、豐田さんの監督の下に勉強することに成つたのです。丁度それは私が十一の年の秋頃でした。
 貴女は十一二といふ年頃をお母さんの側で奈何どんな風に送つたでせうか。私は全く獨りで――母からも、姉からも離れて――早くから他人の中へ投げ出されたやうなものでした。それが私に取つての修業といふものでした。私はいかにせば、鷲津の姉さんのやうな性急で氣むづかしい人を喜ばすであらうかと、そんなことに心を碎きました。一旦等閑なほざりにされた私は豐田さんの方へ引移つて、思はぬ深切と温い心とを見つけたのです。

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