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幼き日(おさなきひ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 10:56:35  点击:  切换到繁體中文


 私達は、同じ年頃の子供ばかりで遊ぶ時には、まだそれほど遠く行きませんでした。でも裏の田圃道に出て、高い樹木の上の方に小鳥の囀るのを聞くのは樂みでした。田圃わきには『スイコギ』の葉を垂れたのが有りました。それを採つて、鹽もつけずに食ひました。村の學校のあつた小山の下のところには細い谷川が流れて居ます。そこへ私はお牧から借りたざるを持つて行つてかじかをすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色ときいろの腰卷まで出して、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。
 何時の間にか私は斯の隣の家の娘と二人ぎり隱れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風ひさしふうの小座敷を通り拔けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。すると極りで、若い嫂が私達を探しに來ました。
 お牧、お霜婆、斯の手紙には私は主に少年の眼に映じた婦人のことを貴女に書く積りですから、その順序として幼少をさない隣の家の娘のことを御話するのです。有體ありていに言へば、私は女といふものに初めて子供らしい情熱を感じました。私はお文さんを堅く抱締めたこともあります。斯の子供らしさは、近所の他の家の娘にも起りました。私は三日ばかり激しい情熱に苦められたことを覺えて居ます。尤もその娘のことは直と忘れて了ひましたが……
 ある日、私はお文さんに誘はれて隣の家へ遊びに行きました。酒屋の香氣にほひのする庭を通り拔けて、藏造りになつた二階の部屋へ上つて見ました。隣とはよく往來ゆきゝをしましたが、そんなに奧の方まで連れられて行つたのは私には初めてです。丁度そこへお文さんの兄さんの道さんがやつて來ました。道さんはお文さんや私より二ツ三ツ年長うへの少年で、村の學校でも評判な好く出來る生徒でした。
 其日まで私は夢中でお文さんと遊んで居て、第三者といふものの有ることを知りませんでした。お文さんの部屋で、道さんと一緒に成つて見て、それが解つて來ました。私は唯道さんに見られたといふだけで、何となく少年らしい羞恥を感じました。それきり私はお文さんを離れて、今度は道さんだの、それから他の男の兒と遊ぶやうに成りました。
 お文さんは相變らず吾家うちへ手習に通ひました。しかし私が道さん達の仲間入をするやうに成つてからは、以前のやうに彼女と親しくしませんでした。
 御承知の通り、狹い田舍では大抵の家が遠い親類の形に成つて居ます。左樣いふ家の一つに、丁度お文さんと同い年ぐらゐな娘がありました。惡戲いたづら好きな學校の朋輩は、その娘の名と私の名とを並べて書いて見たり、課業を終つて思ひ/\に歸つて行く頃には、杉の樹のあるお寺の坂の上あたりから、大きな聲で呼ばつたりしたものです。
 それを聞くと私は、
『糞をくらへ。』
 といふ風で、吾家を指して歸りました。
 それから九歳こゝのつの秋に東京へ遊學に出掛けるまで、私の好きなことは山家の子供らしい荒くれた遊びでした。次第に私は遠く行くやうに成つて、男の友達と一緒に深い澤の方まで虎杖いたどりの莖などを折りに行き、『カルサン』といふ勞働の袴を着けた太助の後に隨いて、松薪まつまきの切倒してある寂しい山林の中を歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)り、路傍みちばたに『』でも見つけると、それを生でムシヤ/\食ひました。太助とは、山の神のほこらのあるところへ餅を供へにも行つたことが有ります。都會の子供などと違ひ、玩具も左樣さう自由に手に入りません。私は竹と半紙で『するめ紙鳶だこ』を手造りにすることを覺えました。それを村はづれの岡の上へ持つて行つて、他の子供と競爭で揚げました。『シヨクノ』――東京の言葉でいふ『ネツキ』は、最も私の心を樂ませた遊びです。木は不自由しない村ですから、私は太助の鉈序なたついでに、強さうな木の尖端さきを鋭く削つて貰ひました。どうかすると霜枯れた田圃側には、多勢村の少年が群がつて、斯の『シヨクノ』を土の中に打込んで遊びました。私の父はヤカマしいので、斯ういふ遊びに勝つても、表から公然と擔ぎ込む譯に行きません。左樣いふ時に、都合の好いのはお霜婆の家でした。
 銀さんと私とがいよ/\上京とまつた頃は、母の織る機がいそがしさうに響きました。母は私の爲にヨソイキの角帶を織りました。なにしろ私はまだ田舍の小學校で僅か學んだばかりで、小さな旅の鞄に金米糖を入れて呉れるからと言はれて、それを樂みに遊學の日を待つほどの少年でした。

        五

 旦那樣はじめ、お子樣がた御變りもなき由、殊に此節は幼い二人を相手に樂しい日を送つて居らるゝとか。先頃子供のところへ贈つて下すつた御地の青い林檎は斯のあたりの店頭みせさきにあるものと異なり樹から※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取つたばかりのやうな新鮮を味ひました。御蔭で子供も次第に成人して參ります。函館の老爺ぢゝ上京の節も、孫達の顏を眺めて、たまに出て來て見ると大した違ひだと申した位です。私がたはむれに弟の方の子供を抱き上げて見て、更に兄の方を抱き上げながら大分重くなつたと申しましたら、兄の子供はさも嬉しさうに首をすくめて笑ひました。
『重くなつたと言はれるのが、そんなに嬉しいの?』
 と側に居る娘も笑ひながら言ひました。
 毎日長い黐竿もちざをを持つて町の空へ來る蜻※とんぼ[#「虫+廷」、391-8]を追ひ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)して居た兄の子供も、復た/\夏休み前と同じやうに鞄を肩に掛けて、學校へ通ふやうに成りました。近所の毛筆屋ふでやの子で眼のパツチリとした同級生が毎朝誘ひ合せては出掛けますが、ある夕方、その子が遊びに來て門口から私の家を覗きました。瓦斯ガスとか電燈とかで明るい屋並の中に、吾家うちではまだ洋燈ランプを用ひて居ます。
『洋燈を點けてるのかい――隨分舊弊だねえ。』
 とその八つに成る毛筆屋の子が申しました。流石さすが都會に育つ子供はマセた口の利きやうをすると思ひました。
 八月の末から九月の初へかけて毎年のやうに降る大雨が今年は一時にやつて來て、乾き切つた町々を濡らしました。隅田川も濁つて灰汁あくを流したやうに成りました。狹い町中とは言ひながら、早や秋の蟲が縁の下の方でしきりに鳴きます。冷々ひや/\とした部屋の空氣の中でその鳴聲を聞きながら、毛筆屋の子に笑はれた洋燈の下で、私は斯の手紙を書き續けます。
 少年の私が銀さんと一緒に東京へ遊學することに成りました時は、銀さんが數へ年の十二、私が九つでした。まだ他にお文さんの二番目の兄さんも眼の療治のために同行することに成りました。
 その日も近づいた頃、銀さんは裏の梨の樹の下あたりに腰掛けて、兄貴に東京行の頭を刈つて貰ひました。村には理髮店といふものも無い時でしたから、兄貴が襷掛で、掛る布も風呂敷か何かで間に合せて、銀さんの髮を短くはさみました。私の方はまだ一向な子供でしたから、髮も長く垂下げたまゝで可からうと言はれました。私はそツと家を拔け、子供心にも別れを告げるつもりで、裏道づたひにお牧の家をさして歩いてまゐりました。私は人に見つからないやうにと、くらゐ苦心して竹藪の側や田圃中の細い道なぞを通つたか知れません。何故といふに、村で一番不潔な男を親に持つたそのお牧の手に養はれたといふことは、絶えず私がひとから調戲からかはれる材料に成つて居ましたから。私は調戲はれると言ふよりはなぶられるやうな氣がして、その度に堪へ難い侮辱はづかしめを感じて居りました。で、隱れるやうにしてお牧の家まで歩きました。丁度お牧の父親も家に居る時で、例の油染みた髮結の道具などが爐邊に置いてあつたかと覺えて居ます。お牧の家の人達は非常に喜びまして、私のために鍋で茶飯をいて呉れました。私が茄子なすが好きだからと言つて、皮のまゝ輪切にしたやつを味噌汁にして呉れました。その貧しい爐邊で味つた粗末な『おみおつけ』は、私に取つて一生忘れられないものです。それから三十年あまりの今日まで、どうかして私は彼樣あゝいふ味噌汁を今一度吸ひたいと思つて、幾度同じやうに造らせて見るか解りませんが、二度と彼の味を思出させるやうなのには遭遇であひません。
 片田舍のことですから、私達が東京へ發つ前には毎晩のやうに親しい家々から客に呼ばれました。私は銀さんと一緒にお文さんの家へも呼ばれて行つて、鷄肉とりつゆで味をつけた押飯あふはん(?)の馳走に成りました。何かにつけて田舍風の饗應を取替とりかはすといふことは、殊に私の村では昔から多い習慣のやうに成つて居ました。
 出發の前の朝、祖母は私達を爐邊に据ゑまして、食事しながら種々なことを言つて聞かせました。今朝は言ふ、そのかはり明日の朝は何事なんにも言はない、そんなことを言つて、長いこと私達を側に坐らせて置いて、別離わかれの涙を流しました。其晩、私は父の書院へも呼び附けられて、五六枚ほど短册に書いたものを餞別として貰ひました。それは私が座右の銘にするやうにと言つて呉れたので、日頃少年の私をつかまへて口の酸くなるほど言つて聞かせた教訓を一つ/\文字に表はして書いたものでした。私はその全部を記憶しませんが、父があの几帳面な書體で認めた短册の中には、あり/\と眼に浮んで來るのもあります。
『行ひは必ず篤敬。云々。』
 兄に引連れられて、翌日私達三人の少年は故郷の山村を發ちました。坂になつた驛路の名殘の兩側には、それぞれ屋號のある親しい家々が並んで居ます。私達は一軒々々田舍風な挨拶をするために立寄りました。日頃洗濯や餅つきの手傳ひなどに來る婆さんとか、又は出入の百姓とかの人達までいづれも門に出、石垣の上に立ちして、私達を見送つて呉れました。九月の日のあたつた村はづれまで送つて來て呉れる人もありました。暗い杉の木立の側を通り、澤を越して行きますと、あざ峠と言つて一部落を成したところがあります。その邊まで私達に附いて來て名殘を惜む人もありました。おかしらの家のある峠を離れて、私達は旅らしい山道に上りました。
 その頃は京濱間より外に鐵道といふものも無く、私達の故郷から東京まで行くには一週間もかゝるほど不便な時でした。それに大きな谷の底のやうな斯の山間やまあひを出て、馬車にでも乘れるといふ處まで行かうとするのには、是非とも高い峠を二つだけは越さなければ成りませんでした。
 全く方角も解らなく成つて了つたやうな、知らない道を三日も四日も歩いた後で、私は銀さん達と一緒に左樣いふ峠のしかも險しい石塊いしころの多い山道にさし掛りました。私は風呂敷包を襷にして背中にしよひ、洋傘かうもりを杖につき、あへぎ喘ぎその坂を攀ぢ登りましたが、次第に歩き疲れて、お文さんの兄さんや銀さんから見ると餘程後れるやうに成りました。日は暮れかけて、山の中は薄暗く見えるやうに成つて來ました。
『金米糖を呉れなけりや、歩けない。』
『呉れるから、歩け。』
 私は兄と斯樣な押問答をして、路傍みちばたの石に腰掛けては休み/\、復た出掛けました。そのうちに金米糖どころでは無くなつて來ました。私には歩けなく成りました。何となくお腹まで痛く成つて來ました。私は洋傘をそこへ投出して動かずに居たこともあります。すると兄が私の傍へ來て、私の帶へ手拭を結はへ附けまして、それで私を引き立てました。
 斯の骨の折れる山道を越して、やつとのことで峠の下まで歩いて行きますと、澤深い温泉宿のやうな家々の灯が私の眼に嬉しく映りました。そこが中仙道の沓掛くつかけであつたかと覺えて居ます。
 何處から馬車に乘つたかといふことも、ハツキリとは記憶しません。唯、前の方へ突進する馬車と……時々馬丁べつたうの吹き鳴らす喇叭らつぱと馬を勵ます聲と……激しく動搖ゆすれる私達の身體とがあるばかりでした。
 狹い車の上で復た日が暮れました。暗い夜の道を後に殘しては私達は乘りつゞけに乘つて行きました。斯の馬車の旅で私達は一人の女の客とも道連に成りました。矢張東京まで行く客で、故郷に殘して置いて來た私の母などよりはずつと若い人でしたが、私達の村にでも居さうな、田舍風な婦人ではありました。旅の包の中から菓子を取出して、それを紙包にして私に呉れたりなどしました。しまひには私も斯の小母さんのやうな人に慣れて、その膝の上に抱かれました。そして馬車に搖られて眠く成つて來ると、そのまゝ寢て了つたことも有りました。
『追剥だ。追剥だ。』
 といふ聲を聞きつけて、急に私は眼を覺ましました。馬車が何處を通るのか、皆目それは私には解りませんでしたが、闇に振る馬丁べつたうの烈しい鞭の音と、尋常たゞならぬ車の上の人達の樣子とで、賊といふことだけは知れました。馬車が疾驅してその場所を通過ぎた後で、氣の荒い馬丁は手綱をゆるめて、賊が馬の脚へ來て掛らうとしたとか、斯の邊の夜道は物騷だとか、確かに自分の一鞭は手答へがあつたとか、兄達に話し聞かせて笑ひました。復た馬車は暗黒やみの中を衝いて進みましたが、それが夜道へ響けて可恐おそろしい音をさせました。
 夜が明けてから、私達は田舍町の中を乘つて通りました。高い竹梯子の上で宙乘をする消防夫の姿が馬車の上から見えました。そこは上州の松井田でした。
 烏川を越した時の記憶は未だによく殘つて居ます。私達は馬車を降りまして、皆な歩いて渡りました。あの邊の廣濶ひろ/″\とした白い光つた空は、まだ私の眼にあります。客だけ下して置いて、河原から水の中へ引き入れた馬車の音を、まだ私は聞くことが出來るやうな氣がして居ます。
 斯の旅はすつかりで矢張七日ほどかゝりました。私は馬車に乘つたまゝ半分夢のやうに東京へ入りました。その馬車が着いたところは萬世橋でしたが、あの頃の廣小路のさまは殆んど尋ねることも出來ないほど變つて了ひました。今でも寄席や旅人宿は殘つて居ます。あの並びに馬車の着くところが有りまして、その前の並木の陰で私達は車から下りたかと思ひます。

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