十
斯の手紙を書き初めたのは昨年四月のことでした。私も長々と話し續けました。少年の日――私達に取つて二度とは來ない――その時代のことで御話すべきことは、まだ/\澤山あるやうに思ひます。書生を愛した豐田さんの家には幾人となく身を寄せた同郷の青年があつて、その一人々々の言つたこと爲したことが幼い私の上に働きかけたことや、あるひは豐田さんの家は一頃それらの人達の一小倶樂部を見る趣を成して夜になると私も土藏の中の部屋に机を並べ、同じ洋燈の下に集り、話を聞き、一緒に勉強し、どうかすると制へきれないほどの居眠りが出て年長の人達からよく惡戲されたことなど、御話したいと思ふことはいろ/\ある。私は自分の机の上――墨汁やインキで汚れたり小刀で刳り削られたりした机の上の景色、そこに取出す繪、書籍、雜誌などのことを精しく御話して見たら、それだけでも自分の少年時代を引出すに十分だらうとは思ひます。私は貴女に年老いた漢學者のことを御話しましたらう。豐田さんの家の奧二階でしばらく暮したあの老夫婦のこと、私が英學を始めた時分のこと、それから私の十三の年に父は郷里の方で死にましたこと、その前に父から私に寄した手紙の中には古い歌などを引合に出して寸時も忘れることの出來ないといふやうな濃情の溢れた言葉が書き連ねてあつたこと、それからそれへと幼い日のことを辿つて見ると書くべきことは多くありますが、こゝで筆を止めます。
私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れるとは言へないまでも、すくなくも獨立の出來る頃まで斯の手紙を持つて行きたいと思ひました。婦人に對する少年らしい一種の無關心――左樣いふ時が一度私には來ました。私は側目もふらずに、錯々と自分の道を歩き始めた時がありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き始めた最初の目的は達したとも言へません。しかし今はそれをする時がありません。
私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も斯の家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の仕度やらゴチヤ/\した中で、子供は皆な寢沈まりました。
「微風」――終
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