藤村全集第五卷 |
筑摩書房 |
1967(昭和42)年3月10日 |
1978(昭和53)年8月30日愛蔵版 |
一
私の子供が初めて小學校へ通ふやうに成つた其翌日から、私は斯の手紙を書き始めます。昨日の朝、吾家では子供の爲に赤の御飯を祝ひました。輝く燈火の影に夜更しすることの多い都會の生活の中でも、子供ばかりは夜も早く寢、朝も早く起きますから、弟の方も兄と一緒に早く床を離れました。兄は八歳、弟は六歳に成ります。お人好しの兄に比べると弟はなか/\きかない氣で、玩具でも何でも同じ物が二つなければ承知しないといふ風です。ところが其朝に限つて、兄の方には新しい鞄や、帽子や、其他學校用のものが買つて宛行はれてあるに引きかへ、弟のためには子供持の雨傘と、麻裏草履としか有りません。弟は地團駄踏んで、ぐづり始めました。兄と一緒に朝の膳に對つても、兄が晴々しい顏附で赤の御飯をやつて居る側で、弟は元氣もなく、不平らしく萎れて、不承々々に箸を執り始めました。そのうちに不圖思ひ附いたやうに、食事中自分の膳を離れて、例の新しい雨傘を取りに立つて行きました。それを大事さうに自分の膳の側に置いて、それから復た食ひ始めました。家のものが皆な可哀さうに思つて笑ふと、弟は自分の爲たことを嘲り笑はれたと思つたかして、やがてその雨傘を元の場所へ仕舞に行つて、今度は好きな御馳走も食はずに泣き續けました。
學校までは二三町あります。そこへ通ふ子供は馬車や自轉車などのはげしく通る廣い道路を越して、町を折れ曲つて行くのです。昨日の朝は家のものが一人隨いて、近所の子供や親達と一緒に學校へ行きました。今朝は送りにだけ行つて、試みに獨りで歸らせることにしました。
『兄さんは最早解つたやうな顏をして居ました。獨りで歸つて被入つしやいツて言ひましたら、ウンなんて――』
隨いて行つた娘は斯樣なことを言つて學校の方に居る子供の噂さで持切つて居ました。昨日學校の教場で家のものの姿が見えなく成つたと言つて泣いたといふ話などもして笑ひました。
斯の兄の方の子供は、性來弱々しく、幾度か醫者の手を煩はした程で、今日のやうに壯健らしく成らうとは思ひもよりませんでした。皆なの丹精一つで漸く學校へ通ふまでに漕附けたのです。それを思ふと斯兒は朝晩保護の役目を引受けて呉れた親類の姉さん達や下婢に餘程御禮を言はねば成りません。學校の終る頃には、家のものは皆な言ひ合せたやうに門口に出て、獨りで歸つて來る子供を待受けました。
『ア、兄さんが歸つて來た、歸つて來た。』と一人が言ふと、近所の人も往來に出て眺めて、
『まるで、鞄が歩いて來るやうだ。』と申しました。
學校歸りの子供は鞄を肩に掛け、草履袋を手に提げ、新しい帽子の徽章を光らせながら、半ば夢のやうに家の内へ馳込みました。
地方に居て絶えず私や私の子供のために心配して居て下さる貴女に、私は斯のことを書き送りたいと思ひます。貴女が着物を作つて送つて下すつたりした一番年少の女の兒も、今では漁村の乳母の家で、どうにか斯うにか歩行の出來るまでに成人したことを申上げたいと思ひます。
貴女もやがて二人の子の親とか。左樣言へば、四五日前に私はめづらしい蜜蜂が斯の町中の軒先へ飛んで來たのを見かけました。あの黒い、背だけ黄色な、大きな蜂の姿を斯ういふ花の少い場所で見かけるとは實にめづらしいことです。それを見るにつけても、貴女が今住む地方の都會の空氣や、貴女がお母さんの家の方の白壁、石垣、林檎畠や、それから私が自分の少年の時を送つた山の中の日あたりなどを想ひ起させます。人の幼少な頃――貴女は自分の子供等を見て、その爲すさまを眺めて、それを身に思ひ比べた時、奈樣な感じを起しますか。すくなくも私達の眼前に、それが幼稚な形にもせよ、既に種々雜多なことが繰返されて居るでは有りませんか。
私達が子供の時分、相手にするものは多く婦人です。私達は女の手から手へと渡されたのです。それを私は今、貴女に書き送らうと思ひ立ちました。斯の手紙は主に少年の眼に映じた婦人のことを書かうと思ふのですから。
二
私の側に今居る兄弟の子供が八歳と六歳になることは貴女に申上げました。彼等幼少いものを眼前に見る度に、自分等の少年の時と同じやうなことが矢張この子供等にも起りつゝあるだらうか。丁度自分等も斯樣な風であつたらうか。左樣思つて私は獨りで微笑むことが有ります。
私が今住む場所は町の中ですから、夕方になると近所の子供が狹い往來に集ります。路地々々の子供まで飛出して來て馳け
る。時には肴屋の亭主が煩がつて往來へ水を撒いて歩いても、そんなことでは納まらない程の騷ぎを始める。吾家の子供も一緒に成つて日の暮れるのも知らずに遊び
ります。夕飯に呼び込まれる頃は、家の内は薄暗い。屋外から入つて來た弟の方は燈火の下に立つて、
『もう晩かい。』
と尋ねるのが癖です。
早く夕飯の濟んだ黄昏時のことでした。私は二人の子供を連れて町の方へ歩きに行つたことが有りました。夕空に飛びかふ小さい黒い影を見て、あれは何かと兄の方が尋ねますから、蝙蝠だと教へますと、子供等はめづらしさうに眼を見張りました、瓦斯や電燈の點いた町の空に不恰好な翼をひろげたものの方を眺めて居りました。斯の子供等の眼に映るやうな都會の賑やかな灯――左樣いふ類の光輝は私の幼少い頃には全く知らないものでした。夕方と言へば、私は遠い山の彼方に燃えるチラ/\した幽かな不思議な火などを望みました。それは狐火だといふことでした。夜鷹と言つて、夕方から飛出す鴉ほどの大きさの醜い鳥が、よく私達の頭の上を飛び
りました。それが私の子供の時を送つた故郷の方の空でした。
私は自分の少年時代のことを御話する序に、眼前に居る子供等のことも貴方に書き送らうと思ひます。私達が忘れて居て、平素思出したことも無いやうなことまで胸に浮ばせるのは、この子供等です。遠く過去つた記憶を辿つて見ると、私達の世界は朦朧としたもので、五歳の時には斯ういふことが有つた、六歳の時には彼樣いふことが有つた、とは言へないやうな氣もします。種々な相違した時のことが雜然一緒に成つて浮び揚つて來ます。そのくせ、極く小さな事で、忘れないで居るやうなことは、それが昨日あつたと言ふよりはつい今日あつたことのやうに、明瞭と、しかも微細な點まで、實に活々と感ぜられるのですが……
ある日の夕方も、私は弟の方の子供の手を引きながら散歩に出掛けました。斯の兒はナカ/\理窟屋で、子供のやうな顏附をして居ないといふところから、家に居る姉さん達から『こどな』といふ綽名を頂戴して居ます。大人と子供の混血兒といふ意味です。種々な問を起したがる年頃で、それは何處から覺えて來るともなく、『隨分滑稽だ』とか、『一體全體、譯は何だい』とか、柄にも無いやうな口眞似をしては皆なを笑はせる。往來を歩いて居ても、直に物が眼につくといふ風です。
『ア、一本の脚の人が彼樣なところを歩いてら。』
と二本の杖に身を支へながら行く人の後姿を見つけて、それを私に指して見せました。
電車通りの向側には、よく玩具を買ひに行く店があります。子供はその店の方へ行けと言つて、駄々をこねて聞入れませんから、私も持餘して、
『買つて、買つてツて……買つてばかり居るぢやないか。そんなに父さんは金錢がありやしないよ。』
漸くのことで子供を言ひ賺しまして、それから橋の畔の方へ連れて行きました。そこに煙草と菓子とを賣る小さな店があります。小さな硝子張の箱に鯛などの形した干菓子の入つたのが有りましたから、それを二箱買つて、一つを子供の手に握らせると、それで機嫌が直つて、私の行く方へ隨いて來ました。軟かな五月の空氣の中で、しばらく私は町の角に佇立んで、暮れ行く空を眺めて居りました。
『父さん、何してるの――あの電燈を勘定してるの。』
『アヽ。』
『そんなこと、ツマラないや。』
子供に引張られて、復た私は歩き
りました。
『最早御飯だ。早くお家へ歸らう。』
と言つて、吾家近くまで子供を連れて歸りかけた頃、何を斯の兒は思ひついたか、しきりに御飯と御膳の相違を比べ始めました。父のが御膳で、自分のが御飯だとも言つて見るやうでした。
『御飯と御膳と違ふのかい。』
と私が笑ひますと、子供は可羞しさうにして笑つて、
『知らない。』
と言ひ放ちながら、急に家の方へ馳出して行つて了ひました。
恐らく斯の兒の強情なところは私の血から傳はつたものでせう。しかし私は斯の兒ほど泣き易くはありませんでした。丁度弟の方の子供ぐらゐな年頃のことでした。ある晩、私は遊友達の問屋の子息と喧嘩して、遲くなつて家の方へ歸つて行きました。叱られるなといふことを豫期しながら。果して、家の門を入つて田舍風な小障子のはまつた出入口のところまで行くと、私が問屋の子息を泣かせたことは早や家の方へ知れて居りました。やかましい問屋のお婆さんがそれを言附けに捩込んで來たといふことでした。で、私は懲らしめの爲に、そのまゝ庭に立たせられました。薄暗い庭から見ると、玄關の方も裏口の方も皆な戸が閉つて、唯小障子の明いたところだけ燈火が射して居る。私は夏梨の樹の下に獨りで震へながら、家のものが皆な爐邊に集つて食事するのを眺めました。日頃默つて居る兄の顏などは、私の仕たことに就いて非常に腹でも立てたやうに、餘計に畏しく見えました。其晩に限つて、誰も救ひに來て呉れるものが有りません。斯の刑罰は子供心にも甘んじて受けなければ成らないやうなものでした。私は皆なの夕飯の終る頃まで、心細く立ち續けました。
斯ういふ時に、私の側へ來て言ひ宥めたり、皆なに御詫をして呉れたりしたのは、お牧といふ下婢です。目上の兄達が奧の方へ行つた後で、お牧は私の膳を爐邊へ持つて來て勸めて呉れましたが、到頭其晩は食ひませんでした。
私の生れた家では、子供に一人づゝ下婢を附けて養ふ習慣でして、多くは出入のものの娘から取りました。私に附いたお牧は髮結の家の娘でした。理髮店といふものは未だ私の故郷には無かつた頃ですから、お牧の父親が髮結の道具――あの引出の幾つも附いた、鬢着油などのにほひのする、古い汚れた箱を携げてよく吾家へ出入したことや、それから彼の穢い髮結が背後に立つて父の腮などをゴシ/\とやつたことは、未だに私の眼に着いて居ます。お牧の父親と言へば土地でも有名な穢い男でした。その娘に養はれると言つて、よく私は他から調戲はれたものです。でも、お牧は乳を呑ませないといふばかりで、其他のことは殆ど乳母同樣に私を見て呉れました。
母や祖母などは別として、先づ私の幼い記憶に上つて來るのは斯の女です。私は斯の女の手に抱かれて、奈樣な百姓の娘が歌ふやうな唄を歌つて聞かされたか、そんなことはよく覺えて居りません。お牧は朴葉飯といふものを造へて、庭にあつた廣い朴の木の葉に鹽握飯を包んで、それを私に呉れたものです。あの氣の出るやうな、甘い握飯の味は何時までも忘れられません。青い朴葉の香氣も今だに私の鼻の先にあるやうな氣がします。お牧は又、紫蘇の葉の漬けたのを筍の皮に入れて呉れました。私はその三角に包んだ筍の皮が梅酸の色に染まるのを樂みにして、よく吸ひました。
『姉さん、何か。姉さん何か。』
と言つて、私の子供は朝から晩まで娘達に菓子をねだつて居ります。どうかすると兄弟とも白い砂糖などを菓子の代りに分けて貰つて居ます。それを見て、私は自分の幼少い時分に、黒砂糖の塊を舐めたことを思出しました。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页