「見給へ。」と私は謔語のつもりで、「今に菜の花が咲いてるから。」
「ア、海の香がして來た」とA君は戲れて言つた。
この「海の香がして來た」には、笑はないものは無かつた。
また半里ばかり下りた。温暖な日光が馬車の中へ射込んで來た。吾儕は爭つて風除の布を揚げた。それほど激しく日光に渇いて居た。
「南と北とは斯うも違ふものかねえ。」とK君は地圖を取出して見る。
「K君、あの路傍に植ゑてあつた若い並木は何と言つたツけ。」と私が聞いた。
「ヤシヤさ。」とK君は答へた。「僕は忘れないやうに鬼で記憶えて置いた。」
其時M君はこれから皆なが行かうとして居る下田の噂をした。
「奈何な港でせうなあ。H君の話では何でも非常に淫靡な處ださうですね――今日は雪舟から歌麿ですかナ。」斯う言つたので、車中のものは笑はずに居られなかつた。
それから一里ばかり下りた。村があつた。畑の麥もすこし延びて居た。また一里ばかり下りた。謔語のつもりで言つたことは眞實に成つて來た。實際、菜の花が咲いて居た。青草は地面から頭を持上げて居た。
湯が野へ着いたのは丁度晝飯を食ふ頃だつた。そこで馬丁は別を告げた。二日の間の旅で、吾儕はこの馬丁と懇意に成つて、知らない土地のことを種々と教へられた。この馬丁から、色男の爲に石碑を建てたとかいふ洋妾上りの老婆のことまで教へられた。その健康で且つ金持の老婆が住むといふ邸の赤い窓を吾儕は車の上から見て通つて來た。
湯が野ではすこしユツクリした。こゝにも温泉があつた。洋服を脱ぐのが面倒臭いから、私は入らない積りだつたが、皆なに勸められて旅の疲勞を忘れに行つた。こゝの宿から河津川が見えた。二階の部屋の唐紙に書いてある漢詩を眺めながら晝飯を濟ました。こゝにはウマイ葱があつた。
別の馬車に乘つて、やがて下田を指して出發した。吾儕は椿の花の咲いて居る蔭を通つた。豐饒な河津の谷は吾儕の眼前に展けて來た。傾斜は耕されて幾層かの畠に成つて居た。山の上の方まで多く桑が植付けてあつた。蜜柑は黄色く生つて居た。「こゝから英雄が生れたんだらうね。」とA君は河岸に散布する幾多の村落を眺め入りながら言つた。ある坂の上まで行くと、吾儕は河津の港を望むことが出來た。海は遠く光つた。
下田へ近づいた。女は烈しく勞働して居た。吾儕は車の上から街道を通る若い男や娘の群に逢つた。その頬の色を見たばかりでも南伊豆へ來た氣がした。
夕方に下田に着いた。町を一
りして紀念の爲に繪葉書を買つて、それから港に近いところへ宿をとつた。奧の方の二階から眺ると、伊豆石で建てた土藏、ナマコ壁、古風な瓦屋根などが見渡される。泥鰌を賣りに來る聲が其間から起る。夕方であるのに、斯の尻下りのした泥鰌賣の聲より外には何も聞えなかつた。夕餐の煙は靜かな町の空へ上つた。
宿の内儀さんは肥つた、丁寧な物の言ひやうをする人だつた。夕飯には吾儕の爲に鰒を用意して、それを酢にして、大きな皿へ入れて出した。吾儕は湯が島の鳥の骨で齒を痛めて居たから、この新しい鰒を味ふには大分時が要つた。M君は齒を一枚落した。こゝの女中も矢張内儀さんと同じやうに、丁寧な、優しい口の利きやうをして、吾儕の爲に温暖い、心地の好い寢床を延べて呉れた。吾儕は皆な疲れて横に成つた。
「アヽ、極樂! 極樂!」
とK君は放擲すやうな聲を出して、蒲團の中へ潜り込んだ。
「今日も上天氣ですぜ。天氣の具合は實に申分ありませんナ。」
とA君は宿屋の二階から下田の空を眺めながら言つた。其朝は、伊豆の南端を極める爲に皆な草鞋穿で出掛けることにした。吾儕は勇んで旅仕度を始めた。其時M君は手帳を取出した。兎に角こゝで一度帳面の締くゝりをして、出すものは出す、受取るものは受取るとした。
「二圓と幾干僕の方から君へ上げれば可いね。」とA君が言つた。
M君は私の前に銀貨を置いた。「これは君の受取る分だ。」
「僕も受取るのかい。」と私は言つた。
「君には湯が島で出して貰つたから。」とA君は傍に居て説明した。
頼んで置いた新しい白足袋が四足來た。皆十文だ。A君の足にはすこし大き過ぎて、ブク/\した。A君はまた宿から脚絆を借りて當てた。旅慣れたK君はその傍へ寄つて、A君が右を當てるうちに左の方の紐を結んでやつた。
「A君は痩せてるね。」とK君は私の方を見て笑ひ乍ら言つた。
「この足袋を見給へ、宛然死人が穿いたやうだ。」
「いくらでも、其樣な警句の材料にするが可いサ。」斯うA君も苦笑して、痩せた足に大きな足袋で、部屋の内を歩いて見た。
「僕は今迄この白足袋を穿いたことが無い。何時でも紺足袋ばかり。」とA君はまた思出したやうに言つた。「男が白足袋を穿くなんて、柔弱だ――よく阿爺に言はれたものだ。僕の阿爺はやかましかつたからねえ。ある時などは、家のものゝ袖が長いと言つて――ナニ其樣に長い方ぢや無いんでさ、女としては寧ろ短い方でさ――それを鋏でもつてジヨキ/″\切つちやつた……」
私はA君の顏を眺めた。「君の父親さんは其樣に嚴格だつたかね。」
「えゝ、えゝ。」とA君は今更のやうに亡くなつた父親を追想するらしかつた。「そのかはり、御蔭で好い事を覺えましたよ――木綿の衣服を着て何處へ出ても、すこしも可羞しいと思はなくなりましたよ。」
途中の温さを想像して、K君はインバネスを置いて行くことにした。A君は衣服を一枚脱いだ。宿へは茶代だけやつて、それから新しい草鞋を穿いて、發つた。
長津呂の漁村へ行くに丁度晝迄かゝつた。そこから斷崖の間にある細道を攀ぢた。登ると、松林の中へ出た。半島の絶端を極めたいと思ふ勃々とした心が先に立つて、吾儕はこゝへ來る迄の疲勞と熱苦しさとを忘れた。「僕は斯ういふ路を歩いて行くのが好きサ。」とK君は私を顧みながら言つた。「僕も好きだ。」と私が答へた。やがて松と松の間が青く光つて來た。遠江灘が開けた。石室崎の白い燈臺のあるところまで行くと、そこで伊豆は盡きた。望樓もあつた。吾儕は制服を着た望樓の役人に逢つた。この役人は寂しい生活に飽いたやうな、生氣の無い眼付で吾儕を眺めて居た。
「A君、來て見給へ。」とM君は燈臺に近い絶壁の上に立つて呼んだ。
A君、K君續いて私もM君と一緒に成つた。吾々は深い海を下瞰して思はず互に顏を見合せた。其時急激な、不思議な戰慄は私の身體を傳つた。私は長くそこに立つて居られないやうな氣がした。
「同じ死ぬんなら是處だネ。」
謔語の積りで言つて見て、私は眩暈を紛さうとしたが、何となく底の知れない方へ引入れられるやうな氣がした。
燈臺の入口にある壁のところには額が掛けてあつた。その額の下に燈臺守の子供らしい娘が倚凭つて立つて居た。猶よく見やうとするうちに、一艘の汽船が駿河灣の方から進んで來た。
「あの船だ。」とK君が言つた。「船で歸るんなら、こゝに愚圖愚圖して居たんぢや間に合はない。」
「駄目らしいナア。」とA君は言つた。「吾儕が長津呂まで行くうちには彼船は出て了ふ。」
斯う言ひ合つたが、成るなら歩いて歸りたくなかつた。そこで燈臺の見物をそこ/\にして長津呂の方へ引返すことにした。
其樣に急いで歸るにも當らなかつた。岬で見たのは別の汽船だつた。吾儕を乘せて下田まで歸る船は未だ來なかつた。汽船宿で聞くと一時間の餘も待たなければなるまいと言ふ。で案内されて、まだ新規に始めたばかりの旅舍へ行つて、若い慣れない内儀さんに晝飯の仕度を頼んだ。
全く知らない生活を營む素朴な人々の中に、一時間ばかり居た。吾儕は草鞋穿のまゝ、廣い庭の内に腰掛けて食つた。この宿の内儀さんは未だ處女らしいところのある人で、爐邊で吾儕の爲に海苔を炙つた。下女は油差を見るやうな銅の道具へ湯を入れて出した。こゝの豆腐の露もウマかつた。
汽船を待つ爲に、艀のあるところへ行つた。其時は男盛りの漁夫と船頭親子と一緒だつた。鰹の取れる頃には、其邊は人で埋まるとか、其日は闃寂としたもので、蝦網などが干してあつて、二三の隱居が暢氣に網を補綴つて居た。やがて艀が出た。船頭は斷崖の下に添ふて右に燈臺の見える海の方へ漕いだ。海は斑に見えた。藻のないところだけ透澄るやうに青かつた。強い、若い、とは言へ
けるやうに美しい女同志が、赤い脛巾を當てゝ、吾儕の側を勇ましさうに漕いで通つた。それは榮螺を取りに行つて歸つて來た舟だつた。丁度駿河灣の方から進んで來た汽船が、左の高い岩の上に飜る旗を目掛けて入つて來て、帆船の一艘碇泊して居るあたりで止つた。吾儕は一緒に成つた漁夫と共に、この汽船へ移つた。A君は船が大嫌ひだ。醉はなければ好いが、と思つて皆な心配した。
間もなく船は石室崎の燈臺を離れた。最初の中は甲板の上もめづらしかつた。吾儕は連に成つた漁夫から、島々の説明を聞いた。神子元島、神津島、大島、其他島々の形を區別することが出來るやうに成つた。吾儕はまた風の寒い甲板の上をあちこちと歩いて、船の構造を見、勇ましさうな海員の生活を想像した。しかし、それは最初の中だけのことで、次第に物憂い動搖を感じた。船は魚を積む爲に港々へ寄つたが、處によると長く手間が取れた。吾儕は其間、空しく不愉快に待つて居た。海から見た陸は、陸から海を見たほどの變化も無かつた。
小稻といふ處を通つた時、海から舟で通ふ洞があつた。こゝへ見物に來た男が、細君だけ置いて、五百圓懷中に入れたまゝ舟から落ちたといふ。是は往きに聞いた話だ。あの洋妾上りの老婆とは違つて、金はあつても壽命のない男だと見える。吾儕は斯の不幸な亭主の沈んで居るといふ洞を望んで通つた。
日暮に近く下田の港へ入つた。幸にA君は醉ひもしなかつた。吾儕は艀を待つに長くかゝつた。この汽船の會計らしい人は自分の室の戸を開けて、小さな植木鉢などの飾つてある机の前で丁寧に髮を撫でつけ、鞄を抱いて、それから別の艀へ移つた。甲板の上には汚れた服を着た船員が集つて、船の中で買食でもする外に歡樂も無いやうな、ツマラなさうな顏付をして、上陸する人達を可羨しげに眺めて居た。漸く艀が來た。吾儕も陸へ急いだ。
下田の宿では夕飯の用意をして吾儕の歸りを待つて居た。其晩、吾儕は親類や友達へ宛てゝ紀念の繪葉書を書いた。天城を越したら送れと言つたY君を始め、信州のT君へは、K君と私と連名で書いた。旅の徒然に土地の按摩を頼んだ。温暖い雨の降る音がして來た。
早く起きた。雨は夜のうちに止んで、濕つた家々の屋根から朝餐の煙の白く登るのが見えた。音一つしなかつた。眠るやうに靜かだ。
「想像と實際に來て見たとは、斯うも違ふかナア。」とK君は下田の朝を眺めながら言つた。「まあ、僕の知つた限りでは、酒田に近い――酒田よりもうすこし纏まつてるかナ。」
「そんなに淫靡な處だとも思へないぢやないか。」と私も眺めて、「船着の町で、他から來る人を大切にして、風俗を固守してる――それ以上は解らん。」
「斯樣な宿ぢや解らないサ。」とK君は笑つた。「料理屋へでも行つて飮食して見なけりや――僕はよく左樣思ふよ、其土地土地の色は彼樣いふ場所へ行つて見ると、一番よく出てる。」
斯う二人で話して居ると、やがてA君とM君もそこへ一緒に成つた。吾儕はこの下田を他の種々な都會に比較して見た。
「西京が斯ういふ町の代表者だ。」とM君は言つた。
「保守的だから奔放は無いサ。」
とまたM君が言つた。M君はそこまで話を持つて行かなければ承知しなかつた。
朝飯の後、伊東へ向けてこの宿を發つた。是非復た來たい。この次に來る時は大島まで行きたい、と互に言ひ合つた。内儀さんや娘は出て吾儕を見送つた。下女は艀の出るところまで手荷物を持つて隨いて來た。
間もなく吾儕は伊東行の汽船の中にあつた。この汽船は長津呂から下田まで乘つたと同じ型だつた。大小の帆船、荷舟、小舟、舊い修繕中の舟、其他種々雜多な型の舟、あるひは碇泊して居る舟、あるひは動いて居る舟――これらのものは、やがて後に隱れた。三月の節句前のことで、船は港々へ寄つて、榮螺を詰めた俵を積んだ。魚も積んだ。それを船員が總懸りで船の底へ投込む度に、吾儕の居る室の方まで響けた。A君は無理に寢て行つた。船の中では晝の辨當を賣つたが、誰も買ふものが無かつた。斯うして午後まで搖られた。
伊東へ着いた。其日もA君は別に船旅に醉つたやうな樣子は無かつた。
湯の香のする舊い朽ちかゝつたやうな町、左樣かと思ふと繪葉書を賣る店や、玉突場や、新しく普請をした建築物などの軒を並べた町――斯う混交つて居るところへ來た。こゝは最早純粹な田舍ではなかつた。それだけ熱海や小田原の方へ近づいたやうな氣もした。
吾儕は行く先/\で何かしら賞めた――すくなくも土地の長處を見つけて、その日/\の旅の苦痛に耽りたいと思つた。修善寺の湯は熱過ぎたし、湯が島では温過ぎたし、湯が野も惡くはなかつたが、入り心地の好いのは是處だ。是は伊東の宿へ來て、町の往來へ向つた二階の角の部屋で、皆な一緒に茶を飮んだ時の評定だつた。
「こゝの湯で、下田の宿で、湯が島の溪流があつたら、申分なしだネ。」と私が言つて見た。
「長津呂の内儀さんで――」
とK君は笑ひながら附添した。
其日は晝飯を食はずだから、宿へ頼んで、夕飯を早くして貰つた。皆な腹が空いて居た。一時は飮食するより外の考へが無かつた。嫌ひな船に搖られた故か、A君は何となく元氣が無かつた。私がそれを尋ねたら、「ナニ、別に何處も惡かない――たゞ意氣銷沈した。」斯う答へて居た。
日が暮れてから、A君はこゝの繪葉書を買つて來た。「東京へ土産にするやうなものは何物も無かつた。」と言つて、その繪葉書を見せた。中に大島の風俗があつた。大島はよく眺めて來て、島の形から三原山の噴煙まで眼前にある位だから、この婦人の風俗は吾儕の注意を引いた。右を取るといふものが有り、左を取るといふものが有つた。「左は僕の知つてる人に酷く似てる。」などゝ言つて笑ふものも有つた。禮服、勞働の姿で撮れて居た。K君は二枚分けて貰つた。
それは翌日東京へ歸るといふ前の晩だつた。吾儕は烈しい、しかしながら樂しい疲勞を覺えた。短い旅の割には可成種々な處を見て來たやうな氣もした。皆な留守にして置いた家のことが氣に掛かつて來た。同時に、しばらく忘れて居た工場の笛、車の音、唸るやうな電車、煤と煙と埃とで暗いやうな都會の空に震へる彼の響を思出すやうに成つた。彼の單調な、退屈な…………
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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