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伊香保土産(いかほみやげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 10:54:15  点击:  切换到繁體中文



 伊香保の里が水に乏しいことも、また自分の郷里を思ひ出させる。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほどな水を湛へながら、田畠を開拓しようにも灌漑の方法もなく、熱い温泉をうめる水もないとは、不思議なくらゐのところだ。先年の伊香保の大火もまたそのためと聞く。同じ古い温泉でも熱海のやうに無制限な発展の出来ないのは、かうした自然の制約があるからで、そこに土地の人達の悩みもあらうと察せらるゝ。そのかはり、こゝの山間には好い清水が湧く。その清さ、たまやかさは海岸の地方にないものだとのことである。ある人の言葉に、渓水を飲む地方の人は心までも潔いとやら。日頃飲む水の軽さ、重さ、荒さ、やはらかさが、自然とわたしたちの体質や気質にまで影響することはありさうに思はれる。その意味から言つて、伊香保がどことなく田舎めき、他の温泉地に見るやうな華美がすくなく、土地のものはむしろ昔ながらの質朴を誇つてゐるといふのも、偶然ではないかも知れない。

 山の湯たりとも人の発掘したものには相違ない。昔の人はこゝに神仏礼拝の霊場を結びつけ、今の人はスキイ場なぞの娯楽と運動の機関を結びつける。さういふ旧いものと新しいものとがこゝには同棲してゐる。二百年も以前から代々この地にあつて湯宿を営むことを誇りとし今だに本家分家の区別をやかましく言ふやうな古めかしさは、おそらく近代的なケエブル・カアの設備やその大仕掛な電気事業とよく調和しないやうなものであるが、それがこの温泉地にあつては左程の不調和でないのも不思議だ。まつたく、どこの温泉地にも見つけるやうな卑俗なものから、一切を洗ひきよめるやうな自然なものまでが一緒になつて、しかもその不調和を忘れさせるといふのも、温泉の徳であらう。

 旅に来ては口に合ふ食物もすくない。わたしたちのやうに往復三日ぐらゐの予定で来て、山の見える旅館の二階にでも寝転んで行けばそれで満足するほどのものは、知らない土地へ来て何もそんなに多くを求めるではない。でも、何程わたしたちはこの短かい保養を楽みにしてやつて来たか知れない。せめて自分等の口に合ふ山家料理になりと有りつくことが出来たらばと思ふ。いそがしく物を煮て出さなければ成らないかうした湯宿なぞで、種々な好みも違へば、年齢も違ふ男女の客を相手に、誰をも満足させるやうな庖丁の使ひ分けや、塩加減といふものはあり得ないかも知れないのだ。しかし、山の蕨が膳に上る季節でありながら、それを甘辛あまからに煮つけてしまつたでは、折角の新鮮な山の物の風味に乏しい。惜しいことだ。これはわたしたちばかりでもないと見えて、伊香保へ入湯に出掛けた親戚のものなぞは皆それを言ふ。ともあれ、これほど楽みにしてやつて来て、快い温泉に身を浸すことが出来れば、それだけでもわたしたちには沢山だつた。わたしたちはまた、この温泉地に縁故の深い故徳冨蘆花君の噂なぞを土地のものから聞くだけにも満足して、帰りの土産には伊香保名物のちまき、饅頭、それから東京の留守宅の方にわたしたちを待ち受けてゐて呉れる年寄のために木細工の刻煙草入なぞを求めた。
 山を降りる時のわたしたちの自動車には、一人の宿の女中をも乗せた。その女中は歯の療治に行きたいが、渋川まで一緒に乗せて行つては呉れまいかと言ふ。これも東海道の旅にはない図であつた。





底本:「日本の名随筆67 宿」作品社
   1988(昭和63)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「感想集 桃の雫」岩波書店
   1936(昭和11)年6月
入力:菅野朋子
校正:浦田伴俊
2000年12月12日公開
2005年6月28日修正
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