お仙を探しに行った三吉が、町を一廻りして帰って来た頃は、正太も、豊世も、お種も出て居なかった。家には、老婆(ばあさん)一人茫然(ぼんやり)と留守をしていた。
「お仙ちゃんは未だ帰りませんか」
と庭から声を掛けて、三吉は下座敷へ上って見た。壁に寄せて座蒲団(ざぶとん)の上に寝かして置いた種夫の姿も見えなかった。
「坊主は?」
「坊ちゃまですか。めんめを御覚(おさま)しだもんですから、御隠居様が負(おん)ぶなさいまして、表の方へ見にいらッしゃいました」
夏の夜のことで、河の方から来る涼しい空気が座敷の内へ通っていた。三吉は水浅黄色のカアテンの懸った玻璃(ガラス)障子のところへ行って見た。そこから、石段の下を通る人や、町家の灯や、水に近い夜の空なぞを眺(なが)めながら立っていた。お仙が居なくなったという時から、やがて一時間も経つ……
三吉は老婆(ばあさん)の方へ引返した。
「もう一度、私は行って見て来ます」
老婆は考深く、「御嬢様も、もうそれでも御帰りに成りそうなものですね」
「何処(どこ)ですか、そのお仙ちゃんの見えなく成ったという処は」
「なんでも奥様が御一緒に買物を遊ばしまして――ホラ、電車通に小間物を売る店が御座いましょう――彼処(あすこ)なんで御座いますよ。奥様は、御嬢様が御側に居(い)らッしゃることとばかり思召して、坊ちゃまに何か御見せ申していらしったそうですが、ちょっと振向いて御覧なさいましたら、最早御嬢様は御見えに成らなかったそうです。それはもう、ホンのちょっとの間に……」
それを聞いて、三吉は出て行った。
二度目に彼が引返して、暗い石垣の下までやって来ると、お種は娘の身の上を案じ顔に、玻璃障子のところに立っていた。
「姉さん、お仙ちゃんは?」と三吉は往来から尋ねてみた。
「未だ帰らない」
という姉の答を聞いて、三吉も不安を増して来た。
「三吉」とお種は弟を家の内へ入れてから言った。「お前は今夜、是方(こっち)で泊ってくれるだろうネ」
「ええ、とにかく行って坊主を置いて来ます――それから復たやって来ましょう」
「ああそうしておくれ。弱い子供だから、お雪さんが心配すると不可(いけない)。ワンワンも持たせてやりたいが、可いわ、私がまた訪ねる時にお土産(みや)に持って行かず」
三吉は眠そうな子供を姉の手から抱取った。
「坊ちゃまのお下駄(げた)はいかがいたしましょう」と老婆が言葉を添える。
「ナニ、構いませんから、新聞に包んで私の懐中(ふところ)へ捩込(ねじこ)んで下さい」
こう三吉は答えて、「種ちゃん、吾家(おうち)へ行くんだよ」と言い聞かせながら、子供を肩につかまらせて出た。種夫は眠そうに頭を垂れて、左右の手もだらりと下げていた。
「まあ御可愛そうに、おねむでいらッしゃる」と老婆が言った。
三吉が自分の家へ子供を運んで置いて、復た電車で引返して来た頃は、半鐘が烈(はげ)しく鳴り響いていた。細い路地や往来は人で埋まった。お仙が居なく成ったというさえあるに、加(おまけ)に火事とは。三吉は仰天して了(しま)った。火は正太の家から半町ほどしか離れていなかった。
「これはまあ何という事だ」
というお種の言葉を聞捨てて、三吉は二階へ駆上った。続いてお種も上って来た。
雨戸を開けて見ると、燃え上る河岸(かし)の土蔵の火は姉弟の眼に凄(すさま)じく映った。どうやら、一軒で済むらしい。見ているうちに、すこし下火に成る。
「もう大丈夫」
と正太も階下(した)から上って来た。三人は無言のまま、一緒に火を眺めて立っていた。雨戸を閉めて置いて、三人は階下へ下りた。まだ往来は混雑していた。石段を上って来て、火事見舞を言いに寄るものもあった。正太は心の震動(ふるえ)を制(おさ)えかねるという風で、
「叔父さん、済みませんが下谷(したや)の警察まで行って下さいませんか……浅草の警察へは今届けて来ました」
「お仙も」とお種は引取って、「ああいう神様か仏様のようなやつだから、存外無事で出て来るかも知れないテ」
「お仙ちゃんは、ここの番地を覚えていますまいね」と三吉が聞いた。
「どうも覚えていまいテ」とお種は歎息する。
「なかなか車に乗るという智慧(ちえ)は出そうもない――おまけに、一文も持っていない」と正太も附添(つけた)した。
三吉は思い付いたように、老婆の方を見て、「老婆さん、貴方はあの路地のところへ行って、角に番をしていて下さい。じゃあ私は下谷の警察まで行って来ます」
夜は更(ふ)けて来た。火事の混雑の後で、余計に四辺(あたり)はシーンとしていた。青ざめた街燈の火に映る電車通には、往来(ゆきき)の人も少なかった。柳並木の蔭は暗い。路地の角に、豊世と老婆(ばあさん)の二人が悄然(しょんぼり)立って、見張をしている。そこへ三吉が帰って来た。
「まだ帰りませんか」と三吉は二人に近づいて尋ねた。
「叔父さん、どうしたら宜(よ)う御座んしょうね」と豊世は愁(うれ)わしげに答えた。
「まあ家へ行って相談しようじゃ有りませんか」
こういう三吉の後に随(つ)いて、豊世は重い足を運んだ。老婆も黙って歩いて行った。
正太の家には、お仙を捜しに出たものが皆な一緒に集った。
「何時でしょう」と三吉が言出した。
「十一時過ぎました」と正太は懐中時計を出して見て答えた。
しばらく正太は沈吟するように部屋の内を歩いて見た。やがて、玻璃(ガラス)障子の閉めてあるところへ行って、暗い空を窺(うかが)いながら立っていたが、復た皆なの居る方へ引返した。時々、彼は可恐(おそろ)しげな眼付をして、豊世の顔を睨(にら)みつけた。
「あぶないあぶないと平素(ふだん)から思っていたが、これ程とは思わなかった」正太はこんな風に妹のことを言って見た。
「一体、私が子供なぞを連れてやって来たのが悪かった」と三吉が言った。
お種は引取って、「そんなことを言えば、私がお仙を連れて出て来たのが悪いようなものだ。いや、誰が悪いんでも無い。みんなあの娘(こ)が持って生れて来たのだぞや。どんなことが有ろうとも、私はもう絶念(あきら)めていますよ。それよりは、働けるものが好く働いて、夫婦して立派なものに成ってくれるのが、何よりですよ」
「私はネ」と正太は叔父の方を見て、「事業(しごと)と成ると、どんなにでも働けますが――使えば使うだけ、ますます頭脳(あたま)が冴(さ)えて来るんです――唯、こういう人情のことには、実際閉口だ」
「正太もまた、こんなことに凹(へこ)んで了うようなことじゃ不可(いけない)」
とお種は健気(けなげ)にも、吾児(わがこ)を励ますように言う。
「ナニ、これしきのことに凹んでたまるもんですか。私の頭脳の中には、今塩瀬の店の運命がある――おまけに明日は晦日(みそか)という難関を控えている」
こう言って、正太は鋭い眼付をした。
「さアさ」とお種は浴衣(ゆかた)の襟(えり)を掻合(かきあわ)せながら、家中を見廻して、「出来たことは仕方が有りません。とにかく一時頃まで皆なに休んで貰って、三吉と正太には気の毒だが、それからもう一度捜しに行って貰わず。三吉、すこし寝たが可いぞや。老婆(ばあさん)もそこで横にお成りや――それにかぎる」
寝ろと言われても、誰も寝られるものは無かった。第一、そういうお種が眠らなかった。すこし横に成って見た人も、何時の間にか起きて、皆なの話に加わった。十二時頃、一同夜食した。
時計が一時を打つ頃、三吉、正太の二人は更に仕度(したく)して出掛けることに成った。
「叔父さん、風邪(かぜ)を引くといけませんよ――シャツでも進(あ)げましょう」と言って、正太は豊世の方を見て、「股引(ももひき)も出して進げな」
「じゃあ、拝借するとしよう」と三吉が言った。
三吉は股引に尻端折(しりはしょり)。正太もきりりとした服装(なり)をして、夏帽子を冠って出た。
「姉さん、お仙ちゃんが帰って来たそうですネ――よかった、よかった。僕は今そこの交番で聞いて来た」
と言って、三吉が飛込んで来た。
「お仙、叔父さんに御礼を言わないか」
とお種に言われて、お仙はすこし顔を紅(あか)めながら手を突いた。この無邪気な娘は唯マゴマゴしていた。
「叔父さん、もうすこしで危いところ」と豊世は妹の後に居て、「悪い者に附かれたらしいんですが、好い塩梅(あんばい)に刑事に見つかったんだそうです。今まで警察の方に留めて置かれたんですッて」
そこへ正太も妹の無事を喜びながら入って来た。
「随分心配させられたぜ、もうもうどんなことが有っても、独(ひと)りでなんぞ屋外(そと)へ出されない」と言って、正太は溜息(ためいき)を吐(つ)いて、「お仙がもし帰らなかったら、それこそ家のやつを擲殺(はりころ)してくれようかと思った」
「ええ、そこどこじゃない」と豊世は後向に涙を拭(ふ)いて、「お仙ちゃんが帰らなければ、私はもう死ぬつもりでしたよ……」
一同はお仙を取囲(とりま)いて種々なことを尋ねて見た。お仙は混雑した記憶を辿(たど)るという風で、手を振ったり、身体(からだ)を動(ゆす)ったりして、
「なんでもその男の人が、私の処を聞いたぞなし。私は知らん顔していた。あんまり煩(うるさ)いから、木曾(きそ)だってそう言ってやった」
「木曾はよかった」と三吉が笑う。
「先方(さき)の人も変に思ったでしょうねえ」と豊世は妹の顔を眺めて、「お仙ちゃんは、自分じゃそれほど可畏(こわ)いとも思っていなかったようですね」
お仙はきれぎれに思出すという顔付で、「ハンケチの包を取られては大変だと思ったから――あの中には姉さんに買って頂いた白粉(おしろい)が入っていたで――私はこうシッカリと持っていた。男の人が、それを袂(たもと)へ入れろ入れろと言うじゃないかなし。私が入れた。そうすると、この袂を捕(つかま)えて、どうしても放さなかった……」
「アア、白粉を取られるとばかり思ったナ」と正太が言った。
「ええ」とお仙は微笑(えみ)を浮べて、「それから方々暗い処を歩いて、終(しまい)に木のある明るい処へ出た。草臥(くたびれ)たろうから休めッて、男の人が言うから、私も腰を掛けて休んだ……」
「して見ると、やっぱり公園の内へ入ったんだ。あれほど僕等が探したがナア」と三吉は言ってみた。
お仙は言葉を続けて、「煙草を服(の)まないかッて、その人が私にくれた。私は一服しか貰って服まなかった。夫婦に成れなんて言ったぞなし――ええ、ええ、そんな馬鹿なことを」
「よかった、よかった――夫婦なぞに成らなくって、よかった」
こうお種が言ったので、皆な笑った。お仙も一緒に成って笑い転(ころ)げた。
「皆な二階へ行って休むことにしましょう。正太も仕事のある人だから、すこし休むが可い――さアさ、皆な行って寝ましょう」
とお種は先に立って行った。
「皆様の御床はもう展(の)べて御座います」と老婆も言葉を添えた。
一同は二階へ上って寝る仕度をした。三吉は寝られなかった。彼は一旦(いったん)入った臥床(とこ)から復た這出(はいだ)して、蚊帳(かや)の外で煙草を燻(ふか)し始めた。お仙も眠れないと見えて起きて来た。豊世も起きて来た。三人は縁側のところへ煙草盆を持出した。しまいには、お種も我慢が仕切れなく成ったと見え、白い寝衣のまま蚊帳の内から出て来た。
「正太さんはよく寝ましたネ」と三吉は蚊帳の外から覗(のぞ)いて見る。
「これ、そうっとして置くが可い。明日(あした)は大分多忙(いそが)しい人だそうだから――」とお種は声を低くして言った。
その時、豊世は起(た)って行って、水に近い雨戸を開けかけた。
「叔父さん、一枚開けましょう。もう夜が明けるかも知れません」
一夜の出来事は、それに遭遇(であ)った人々に取って忘られなかった。折角上京したお種も、お仙を連れての町あるきは可恐(おそろ)しく思われて来た。河の見える家に逗留(とうりゅう)して、皆なで一緒に時を送るということが、何よりお種母子(おやこ)には楽しかった。
八月に入って、正太も家のものを相手に暮すような日があった。兄夫婦や妹の間に起る笑声は、過去った楽しい日のことをお種に想(おも)い起させた。下座敷の玻璃障子の外には、僅(わず)かばかりの石垣の上を丹精して、青いものが植えてある。お種は、郷里(くに)に居て庭の植木を愛するように、その草花の手入をしたり、綺麗に掃除したりした。
お種は草箒(くさぼうき)を手にして、石段の下へも降りて行った。余念なく石垣の草むしりをしていると、丁度そこへ三吉が路地の方から廻って訪ねて来た。お種はそれとも気がつかず、往来に腰を延ばして、自分の草むしりした跡を心地好さそうに眺めていた。三吉は姉の傍まで来た。まだお種は知らなかった。その時、三吉は両手を延ばして、背後(うしろ)から静かに姉の目を隠した。
この戯は、寧(むし)ろお種をビックリさせた。彼女は右の手に草箒を振りながら、叫んだ。何事かと、正太や豊世は顔を出した。三吉は笑いながら姉の前に立っていた。
「お前さんか――俺(おれ)は真実(ほんとう)に、誰かと思ったぞや」
とお種も笑って、「まあ、お入り」と言いながら、弟と一緒に石段を上った。
「姉さん」と三吉は家へ入ってから言った。「一寸御使にやって来たんです。明日は私の家で御待申していますから、何卒(どうか)御話に入来(いら)しって下さい」
「それは難有(ありがと)う。私もお前さんの許(とこ)の子供を見に行かずと思っていた。それに、久し振でお雪さんにも御目に掛りたいし……」
こういうお種の顔色には、前の晩に見たより焦心(あせ)っているようなところが少なかった。その沈んだ調子が、反(かえ)って三吉を安心させた。
正太と二人きりに成った時、三吉は姉の様子を尋ねて見た。
「母親さんも考えて来たようです」と正太は前の夜の可恐(おそろ)しかったことを目で言わせた。
「なにしろ、君、出て来る早々ああいう目に遭遇(でっくわ)したんだからネ……実際あの晩はエラかったよ……」
「私なぞは、叔父さん、すくなくも十年寿命(じゅみょう)が縮みました」
「ホラ、君と二人で最後に公園の内を探って、広小路へ出て来ると、あの繁華な場処に人一人通らずサ……あの時、君は下谷の方面を探り給え、僕は浅草橋通りをもう一遍捜してみようッて言って、二人で帽子を脱(と)って別れましたろう――あの時は、君、何とも言えない感じがしたネ」
「そうそう、一つ踏外すと皆な一緒にどうなるかと思うような……こりゃあウカウカしちゃあいられない、そう思って、私は上野の方へ独(ひと)りで歩いて行きました」
水を打ったような深夜の道路、互に遠ざかりながら聞いた幽(かす)かな足音――未だそれは二人の眼にあり耳にあった。
女達が集って来た。親類の話が始まった。遠く満洲の方に居る実のことが出るにつけても、お種は夫の達雄を思出すらしかった。お俊(しゅん)の結婚も何時あるかなどと噂(うわさ)した後で、三吉は辞して行った。
お仙を残して置いて、お種は独(ひと)りで弟の家族に逢いに行った。
三吉の家では、お雪が子供に着物を着更えさせるやら、茶道具を取り出すやらして、姉を待受けていた。気の置けない男の客と違い、殊(こと)に親類中一番年長(としうえ)のお種のことで、何となくお雪は改まった面持で迎えた。弟の家内の顔を見ると、お種は先ず亡くなったお房やお菊やお繁のことを言出した。
三吉は姉の側に坐って、「姉さん、御馴染(おなじみ)の子供は一人も居なくなりました」
「そうサ――」とお種も考深く。
「種ちゃん、橋本の伯母さんに御辞儀をしないか」とお雪が呼んだ。
「種ちゃんはもう御馴染に成ったねえ。御預りのワンワンも伯母さんが持って来ましたよ」
「姉さん、これが新ちゃんです」と三吉は、漸(ようや)く匍(は)って歩く位な、次男の新吉を抱寄せて見せる。
「オオ、新ちゃんですか」とお種は顔を寄せて、「ほんに、この児は壮健(じょうぶ)そうな顔をしてる。眼のクリクリしたところなぞは、三吉の幼少(ちいさ)い時に彷彿(そっくり)だぞや……どれ、皆な好い児だで、伯母さんが御土産(おみや)を出さずか」
子供は、伯母から貰った玩具(おもちゃ)の犬を抱いて、家のものに見せて歩いた。
「お雪、銀ちゃんを抱いて来て御覧」と三吉が言った。
「これ、温順(おとな)しく寝てるものを、そうッとして置くが可い」とお種は壁に寄せて寝かしてある一番幼少(ちいさ)い銀造の顔を覗(のぞ)きに行った。
「どうです、姉さん、これが六人めですよ――随分出来も出来たものでしょう」
「お前さんのところでは、お雪さんも御達者だし、どうして未だ未だこれから出来ますよ」
こんなことを傍で言われて、お雪はキマリが悪そうに茶戸棚(ちゃとだな)の方へ行った。
「真実(ほんと)に、子供があると無いじゃ、家の内が大違いだ」と言って、お種は正太の家のことを思い比べるような眼付をした。
その日、お種は心易く振舞おう振舞おうとしていたが、どうかすると酷(ひど)く興奮した調子が出て来た。時にはそれが病的に聞えた。すこしも静止(じっと)していられないような姉の様子が、何となくお雪には気づかいであった。お種は狭い町中の住居(すまい)をめずらしく思うという風で、取散した勝手元まで見て廻ろうとするので、お雪はもう冷々(ひやひや)していた。
姉を案内して、三吉は二階の部屋へ上った。日中(ひるなか)の三味線の音が、乾燥(はしゃ)いだ町の空気を通して、静かに響いて来た。
「姉さん、東京も変りましたろう」
こういう弟の話を、お種は直に吾児(わがこ)の方へ持って行った。
「今度、出て来てみたら、正太の家には妙なものが掛けてある。何様とかの御護符(おふだ)だげナ。そして、一寸したことにも御幣を担(かつ)ぐ。相場師という者は皆なこういうものだなんて……若い時はあんな奴じゃなかったが……」
「しかし、正太さんはナカナカ面白いところが有りますよ。ウマくやってくれると宜(よ)う御座んすがネ」
「まあ、彼(あれ)は、阿爺(おとっ)さんから見ると、大胆なところが有るで――」
お種は言い淀(よど)んで、豊世から聞いた正太と他の女との関係を心配そうに話した。
「アア向島の芸者のことですか」
「それサ」
「へえ、豊世さんは心配してるんですかネ。そんな話は、疾(とっ)くにどうか成ったかと思っていた」
「ところがそうで無いらしいから困るテ……豊世もあれで、森彦叔父さんなら何事(なん)でも話せるが、どうも三吉叔父さんは気遣(きづか)いだなんて言ってる」
こうお種が言って笑ったので、三吉の方でも苦笑(にがわらい)した。
お雪は姉の馳走(ちそう)に取寄せた松の鮨(すし)なぞを階下(した)から運んで来た。子供が上って来ては、客も迷惑だろうと、お雪はあまり話の仲間入もしなかった。
三吉は半ば串談(じょうだん)のように、「お雪は姉さんをコワがっていますよ」
「そんなことがあらすか」とお種は階梯(はしごだん)を下りかけたお雪の方を見て、「ねえ、お雪さん、貴方とは信州以来の御馴染ですものネ」
お種の神経質らしい笑声を聞いて、お雪は泣き騒ぐ子供の方へ下りて行った。
三吉は思い付いたように、戸棚の方へ起って行った。実が満洲へ旅立つ時、預って置いた父の遺筆を取出した。箱の塵(ちり)を払って、姉の前に置いて見せた。その中には、忠寛の歌集、万葉仮名で書いた短冊(たんざく)、いろいろあるが、殊にお種の目を引いたのは、父の絶筆である。漢文で、「慷慨(こうがい)憂憤の士を以(も)って狂人と為す、悲しからずや」としてある。墨の痕(あと)も淋漓(りんり)として、死際(しにぎわ)に震えた手で書いたとは見えない。
父忠寛が最後の光景(ありさま)は、いつも三吉が聞いて見たく思うことであった。お鶴が通夜の晩に、皆な集って、お倉から聞いた時の話ほど、お種は委(くわ)しく記憶していなかった。そのかわり、お種はお倉の記憶に無いことを記憶していた。
「大きく『熊』という字を書いて、父親(おとっ)さんが座敷牢から見せたことが有ったぞや」とお種は弟に微笑(ほほえ)んで見せて、「皆な、寄(よ)って集(たか)って、俺を熊にするなんて、そう仰(おっしゃ)ってサ……」
「熊はよかった」と三吉が言った。
「それは、お前さん、気分が種々に成ったものサ。可笑(おか)しく成る時には、アハハ、アハハ、独りでもう堪(こた)えられないほど笑って、そんなに可笑しがって被入(いら)っしゃるかと思うと、今度は又、急に沈んで来る……私は今でもよく父親さんの声を覚えているが、きりぎりす啼(な)くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む、そう吟じて置いて、ワアッと大きな声で御泣きなさる……」
お種は激しく身体を震(ふるわ)せた。父が吟じたという古歌――それはやがて彼女の遣瀬(やるせ)ない心であるかのように、殊に力を入れて吟じて聞かせた。三吉は姉の肉声を通して、暗い座敷牢(ろう)の格子に取縋(とりすが)った父の狂姿を想像し得るように思った。彼はお種の顔を熟(じっ)と眺めて、黙って了った。
この姉が上京する前、正太から話のあった達雄との会見――今にそれを姉が言出すか言出すかと、三吉は心に思っていた。お種は、弟の方で待受けたようなことを何事(なんに)も言出さずじまいに、郷里の方の変遷(うつりかわり)などをいろいろと語り聞かせた後で、一緒に階下(した)へ降りた。
お雪は眼の覚(さ)めた銀造を抱き擁(かか)えて、
「へえ、伯母ちゃん、銀ちゃんを見て下さい」
「オオ、温順(おとな)だそうな。白い前掛(まいか)を掛けて――好い児だ、好い児だ」とお種は孫でもアヤすように言った。
「この通りの子持で御座いますから、いずれ私は夜分にでも伺います」
「お雪さん、御待ち申していますよ。お仙にも逢(あ)ってやって下さい」
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