十二
慾深き人の心と降る雪は積るにつけて道を遺(わす)るゝと云う、慾の世の中、慾の為には夫婦の間中(あいなか)も道を違えます人心(ひとごゝろ)で、其の中にも亦(また)強慾(ごうよく)と云うのがございます。大慾は無慾に似たりと云って余り慾張り過ぎまして身を果(はた)す様なる事が間々(まゝ)ございます。お村のお母(ふくろ)などは強慾に輪をかけましたので、実に慾の国から慾を弘めに来たと云う、慾の学校でも出来ますれば教師にも成ろうと云う強慾張(ごうよくばり)で、筋と肉の間へ慾がからんで慾で肥(ふと)る慾肥りと云うのは間々あります。頭の真中(まんなか)が河童(かっぱ)の臀(しり)のように禿(は)げて居ります、若い中(うち)ちと泥水を飲んだと見えて、大伴蟠龍軒の襟(えり)に附きまして友之助の前へ憎々しく出て来まして、
崎「おい友之助、お前は本当に酷(ひど)い人だのう、私の只(たっ)た一人の娘を強(たっ)てくれと云うので、お前は業平橋の文治郎と云う奴を頼んで掛合いに来た其の時、私は遣(や)ることは出来ねえと云ったら、文治郎と云う奴は友之助の所へお村を遣らなければ縊殺(くびりころ)すと云って理不尽に咽喉(のど)を締めて、苦しくって仕方がねえから、はいと云ったが、其の時の掛合にのう、お母(っかあ)には月々五両ずつ小遣(こづかい)を贈ろうと云ったが、毎月々々(まいげつ/\)送ったことがあるか、やれ家(うち)を越したの、やれ品物を仕入れるの、店を造作(ぞうさく)するのと云って丁度金を送ったことはありゃアしねえ、大事な一人娘を何故親に無沙汰で、此方様(こちらさま)へ来て博奕(ばくち)同様な賭碁に書入れた、三百両と云う大金でお前は碁を打って楽しんだろうが、親に無沙汰で書入れて仕舞って、此方様だから宜(い)い、お母(ふくろ)ぐるみ引取るから心配するなと仰しゃるが、若し悪い者の手に掛れば女郎に売られるか知れやしねえ、太(ふて)い奴だ、縁切(えんきり)で遣った娘ではねえ、嫁に遣れば姑(しゅうと)だよ、己(おれ)に一応の話もしねえで、沙汰なしに金の抵当(かた)に書入れられて溜(たま)るものか、手前(てめえ)のような奴に何(なん)と言ったって再び娘は遣りゃアしねえからそう思いなよ」
友「お母(っかあ)それはねお前が腹を立つのは尤(もっと)もだけれども、是には種々(いろ/\)な深い訳のあることで、私も此方様へ二月からお出入して、初めはやれこれ云って有難い花主(とくい)と思って、此様(こんな)に人を欺(だま)すようなことをなさろうとは思わなかったが、後月(あとげつ)来たら碁を打て/\と先生が勧めるから、お相手の積りで碁を打って、初めは私に飴を食わせ、勝たして置いて賭碁をしろと仰しゃり、向うの企(たく)みとは知らず、洒落と思ってうっかり証文を書いたのが私の過(あやま)りだ、過りだけれども金は百両しか借りはしない、だが三百両でなければお村は返さないと仰しゃるから、どんなにも才覚してお村を取返しに来ようし、後(あと)でお前に話をするからお村だけは何卒(どうぞ)私の方へ返して下さい」
母「誰が手前(てめえ)に返す奴があるものか……これお村、手前(てめえ)もこんな不人情な奴にくっついていたって仕様がねえ、諦めの着くように判然(はっきり)と云って仕舞いなよう、愚図々々するから此奴(こいつ)がこけの未練で思い切れねえから、思い切って云って仕舞えったら云って仕舞いなよ、こんな意気地(いくじ)なしの腰抜にくっついていたって仕様がねえ、食えなくならア、判然と云いなよ、縁を切って仕舞いなよ」
村「あの友さん、私はね今度と云う今度はお母(っかあ)の云う通り呆れたよ、お前も新店のことだから是だけ代物(しろもの)を仕入れなければならない、土蔵も建てなければならぬとか、店の造作(ぞうさく)するに金が入るとかの為に少しの間女郎になれとか、抵当(かた)に書入れるとか云うなれば、夫婦相談で出来まいものでもないけれども、私は本当に呆れたよ、私に話もしないで此方様(こちらさま)へ書入れにして金を借(かり)るとは余(あんま)りではないか、お前のような不人情な人に附いていても、どんな目に逢うか知れないから、何卒(どうぞ)夫婦の縁は是れ切(ぎ)りにしておくんなさい、私ばかりが女じゃアない、世界には幾らも女があるから、賭博(ばくち)をする時書入れられても宜(い)いと云う様な、お前に惚れている人を女房にお持ち、私はお前に愛想(あいそ)が尽きて嫌(いや)だから、これから夫婦の縁はお母(っかあ)のいる前で切っておくれ」
母「能く云った/\、諦らめなよ、お村の腹が変っては役に立たねえ、さア/\帰れ、遣らぬと云ったら遣りませんよ」
と云う中(うち)友之助の眼は血走って、唇の色は紫色になり、
友「お村、余(あんま)り愛想尽(あいそづか)しを云うじゃアないか、決してお前を書入にしたのではない、書入は真(ほん)の洒落だと云うから、うっかり書いたは過(あや)まりだが、今になって金の有る大伴蟠作の襟に附いて己を振り付けては、去年の暮、牛屋の雁木で助けられた文治郎様へ済むめえ」
蟠「これ/\お村とはなんだ、今までは手前の女房だろうが、もう当家へ来ては妾だ、お村様と云え」
友「何を云うのだ、お村様も何もない、私の女房に違いございません、此方(こっち)へ出ろ、此の畜生め、どうも口惜(くや)しいたって、こんな証文などを拵(こしら)えて、お前さん立派な剣術の先生で、弟子子(でしこ)もあり、大小を挿(さ)す身の上で、入字(いれじ)をして証文を拵えるとは、これじゃア騙(かた)りだ」
蟠「これ/\、騙りとはなんだ、苟(かりそ)めにも一刀流の表札を出す蟠龍軒だ」
友「騙りだ/\」
と夢中になって友之助身を震わして騙り/\と金切声で言うと、ばら/\と内弟子が三四人来て、不埓至極な奴、先生を騙りなどと悪口雑言(あっこうぞうごん)をしては捨置かれぬ、出ろと襟髪(えりがみ)を取って腕を捕(つか)まえて門前へ引摺り出し、打擲して、前に申し上げた通り割下水の溝(みぞ)へ倒(さか)さまに突込(つきこ)んで、踏んだり蹴たり、半死半生(はんしはんしょう)息も絶え/″\になりましたが、口惜しいから、
友「さア殺せ、さア殺して仕舞え/\」
と云う声、実に悲鳴を放って苦し[#「し」は底本では欠如]んでいるのでございます。処へ文治郎通り掛ったが、母が同道でございますから、何分(なにぶん)にも問うことも出来ません。宅へ帰って森松に耳こすりして、全く友之助が蟠龍軒の為に酷(ひど)い目に遇(あ)っているなら、助けないで彼(あ)のまゝにして置けば必ず死ぬから、早く見て来いと云うから、森松は飛出して割下水へ来て見ると、四辺(あたり)はひっそりとしていたけれども、其の者は溝(どぶ)から這上(はいあが)って這うようにして彼方(あっち)へ行った此方(こっち)へ行ったと人の話を聞いて、だん/\跡を追って吾妻橋へ掛りますと、ポツリ/\大粒の雨が顔に当ります。ピュウ/\と筑波下(つくばおろ)しが吹き、往来はすこし止りましたが、友之助はびしょ濡(ぬれ)の泥だらけ、元結(もとゆい)ははじけて散乱髪(さんばらがみ)、面部は耳の脇から血が流れ、ズル/\した姿(なり)で橋の欄干に取付き、
友「口惜しい、畜生め、町人と思って打ち打擲して、人を半死半生に殺しゃアがったな、あゝ己は口惜しい、己は此の橋から飛込んで三日経(たゝ)ぬ中(うち)に皆(みんな)取殺すからそう思え、エー口惜しい」
と狂気致したようになって欄干に手を掛けると、バタ/\跡から来たは森松、
森「友さん/\おい仕様がねえ、友さん確(しっ)かりしねえ」
友「止めてはいけません、何卒(どうぞ)離しておくんなさい、生甲斐(いきがい)のない身体、殺しておくんなさい」
森「何を云うのだ、お前(めえ)能く考え違(ちげ)えをしてはいかねえ、お前(めえ)狼狽(うろた)えちゃアいけねえ、旦那が心配しているんだ、旦那は此の節(せつ)外へ出られねえから己に行って見ろというから来たのだ」
友「三日経(たゝ)ぬ中(うち)に取殺します」
森「そんなことを云ったって仕様がねえ、能く訳を云いねえ、えゝおい、如何(どう)云う訳だ」
友「どう云う訳だってお村はスッパリ大伴の襟に附(つい)て、百両が三百両になった」
森「百両が三百両になれば殖(ふ)えたのだから結構じゃアねえか」
友「いゝえ私は半分死んで居ります」
森「訳が分らねえ……人が立っていけねえよ、己に話して聞かせねえ、待ちねえよ、向(むこう)の都鳥と云う茶店(ちゃみせ)へ行(ゆ)きねえ……何を見やアがる、狂気(きちげえ)でも何(な)んでもねえ」
と漸(ようや)く都鳥の店へ来て、
森「表は人が立つといけねえ、連れて来た人は少し怪我人の様な病人の様な変な者だが、薄縁(うすべり)か何か敷いてくんねえ……おい友さん腰を掛けねえ」
友「へえ/\」
森「確(しっか)りしねえ」
友「確りたって私は半分死んで居ります」
森[#「森」は底本では「友」と誤記]「そんな事を云ったって分らねえ、どうしたのだ」
友「百両が三百両になりました」
森「それは結構じゃアねえか、殖えたのだ」
友「初めは私が勝ったので、二度目が負けたので、企(たく)んだのだ、お村様と云えと云います」
森「何を云うのか分らねえ、困るな、水を一杯(いっぺい)飲みねえ」
友「どうせ川へ這入れば水は沢山(たんと)飲めますから入りません」
森「しょうがねえな、どう云う訳だ、お前(めえ)も本所の旦那の子分、己も子分だ、旦那が表へ出られなくっているのに子分が本所へ来て恥辱(けじめ)を食って、身を投げるとはどういう訳だ、旦那は子分が喧嘩で負(ひけ)を取っては見てはいられねえ、お前(めえ)の敵(かたき)は己が取るから相手を云いねえ」
友「相手は剣術遣(つか)い」
森「なに、それじゃア己にはいけねえが、誰だ」
友[#「友」は底本では「文」と誤記]「それはお村に惚れているので、前々(ぜん/\)から私を欺(だま)して百両を三百両にしてお村を取上げ、私は半分死んで居ります」
森「分らねえな、……爺(じい)さん、旦那を喚(よ)んで来るから鳥渡(ちょっと)此の人を此処(こゝ)へ置いてくんねえ」
爺「貴方がお出(いで)なすっては困ります、彼(あ)の人が駈出すと困りますよ」
森「少しは駈出すかも知れねえが、直(じき)だから」
と云い捨てゝ、森松が業平橋へ来て文治郎に云うと、文治郎も心配しても外(ほか)に仕方がないから、お母様(っかさま)には上州前橋の松屋新兵衞が来て逢いたいから吾妻橋の海老屋で待っているとお母様に言ってくれと、こしらえ事ではありますが、人の為と思い、母に話しますると、外の者では遣(や)らぬが、松屋さんなら逢ってくるが宜(よ)いと云うので、森松と同道で都鳥と云う茶店へ来て、
森「爺さんいるかえ」
爺「居(お)ります、時々縁台から下りまして川を覗(のぞ)いて居ります」
森「心配(しんぺい)はねえ、旦那が来たから」
爺「御苦労様、お医者様ですか」
森「お医者様じゃねえ……旦那此方(こっち)へ」
文「友さん、大分(だいぶ)面部へ疵(きず)を受けたねえ、どうした、確(しっ)かりしなくてはいかぬ、身を投げて死ぬなどとそんな小さい根性を出してはいかぬ、どう云う訳か、心を落付けて話しなさい」
森[#「森」は底本では「友」と誤記]「旦那が来たよ、話しねえ」
友「へゝ有難う、誰が来ても私は半分死んで居ります」
森「あんなことを先刻(さっき)から云うので分りません、確(しっか)りしねえ、旦那だよ」
文「私(わし)だが分るかえ」
友「へー、お村様と云いますから、お村のお母(ふくろ)まで向うに附いているので、へー」
森「これは仕様がねえな、旦那が分らねえか」
文「友さん、私(わし)が分りませんか、業平橋の文治郎だが分りませんか」
友「へー/\旦那で、有難い/\能く来て下さいました、旦那様口惜(くやしゅ)うございます、何(ど)うか讎(かたき)を討って下さい、私は半分死んで居ります」
文「まア気を落付けなさい、嘸(さぞ)残念であろうが、何(ど)う云う訳でお前は酷(ひど)い目に遇(あ)ったか仔細を云いなさい」
友「へい、私はね旦那様あなたより外(ほか)に讎(かたき)を取って戴く方はございません、貴方の処へ参りたいと思いましても、此の二月貴方に一言(いちごん)のお話もしませんで銀座三丁目へ越し、つい敷居が高くなり御無沙汰になりましたが、是れも皆お村の畜生が悪いからで、何卒(どうぞ)御勘弁なすって下さい」
文「まア無沙汰の詫事(わびごと)はどうでも宜(よ)いが、お村はどうした」
友「へい、お村は向うへ取られ、金も百両取られました上で打(ぶ)たれました」
文「女房と金を取られて打擲されるとはお前に何か悪い事があるだろう、自分の悪いことを隠してはいかぬ、讎(かたき)を取って貰いたければ私(わし)に話しなさい、又趣意に依(よ)って話をつけてお前の顔の立つ様にもしよう、そうじゃないか」
友「へー有難い/\、森松さんお出でなさい」
森「今漸(ようや)く私(わっち)の顔が分ったのか、しょうがねえ、おい水を飲みなせえ」
文「どう云う訳かえ」
友「へー、この二月月末(つきずえ)、本所北割下水大伴蟠龍軒と云う剣術遣いの先生の舎弟の蟠作と云うものが店へ来て、誂(あつら)え物があるから宅へ来いと云われるから、度々(たび/\)参りますと、結構な品々を買ってくれ、御馳走をして祝儀をくれ、有難い得意が出来たと思い、足を近く参りました、そうすると向うでも、度々参りますから私(わたくし)の好き嫌いも知るようになりました、後月(あとげつ)十一日に私(わたし)が参りますと、阿部忠五郎と云う人が舎弟の蟠作と碁を打って居りまして、私の碁の好きなのを知って、碁を打て/\と云いますから、私も相手になって一二番打つと、遂(つい)に賭碁にしろと云い、初めは私(わたくし)が勝ちましたが、段々仕舞に負けまして、大伴蟠龍軒から金を借りましたので、すると百両と纒(まと)まった金だから証文にしろ、若し金が滞(とゞこお)ったらば抵当(かた)に女房お村を召使に上げるということを証文表(おもて)に書き、それもほんの洒落だからと申しますから、冗談の心持で阿部忠五郎と云う奴に証文を書いて貰って、うっかり印形を捺(お)したのです」
文「それはまア飛んだ目に遇った、企(たく)んでいたのだな」
友「企んだって企まないってそれ程とは存じません、門弟衆にはお旗下(はたもと)もあり、お歴々もあるから、よもやそんな真似はしようとは思いませんが、前々(ぜん/\)からお村に惚れていた故欺(だま)したのです」
文「それからどうした」
友「それで百両負けて仕舞って、晦日(みそか)に言訳に行(ゆ)くと、宜しい、返さなくっても宜しいと申し、客があるから一両日お村を貸せと云うから働きに連れて行くと、昨日(きのう)まで返しません、余(あんま)り返しませんから、お村を迎いに行くと、金を返さぬからお村を蟠作の妾にして毎晩抱いて寝て、手前の方へは返さぬから金を持って来いと云うから、私はどうも恟(びっく)り致しました、余(あんま)りでございますから七所借(なゝとこがり)をして金を持って参り、突き付けまして、お村を返せと云うと、旦那様、お崎婆(ばゞあ)も大伴へ参って居ります、其の上お村がお前のような意気地(いくじ)なしの女房になるのは厭だと云い、婆(ばゞあ)は手前には娘を遣らぬと申し、皆向うへ附いて口惜しゅうございますから、お村に文治郎様に義理が済むまいと申しますと、お村とはなんだ、お村様と云え、様を附けろと云うから、糞(くそ)でも喰(くら)え、それじゃア騙りだと云うと、私(わたくし)の頭を鉄扇で打ち、門弟が髻(たぶさ)を取って引摺り出し、打ち打擲するのみならず、割下水へ倒(さか)さまに突込(つきこ)まれて私(わたくし)は半分死んで居ります」
文「憎い奴だなア」
友「憎いって憎くねえって、森松さん可愛そうと思って下さい」
森「酷(ひど)い奴で、彼奴(あいつ)は悪党でげすな、旦那」
文「ふーん、それで百両返しにいって其の百両はどうなった」
友[#「友」は底本では「文」と誤記]「百両借りた証文が三百両となりました、百と云う字と金の字の間へ三の字を平ったく書いたのですから、騙りと云うのは当然(あたりまえ)でげしょう」
文「其の金はどうした」
友「其の金は其処(そこ)へ置いて掛合ったので」
文「持って帰ったか」
友「掛合中に突然(いきなり)に引摺り出されたから目の前にあっても取る事は出来ません」
文「成程、至極尤もだ、友さん如何(いか)にもお前は善人だ、金と女房を取られた上に打(ぶ)たれて気の毒千万だ、私は母に誡(いまし)められて喧嘩の中へ這入(はい)ることは出来ません、素(もと)より人の掛合に頼まれることはせぬ積りだが、どう云う訳か去年の暮から別懇になったからして如何にも気の毒だから、私が往(い)って百両の金だけは取返して上げまいものでもないが、女房お村の取返しは御免だ、其の位企みをして妾にしようとするお村を取返さんとすれば面倒になり、どのようなる理不尽なことをするか知れぬ、其の時は引くに退(ひ)かれぬ場合になる故に、お村を取返すことは私(わし)は頼まれぬ、お村は諦めな、あれはいかぬ、お前の為にならぬ女だ、あれが了簡の不実なのは見抜いて知っている」
友「旦那様、そう仰しゃいますが、私(わたくし)はあれは諦らめられません、私(わたし)は彼奴(あいつ)故主人を失策(しくじ)り、友達には笑われ、去年牛屋の雁木で心中する処を助けられ、漸(ようや)く夫婦になった者を、取られた上に打ち打擲されて、これもお村故でございます、仮令(たとえ)一晩でも取返して女房にした上、表へ逐出(おいだ)そうとも、彼奴が鬢(びん)の毛を一本々々引抜いて鼻でも切って疵だらけにしなければ腹が癒(い)えませんから」
文[#「文」は底本では「森」と誤記]「其様(そんな)ことをしたって詰らぬから、私(わし)の言うことを聞いて、あれは諦めな、負けたのはお前の過(あやま)りだから、百両の金で不実な女房を売ったと思って、諦めた方が宜しい」
友「私(わたくし)は諦められません、私(わたくし)が取(とり)かえして半年でも女房にして逐出します」
文「出したり入れたりしては詰らぬから、それよりはお村よりも優(まさ)った立派な女房を文治郎が世話をしようから、あれは諦めな、為にならぬから」
友「為にはならぬが、あの畜生、お村様と云えと云いました」
文「諦めなよ」
友「あきらめられません、三日でも宜しい、三日夫婦になって、彼奴(あいつ)の顔を疵だらけにして逐出します」
文「そんな奴があるものか、お村に未練があるなればお断りだ」
森「しょうがねえ、友さん、旦那があきらめろと云うから諦めねえよ」
文「諦めるなれば百両は取返して遣(や)ろう、だがそれ程企んで取った百両だから、返すかどうか知れぬ、元より取返そうとすれば喧嘩になり、退(ひ)くに退かれなければ世間を騒がせなければならぬ、お前に気の毒だから、若し向うで百両を返さぬとなれば百金は私(わし)が償(つぐな)ってお前に上げる心得だ、お前の為に百両は損をする気で中へ這入るのだから、其の志を無(む)にしないで、お村を諦めなさいよ」
友「へー/\私(わたくし)はあきらめましょうが口惜(くやしゅ)うございます、私は実に残念でございます」
文「嘸(さぞ)残念であろうが、其の代り後(あと)は幸福(しあわせ)になる」
友「彼奴(あいつ)を諦めます代りには彼奴唯は置きません、走り大黒様へ針を打ちます」
文「そんな詰らぬことを云ってはいかぬ、何処(どこ)か近所に医者があるだろう」
と茶店の亭主に医者を尋ねさせ、外科医者が来て頭の疵に膏薬(こうやく)を付け、駕籠に乗せて友之助を帰し、翌日夕景から、母の前は松新が迎いに来た体(てい)にして、文治郎は大伴蟠龍軒の玄関先へかゝり、
文「頼む/\」
大伴の表へは水を打って掃除も届き、奥には稽古を仕舞って大伴蟠龍軒兄弟が酒宴(さかもり)をしている。姑(しばら)くして「玄関に取次(とりつぎ)があるよ、安兵衞(やすべえ)」
安「へー」
つか/\と和田安兵衞が取次に出ました。と見ると文治郎水色に御定紋染(ごじょうもんぞめ)の帷子(かたびら)、献上博多の帯をしめ、蝋色鞘(ろいろざや)の脇差、其の頃流行(はや)った柾(まさ)の下駄、晒(さらし)の手拭を持って、腰には金革(きんかわ)の胴乱を提(さ)げ、玄関に立った姿は誰(たれ)が見ても千石以上取る旗下(はたもと)の次男、品(ひん)と云い愛敬と云い、気高(けだか)いから取次の安兵衞は驚いて頭を下げ、
安「何方様(どなたさま)から」
文「手前は業平村に居ります浪島文治郎と申しますえー粗忽(そこつ)の浪士でござるが、先生にお目通りを願いたく態々(わざ/\)出ました」
安「少々お控え下さい」
とつか/\奥へ行(ゆ)くと、頻(しき)りに酒を飲んでいる。
安「先生、浪島文治郎という業平村に居ります者が先生にお目通り願いたいと申します」
蟠「どんな奴だ」
安「へー、誠に好(い)い男で、どうも色の白いことは役者にもありません、眼の黒い眉の濃い綺麗な男で、水色の帷子を着て旗下の次三男と云う品(ひん)でげす」
蟠「そんな事はどうでも宜い…蟠作、浪島とはなんだ」
蟠作「兄上、予(かね)て聞きましたが浪島文治郎と云うは浪人者で、何か侠客(きょうかく)とか云う、町人を威(おど)し、友之助のことに世話をする奴で、友之助の事に就(つ)いて掛合に参ったのでございましょう」
蟠「あゝそうか」
崎「先生、それでございますよ、参ったら油断してはいけません、怖い奴です、見た処は虫も殺さぬような、しと/\ものを言うが、一つ反対返(でんぐりかえ)ると鬼を見たような奴です、お村を取還(とりかえ)しに来たって貴方はいと云っては親子のものが困りますから、どうかして下さいよ、お村逃げな/\」
蟠「はアそれは面白い、酒の肴に嬲(なぶ)ってやろう、呼べ/\」
と悪い所へ参りました。文治郎は案内に連れられまして奥へ通りますと、道場の次の座敷の彼(か)れこれ十畳もあります所へ、大いなる盃盤(はいばん)を置きまして、皆(みん)な稽古着に袴を着けまして酒宴をして居ります。大伴蟠龍軒の次に蟠作が坐り、其の次にお村が坐りまして、其の次にお崎婆(ばゞあ)が猫脊になって坐って居(お)る、外(ほか)に門弟が四五人居ります。襖を隔(へだ)って文治郎が両手を突いて叮嚀(ていねい)に挨拶を致します。
蟠「さア、どうぞこれへ這入って下さい、其処(そこ)じゃア御挨拶が出来ぬ故何卒(どうぞ)此方(こっち)へ這入って下さい、此の通り今稽古を仕舞って一杯初めた処で、甚だ鄙陋(びろう)な体裁(ていさい)で居(お)るが、どうぞ無礼の処はお許し下すって、これへお這入り下さい」
文「へー初めまして、えー業平村に居ります浪島文治郎と申す至って粗忽の浪士、お見知り置かれて此の後(のち)とも幾久しく御別懇に願います」
蟠「御叮嚀の御挨拶、手前は大伴蟠龍軒と申す武骨者、此の後(ご)とも御別懇に願う……これは手前の舎弟でござる、蟠作と申す者、どうぞお心安く願います」
蟠作「初めまして、手前は蟠作と申す者、予(かね)て雷名轟(とどろ)く文治郎殿、どうか折(おり)があらばお目に懸りたいと思っていたが、縁なくして御面会しなかったが、能(よ)うこそ御尊来で、予てお噂に聞きましたが、大分(だいぶ)どうも何(なん)だね、お噂よりは美くしいね」
怪(け)しからぬことを言う奴と思ったが文治郎は、
文「えー、今日(こんにち)お目通りを願いたい心得で罷(まか)り出ましたが、御不在であるかお逢いはあるまいかと実は心配致して参りましたが、お逢い下すって誠に此の上も無(の)う大悦(たいえつ)に存じます、少々仔細あって申し上げたい儀がございまして罷り出ましたが、大分お客来(きゃくらい)の御様子、折角の御酒宴のお興を醒(さま)しては恐入りますが、御別席を拝借致して先生に申し上げたいことがありまして」
蟠「いゝえ、なに別席には及ばぬ、これは門弟だから心配には及びません、直(す)ぐにこれで逢う方が却(かえ)って宜(よ)い、何(なん)なりと遠慮のう直ぐにお話し下すって」
文「左様なれば申し上げますが、他(ほか)の儀ではございませんが、紀伊國屋友之助の儀に付いて罷(まか)り出ました」
蟠「成程、何しろ席が遠くて話が出来ぬ、遠慮してはいかぬ、此方(こっち)へ這入って下さい、剣術遣いでも野暮(やぼ)に遠慮は入りません、丁度相手欲しやで居りました、どうかこれへ」
文「御免下さい」
と這入ろうとしたが、關兼元の脇差は次の間へ置いて這入らなければなりませんが、若(も)し向うが多勢(たぜい)で乱暴を仕掛けられた時は、止(や)むを得ず腰の物を取らんければならぬ、其の時離れていては都合が悪い、それゆえ襖の蔭へ置きまして、余程柄前(つかまえ)が此方(こっち)へ見えるようにして、若し向うで愈々(いよ/\)斬掛(きりか)けるようなる事があると、坐ったなりでずうっと下(さが)り、一刀を取って抜こうと云う真影流の坐り試合、油断をしませんで襖の所へ置いて掛合うという危険(けんのん)な掛合でございます。
文「只今申上げました紀伊國屋友之助は図らずも御当家へお出入になりましたことは此度(こんど)始めて承わりましたが、不思議の縁で昨年来よりして手前店請(たなうけ)になって駒形へ店を出させました廉(かど)もございましたが、久しく音信(いんしん)もございません、銀座へ越します時も頓(とん)と無沙汰で越しました、然(しか)る処、昨夜吾妻橋を通り掛りますると、友之助が吾妻橋の中央より身を投げようと致す様子、狂気の如く相成って居ります故、引留(ひきと)めて仔細を聞くと、御当家様へお出入になり、長らく御贔屓(ごひいき)を戴き先月御当家様で金子百両借用致して、其の証文表(おもて)に金子滞る時は女房お村を妾に差上げると云うことが書いてあり、金子の返金滞ったによって女房お村をお取上(とりあげ)になってお返しがない、それ故に驚き、金子才覚して持って参りました所が、金子もお村もお取上で、お返しならぬ上御打擲になり、剰(あまつさ)え御門弟衆(しゅ)が髻(もとゞり)を取って門外へ引出し、打ち打擲して割下水へ倒(さか)さまに投入(なげい)れられ、半死半生にされても此方(こっち)は町人、相手は剣術の先生で手向いは出来ず、如何(いか)にも残念だから入水(じゅすい)してお村を取殺(とりころ)すなどと狂気(きちがい)じみたことを申し……それはまア怪(け)しからぬこと、音に聞えたる大伴の先生故、町人を打ち打擲などをすることはない筈(はず)、又女房を金の抵当(かた)に取るなどと端(はした)ないことはなさる筈がない、そんなことは下々(しも/″\)ですること、先生はよもや御得心のことではあるまい、何か頓と分りませんから、一応先生に承わって当人へ篤(とく)と意見を申し聞かせまする了簡で罷り出ました、えい友之助の悪い廉(かど)は私(わたくし)当人になり代りましてお詫を致しますが、どのような仔細あってでございますか一応仰しゃり聞けられますれば有難い事で」
蟠「成程、片聞(かたきゝ)ではお分りもございますまいが、これは斯(こ)う云う訳で、これに蟠作も聞いて居(お)るが、此の二月から出入させます紀伊國屋友之助は至って正道(しょうどう)らしく、深く贔屓にして、蟠作も袋物が好(すき)で、私も好だから詰らぬ物を買い、遂に馴染になり、心安だてが過ぎ、手前方へ来る阿部忠五郎と申す者が碁を打つと友之助は飯より好と云うので、酒の場で碁を打ってな陰気だから止せ/\と云うのも肯(き)かず遂に勝負に時を移し、賭となり金を賭けた処友之助が負けたから、金を貸せ/\と云い、纒(まと)まった大金だからどうも貸し悪(にく)い、間違いもあるまいが証文を入れろと云ったら、別に書入れる物はござらぬから、手前命より大切なものは女房のお村でございますから、お村を書入れましょうと云い、馬鹿々々しい訳だけれども、まさか金を返さぬ気遣(きづか)いもあるまいが、蟠作に話しをし、証文は取るに足らぬが、人間は心と心を見ぬいた上金を遣(や)り取りすべきであるから、どうでも宜しいと云うと、当人が阿部忠五郎に証文を書いて貰い、印形を捺(お)して証文を置放(おきぱな)しにして帰ったが、金は返さず、当人も間(ま)が悪いと心得たか、十五日に女房お村を連れて来て、置放しに帰った切り、頓(とん)と参りません、どうしたかと思って居(お)ると、昨日(きのう)突然参ってお村を返せと云うから、お村は返さぬでもないが金を返せと云うと、いゝえ金は返されません、お村を返せと云うから、お村を返すには金を取らぬければ、なんぼ兄弟の中でも私(わし)が請人(うけにん)だから金を出せと云う争いから、狂気(きちがい)見たように猛(たけ)り立って、私(わし)を騙(かた)りだ悪党だと大声(たいせい)を発して悪口(あっこう)を言うので、門弟どもが聞入れ、師匠を騙りだの悪党だのと云っては捨置れぬと、髻(もとどり)を取って引出し打擲したと聞いたから、後(あと)でまア弱い町人を其様(そんな)にせぬでも宜(よ)いと小言を云い聞かせて置きました、何も仔細はない、怪(け)しからぬことで」
文「どうも御贔屓になりましたる先生のことを騙りなどと悪口(あっこう)するとは不埓至極な奴、大方(おおかた)友之助は食酔(たべよ)って前後も打忘(うちわす)れ、左様なる悪口を申したに相違ございません、友之助の不埓は文治郎なり代りましてお詫申しますが、元々お出入のことでございますから、友之助の妻(さい)お村は友之助へお返し下さるようになりましょうか」
蟠「あゝ返しますとも、外(ほか)ならぬ文治郎殿がお出(いで)になったことだから、あいと二つ返事で返さなければならぬ、速(すみや)かにお返し申します」
さき「誠にどうも貴方困りますね、貴方方(あなたがた)が左様(そう)仰しゃって下さると、私とお村が困ります、迷惑致します……えー文治郎さん、お前はなんぞと云うと友之助のことにひょこ/\出て来るが、どう云う縁か知りませんが、去年の暮お村を友之助に遣れというから、私は一人娘で困ると云ったら、私の胸倉(むなぐら)を取って咽喉(のど)をしめて、遣らぬと締め殺すと云ったが、何処(どこ)の国に娘の貰い引(ひき)に咽喉を締める奴がありますか、私も命が欲しいからはいと云って遣ったら、五両ずつ月々小遣を送ると嘘ばかり吐(つ)いて、何(なん)にも送りはしません、其の上友之助は大事の娘を何故此方様(こちらさま)へ金の抵当(かた)に置いた、今私が遣るの遣らぬのと云えばお前は咽喉を締めもするだろう、弱い婆(ばゞ)ばかりなれば締めるだろうが、此処(こゝ)では締められまい、さア締めるなれば締めて見ろ、遣らぬと云ったら遣らぬ、締めるとも殺すともどうでもしなせえ」
文「それはお母(っかあ)、遣る遣らぬは後(あと)の話、お前に相談するのではない、先生との話だからそれは後の話にして下さい」
蟠「控えて居(お)れ、遣る遣らぬは当人同士の話にするが宜(よ)い、私(わし)は私(わし)で文治郎殿と話をする、のう文治郎殿、さアお返し申すと云ったら一時(いっとき)も待たぬ、速(すみや)かに返す、其の代り友之助の借りた金は掛合人のお前が償って返すだろうね」
文「昨日友之助が百金返金になって居ります筈で」
蟠「百両ではありません三百両です、これ証文箱を出せ……これに書いてある此の証文を御覧(ごろう)じろ、此の通り書いたものが物を云う、三百両と書いてありましょう」
文「少々拝見致します」
と文治郎は手に取って見ると、成程友之助の云う通り金の字と百の字との間に無理に押込んだ三の字が平ったくなっている、不届至極の奴と文治郎ぐっと癇癪が高ぶりましたなれども顔を和(やわ)らめて
文「成程、これは三百両、能くまア三百両という大金を友之助風情(ふぜい)へ御用立(ごようだて)下さいました、先生、これは三百両となりましては友之助にはとても返済にはなりませんが、万一返済の出来ぬ時はお村をお取上(とりあげ)で、それで御勘弁に相成りますので」
蟠「左様さ、金を返さぬければお村を上げると当人が云ったから抵当(かた)に取上げます」
文「とても友之助には返済は出来ません、手前も償(つぐの)う力もありません、お村をお取上で御勘弁になりますか、御舎弟様に一応お聞きを願います」
蟠作「当然(あたりまえ)のことだ、手前は掛合に来るに何故金を持って来ない、片々聞(かた/″\ぎき)では事柄は分らぬ、金を返さぬでお村を返せと云って誰が返す、お村を取返すなれば金を拵(こしら)えて持って来て云え、煙草一吹(いっぷく)喫(の)む間後(おく)れゝばお村は返さぬから、左様心得ろ」
文「へい、それでは三百金の抵当(かた)にお村をお取上で何処(どこ)までも御勘弁に相成るので」
蟠「知れたことだ、どんなことがあっても返さぬぞ、何(な)ぜ言葉を返す、武士に二言(にごん)はないわ」
文「へい、どうも恐入りましたことで、金が返せぬから女房お村を取上げて返さぬ、武士に二言はないと速かなお辞(ことば)、当人に篤(とく)と申し聞けます、併(しか)しながらお村をお取上げの上は三百両の証文は私(わたくし)がお預かり申します」
と文治郎証文を懐中へ入れました。其処(そこ)は抜(ぬか)りのない男です。
文「然(しか)らばそれで御承知の上からは友之助が昨日(さくじつ)持参致した百金は速かにお返しがありましょうな」
蟠「なに百金請取(うけと)った覚えはない」
文「いゝえ、昨日友之助が百金と心得て持参した処、三百金と云い、掛合中門弟衆(しゅ)が引出して、眼前にあっても取る間(ま)もございません、又門外で打擲になりました彼(あ)の始末、お得心の上からはお隠しなく友之助が憫然(びんぜん)と思召(おぼしめ)してお返し下さるよう願います」
蟠「黙れ、それでは何か、大伴が弱い町人を欺いて百金取上げて返さぬと云うのか」
文「いゝえ、左様ではございません、貴方は御存じがないかは知りませんが、又お働きの女中か御家来の衆(しゅ)がお座敷のお掃除の時、ひょっとして引出へでもお取仕舞(とりしまい)になって居(お)ろうかと心得申すので、どうか彼(あ)の様に弱い奴でございますから、不憫(ふびん)と思召して百両返して下さらぬでは友之助は立行(たちゆ)きませんから」
蟠「黙れ、苟(かりそ)めにも一刀流の表札を掛けたる大伴蟠龍軒、町人風情(ふぜい)の金を欺いて取ったと云うは無礼な奴、不埓至極」
と側にあった一合入りの盃(さかずき)を執(と)りました。前には能くお屋敷で陶器(やきもの)の薄出(うすで)の盃が出ました。上が娘の姿、中は芸妓の姿、一番仕舞が娼妓(しょうぎ)の姿などが画(か)いてあり、周囲(まわり)は桜の花などが細かに描(か)いてあります。其の一番下の一合入の盃をとってポーンと投付けると文治郎も身をかわして除(よ)けたが、投げる者も大伴蟠龍軒、狙(ねら)い違(たが)わず文治郎の月代際(さかやきぎわ)へ当ると、今とは違い毛がないから額(ひたえ)の処へ斯(こ)う三日月(みかづき)なりに瀬戸物の打疵(うちきず)が出来ました。するとポタ/\と血が流れ、水色染の帷子へぽたり/\と血が流れるを見て文治郎はっと額(ひたえ)を押え、掌(てのひら)を見ると真赤に血(のり)が染(そ)みましたから、此奴(こやつ)不埓至極な奴、文治郎の面部へ疵を付けるのみならず、重々(じゅう/\)の悪口雑言(あっこうぞうごん)、斯(かゝ)る悪人を助けおかば旗下(はたもと)の次三男をして共に大伴の悪事に染(し)みて、非道の行いを見習わせれば実に天下の御為(おんため)にならぬ、捨置きがたき奴、此の兄弟は文治郎此処(こゝ)に於(おい)てずた/\に斬り殺し、悪人の臓腑(ぞうふ)を引出して遣(や)ろうと、虎も引裂(ひっさ)く気性の文治郎、耐(こら)え兼て次の間にあります一刀に目を付けるという、これからが喧嘩になります。
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