八[#「八」は底本では「七」と誤記]
扨(さて)お筆を段々調べて見ますと、親父が大病で商売も出来ず、衣類道具も売尽(うりつく)して仕様のない所から、毎晩柳番屋の蔭へ袖乞に出て居りますると、これ/\斯(こ)う云うお武士(さむらい)が可哀想だと仰しゃって紙に包んで下さいましたのを、お鳥目(あし)かと存じて宅(たく)へ帰り開けて見ると金子(きんす)でございました、親に御飯を喰べさせる事も出来ん様な難渋な中ゆえ、遂(つい)大屋さんに黙って使いました段は誠に恐入りますという所が、口不調法ではございますが、曲淵甲斐守様が一目見れば孝心な者で有るか無いかはお分りにも成りましょう、殊に勘次の申立(もうしたて)と符合致して居りますから遉(さすが)の名奉行にも少し分り兼(かね)ました。
甲「全く其の侍に貰ったに相違有るまいが、是は芝赤羽根(あかばね)の勝手ヶ原の中根兵藏(なかねひょうぞう)という家持(いえもち)町人の所へ忍入り家尻(やじり)を切って盗取(ぬすみと)った八百両の内の古金で、皆此の通り三星の刻印の有る古金で有るに依(よっ)て、其方(そち)が唯貰ったでは言訳が立たぬ、全く親の為めに其方は其の日に困るに依て一時凌(いちじしの)ぎに使い、翌日町役人(ちょうやくにん)とも相談の上訴え出ようと思う折柄、勘次に盗取られたに相違有るまいな」
と云うお慈悲のお言葉。
筆「へえ恐入りました、夫(それ)に相違ございません」
甲「うむ、吟味中入牢(じゅろう)申し付ける」
とピッタリ入牢と相成りました。さア何(ど)うも近所では大騒ぎ、寄ると集(さわ)ると此のお筆の評判ばかりでございます、或る人は頻(しき)りに不承知を唱えまして何しろお上(かみ)はお慈悲だってえが大違いだ、彼様(あん)な親孝行な娘を引張ってって牢へ入れちまって、金を呉れた奴が盗人(ぬすびと)だか、武家だてえが何うしたんだか訳が分らねえ、物を人に呉れるなら名でも明して呉れるが宜(い)いんだ、何うしてお筆さんが泥坊などをする様な娘(こ)でない事は誰でも知ってる、夫(それ)に此様(こん)な事になるというのは私(わし)には些(ちっ)とも訳が分らねえ、お上は盲目(めくら)だ。というと又一人が、
△「其様(そん)な事を云うなよ/\」
と近所では色々噂をして居る。吉原帰りは田町の蛤(はまぐり)へ行って一盃(いっぱい)やろうと皆其の家(うち)へ参ります。
×「もう是で飯を喰おう」
△「もう一本やろう」
×「余(あんま)り遅(おそく)なるから、丁場(ちょうば)の仕事がよ」
△「丁場へは兼(かね)が先に行ってるからもう一本やろう」
×「兄いは酔っちまってる、グッと思切って続けてやんなもう充分酔ってるから飯を喰おうじゃアねえか」
△「宜(い)いからもう一本交際(つきあ)いねえな、汝(てめえ)が二猪口(ふたちょこ)ばかりアイをすれば、残余(あと)は皆(みんな)己が飲んで仕舞わア…長い浮世に短い命だ…人は…篦棒めえ正直にしたってしなくたって同じ事だ京橋鍛冶町の小間物屋のお筆さんの事を見ても知れたもんだ」
×「兄い彼(あれ)を云いなさんなよ、余(あんま)りパッパと云って捕(つか)まって困った者が有るから」
△「困ったって癪に障らア、余り理由(わけ)が分らねえじゃアねえか、親父が病気で困ってるから毎晩数寄屋河岸の柳番屋の蔭へ袖乞に出て居る処へ通り掛った武家(さむらい)が金を呉れたんだてえが、其の位の親切が有るならよ、己は何処(どこ)の何う云う武家(ぶけ)で若(も)し咎められた時にゃア己が遣ったと云えって名前でも明(あか)して置(おけ)ば宜(い)いのに、無闇に金を呉れやアがったって、情(なさけ)にも何もなりアしねえ、あの何(なん)とか云ったっけ巴(ともえ)の紋じゃアねえ、三星とか何とか云う印(いん)が押して有る古金(かね)を八百両何家(どこ)かで家尻を切って盗んだ泥坊が廻り廻って来てそれでまア、彼(あ)の親孝行な…」
×「おい/\悪いよ、其様(そん)な事を云って京橋辺(あたり)でも係合(かゝりあい)に成ったものが有るから止しなよ」
△「だってよ、お上では親孝行の者に御褒美を呉れて、親に不孝をする奴は磔刑(はりつけ)に上げるてえじゃアねえか、其の親孝行の者を牢ん中へ押込んで、腰の抜けた親父一人残して置くてえ家主(いえぬし)の根性が分らねえ、お救米(すくいまい)でも願って遣るが宜いんだ、此間(こないだ)も甚公(じんこう)の野郎が涙を溢(こぼ)し乍(なが)ら、あの娘(こ)は泥坊なぞをする様な者じゃアねえ彼様(あん)な娘はねえって然(そ)う云ってた」
×「おー其んなことを云いなさんなよ、係合になると宜(い)けねえぜ」
と制しても中々聞きません。すると他の一人が、
△「係合いになるって余(あんま)り癪に障らア今度奉行が替ったか、一体奉行が理由(わけ)が分らねえ」
×「おい止せてえのに」
△「云ったって宜い、なッてえ、糞放(くそったれ)め、罪もねえ者を無闇に牢の中へ放り込んで、金を呉れた盗人(ぬすっと)がふん捕(づか)まるまで、牢の中へ入れときやアがって面白くもねえ、本当に癪に障って堪らねえや、些(ち)っと風が吹くと路次は六ツ限(かぎり)に木戸を締(しめ)っちまうんで湯が早く抜けちまっても困らア職人は、彼(あ)の娘(こ)の親父は腰が抜けてるてえから己(おら)ア可哀想でならねえ」
とシク/\泣出しました、
×「泣上戸(なきじょうご)だな、泣きなさんなよ、涙を零(こぼ)して見っともねえ鬼の眼に涙だ」
△「鬼でも蛇(じゃ)でも構ア事アねえ、余(あんま)り口惜(くや)しいから云うんだ」
×「おい、止せてえ事よ」
話をして居ますると衝立(ついたて)の陰(かげ)からずいと出た武家(さむらい)は黒無地の羽織、四分一拵(しぶいちごしら)えの大小、胸高(むなだか)に帯を締めて品格(ひん)の好(い)い男、年頃は廿七八でもありましょう、色白で眉毛の濃い口許(くちもと)に愛敬の有る人物が、
武家「是は何うも大分(だいぶ)機嫌だのう」
△「えへゝゝ是は殿様………御免なさい、隣席(となり)にお在(い)でとも存じやせんで」
武「いや衝立の陰で先刻(さっき)から一盃やって居た、職人のお前達の話は又別段で」
△「えへゝゝ旨く云ってらっしゃるね」
×「殿様御免なすってから大きな声をして、此奴(こいつ)ア少し喰(くら)い酔ってるもんですから詰らん事を云って、何卒(どうぞ)お構いなく彼方(あちら)へお出でなすって」
武家「あはゝゝ馳走になろう、合(あい)をしよう、もう一銚子附けさせろ、身共も一盃馳走に成ろう」
△「えへゝゝ旨く云ってらア、殿様は如才(じょさい)ねえや、巧(うめ)えや」
武「酌を仕様」
×「いえ殿様、此方(こっち)でします」
武「いや酌をしよう」
△「えへゝゝ是は有難うございます、何(いず)れお浮れでございますな、昨夜(ゆうべ)廓内(なか)へ行って」
武「うむ、廓内へ行って来た」
△「えへゝゝ殿様なんざア男が好(よ)くって美(い)い扮装(なり)だからもてやすが、私(わっち)どもはもてた事はなく振られてばかり居ても行き度(た)えから別段で」
武「何うだ猪口(ちょく)を貰おう」
△「御免なせえまし、水を貰いましょう、おい女中茶漬茶碗へ水をよう、なッてえ、宜いから黙って居ろい」
武「水などで灌(そゝ)いでは水臭い、其んな事をせんでも宜しい」
×「兄い止しなよ」
△「宜いよ黙って居ろえ」
武「是は何うも、酒の嗜(す)きな者は妙なものだ、が今聞いて居たが、何か其の京橋辺(へん)の数寄屋河岸の柳番屋の陰で金子(きんす)を貰った娘(むすめ)が有るとか云う話だが、それは何う云う訳だ」
と云われた時は両人は驚きわな/\しながら。
△「へえ」
×「だから止しねえと云ったんだ大きな声をしてパッパと云うから宜(い)けないんだ」
武「何も心配な事はない何かえ夫(そ)れは」
△「へえ………誠にどうも、喰(くれ)え酔って居まして大きに不調法を致しました、真平(まっぴら)御免なさいまし」
武「いや不調法な事は些(ちっ)ともない、柳番屋の処へ袖乞いに出る娘に武家(さむらい)が金子を遣ったんだな」
△「へえ、何うも明瞭(はっき)り分りませんので」
武「いや分らん事はない、今お前が話をしたではないか、何(なん)と云う者の娘だえ夫(そ)れア」
×「殿様此者(これ)は喰(くら)い酔って居まして唯詰らねえことを云ってたんで出鱈まえで、唯茫然(ぼんやり)、変な話なんで、嘘を云ったんで」
武「なに嘘のことはない、何も心配になる事はないから、私(わし)に聞かすれば宜いのだ、京橋の何処(どこ)の者だえ……」
△「へえ」
武「云わんか、いま貴様が云った事は衝立の蔭で聞いて居ったが、少し調べる事が有るから聞くのだ」
×「だから己が先刻(さっき)から、斯(こ)う云うことを云って係合に成ったものが有るから大きな声をして云うなと云うのだ」
△「本当に殿様ア……私(わっち)ア明瞭り知らないんで」
武「知らんたって只今云ったじゃアないか、何(なん)とか娘の名前まで云ったぞ」
×「へえ……」
武「云わんか、云わんと云えば免(ゆる)さんよ、隠立てを致せば捨置かれんから両人共近所に自身番が有ろうから夫れへ連れて行(ゆ)く」
×「真平御免なさい」
△「何うぞ真平御免を」
武「謝罪(あやま)らんでも宜い、貴様達の罪じゃアない、云いさえすればよろしいのだ」
×「へえ、京橋……鍛冶町」
武「うむ、京橋鍛冶町、少し待って呉れ」
と腰から矢立を出し懐中から小菊を出(いだ)して、
武「京橋鍛冶町で、何(なん)と云う者の娘だえ」
「孫右衞門娘で筆でございます」
武「孫右衞門の娘の筆か、此の月の幾日(いくか)の晩だ、うむ、成程六日の晩数寄屋河岸の柳番屋の蔭に於いて金子を貰ったのか、其の金子は幾ら有った」
△「何だか其処(そこ)の処は明瞭(はっき)り分りません」
武「夫(それ)を何者が盗んだと云ったな」
△「へえ、それは五斗兵衞市の家(うち)の居候で勘次てえ奴が」
武「五斗兵衞市てえのは名か、可笑しいな、其の家(いえ)の食客(しょっかく)に居るものだな」
△「いえ、なに居候で」
武「だからよ、勘次と云う者が盗み取ってそれが露見をして目下其の娘は牢に居るんだな」
△「へえ牢に這入っちまいました」
武「それは可哀想な事で、町役人は何と云う」
△「町役人と云うと何(ど)う云う事で」
武「いえさ家主(いえぬし)だよ」
×「家主と云うのは何んで」
武「其の長屋の差配を致す者よ」
△「大屋でげす」
武「大屋てえ事はないが、まア大屋でも宜(よ)いその大屋は」
△「へえ、と藤兵衞」
武「藤兵衞か、宜しい、貴様の名を一寸書いて置こう、貴様は何と云う名だ」
△「へえ御免なすって」
武「謝罪(あやま)らんでも宜(い)い」
×「えゝ殿様、此者(これ)は全く喰(くら)い酔って迂濶(うっか)り云ったんで」
武「喰い酔うも何もない名前を云え、云わんか」
△「へえ大変だな、熊ッ子てえます」
武「熊ッ子と云う名前はない、熊吉か熊五郎か何うだ」
×「へえ慥(たし)か熊五郎」
武「慥か熊五郎と云う奴があるか、貴様は何んと云う名だ」
×「私(わっち)も……私(わっち)は何も云やアしません」
武「何も云わなくとも連れだから云えよ」
×「何うぞ御免なすって」
武「ゆるせと申したって連れだから貴様の名も書かなければならんよ」
×「へえ……私(わっち)ア、ガチャ留(とめ)と申します」
武「ガチャ留と云う名が有るか」
留「何(なん)だか知りませんが子供の時分から、ガチャ留ッてえます」
武「留吉か留次郎か」
留「其処(そこ)の処は私(わっち)どもの事ですからガチャ留でお負けなすって」
武「負けると云う事はない、留吉か全く」
留「えへゝゝ忘れました」
武「自分の名をわすれる奴があるか貴様達は最(も)う宜しい」
両人「有難う存じます」
と両人は直(すぐ)に駈出して小田原迄逃げたと云うが、其様(そんな)に逃げなくっても宜しい。此の武家(ぶけ)は莞爾(にっこり)笑って直其の足で京橋鍛冶町へ参りました。又、親父の孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]は只おろ/\泣いてばかり居ます、家主も誠に気の毒で間(ま)が有れば時々見舞いに来ます。
家「はい御免よ孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]さんお前然(そ)う泣いてばかり居ちゃアいけないよ、其様(そんな)にくよ/\したって仕方がない、是はお前何うもその、悪い事は悪いこと、善悪(よしあし)共にお上(かみ)は明らかにお調べなさる処だから、全体お前大金を貰った時にねえ、ちょいと私にでも話をすれば直(すぐ)に訴えて仕舞えば何も仔細ないのだ、彼(あ)の娘(こ)は他人の物を取る様な娘じゃアないが、私の長家から縄付きに成って引かれる者が有っては家主の恥辱(はじ)だが、なに彼の娘はお前を大切にして親孝行な子だから、何(ど)んなそれア穏密方(おんみつがた)が来て調べたって長い間のお前の煩いを介抱した様子から皆(みんな)世間で知って居るから早晩(いまに)彼の子も罪が免(ゆ)りて帰れようから然う泣いてばかり居ちゃアいけない、身体に障ると悪いから余(あんま)り心配をせぬがいゝ」
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