四[#「四」は底本では「三」と誤記]
お筆は漸々(よう/\)顔を上げまして、
筆「御親切は有難う存じますが、是には深い訳がございまして、親共に顔向の出来ない事で、何卒(どうぞ)お見逃し下さい、親共は堅い気性でございまして、此の儘帰れば手打に相成ります、それも厭(いと)いませんが却(かえ)って憖(なまじ)い立腹をさせるよりは今一思(ひとおも)いに死んだ方が宜いと存じますから……」
孫「そんな解らん事を云って困るよ、お父(とっ)さんが手打にするというのは夫(それ)はほんの嚇(おど)しで、能く然(そ)んな事をいう者だが、私共のような者でも一人娘が時々心得違いの事でもあると、只(たった)一人の娘でも叩き出すというが、お侍が手打にするというのと同じ事で、決して本当に手打にしたり、叩き出したり出来る訳の者ではない……これ時藏(ときぞう)[#「時藏(ときぞう)」は底本では「由藏(よしぞう)」と誤記]は帰ったか何うも知れないか」
時「へえ、王子(あちら)の方でも、何うも彼方(あちら)へ入(いら)っしゃいませんそうで彼方でもお驚きで、何(いず)れ此方(こちら)からお訪ね申すという事で」
孫「夫は困ったなア、あの瀧二郎(たきじろう)は帰って来たか」
瀧「へえ、只今帰りました」
孫「何をマゴ/\して居るのだ早く此方(こっち)へ来て知らせて呉れないでは困るなア、何うだのう、知れないか」
瀧「へえ、伊皿子台(いさらこだい)の方へもお出でがないって、何うもお驚きで誠に飛んだ事でお仕合せな事でと斯(こ)う申しました」
孫「何がお仕合せだ、何(なん)だか解らん口上ばかり云って……まアも一度本気になって迷児(まいご)を尋ねに出て貰いたい」
瀧「迷児どころではない、もう十八になった娘でございますから迷親(まいおや)で」
孫「誰だ、そんな悪口(わるくち)をいうのは」
御主人は立腹致す、大騒ぎで、是から八方へ手を分けて尋ねまする中(うち)に、築地の方へ流れて来た死骸は是々だというから直(すぐ)に行って見ると全く娘の死骸でございますから、直に検視を願って漸く家(うち)へ引取って、野辺の送りを致すやら実に転覆(ひっくりかえ)るような騒ぎ、それで段々延々(のび/\)になって彼(か)の娘の事をきく間(ま)もないほどの実に一通りならん愁傷で、先(まず)初七日(しょなぬか)の寺詣りも済みましたが、娘は駈出そうと思っても人が附いて居るから、又駈出して愁傷の処を騒がせて厄介を掛けては気の毒と思ったから、奥の狭い処へ這入って只此処(こゝ)の親達の心を察しは[#「察しは」は「察しては」の誤記か]泣き、自分の親も嘸(さぞ)案じて居るだろうと心配しては泣き、見るにつけ聞くにつけても涙ばかり、漸く二七日(にしちにち)も済みましたから、
孫「どうも大きに御苦労だった、今度は変死の事だから寺詣りも何も派手には行(ゆ)かず、碌々他に何も致さんが、何(いず)れ仏の為には功徳をする積りだ……あのなに何(なん)とか云った、あの娘(こ)の名よ」
妻「まだ申しませんよ」
孫「困るのう、何とか云って呉れゝば宜(い)いに、何うしても云わんかえ、是へ呼んでおくれ、婆さんお前に昨夜(ゆうべ)云った事を得心するだろうか、まア姉さん此処(こゝ)へお出で、泣かなくっても宜(よ)い、実に私が泣きたい位だ、少し察しておくれ」
筆「はい嘸段々お淋(さむ)しゅうございましょう」
孫「いやもう只(たっ)た一人の娘を失(なく)してまるきり暗夜(やみ)になったようで、お前さんを見ると思い出します、然(しか)しまア私の娘の方は事が分って、斯(こ)うやって二七日(ふたなぬか)も済ましたが、遂々(つい/\)娘の事ばかり思って居て、お前様(さん)の事を聞くのも段々延びたが、何うかお前さんの身の上を打明けて呉れないと困る、ねえ二十日も三十日も人の娘を只預かってお前様の親御に申訳ない、只駈出した訳でない、何(いず)れ仔細あって出た事であろうから親御の心配と云う者は一方ならん事で、お前が明らさまに云って呉れないと何うも困るねえ」
筆「はい」
孫「何卒(どうぞ)云って下さい、ねえ私も斯(こ)うやって愁傷の中だから心配を掛けて下さるな」
妻「本当に旦那の云う通り、して若い中(うち)から余り丈夫でないから今年五十四になって、殊におとみが彼(あ)アいう訳になってから、なお/\ヨボ/\して来てねえ、然(そ)うしてお前のお父(とっ)さんの処へ送り届けなければならないと心配して居ますが、只(たっ)た一人の娘を失(なく)したから何(なん)ならお前さんを家(うち)の娘に貰いたい位で、何しろ話して下さいな」
とだん/\親切に夫婦が尋ねますからお筆は、胸に迫り、繻絆(じゅばん)の袖で涙を拭きながら、
筆「はい、はい、誠に御心配を掛けて済みません、それでは申上げますが私(わたくし)は築地小田原町に居りまする下河原清左衞門と申す浪人ものゝ娘でございます」
孫「なに下河原、フム御浪人だね、築地小田原町で……お母(っか)さんもお達者かえ」
筆「いえ、私(わたくし)が四つの時に亡なりまして、親父の丹精で是までに成長致しました」
孫「おゝそれでは尚更案じて居ましょう、早くお知らせ申さなければいけない、これよ時藏や」
時「へえ」
孫「えー築地小田原町で何(なん)とか云ったのう、うむ下河原清左衞門と云うお方だ、其の娘でな……お名前は何とお云いだね」
筆「ふでと申します」
孫「まアおふでさんかえ……お前一つ下河原さんへ行って、実はお娘子(むすめご)のおふでさんが永代橋から身を投げた処を助けた処が、何(ど)うしても名前を云わないでお届け申す事が出来ず、其の中(うち)私(わたくし)の方でも愁傷の中(なか)で取紛れて、存じながらお訪ね申さなかったが、段々とお尋ね申した末に、漸くお名前も知れたから早速お知らせ申すが、御無事でお在(いで)だから御心配をなさるな、明日(みょうにち)此方(こちら)からお娘子を連れて参るから前以てお知らせ申すと早く行って来な、あゝ申しお家主の名は何(なん)と申しますえ」
筆「はい金兵衞さんと申します」
孫「町役人(ちょうやくにん)は金兵衞様(さん)というのだよ、大急ぎでなア」
時「へえー」
奉公人は駈出して参りましたが暫らく経って夜(よ)に入(い)って帰って参りました。
時「へえ只今行って参りました」
孫「あゝ御苦労だった、分ったかえ」
時「へえ解りました」
孫「親御様(さん)も嘸(さぞ)案じて居たろう」
時「それが其の親御がお娘子を捜しに出たきり行方が知れませんというので」
妻「此の姉さんのお父(とっ)さんが」
時「へえ、家主(おおや)さんが大変に案じてお在(い)でゞ、其のお父さんが、只(たっ)た一人の娘を失(なく)し今まで知れないのは全く死んだに違いない、最早楽しみもないから頭を剃って廻国(かいこく)するという置手紙を残して居なくなって仕舞い、諸道具も置形見にして行きましたと云って家主様(おおやさん)も大変心配して居た処へ、此方(こちら)から知らせたので夫婦共に大喜びで、どうも有難い、決してお出でには及びません、私(わたくし)の方から引取に出でます、今晩遅くとも上(あが)りますという事でございます」
孫「それは/\親切の家主(いえぬし)さんだ」
筆「えゝ夫(そ)れではお父様(とっさま)は剃髪して廻国にでもお出(いで)になりましたか」
と泣倒れます。
孫「それだから早くお前さんが然(そ)う云えば宜(い)いのに、今になって然(そ)んな事を云っても仕方がない、家主が引取に来ると云うから、御酒(ごしゅ)の一盞(ひとつ)も上げなければならないから其の支度をして置きなさい、肴も何か好(よ)い物を取って置くが宜(よ)い…、なに然う泣いて居てはいけない、お父様(とっさん)が頭を剃って廻国をすると云って行方知れずになり、お母様(っかさん)も親類もなくお前さん一人に成って、他に兄弟衆もなく心細くもあろうから、私の処へ居て、是も何(なん)ぞの因縁と思って家(うち)の娘に成って下さい、まア然んな不自由もさせないから、お前を貰って堅い養子を貰いたいが、私の子に成って何うか死水(しにみず)とって貰いたい、築地のお家主にも話を仕ようが、どうか得心して下さいな」
妻「私(わたくし)も然う思って居ますよ、ねえ姉さん此の儘にずるずるベッタリ家(うち)の娘に成ってお呉れなら養子をして安心を致しますから、何卒(どうぞ)然うして貰い度(と)うございます」
孫「まア女は女どしだからお前の処へ連れて行って緩(ゆっく)り話をしなさい」
妻「はい、さアお前此方(こちら)へお出で」
と孫右衞門の妻が是から次の間へ連れて行って種々(いろ/\)娘に迫るから義理にも厭(い)やとは言われません。
筆「はい、いずれ考えまして御挨拶を申しましょう」
と云う内に参りましたのは築地の家主金兵衞で、
家「御免下さい」
奉公人「誰方(どなた)だえ」
家「築地小田原町の町役人山田金兵衞と申す者で」
奉「入(いら)っしゃいまし、此方(こちら)へお上(あが)りなすって何うか、旦那小田原町のお家主金兵衞様(さん)が入っしゃいました」
孫「おゝ夫(それ)はまア、此方へどうか」
家「へい始めまして、えゝ家主山田金兵衞で至って不調法者で不思議な御縁でお目に掛ります、幾久しくお心安く願います」
孫「はい、始めまして米倉孫右衞門と申す疎忽者(そこつもの)でお心安う願います、これ布団を出しな、烟草盆にお茶を早く…さア何卒(どうか)此方へ/\」
金「もうお構い下さいますな、誠に此の度(たび)はどうも御親切に有難う存じます、私(わたくし)も心配致して居りましたが店子(たなこ)の者で親子二人暮して居りますが、其の娘が至って孝行者で寝る目も寝ないで孝行をして居るを気の毒に存じ他の店子と違って私も丹精を致して居りました処でまア詰らん事の災難で……全く其のお筆と云う者が桂庵の婆(ばゞア)の巾着を盗(と)った訳では有りません、実はその婆が妾奉公に世話をしてやると云ったのを、お筆の親が侍の事で物堅いから、怪(け)しからん不礼(ぶれい)な婆だと悪口(あっこう)を申して帰しましたのを遺恨に思って、企(たく)んでされたと云う事も直(すぐ)に分って、決して人様の物を取る様な娘ではないので誠にどうも飛んだ災難で、お筆は一途(いちず)に残念に思いました処から、駈出して入水致したを、お助け下さいました趣(おもむ)きで有難う存じます、それに亦(また)お宅の嬢様も御逝去(おなく)なりと承りましたが嘸(さぞ)御愁傷で、七日(なぬか)の朝築地の波除杭(なみよけぐい)の処へ土左衛門が揚ったと云うので、私(わたし)も思わずお筆の死骸と存じまして跣足(はだし)で箸と茶碗を持って駈出す様な事で、行って見ると小紋の紋附に紫繻子の帯を締めまして赤い切(きれ)を頭へ掛けて居りまして、お筆ではないかと存じましたが、それが此方のお嬢様の御死骸と只今承る様な事で」
孫「成程それは/\誠にどうも」
金「えゝ其のお筆が居りますなれば私(わたくし)が逢い度(た)いもので、是へ何卒(なにとぞ)お呼びなすって」
孫「誠に間が悪がって、貴方にお目には掛れないと云って居ります」
家「なに然(そ)んな事は有りません、これお筆さんや何(なん)でお前どうも困るじゃアないか」
孫「まア其様(そんな)に大きな声をなすっては却っていけません、これ婆ア此処(こゝ)へ連れてお出で/\」
妻「さア此処へお出で」
と孫右衞門の妻に連れられてお筆は面目なげに泣きながら出て参りまして、顔も上げ得ませんで泣伏して居ります。
家「お前まア、何(ど)ういう訳でそんな軽率(かるはずみ)な事をしたのだえ、無分別の事ではないかえ、私に言い悪(にく)ければ家内にでも云って呉れゝば此様(こん)な事にはならないものを、親父さんは一人の娘が入水を致したからは此の世に何一つ楽(たのし)みはないと置手紙をして世帯道具も其の儘置去りにして行方知れず、だが又帰る事もありましょうから親御の帰るまで私の家(うち)へお帰り、面目ない事は少しもありませんよ、何時迄も此方(こちら)にお世話になって居ては済まん事で、さア、私(わし)と一緒に帰んなさい」
筆「はい」
孫「あゝ申し、就きまして貴方に折入ってお願(ねがい)がございますが、此のお筆さんは今は親の無い身の上で何処(どこ)へ参ると云う見当(あて)もない事で、親御の御得心の無い者を私の娘に貰い度(た)いとも申されませんが、お前様(さん)が御承知下されば何(ど)うも此の娘(こ)を私の娘(むすめ)にし度いと思いますが、是が深い縁があって助けたのだと家内も申して居りますので、私は他に子供がないから、何卒(どうか)此の娘(こ)を貰って養子を仕様と云う積りで、親の承知の無い者をお貰い申すと云う訳ではないが、貴方から下さる様に茲(こゝ)は貴方が親御に成って下されば宜(よ)いが、手前(てまい)此の娘子(むすめご)に決して不自由はさせません積りで、へい奉公人も大勢使って居りますが其の中に好(よ)い心掛の者がありますから是を養子に貰おうと存じて居りました処、一人の娘が彼(あ)アいう事に成りましたので此の娘(こ)を助けて連れて帰りましたが、僅(わずか)内に居ります間も誠に親切にして真(まこと)の親子の様にして呉れまして、何(なん)だか可愛(かわゆく)てなりませんで、是も何(なん)ぞの縁でございましょうから、どうか貴方が親御に成って此の娘を下さる様な訳には行(ゆ)きませんか」
家「成程至極御尤(ごもっとも)の儀ではございますが、別段私(わたくし)が其の親から頼みを受けたということもなし、世帯道具を残らず置いて娘の行方を尋ねに参った事で又帰る様な事に成りましょうから、何(ど)うも私(わたし)が得心の上で差上げる訳にも成りません、手前の方でも又少し夫(それ)はねえ、もしお筆さん、夫もあるものだから直(すぐ)に此方(こちら)の娘と云う訳にも行(ゆ)きますまいと存じます、是はどうも然(そ)う参りませんなア」
孫「左様ではござりましょうが、ねえお筆さん私が折入ってお願だがどうかね、是も何かの約束と思ってまア、私の娘に成って下さいなね、夫婦とも子のない身の上でどうか願いたいが、のう婆さん」
妻「どうかねえ貴方が御得心で親御の行方が分る迄も此方(こちら)へ居て貰うよう願い度(た)いものでね」
と夫婦が種々(いろ/\)に折入って頼みますが、金兵衞は其の実はお筆を連れて帰り、自分の甥の嫁に致したい心底ですから困りまして、
金「でもございましょうが何(なん)でございます、其の事に付いて種々訳のある事で、私も一通りならん心配を致しましたから一旦連れて帰って家内に面会させまして其の後(のち)の事に致しましょう」
孫「夫は至極御尤の事でございます、が何(ど)うかまア御無理だが是非願い度い、せめて親御のお帰り迄お預け置き下さい、此の子も御縁あって私の処へお出でに成ったのですから親父さんがお帰りになりましてから其の時お帰し申しても又御承知の上で此方(こちら)へ更(あらた)めて戴くと云う様な事に致し度いもので、どうかなア其処(そこ)は貴方が御承知を願い度いものでございます」
金「その一体其の何(どう)も私共が兎や角と云う訳ではないが、私の店子でございまして店子と申せば子も同様の者でございますから実は其の私の方で引取るのが当然の訳で清左衞門の文面の様子でも帰る様な事で見れば、又帰りました上で清左衞門へ話も致しますが今晩の処は連れて帰ります」
孫「さようでは有りましょうが兎も角親御のお帰りまで貴方御得心でお預け下さいます様に願い度いもので」
金「夫(それ)は何(ど)うもねえ、お筆さん其処(そこ)は当人の了簡も聞かなければなりませんが、私が兎や角拒む訳はないが、へえお筆さん、どうしたもので」
孫「もう夫は家内と確(しっ)かり相談して見ると親兄弟もない身の上だから然(そ)う云う事にして呉れゝば私も命を助けられた恩返しに孝行を致したいと此の娘(こ)も申します」
金「それは然うあるべき訳でございますけれども、私も随分お筆様(さん)を丹精致した事は中/\貧苦のなに貧乏と申す訳ではありませんが、まア困って居る処を私が余程肩を入れて内職を教えたり種々(いろ/\)にして、まア斯(こ)う云う訳に成ったので、どうも私一人が得心する訳にも行(い)かんからお筆様、お前が是を確(しっか)りして此の挨拶をしてお呉れ、私の家内にも一旦相談して見なければならないがお前さんはまアどう云う心持だえ」
筆「誠にもう何(なん)とも申訳はございません、貴方のお家(うち)へも済みませんが、此方様(こなたさま)でも命をお助け下さったのみならず種々(しゅ/″\)御心配を掛け、殊には私と同じ様なお嬢様(さん)も入水を成さって相果て、此方(こちら)の御両親のお心持をお察し申しますと誠にお気の毒様で、どうも是程に不束(ふつゝか)な私を、あゝ仰しゃって下さりますものを無にも致されませんから、それに大恩のあるお両人(ふたり)様でございますから親父の帰る迄此方様(こちらさま)の御厄介に成って私も居ります積りでござりますから左様思召して下されまし、何(いず)れ其の中(うち)御家内様へお目に掛ってお詫を致しますから、どうか貴方から宜しゅう仰しゃって下さいまし」
と涙を拭きながら申しますから
金「どうも然(そ)う云う訳ですかなア、じゃア、まアお暇(いとま)致しましょう」
と金兵衞もお筆が申すので仕様がないから、ブツ/\云いながら立帰りました。是が縁で此のお筆が此の家(いえ)の娘になりましたが、誠に不幸の人で再び大難に遇(あ)う条(くだり)一寸(ちょっと)一息つきまして。
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