二
今日(こんにち)の処は、長谷川町の番人喜助の続きとお話が二途(ふたみち)に分れますが、後(のち)に一つ道に成る其の前文でありますからお聴き悪(にく)い事でございましょう、扨(さて)築地(つきじ)の本郷町(ほんごうちょう)と小田原町(おだわらちょう)、柳原町(やなぎはらちょう)と町内が繋(つな)がって居りますが、小田原町の家主(やぬし)に金兵衞と申す者がございまして、其の頃は家号(いえな)を申して近江屋(おうみや)の金兵衞と云う処から近金(ちかきん)と云われます、年齢(とし)は四十二に成りますが、真実な人で、女房をお蓮(れん)と云って三十八に成ります、家主(いえぬし)の内儀(かみ)さんは随分権式(けんしき)ぶったものでございますが至って気さくなお喋りのお内儀さんで、夫婦寄ると子が無いので其の噂ばかりして居ります。
蓮「旦那え/\、もう何(ど)うも何(な)んですね、夫婦の中に子の無い位心細いものは無いと思って居ます、お互に年齢(とし)を取って、来年はお前さんは四十三だよ」
金「年齢(とし)の事を云うと心細くなるから其んな事を云うな」
蓮「だってさ、夫婦養子をしても気心の知れない者に気兼(きがね)をするのも厭(いや)だし、五人組の安兵衞(やすべえ)さんなどは、無い子では泣きを見ないから寧(いっ)そ子の無い方が宜(い)いと云う側から子が出来て、今度ので十二人だてえます」
金「あの人は子福者(こぶくしゃ)だのう」
蓮「其の癖お内儀さんは痩ぎすで子は無さそうだのに」
金「お前(めえ)などはポッチャリ肥満(ふと)ってゝお尻も大きいから子は出来そうだが」
蓮「授かりものですね、子がなければ夫婦養子を仕なければ成りませんが、夫婦養子と云うよりも私の考えじゃア一人娘を貰って置いて、お前様(さん)には甥(おい)だが竹次郎(たけじろう)を宅(うち)へ入れる積りですが、当人が厭だと云うかも知れませんが、お前様の血統(ちすじ)だから是非此の家(や)を継(つが)せるより仕方は無いが、嫁が悪いといけないよ、それが本当の子で無いから私が心細いよ、お前さんには身内だから竹は宜(い)いが嫁の根性が悪いと竹さんまで嫁に捲(まか)れて仕舞って、訝(おか)しな了簡に成って親不孝をされた日にア大変だよ、お前さんが長生きをしてお呉んなされば宜いが若(も)し眼でも眠った後(あと)は大変だよ、だから嫁の宜いのが欲しいね」
金「欲しいたって無いよ、縁ずくだから」
蓮「裏に居る売卜者(うらないしゃ)の浪人の娘は好(い)い器量だね」
金「うむ、彼(あれ)は何(ど)うも無いのう、品格と云い、親孝行でな、彼(あ)の娘(こ)に味噌漉(みそこし)を提げさせるのは惜しいものだ、お父(とっ)さんはヨボ/\してえるがまだ其んなに取る年でもないようだが、寒さ橋(ばし)の側へ占いに出るのだが可哀想だのう」
蓮「あの娘(こ)を貰い度(た)いもんだね」
金「貰い度いたって先方(むこう)も一人娘だから」
蓮「其処(そこ)を工夫してさ」
金「工夫たって一人子(ひとりっこ)だから呉れないよ」
蓮「私に宜(い)い工夫が有るんです、先方(さき)は大変に困って居る様子だから、可愛がって店賃(たなちん)を負けておやんなさいよ」
金「店賃を負けるてえ訳にはいかない、地主へ遣(や)らなくっちゃアならないから」
蓮「成る丈(た)け催促をしないようにおしなさい」
金「催促するのも、少しは遠慮をして居るのよ」
蓮「彼(あ)んな親孝行な娘(こ)は有りませんね、浪人ぐるみ引取っても構やアしない」
金「親付きでか」
蓮「親付きだって、あの浪人者なら宜いよ、あの浪人者を呼んで、お前さんね、親一人子一人だが、良い子を持ってお仕合せだ、どうせ宅(うち)へ養子をするのだが、甥の竹と云う者が奉公先から下(さが)って来れば宅の養子に成る身の上だが、彼(あれ)に添わしたいように思うが、お前様(さん)も一人子(ひとりご)だから他(ほか)へ呉れる理由(わけ)にも行(ゆ)くまいから、一緒こたにお成んなさいと云って御覧なさい」
金「馬鹿ア云え、そんな事が云えるものか、あの浪人は堅い男だ、毎朝板の間へ手を突いて、お早うと丁寧に厳格(こつ/\)した人だが、そんな篦棒(べらぼう)な事を頭を禿(はげ)らかして云えるものか」
蓮「じゃア斯(こ)う仕ましょう宅(うち)へみいちゃんだのおしげさんだのが綿(わた)摘みの稽古に来ますから、あの娘(こ)にも綿を摘む内職を成さいと云って呼寄せ様じゃアありませんか、幸いすうちゃんが休んで桶が明いてるから」
金「あゝ云う遠慮深い人だから身装(なり)があの通りだからって寄越すめえ」
蓮「それは此方(こちら)で貸して手間で差引くといって悉皆(そっく)り私の物を貸して遣って習いに来ればもう占めたもので、内職が出来ても出来なくても、あの娘(こ)のは光沢(つや)が好(よ)くって評判が宜(い)い、是丈(これだけ)揚(あが)ったって手習丈の物はなくても宜いから無闇に手間賃を出してお遣んなさいよ」
金「夫(それ)は大変な散財だな」
蓮「夫から段々覚えて来たから前貸だと気を附けてお金子(かね)を貸してやって、ホイ/\云って子の様に可愛がって遣ってお父(とっ)さんが留守の内は私の側に置いて娘(こ)のようにして可愛がって、段々馴染(なじみ)が深く成るうち一年が二年と年月(としつき)がたつ内に、三年経つと竹が年期が明いて来ますから、丁度宜いねえ二人差向いに成ったら気を利かしてお外(はず)しなさいよ、私はお参りに行(ゆ)くよ、二人置いて行(ゆ)けば、冬なら炬燵(こたつ)が有るから当人同志で旨く成って仕舞い、当人が来たいと云えば宜いじゃアないか」
金「夫じゃア無理無体にか、併(しか)しあの浪人は堅いから寄越すか知らん、おゝ噂をすれば影だ、ピー/\風でさむさ橋に出て居ても、見て貰い人(て)もないかしてもう帰って来た、帰り際に早いから屹度(きっと)寄るぜ」
浪「えゝ御免を」
金「はい」
浪「留守中誠に有難う存じました、えゝ只今帰りました、清左衞門で」
金「まア一寸お上(あが)んなさいよ」
蓮「ちょいとお這入んなさい」
浪「はい御免を、誠に何(ど)うも両三日(さんにち)は引続いてお寒い事で、併しながら何日(いつ)も御壮健(おたっしゃ)な事で」
金「其んな堅い事を云わないでも宜(よろ)しい、お茶を煎(い)れて羊羹(ようかん)でも切んなさい、なに無く成ったえ、何か切んなよ」
蓮「切んなって切るものは無いよ」
金「じゃア最中(もなか)でも出しなよ」
浪「えゝ御内室(ごないしつ)様私(わたくし)が出ますると娘一人を残しまして一日留守に致し何かと御厄介勝で、夫(それ)にお隣の麹屋のお内儀(かみ)さんが誠に御真実になすって一通りならんお目をお懸け下され誠に有難い事でございます、お礼にも都度(つど)/\上(あが)り度(と)う存じますが何分貧乏暇なしで遂々(つい/\)御無沙汰勝に相成って済みません」
金「其んな堅い事には及びません、裏の方の屋根が少し損じたから其の内に修繕(なお)させます、お前さんは能く毎日寒さ橋へお出(で)なさる、此の寒いのに名さえ寒さ橋てえんだから嘸(さ)ぞお寒かろう、ピュー/\風で、貴公(あなた)はお幾歳(いくつ)です」
清「いえ何(ど)うも誠に多病の人間で、大きに病魔(やまい)の為(た)めに老けて見られますんですが、未だ四十六歳で」
金「御壮(ごさか)んですな」
浪「いえ甚(ひど)く弱むしに成りまして困ります、貴方(あなた)は何日(いつ)も御壮健ですな」
金「マお茶をお喫(あが)んなさい」
清「是は有難う存じます、頂戴致します、結構なお茶で、手前は茶が嗜(すき)で素(もと)より酒が嫌いだから、好(よ)い菓子も買えません、斯(か)くの如く困窮零落しては菓子も喫(た)べられません、斯様(かよう)な結構なお茶、結構なお菓子を、イエ/\是は戴きますまい是は娘に持って行って遣(つか)わしましょう」
金「今お前様(さん)処(とこ)のお嬢さんのお噂をして居たのだが、実に私は鼻が高い、私の長屋にあゝ云う親孝行の娘が居れば私は何(ど)の位鼻が高いか知れない、お前さんはお仕合せだと云ってお噂ばかりして居ます、お前さんが留守でも隙間(ひま)なく働いて、長屋の評判も好(よ)し、ちょいと宅(うち)へ来ても水を汲みましょうか、買い物はありませんかといって気を附けてお呉れで、御品格と云い、御器量と云い実に申し分が有りませんね」
清「イエ何う致しまして誠に不束者(ふつゝかもの)で、屋敷育ちで頓(とん)と町家(まちや)の住居(すまい)を致した事がないので様子合(あい)を一向に心得ませんから皆様に不行届勝ちで、夫(それ)に一体無口で」
金「イエ余りペラ/\喋るのは宜(い)けません、年の行(ゆ)かん娘などがお世辞を云うのはいかんもので、今ね其の家内がお噂をして居ましたので、お宅で何か内職でもおさせですかえ」
清「イエ恥入ります、碌(ろく)な事も出来ませんが少々ばかり鼻緒を縫ったり致して居ります」
金「鼻緒も宜(よ)うございましょうが、家内が綿を紡(つ)むことを覚えて近所の娘子(むすめこ)に教えるので、惠比壽屋(えびすや)だの、布袋屋(ほていや)だの、通り四丁目の棒大(ぼうだい)や何かから頼まれましてお店(たな)の仕事ばかり為(し)ますが余程宜(い)い手間で、立派な男の手間位には成ります、処が此の節おすみと云う娘(こ)が休んでて桶が明いてますから、教えて上げ度(た)いが、甚(はなは)だ失礼で何うしたら宜かろうなんて、家内(これ)が云いますから、なに失礼な訳は無い、覚えてお父(とっ)さんのお手助けに成れば結構だ、鼻緒を縫ってお在(い)でのようだが、夫(それ)も時々休みが有るようだ、夫から見れば是は毎日の仕事だから少しはお父さんのお手助けに成るかも知れんと考えたんで」
清「夫は御親切に有難い事で、実は娘も好(よ)い内職を皆さんが御当家へ来て成さるが、何うかして私(わたくし)もあゝいう内職を覚え度(た)いと申して居りますが、何分立派なお嬢さん方の入らっしゃる中へ」
蓮「いえそんな事を心配してはいけません、尤(もっと)も宅(うち)へ参る娘達(むすめたち)は可なりの処の娘(こ)ですから其ん中へ這入るのだからとお思いなさるのは御尤ですが、私の着物が明いてますから、碌なのじゃアありません私が若い時分に着たので、今は入りませんから上げちまっても宜(よ)いが、失礼ですからお貸し申します、其の内に手間が取れゝば又拵(こしら)えて上げるように為(し)ますが、是は若い時分に締めた帯で、宅には娘はなし、親類にも女の児(こ)がないから取って置いても仕様が有りませんから」
金「何か上げなよ、失礼だが半纒(はんてん)を、誠に失礼で御立腹か知らんが襦袢(じゅばん)なども上げなよ」
蓮「どうぞ不用なのですから、赤いのも今は土器色(かわらけいろ)に成ったんです」
金「細帯も附けて上げなよ」
清「是は何(ど)うも恐れ入ります、残らず拝借致しても他の物と違いまして、瀬戸物や塗物は瑾(きず)を付けた位で済みますが、着類(きるい)は着れば切れるもので」
金「宜しい切れても、仕舞って置いたって折切(おりき)れます、誰(たれ)にも遣る者はなし詰らんわけだから着せて下さい、綺麗な身装(なり)をして出入(ではい)りをして下されば私も鼻が高い、今だって汚くも何(なん)ともない、私の綿入羽織が有ったろう、お前さんの身装を軽蔑(けなす)んじゃアございませんが是は古くって一旦染(そめ)たんで、一寸(ちょっと)余所(よそ)へ行(ゆ)く時に之を着て出て下さると私(わたくし)は鼻が高い、然(そ)うして姉(ねえ)さんは是非寄越して下さいよ」
清「是は何共(なんとも)何(ど)うも御親切千万有難う、親子の者が窮して居りまするのを蔭ながら御心配下され、着物がなければ貸して遣ろうと仰しゃる思召(おぼしめ)し、千万辱(かたじけな)い事で、御親切は無にいたしません、然(しか)らば拝借を願います」
蓮「姉さんを屹度(きっと)お寄越しなさいよ」
清「何(ど)のようにも是は願わなければ成りません、筆も嘸(さ)ぞ悦びましょう」
金「お筆さんと云いますか、私は始めてお名を覚えました宜しく」
清「左様なら拝借を致します」
と清左衞門悉(こと/″\)く悦んで、ニコ/\しながら家(うち)に帰って来ました、娘お筆は、寒さの取附(とっつき)だと云うにまだ綿の入った着物が思うように質受(しちうけ)が出来ず、袷(あわせ)に前掛だけで短い半纒に幅の狭い帯を締てお筆は頻(しきり)に働いて居ります。
筆「おやお帰り遊ばせ」
清「今日は風が吹くんで往来も繁くないから早く帰って来た」
筆「私がお迎いに出ようと思って居りました処で、大層にこ/\笑って在(いら)っしゃいますね」
清「お家主(いえぬし)さんが御親切に色々仰しゃって下さり、それにあのお内儀さんは綿を紡む内職が名人だそうで近所の娘達も稽古に来るからお前も遣(よこ)したら宜かろうと、色々と御親切に仰しゃって衣類まで貸して下さり、此の通り私(わし)に綿入羽織にしろと被仰(おっしゃ)ってこれを貸して下すった実に御親切な事で恐入った訳で、仇(あだ)に思っては成りませんぞ、実に仕合せな事で、何(ど)うか一生懸命に覚えて呉れるかね」
筆「お父様(とうさま)、私(わたくし)は一生懸命に神信心をして上手に成ってお父様のお手助けをいたし度(と)うございますから御心配なく、来年の夏迄には屹度(きっと)一人前に成りますから」
清「然(そ)う早くも覚えられまいが其の心得で居れば宜(よ)い」
と直(すぐ)に貰った着物を着せて礼に遣ると此方(こちら)は嫁に仕様と思うのでございますから、ちやほや致し是から綿紡みを教えまして出来ても出来なくても、あゝ能く出来た、お前のはお店(たな)の受けが好(よ)い是は光沢(つや)が別だと云うので手間を先へ貸して呉れるように致して万事に気をつけて呉れるから大仕合(おおじあわ)せで、其の内暮になると何か手伝いをして遣り度(た)いと思って居る処へ清左衞門が礼に参りました。
清「エヽ御免を蒙(こうむ)ります」
金「おやお出(いで)なさい斯(こ)うなって近々(ちか/″\)お出でになるに、然(そ)うお前さんの様に窮屈で悪固(わるがた)くっては困る」
清「何うも私は武骨者で困ります、段々とお世話様に相成り何共(なにとも)お礼の申し上げようが有りません、先達(せんだって)は又出来もせんものに、前以(まえもっ)てお給金を頂戴致し、中々今からお手間などを戴けるわけのものでは有りません」
蓮「なアにお前さん何日(いつ)でも旦那と噂をして居るの、大層お店(たな)の受けが宜(よ)い事、ちょいとお前さん早くお出しなさいよ」
金「あれはね其のどうせ来年の三月迄の手間賃で、私が上げる訳じゃアない、店(たな)から来たんだから遠慮をしてはいけない、是はね私の心許(こゝろばか)りのお歳暮でお筆さんに上げます、家内がお年玉をって、今から年玉を上げるのも可笑(おか)しいが、どうせ上げる物だからお歳暮と一緒に預かって置いて下さい」
清「是は何うも暮の二十八日にお年玉を、是は千万辱(かたじけ)ない事で」
蓮「それから正月のうちはね、女子供は皆(みんな)美(よ)い身装(なり)をして来るから、貴方もお筆さんに着せ度(た)くお思いでしょう、また追々(おい/\)春の手間で差引きますが、年頃の娘の事ですから皆の身装を見たら羨(うらやま)しくも思いなさろう、仮令(よし)其様(そん)な気がないにもせよ、お筆さんばかり悪い身装をして来る訳にもいきますまい、是は台なしに成って今は不粋(ぶいき)ですが、荒っぽい小紋が有るんです、好(い)いンじゃアないんですが、お筆さんは人柄だけに小紋の紋付はお似合いだろうと思って、仕立屋へ遣ったんではないので、家(うち)で縫ったんですよ、夫(それ)に帯は紫繻子(むらさきじゅす)が宜かろうと、斯(こ)う云う訳で、赤い物が交(まじ)って気に入らないかも知らないが、朱(しゅ)の紋縮緬(もんちりめん)と腹合せにしてほんのチョク/\着るように、此の前掛は古いのですが、二度ばかりっきゃア締めないんで、此の簪(かんざし)は私が若い時分に買ったんですが、丸髷(まるまげ)には差せないから、不粋(やぼ)なもんですが…」
金「貴方にお歳暮に羽織を上げましょう」
清「是は何うも斯うは戴けません、其んなに無闇と然(そ)う下さる訳のものではない、又人様に無闇と戴くべき道理がない、然う御贔屓下さいますと却(かえ)って褪(さ)めるもので、何うか末長く幾久しく」
金「其んな堅い事を云わずに取ってお置きなさい、只上げやアしません、後で差引きますよ」
清「こんなに何うも何共(なんとも)ハヤ千万有難う、親子の者が助かります、彼(あれ)は誠に孝行致して呉れ、親思いでワク/\致して呉れますが、才覚(はたらき)の無い親を持って不便(ふびん)とは思いながら、何一つ買って与える事も出来ませんが御当家(こちら)へ内職に上(あが)るように成ってから、結構な櫛を戴いたり、食物(たべもの)まで贈って下さり、何(なん)たる御真実の事か実に何(ど)うも此の御恩は決して忘却は致しません、千万辱ない事で有難う、折角の思召ゆえ当季拝借致しましょう」
と悦んで包みに致し小脇に抱えて宅(たく)へ帰って話すと娘は飛立つ程の嬉しさ、是から僅(わずか)な物を持って娘が礼に参るような事で、其の年も果てゝ宝暦三年となりましたが、職を致す者は大概正月廿日(はつか)迄は休みますので、此の金兵衞の宅(うち)の内職も十七日迄休みでございます、丁度六日お年越しの朝早く起きて金兵衞は近辺に年始に出ました、此方(こちら)はお筆が昼飯(ひるめし)を喰(た)べましたから、かねて近金から貰った小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて出ると一際目立つ別嬪(べっぴん)でございます、時々金兵衞の家内とお湯に行(ゆ)きますから誘いました。
筆「お内儀(かみ)さんお湯に入(いら)っしゃるならお供を致しましょう」
蓮「私は今御年始客が有るから先へ行ってお呉れ、直(すぐ)に後から行(ゆ)くから、柳原町のお湯だろうね」
筆「はい」
娘は一人でお湯に参りましたのが一つのお話になりますことで、お筆がそこ/\に湯から上りましたがまだお内儀さんが来るようすがない、何か御用が出来てお手間が取れるのか、お迎いに行(ゆ)こうかと、手拭を小桶で絞って居ると、最前から板の間で身体を洗って居た婆さんは、年の頃六十四五で、頭の中央(まんなか)が皿のように禿げて居り、本郷町の桂庵(けいあん)のお虎と云うもので、
虎「ちょいと姉(ねえ)さん、待ってお呉れよ……おい姉さん」
筆「はい」
虎「お前ね、今此処(こゝ)に居る人は一人か二人しか居ないよ、小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて良(い)い処(とこ)のお嬢さんのふりをして、大胆な女じゃアないか人の金入(かねいれ)を取りやアがって、あの巾着にゃア金は沢山(たんと)入ってやアしないよ、三両一歩入ってるの、此方(こっち)へ返えせ、此の前(めえ)も此方ア銘仙の半纒が失(なくな)ってらア、疾(と)うから眼を注(つ)けて居たんだ、近所で毎度顔を見て知ってるぞ、左の袂(たもと)に入ってるから出しなよ、何(なん)だ利いた風な阿魔女(あまっちょ)だ」
と口穢(くちぎた)なく罵(のゝし)るのを此方(こちら)は何を云われても只おど/\して居ると、お虎婆アは無闇に来てお筆の袂から巾着を引出して、
虎「それ見やアがれ此の通りだ、此の阿魔女め」
と小桶を取って投(ほう)り付けると小鬢(こびん)に中(あた)って血が出る。娘だけに他(はた)が大騒ぎで、
番「外へ立っちゃアいけません、板の間稼ぎでも何でもない物の間違でげす」
と云って居る所へ、人を掻分けて近江屋金兵衞が参り、
金「何だ/\」
番「是は大屋さん入らっしゃいまし、相手は帰りましたが、本郷町の桂庵婆(ばゞあ)のお虎てえいけない奴で」
金「何か取ったのか」
番「婆アが取ったんじゃア有りませんが、貴方の店子(たなこ)で、それ浪人で売卜(うらない)に出る人が有りましょう」
金「ア、ア」
番「あの綺麗な娘が有りますな」
金「ア、お筆さんと云うのだが、何(なん)だえ、何(ど)う云う間違いなんです」
番「婆アが云いますには嬢さんが巾着を取ったって、嬢様(さん)が着物を着て了(しま)い、手拭を絞ってる所へ婆アが板の間から飛んで来て嬢さんの袂へ手を入れると、辷(すべ)り込んだのでゞも有りますか巾着が出ましたお嬢様(さま)が他人(ひと)の物を取るようなお子様じゃア有りませんが」
金「なにー、篦棒めえ、貴様は何だ」
番「湯屋の番頭で」
金「何だって番をして居るのだよ」
番「番はして居ましたが、袂から巾着が出たので」
金「出たって他人(ひと)の物を取るようなお筆さんじゃアねえのに、そんな悪名(あくみょう)を付けられて堪(たま)るものか、己の店子に間違いが有っちゃア此の儘に捨置かれねえ、何処(どこ)までも詮議を為(し)なけりゃアならねえ、他(ほか)の事とは違う、婆アは何処に居る、姉さんは何処に居る」
番「お虎婆アは先刻(さっき)帰りましたが、何(なん)でも是は姉さんに恨(うらみ)が有って仕た事でしょう、姉さんは間が悪いとでも思ったか、裏口から駈け出した限(き)り行方が知れません」
金「夫(それ)は大変だ」
と汗をダク/\かいて宅(たく)へ帰って参り、
金「おい/\何故お前(めえ)お筆さんと一緒に湯に行(い)かねえんだ」
蓮「だって尾張町の夫婦が子供を連れて来て漸(ようや)く帰して仕舞うと又彌兵衞(やへえ)さんが来たのだもの」
金「今本郷町の桂庵婆アがお筆さんに泥棒をしたって悪名(あくみょう)を附けやアがった」
蓮「お前さん黙って居たかえ」
金「己は跡から行ったのだから様子が分らねえ」
蓮「お前さん何(なん)の為に行ったんだねえ」
金「知らずに行ったのよ、板の間だと云う騒ぎなんだがお前さえ附いて行(ゆ)けば其んな事ア有りアしねえんだ」
蓮「私は宅(うち)の片付け物をして居らアねお前さんこそブラ/\遊んでばかり居る癖に」
金「遊んでやアしない、己が今湯屋の前を通り掛ると人が立って居るから、何うしたんだてえと、浪人者の姉さんがなコレ/\てえから慌てゝ帰(けえ)って来た…おゝ清左衞門さんか、此方(こっち)へお這入り、大変な事が出来た」
清「へえー何う云うお間違いで」
金「今家内に小言を云ってる処ですが、お筆さんと湯へ行(ゆ)く約束をしてお筆さんが誘って下さると、丁度客が来て居たもんですから、お筆さん一人で柳原町(やなぎはらまち)の湯へ行くと、本郷町の桂庵の婆ア、意地の悪そうな奴で妾の周旋(しゅうせん)をしたり何(なに)かしていけない奴です、其奴(そいつ)がお筆さんに己の巾着を取ったって、板の間から直(すぐ)に上(あが)って来てお筆さんの袂へ手を突ッ込んでお筆さんの袂から巾着を引出すと、僅かな金でも……腹ア立(たっ)ちゃアいけない、取ったと云うのではない、是には何か理由(いりわけ)の有る事だろうと思うが、今帰って、家内(これ)へ厳(やかま)しく小言を申して居る処で、お筆さんを奥へ連れてってなだめて居る内に、お筆さんが居なくなったのだが、桂庵婆アに突合(つきあわ)して掛合えば何うでもなるが、何ういう理由(わけ)だか薩張(さっぱり)理由が分らねえ、恨を受けるような事は有りゃアしませんか、姉さんは他人(ひと)に憎まれるような事は有るまいと思うが何か有りませんか」
清「何処(どこ)へ参りました」
金「何処へ行ったか分りません、世間へ対して面目なくお前さんに叱られると思って何処(どっ)かへ行ったのでしょう」
清「はい私(わたくし)は斯(か)く零落を致して裏家(うらや)住いはして居っても人様の物を一厘一毛でも掠(かす)めるような根性は有りません、殊(こと)に御当家様から多分に此の春は戴き物をして何一つ不足なく餅も搗(つ)き明日(あす)は七草粥でも祝おうと存じて居ましたに、人様の物を取りますなんて」
金「取ったか取らないか未だ分らない、なにお筆さんが人の物を取る訳はないが、お前さん何か本郷町の桂庵の婆アに恨を受けるような覚えは有りませんか」
清「桂庵の婆ア、あの何(なん)ですか、色の黒い肥満(ふとり)ました…」
金「左様」
清「あの豊胖(でっぷり)肥満ました、頭の禿(はげ)た」
金「左様」
清「うゝむ、あの婆ア」
金「ほら何か有るに違(ちげ)えねえんだ」
清「昨年の十月頃から再度参り、お前の処の娘を他(わき)で欲しがる番頭とか旦那とか有るから世話を致そうと申しますが、私(てまえ)取合いませんでした、すると昨年の暮廿九日に又私(てまえ)方へ参りまして、三十金並べまして、お前さんはお堅いけれ共三十金は容易(たやす)い金じゃアない、殊に暮ゆえ百金にも向うじゃアないか、此の金(きん)を取ってお嬢さんを他家(わき)の妾にしなさればお前さんの為めになる、悪い事は勧めないと申しますから、私(わたくし)は立腹致して、不埓至極な婆(ばゞあ)だ、仮令(たとい)浪人しても武士だ、一人の娘を見苦しい目掛手掛に遣れるものか、何(なん)と心得て居る、そんな事を云わずにと申して又金を出しましたから、私(わたくし)は立腹の余り婆の胸倉を捕(と)って戸外(おもて)へ突出して、二度と再び参る事はならんと云って、唾(つばき)を横ッ面へ吐ッ掛けて遣(つか)わしました」
金「それだ、何しろ嬢さんの行(い)きそうな処は有りませんか」
清「左様、何処(どこ)と云って尋ねて参る処も有りませんが、小日向(こびなた)水道町に今井玄秀(いまいげんしゅう)と申す医者が有ります、其の娘と手習朋輩で前々(まえ/\)懇意に致した事が有りますが、手紙の贈答(やりとり)を致すと云う事を聴いて居ましたが夫(それ)へは多分参りますまいと思います」
金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」
清「中番町(なかばんちょう)で外村金右衞門(とのむらきんえもん)と云う是はその直参(じきさん)と申しても小普請(こぶしん)で居ります、母方の縁類と云う訳でも何(なん)でも有りませんが極(ごく)別懇に致しまして、両度程連れて行(ゆ)きましたが夫へは多分参りますまい」
金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」
清「谷中(やなか)日暮(ひぐらし)に瑞応山(ずいおうざん)南泉寺(なんせんじ)と云う寺が有ります、夫に宮内健次郎(みやのうちけんじろう)と云う者が居ますが、夫へは多分参りますまい」
金「行かない処ばかり云っては困る」
清左衞門は唯おど/\して何処を探そうと云う目途(めあて)もなく心配致して居ります。翌朝(よくちょう)に成って、
金「清左衞門さん私(わし)の家(うち)へお出(いで)なさい、一緒に七草粥を祝おうじゃアないか」
と云うので是から諸方へ手分けをして迷子を捜し大川筋を尋ねさせましたが知れません、今七草粥を祝おうと箸を取って、喰(たべ)に掛ると表をバラバラ人が通り、
○「何(ど)うした/\」
□「浪除杭(なみよけぐい)に打付(ぶっつ)かった溺死人(どざえもん)は娘の土左衛門で小紋の紋付を着て紫繻子の腹合せの帯を締めて居る、好(い)い女だが菰(こも)を船子(ふなこ)が掛けてやった」
△「行って見ろ/\」
金兵衞も清左衞門も之を聞くと等しく慌てゝ茶椀と箸を持(もっ)たなりで戸外(おもて)へ飛出したから見物人は驚きました。
○「何を丼鉢(どんぶりばち)を振廻すのだ」
清「そ其の土左衛門は何処に居ります」
金「旦那土左衛門は何処に居ります」
○「何を為(し)やアがるんだ、見ねえ、どうも気違(きちげ)えだ、人に飯を打掛(ぶっか)けて」
金「何(なん)と心得て居る、町役人(ちょうやくにん)だぞ、ど何処だ/\」
○「土左衛門へは船子が菰を掛けてやって、ブッカリ/\彼方(あっち)へ流れて行きました」
と云われて両人は気脱(きぬけ)のした様になり箸と茶椀を持ったなりで帰って来て、
清「はあー娘は面目ないので身を投げたか」
金「いや昨夜(ゆうべ)飛込んだものが然(そ)う急に浮く訳のものじゃアない、似た人は世間に幾らも有る、お筆さんはよもや死んなさりゃアしまい、心配なさんな」
清左衞門は実に呆然(ぼんやり)して、娘は盗賊(どろぼう)の汚名を受けこれを恥かしいと心得て入水(じゅすい)致した上は最早世に楽(たのし)みはないと遺書(かきおき)を認(したゝ)め、家主(いえぬし)へ重ね/″\の礼状でございます、其の儘浪宅をさまよい出(い)で諸方を探したが知れん。不図(ふと)気附いたは高奈部(たかなべ)の家の姪(めい)は放蕩無頼の女で、十六位から浮気心が有って、只今は女郎に成って居ると云う事だが、折々先方から手紙が来て、私(わし)に知らさんように手紙の贈答(やりとり)をして居ったが、万一(ひょっと)したら行(い)き宜(い)いから左様な処へでも行きはしまいかと、是から吉原へ這入って彼処此処(あちこち)を探して歩行(ある)いたが分りません。店先を覗(のぞ)きながら段々来て、江戸町一丁目の辨天屋の前まで来ました。
娼「ちょいと喜助(きすけ)どん、あの格子先に立って居るお客さんに会いたいから、そら覗いて居る人だよ」
喜「えへゝ旦那/\」
清「はい」
喜「華魁(おいらん)が貴方にお目に掛りたいと仰しゃいますんで」
清「左様でございますか、何処(どれ)へ出ます」
喜「何うか籬(まがき)の方へお出(いで)を願います」
其の内華魁が上草履(うわぞうり)を穿(は)いて跡尻(あとじり)から廻って参りますのを見て。
清「お前さんかえ、すっかり忘れてしまった、極(ごく)年の行かん時分に会ったのだから」
娼妓はいきなり清左衞門の胸倉を固く捕(と)り、声を振立て、
娼「此の武家(さむらい)だよ、私の亭主に毒を飲まして殺した奴は」
清「何をする………」
其の中(うち)に若者(わかいもの)が多勢(おおぜい)にて清左衞門を取押えて大門(おおもん)の番所へ引く事に成りました。是れから直(すぐ)に町奉行所へ出て、依田豊前守のお調べに成りましたが、此の下河原(しもがわら)清左衞門は人違いか、全く彼(か)の毒を盛った武家(さむらい)か、是れは後篇に申し上げることにいたします。
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