三十五
此方は例の早四郎が待ちに待った今宵と、人の寝静るを窺うてお竹の座敷へやって参り、
早「眠ったかね/\、お客さん眠ったかえ……居ねえか……約束だから来ただ、
の中へ入っても宜いかえ入るよ、入っても宜いかえ」
と理不尽に
を捲って中へ入り。
早「眠ったか……あれやア居ねえわ、何処え行っただな、私が来る事を知っているから逃げたか、それとも小便垂れえ行ったかな、ア小便垂れえ行ったんだ、逃げたって女一人で淋しい道中は出来ねえからな、私ア此の床の中へ入って頭から掻巻を被って、ウフヽヽ屈なんでると、女子は知んねえからこけえ来る、中へお入んなさいましと云ったところで、男が先へ入っていりゃア間を悪がって入れめえから、小さくなってると、誰もいねえと思ってすっと入って来ると、己アこゝにいたよって手を押めえて引入れると、お前来ねえかと思ったよ、なに己ア本当に是まで苦労をしたゞもの、だから中え入るが宜い、入っても宜いかえと引張込めば、其の心があっても未だ年い行かないから間を悪がるだ、屹度然うだ、こりゃア息い屏して眠った真似えしてくれべえ」
と止せば宜いのに早四郎はお竹の寝床の中で息を屏して居りました。暫く経つと密と抜足をして廊下をみしり/\と来る者があります。古い家だから何なに密と歩いても足音が聞えます、早四郎は床の内で来たなと思っていますと、密と障子を開け、スウー。早四郎は障子を開けたなと思っていますと、ぷつり/\と、吊ってありました
の吊手を切落し、寝ている上へフワリと乗ったようだから、
早「何だこれははてな」
と考えて居りますと、片方では片手で探り、此処ら辺が喉笛と思う処を探り当てゝ、懐から取出したぎらつく刄物を、逆手に取って、ウヽーンと上から力に任せて頸窩骨へ突込んだ。
早「あゝ」
と悲鳴を上げるのを、ウヽーンと
りました。苦しいから足をばた/\やる拍子に襖が外れたので、和尚が眼を覚して、
僧「はゝ、夜這が来たな」
と思いましたから起きて来て見ると、灯火が消えている。
僧「困ったな」
と慌てゝ手探りに枕元にある小さな鋼鉄の如意を取って透して見ると、判然は分りませんが、頬被りをした奴が上へ乗しかゝっている様子。
僧「泥坊」
と声をかける大喝一声、ピイーンと曲者の肝へ響きます。
曲者「あっ」
と云って逃げにかゝる所へ如意で打ってかゝったから堪らんと存じまして、刄物で切ってかゝるのを、胆の据った坊さんだから少しも驚かず、刄物の光が眼の先へ見えたから引外し、如意で刄物を打落し、猿臂を延して逆に押え付け、片膝を曲者の脊中へ乗掛け、
僧「やい太い奴だ、これ苟めにも旅籠を取れば客だぞ、其の客へ対して恋慕を仕掛けるのみならず、刄物などを以て脅して情慾を遂げんとは不埓至極の奴だ、これ宿屋の亭主は居らんか、灯火を早く……」
という処へ帰って来ましたのはお竹で。
竹「おや何で」
僧「む、お怪我はないか」
竹「はい、私は怪我はございませんが、何でございます」
僧「恋慕を仕掛けた宿屋の忰が、刄物を持って来て貴方に迫り、わっという声に驚いて眼をさまして来ました、早く灯火を……廊下へ出れば手水場に灯火がある」
という中に雇婆さんが火を点して来ましたから、見ると大の男が乗掛って床が血みどりになって居ります。
僧「此奴被り物を脱れ」
と被っている手拭を取ると、早四郎ではありませんで、此処の主人、胡麻塩交りのぶっつり切ったような髷の髪先の散ばった天窓で、お竹の無事な姿を見て、えゝと驚いてしかみ面をして居ります。
僧「お前は此の宿屋の亭主か」
五「はい」
竹「何うしてお前は刄物を持って私の部屋へ来て此様な事をおしだか」
五「はい/\」
とお竹に向って、
五「あ…貴方はお達者でいらっしゃいますか、そうして此の床の中には誰がいますの」
と布団を引剥いで見ますと、今年二十五になります現在己の実子早四郎が俯伏になり、血に染って息が絶えているのを見ますと、五平は驚いたの何のではございません、真蒼になって、
五「あゝ是は忰でございます、私の忰が何うして此の床の中に居りましたろう」
僧「何うして居たもないものだ、お前が殺して置きながら、お前はまア此者が何の様な悪い事をしたか知らんが、本当の子か、仮令義理の子でも無闇に殺して済む理由ではない、何ういう理由じゃ」
五「はい/\、お嬢さま、あなたは今晩こゝにお休みはございませんのですか」
竹「私はこゝに寝ていたのだが、不図起きて洪願寺様へ墓参りに行って、今帰って来ましたので」
五「何うして忰が此処へ参って居りましたろう」
僧「いや、お前の忰は此の娘さんの所へ毎晩来て怪しからんことを云掛け、云う事を肯んければ、鉄砲で打つの、刄物で斬るのと云うので、娘さんも誠に困って私へお頼みじゃ、娘さんが墓参りに行った後へお前の子息が来て、床の中に入って居るとも知らずお前が殺したのじゃ」
五「へえ、あゝー、お嬢さま真平御免なすって下さいまし、実は悪い事は出来ないもんでございます、忽ちの中に悪事が我子に報いました、斯う覿面に罰の当るというのは実に恐ろしい事でございます、私は他に子供はございません、此様の[#「此様の」は「此様な」の誤記か]田舎育ちの野郎でも、唯た一粒者でございます、人間は馬鹿でございますが、私の死水を取る奴ゆえ、母が亡りましてから私の丹誠で是までにした唯た一人の忰を殺すというのは、皆私の心の迷い、強慾非道の罰でございます」
僧「土台呆れた話じゃが、何ういう訳でお前は我子を殺した」
五「はい、申上げにくい事でございますが、此の甲州屋も二十年前までは可なりな宿屋でございました処が、私は年を老りましても、酒や博奕が好きでございまして、身代を遂に痛め、此者の母も苦労して亡りました、斯うやって表を張ては居りますが、実は苦しい身代でございます、ところが此のお嬢様が先達て宿賃をお払いなさる時に、懐から出した胴巻には、金が七八十両あろうと見た時は、面皰の出る程欲しくなりました、あゝ此の金があったら又一山興して取附く事もあろうかと存じまして、無理に七日までお泊め申しましたが、愈々明日お立ちと聞きましたゆえ、思い切って今晩密と此のお嬢様を殺して金を奪ろうと企みました、死骸は田圃伝えに背負出して、墓場へ人知れず埋めてしまえば、誰にも知れる気遣いないと存じまして、忍んで参りました、道ならぬ事をいたした悪事は、忽ち報い、一人の忰を殺しますとは此の上もない業曝しで、実に悪い事は出来ないと知りました、私も最う五十九でございます、お嬢さま何とも申し訳がございませんから、私は死んでしまい、貴方に申訳をいたします」
と云切るが早いか、出刄庖丁を取って我が咽に突立てんとするから、
僧「あゝ暫く待ちなさい、まア待ちなさい、お前がこれ死んだからって言訳が立つじゃアなし、命を棄てたって何の足しにもなりゃアせん、嬢さんの御迷惑にこそなれ、宜いか先非を悔い、あゝ悪い事をした、唯た一人の子を殺したお前の心の苦しみというものは一通りならん事じゃ、是も皆罰だ、一念の迷いから我子を殺し、其の心の苦しみを受け、一旦の懺悔によって其の罪は消えている、見なさいお嬢様の一命は助かり、お前の子はお嬢様の身代りになったんじゃ、誠に気の毒なは此の息子さん、嬢さん何事も此の息子さんに免じてお前さんも堪弁なさい、何日までも仇に思っていると却ってお前さんの死んだ御家来さんの為にもならん、宜いか、又御亭主は客に対して無礼をしたとか、道楽をして棄置れん、親に苦労をかけて堪らんから殺しましたと云って尋常に八州へ名告って出なさい、なれども一人の子を私に殺すのは悪い事じゃから髪の毛を切って役所へ持って行けば、是には何か能々の訳があって殺したという廉で、お前さんに甚く難儀もかゝるまいと思う、然うして出家を遂げ、息子さんの為に四国西国を遍歴して、其の罪滅しをせんければ、兎ても尋常の人に成れんぞ」
五「はい/\」
僧「是から陰徳を施し、善事を行うが肝心、今までの悪業を消すは陰徳を積むより他に道はないぞ」
五「有難うございます」
僧「あゝ何うも気の毒な事じゃなア、お嬢さん」
三十六
お竹は不思議な事と心の内で忠平の霊に回向をしながら、
竹「ま、私は助かりましたが、誠に思い掛けない事で」
僧「いや/\世間は無常のもので、実に夢幻泡沫で実なきものと云って、実は真に無いものじゃ、世の人は此の理を識らんによって諸々の貪慾執心が深くなって名聞利養に心を焦って貪らんとする、是らは只今生の事のみを慮り、旦暮に妻子眷属衣食財宝にのみ心を尽して自ら病を求める、人には病は無いものじゃ、思う念慮が重なるによって胸に詰って来ると毛孔が開いて風邪を引くような事になる、人間元来病なく、薬石尽く無用、自ら病を求めて病が起るのじゃ、其の病を自分手に拵え、遂に煩悩という苦悩も出る、之を知らずに居って、今死ぬという間際の時に、あゝ悪いことをした、あゝせつない何う仕よう、此の苦痛を助かりたいと、始めて其の時に驚いて助からんと思っても、それは兎ても何の甲斐もない事じゃ、此の理を知らずして破戒無慚邪見放逸の者を人中の鬼畜といって、鬼の畜生という事じゃ、それ故に大梅和尚が馬祖大師に問うて如何なるか是れ仏、馬祖答えて即心即仏という、大梅が其の言下に大悟したという、其の時に悟ったじゃ、此の世は実に仮のものじゃ、只四縁の和合しておるのだ、幾らお前が食物が欲しい著物が欲しい、金が欲しい、斯ういう田地が欲しいと云った処が、ぴたりと息が絶えれば、何一つ持って行くことは出来やアしまい、四縁とは地水火風、此の四つで自然に出来ておる身体じゃ、仮に四大(地水火風)が和合して出来て居るものなれば、自分の身体も有りはせん、実は無いものじゃ、自然に是は斯うする物じゃという処へ心が附かんによって、我心があると思われ、我身体を愛し、自分に従うて来る人のみを可愛がって、宜う訪ねて来てくれたと悦び、自分に背く者は憎い奴じゃ、彼奴はいかんと云うようになる、人を憎む悪い心が別にあるかというに、別にあるものでもない、即仏じゃ、親父が娘を殺して金子を奪ろうとした時の心は実に此の上もない極重悪人なれども、忽ち輪回応報して可愛い我子を殺し、あゝ悪い事をしたと悔悟して出家になるも、即ち即心即仏じゃ、えゝ他人を自分の身体と二つあるものと思わずに、欲しい惜しいの念を棄てゝしまえば、争いもなければ憤る事もない、自他の別を生ずるによって隔意が出来る、隔意のある所から、物の争いが出来るものじゃ、先方に金があるから取ってやろうとすると、先方では私の物じゃから遣らん用を勤めたら金を遣るぞ、勤めをして貰うのは当然だから、先方へくれろ、それを此方で只取ろうとする、先方では渡さんとする、是が大きゅうなると戦争じゃ、実に仏も心配なされて西方極楽世界阿弥陀仏を念じ、称名して感想を凝せば、臨終の時に必ず浄土へ往生すと説給えり、南無阿弥陀仏/\」
圓朝が此様なことを云ってもお賽銭には及びません、悪くすると投げる方があります。段々と有難い事を彼の宗達という和尚さんが説示したからお竹も五平を恨む念は毛頭ありません。
竹「お前此の金が欲しければ皆な上げよう」
五「いえ/\金は要りません、私は剃髪して罪滅しの為に廻国します」
というので剃刀を取寄せて宗達が五平をくり/\坊主にいたしました。早四郎の死骸は届ける所へ届けて野辺の送りをいたし、後は他人へ譲り、五平は罪滅しのため四国西国へ遍歴に出ることになり、お竹は是より深い事は話しませんが、
「私は粂野美作守の家来渡邊という者の娘で、弟は祖五郎と申して、只今は美作国へまいって居ります、弟にも逢いたいと存じますし、江戸屋敷の様子も聞きたし、弟もお国表へまいって家老に面会いたし、事の仔細が分りますれば江戸屋敷へまいる筈で、何の道便りをするとは申して居りましたが、案じられてなりませんから、家来の忠平という者を連れてまいる途で長く煩いました上、遂に死別れになりまして、心細い身の上で、旅慣れぬ女のこと、どうか御出家様私を助けると思召し、江戸までお送り遊ばして下さいますれば、何の様にもお礼をいたしましょう、お忙しいお身の上でもございましょうが、お連れ遊ばして下さいまし」
と頼まれて見ると宗達も今更見棄てる事も出来ず、
宗「それは気の毒なことで、それならば私と一緒に江戸まで行きなさるが宜い私は江戸には別に便る処もないが、谷中の南泉寺へ寄って已前共に行脚をした玄道という和尚がおるから、それでも尋ねたいと思う、ま兎も角もお前さんを江戸屋敷まで送って上げます」
と云うので漸うの事にて江戸表へまいりましたが、上屋敷へも下屋敷へもまいる事が出来んのは、予てお屋敷近い処へ立寄る事はならんと仰せ渡されて、お暇になった身の上ゆえ、本郷春木町の指物屋岩吉方へまいり、様子を聞くと、岩吉は故人になり、職人が家督を相続して仕事を受取って居りますことゆえ、迚も此処の厄介になる事は出来ません。仕方がないので、どうか様子を下屋敷の者に聞きたいと谷中へ参りますと、好い塩梅に佐藤平馬という者に会って、様子を聞くと、平馬の申すには、
平「弟御は此方へおいでがないから、此の辺にうろ/\しておいでになるはお宜しくない、全体お屋敷近い処へ入らっしゃるのは、そりゃアお心得違いな事で、ま貴方は信州においでゞ、時節を待ってござったら御帰参の叶う事もありましょう、御舎弟も春部殿も未だ江戸へはお出がない、仮令御家老に何んなお頼みがありましても無駄な話でございます」
と撥付けられ、
竹「左様なら弟は此方へまいっては居りませんか」
平「左様、御舎弟は確にお国においでだという話は聞きましたが、多分お国へ行って、お国家老へ何かお頼みでもある事でございましょう、併し大殿様は御病気の事であるが、事に寄ったら御家老の福原様が御出府になる時も、お暇になった者を連れてお出になる筈がないから、是は好い音信を待ってお国にお出でございましょう、殿様は御不快で、中々御重症だという事でございまして、私共は下役ゆえ深い事は分りませんが、此のお屋敷近い処へ立廻るはお宜しくない事で」
という。此の佐藤平馬という奴は、内々神原五郎治四郎治の二人から鼻薬をかわれて下に使われる奴、提灯持の方の悪い仲間でございますから、斯く訳の分らんように云いましたのは、お竹にお屋敷の様子が聞かしたくないから、真実しやかに云ってお屋敷近辺へ置かんように追払いましたので、お竹はどうも致方がない、旧来馴染の出入町人の処へまいりましても、長く泊っても居られません、又一緒にまいった宗達も、長くは居られません理由があって、或時お竹に向い、
宗「私は何うしても美濃の南泉寺へ帰らんければならず、それに又私は些と懇意なものが有って、田舎寺に住職をしている其の者を尋ねたいと思うが、貴方は是から何処へ参らるゝ積りじゃ」
竹「何処へも別にまいる処もありませんが、お国へまいれば弟が居ります、成程御家老も弟を連れて、お出は出来ますまい、御帰参の叶う吉左右を聞くそれまではお国表にいる事でございましょうから、私もどうかお国へ参りとうございます」
宗「併しどうも女一人では行かれんことで、何ともお気の毒な事だ、じゃアまア美作の国といえば是れ百七八十里隔った処、私が送る訳にはいかんが、今更見棄てることも出来ないが、美濃の南泉寺までは是非行かんければならん、東海道筋も御婦人の事ゆえ面倒じゃ、手形がなければならんが、何うか工風をして私がお送り申したいが、困った事で、兎に角南泉寺まで一緒に行きなさい、彼方の者は真実があって、随分俗の者にも仏心があってな、寺へ来て用や何かするからそいらに頼んだら美作の方へ用事があってまいる者があるまいとも云えぬ、其の折に貴方を頼んでお国へ行かれるようだと私も安心をします、私は坊主の身の上で、婦人と一緒に歩くのは誠に困る、衆人にも見られて、忌な事でも云われると困る、けれども是も仕方がないから、ま行きなさるが宜い、私は本庄宿の海禅寺へ寄って一寸玄道という者に会って、それから又美濃まで是非行きますから御一緒にまいろう、それには木曾路の方が銭が要らん」
と御出家は奢らんから、寒くなってから木曾路を引返し本庄宿へまいりまして、婦人ではあるけれどもこれ/\の理由だ、と役僧にお竹の身の上話をして、其の寺に一泊いたし、段々日数を経てまいりましたが、元より貯え金は所持している事で、漸く碓氷を越して軽井沢と申す宿へまいり、中島屋という宿屋へ宿を取りましたは、十一月の五日でござります。
三十七
木曾街道でも追分沓掛軽井沢などは最も寒い所で、誰やらの狂歌に、着て見れば綿がうすい(碓氷)か軽井沢ゆきたけ(雪竹)あって裾の寒さよ、丁度碓氷の山の麓で、片方は浅間山の裾になって、ピイーという雪風で、暑中にまいりましても砂を飛し、随分半纒でも着たいような日のある処で、恐ろしい寒い処へ泊りました。もう十一月になると彼の辺は雪でございます、初雪でも沢山降りますから、出立をすることが出来ません、詮方がないから逗留という事になると、お竹は種々心配いたしている。それを宗達という和尚さまが真実にしてくれても何とのう気詰り、便りに思う忠平には別れ、弟祖五郎の行方は知れず、お国にいる事やら、但しは途中で煩ってゞもいやアしまいか、などと心細い身の上で何卒して音信をしたいと思っても何処にいるか分らず、御家老様の方へ手紙を出して宜いか分りませんが、心配のあまり手紙を出して見ました。只今の郵便のようではないから容易には届かず、返事も碌に分らんような不都合の世の中でございます。お竹は過越し方を種々思うにつけ心細くなりました、これが胸に詰って癪となり、折々差込みますのを宗達が介抱いたします、相宿の者も雪のために出立する事が出来ませんから、多勢囲炉裡の周囲へ塊って茫然して居ります。中には江戸子で土地を食詰めまして、旅稼ぎに出て来たというような職人なども居ります。
○「おい鐵う」
鐵「えゝ」
○「からまア毎日/\降込められて立つことが出来ねえ、江戸子が山の雪を見ると驚いちまうが、飯を喰う時にずうと並んで膳が出ても、誰も碌に口をきかねえな」
鐵「そうよ、黙っていちゃア仕様がないから挨拶をして見よう」
○「えゝ」
鐵「挨拶をして見ようか」
○「しても宜いが、きまりが悪いな」
鐵「えゝ御免ねえ……へえ……どうも何でごぜえやすな、お寒いことで」
△「はア」
鐵「お前さん方は何ですかえ、相宿のお方でげすな」
△「はア」
鐵「何を云やアがる……がア/\って」
○「手前が何か云うからはアというのだ、宜いじゃアねえか」
鐵「変だな、えゝゝ毎日膳が並ぶとお互に顔を見合せて、御飯を喰ってしまうと部屋へ入ってごろ/\寝るくれえの事で仕様がごぜえやせんな、夜になると退屈で仕様が有りませんが、なんですかえお前さん方は何処かえお出でなすったんでげすかえ」
△「私はその大和路の者であるが、少し仔細あって、えゝ長らく江戸表にいたが、故郷忘じ難く又帰りたくなって帰って来ました」
鐵「へえー然うで……其方のお方はお三人連で何方へ」
□「私は常陸の竜ヶ崎で」
鐵「へえ」
□「常陸の竜ヶ崎です」
鐵「へえー何ういう訳で此様な寒い処へ常陸からおいでなさったんで」
□「種々信心がありまして、全体毎年講中がありまして、五六人ぐらいで木曾の御獄様へ参詣をいたしますが、村の者の申し合せで、先達さんもお出になったもんだから、同道してまいりやした、実は御獄さんへ参るにも、雪を踏んで難儀をして行くのが信心だね」
鐵「へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえ高え山だってね」
□「高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが」
鐵「えへゝゝゝ私どもは曲った心が直っても、側から曲ってしまうから、旨く真直にならねえので……えゝ其方においでなさる方は何方で」
此の客は言葉が余程鼻にかゝり、
×「私は奥州仙台」
鐵「へえ…仙台てえのは」
×「奥州で」
鐵「左様でがすか、えゝ衣を着てお頭が丸いから坊さんでげしょう」
×「いしやでがす」
鐵「へ何ですと」
×「医者でがす」
鐵「石工だえ」
×「いゝや医道でがす」
鐵「へえー井戸掘にア見えませんね」
×「井戸掘ではない、医者でがす」
鐵「へえーお医者で、私どもはいけぞんぜえだもんだから、お医者と相宿になってると皆も気丈夫でごぜえます、些とばかり薄荷があるなら甜めたいもんで」
×「左様な薬は所持しない、なれども相宿の方に御病気でお困りの方があって、薬をくれろと仰しゃれば、癒る癒らないは、それはまた薬が性に合うと合わん事があるけれども、盛るだけは盛って上げるて」
鐵「へえー、斯う皆さんが大勢寄って只茫然していても面白くねえから、何か面白え百物語でもして遊ぼうじゃアありやせんか、大勢寄っているのですから」
医「それも宜うがすが、ま能く大勢寄ると阿弥陀の光りという事を致します、鬮引をして其の鬮に当った者が何か買って来るので、夜中でも厭いなく菓子を買に行くとか、酒を買に行くとかして、客の鬮を引いた者は坐ってゝ少しも動かずに人の買って来る物を食して楽しむという遊びがあるのです」
鐵「へえーそれは面白えが、珍らしい話か何かありませんかな」
医「左様でげす、別に面白い話もありませんですな」
鐵「気のねえ人だな何か他に」
○「手前出て先へ喋るがいゝ」
鐵「喋るたって己ア喋る訳には行かねえ、何かありませんかな、お医者さまは奥州仙台だてえが、面白え怖ねえ化物が出たてえような事はありませんかな」
医「左様で別に化物が出たという話もないが、奥州は不思議のあるところでな」
鐵「へえー左様でござえやすかな」
医「貴方は何ですかえ、松島見物にお出になった事がありますかえ」
鐵「いや何処へも行ったことはねえ」
医「松島は日本三景の内でな、随分江戸のお方が見物に来られるが此のくらい景色の好い所はないと云ってな、船で八百八島を巡り、歌を詠じ詩を作りに来る風流人が幾許もあるな」
鐵「へえー松島に何か心中でもありましたかえ」
医「情死などのあるところじゃアないが、差当って別にどうも面白い話もないが、医者は此様な穢い身装をして居てはいけません、医者は居なりと云うて、玄関が立派で、身装が好って立派に見えるよう、風俗が正しく見えるようでなければ病者が信じません、随って薬も自から利かんような事になるですが、医者は頓知頓才と云って先ず其の薬より病人の気を料る処が第一と心得ますな」
鐵「へえー何ういう……気を料る処がありますな」
医「先年乞食が難産にかゝって苦しんでいるのを、所の者が何うかして助けて遣りたいと立派な医者を頼んで診て貰うと、是はどうも助からん、片足出ていなければ宜いが、片手片足出て首が出ないから身体が横になって支えてゝ仕様がない、細かに切って出せば命がないと途方に暮れ、立合った者も皆な可愛そうだと云っている処へ通りかゝったのが愚老でな」
鐵「へえ……それからお前さんが産したのかえ」
医「それから療治にかゝろうとしたが、道具を宅へ置いて来たので困ったが、此処が頓智頓才で、出ている片手を段々と斯う撫でましたな」
鐵「へえ」
医「撫でている中に掌を開けました」
鐵「成程」
医「それから愚老が懐中から四文銭を出して、赤児の手へ握らせますと、すうと手を引込まして頭の方から安々と産れて出て、お辞儀をしました」
鐵「へえ咒でげすか」
医「いや乞食の児だから悦んで」
鐵「ふゝゝ人を馬鹿にしちゃアいけねえ、本当だと思ってたのに洒落者だね、田舎者だって迂濶した事は云えねい……えゝ其方の隅においでなさるお方、あなたは何ですかえ、矢張お医者さまでごぜえやすか」
僧「いや、私は斯ういう姿で諸方を歩く出家でござる」
鐵「えゝ御出家さんで、御出家なら幽霊なぞを御覧なすった事がありましょう」
僧「幽霊は二十四五度見ました」
鐵「へえ、此奴あ面白え話だ、二十四五度……ど何んなのが出ました」
僧「種々なのが出ましたな、嫉妬の怨霊は不実な男に殺された女が、口惜いと思った念が凝って出るのじゃが、世の中には幽霊は無いという者もある、じゃが是はある」
鐵「へえ、ど何んな塩梅に出るもんですな」
僧「形は絵に描いたようなものだ、朦朧として判然其の形は見えず、只ぼうと障子や襖へ映ったり、上の方だけ見えて下の方は烟のようで、どうも不気味なものじゃて」
鐵「へえー貴方の見たうちで一番怖いと思ったのはどういう幽霊で」
僧「えゝ、左様さ先年美濃国から信州の福島在の知己の所へ参った時の事で、此の知己は可なりの身代で、山も持っている者で、其処に暫く厄介になっていた、其の村に蓮光寺という寺がある、其の寺の和尚が道楽をしていかん彼は放逐せねばならんと村中が騒いで、急に其の和尚を追出すことになったから、お前さん住職になってくれないかと頼まれましたが、私は住職になる訳にはゆかん、行脚の身の上で、併し葬式でもあった時には困ろうから、後住の定るまで暫くいて上げようと云うんで、其の寺に居りました」
鐵「へえー」
僧「すると私の知己の山持の妾が難産をして死んだな」
鐵「へえー」
僧「それがそれ、ま主人が女房に隠して、家にいた若い女に手を附け、それがま懐妊したによって何時か家内の耳に入ると、悋気深い本妻が騒ぐから、知れぬうちに堕胎してしまおうと薬を飲ますと、ま宜い塩梅に堕りましたが、其の薬の余毒のため妾は七転八倒の苦しみをして、うーんうんと夜中に唸るじゃげな」
鐵「へえー此奴ア怖えなア」
僧「怨みだな、斯う云う事になったのも、私は奉公人の身の上相対ずくだから是非もないが、内儀さんが悋気深いために私に斯ういう薬を飲ましたのじゃ、内儀さんさえ悋気せずば此の苦しみは受けまい、あゝ口惜しい、私は死に切れん、初めて出来た子は堕胎され、私も死に、親子諸共に死ぬような事になるも、内儀さんのお蔭じゃ、口惜い残念と十一日の間云い続けて到頭死にました、その死ぬ時な、うーんと云って主人の手を握ってな」
鐵「へえ」
僧「目を半眼にして歯をむき出し、旦那さま私は死に切れませんよ」
○「やア鐵う、もっと此方へ寄れ……気味が悪い、どうもへえー成程……そこを閉めねえ、風がぴゅー/\入るから……へえー」
僧「気の毒な事じゃが、仕方がない、そこで私がいた蓮光寺へ葬りました、他に誰も寺参りをするものがないから、主人が七日までは墓参りに来たが、七日後は打棄りぱなしで、花一本供げず、寺へ附届もせんという随分不人情な人でな」
○「へえー酷い奴だね、其奴ア怨まア、直に幽的が出ましたかえ」
僧「私も可愛そうじゃアと思うた、斯ういう仏は血盆地獄に堕るじゃ、早く云えば血の池地獄へ落るんじゃ」
○「へえー」
僧「斯ういう亡者には血盆経を上げてやらんと……」
○「へえー……けつ……なんて……けつを……棒で」
僧「いや血盆経というお経がある、七日目になア其の夜の亥刻[#「亥刻」はママ、「子刻」か「亥刻」であるかの判別付かず]前じゃったか、下駄を履いて墓場へ行き、線香を上げ、其処で鈴を鳴し、長らく血盆経を読んでしもうて、私がすうと立って帰ろうとすると」
○「うん、うん」
僧「前が一面乱塔場で、裏はずうと山じゃな」
○「うん/\」
僧「其の山の藪の所が石坂の様になって居るじゃ、其の坂を下りに掛ると、後でぼーずと呼ぶじゃて」
○「ふーん、これは怖えな、鐵もっと此方へ寄れ、成程お前さんを呼んだ」
僧「何も私に怨みのある訳はない、縁無き衆生は度し難しというが、私は此の寺へ腰掛ながら住職の代りに回向をしてやる者じゃ、それを怨んで坊主とは失敬な奴じゃと振向いて見た、此方の勢が強いので最う声がせんな」
○「へえー度胸が宜うごぜえやすな、強いもんだね、始終死人の側にばかりいるから怖くねえんだ、うーん」
僧「それから又行きにかゝると、また皺枯た声で地の底の方でぼーずと云うじゃて」
○「早桶を埋ちまった奴が桶の中でお前さんを呼んだのかね」
僧「誰だと振向いた」
○「へえ……先方で驚いて出ましたか、穴の中から」
僧「振向いて見たが何んにも居ないから、墓原へ立帰って見たが、墓には何も変りがない、はて何じゃろうと段々探すと、山の根方の藪ん中に大きな薯蕷が一本あったのじゃ、之が世に所謂坊主/\山の芋じゃて」
○「何の事た、人を馬鹿にして、併し面白え、何か他に、あゝ其方にいらっしゃるお侍さん、えへゝゝ、旦那何か面白えお話はありませんか」
侍「いや最前から各々方のお話を聞いていると、可笑しくてたまらんの、拙者も長旅で表向紫縮緬の服紗包を斜に脊負い、裁着を穿いて頭を結髪にして歩く身の上ではない、形は斯の如く襤褸袴を穿いている剣道修行の身の上、早く云うと武者修行で」
○「これはどうも、左様ですか、武者修行で、へえー然う聞けばお前さんの顔に似てえる」
侍「何が」
○「いえ、そら久しい以前絵に出た芳年の画いたんで、鰐鮫を竹槍で突殺している、鼻が柘榴鼻で口が鰐口で、眼が金壺眼で、えへゝゝ御免ねえ」
侍「怪しからん事をいう、人の顔を讒訴をして無礼至極」
○「なに、お前さんは左様なでもねえけれども、些と似てえるという話だ」
侍「貴公らは江戸のものか、職人か」
○「へえ」
侍「成程」
○「旦那、皆は嘘っぺいばかしでいけませんが、何ぞ面白え話はありませんかね」
侍「貴公先にやったら宜かろう」
○「私どもは好い話が無えんで、火事のあった時に屋根屋の徳の野郎め、路地を飛越し損なやアがって、どんと下へ落ると持出した荷の上へ尻餅を搗き、睾丸を打ち、目をまわし、嚢が綻びて中から丸が飛出して」
侍「然ういう尾籠の話はいけんなア」
○「それから乱暴勝てえ野郎が焚火に
って、金太という奴を殴る機みにぽっぽと燃えてる燼木杭を殴ったから堪らねえ、其の火が飛んで金太の腹掛の間へ入って、苦しがって転がりやアがったが、余程面白うござえました」
侍「其様な事は面白くない」
○「そんなら旦那何ぞ面白え話を」
侍「先刻から空話ばかり出たので、拙者の話を信じて聞くまいから、どうもやりにくい」
三十八
向座敷にてぽん/\と手を打ち、
宗「誰も居ぬかな」
下婢「はい」
此の座敷に寝ているのは渡邊お竹で、宗達が看病を致して居りますので、
婢「お呼びなさいましたかえ」
宗「一寸こゝへ入ってくれ」
婢「はい」
宗「序に水を持って来ておくれ、病人がうと/\眠附くかと思うと向座敷で時々大勢がわアと笑うので誠に困る」
婢「誠にお喧しゅうござりやしょう」
宗「其処をぴったり閉めておくれ」
婢「畏まりやした」
と立って行って大勢の所へ顔を出しまして、
「どうかあの皆さん相宿の方に病人がありやすから、余り大え声をして、わア/\笑わないように、喧しいと病人が眠り付かねえで困るだから、静になさえましよ」
侍「はい/\宜しい……病人がいるなら止しましょう」
○「小声でやってくだせえ、皆は虚っぺえ話で面白くねえ、旦那が武者修行をした時の、蟒蛇を退治たとか何とかいう剛いのを聞きたいね」
侍「左様さ拙者は是迄恐ろしい怖いというものに出会った事はないが、
鼠に両三度出会った時は怖いと思ったね」
○「ど何処で」
侍「南部の恐山から地獄谷の向へ抜ける時だ」
○「へえー名からして怖ねえね恐山地獄谷なんて」
侍「此処は一騎打の難所で、右手の方を見ると一筋の小川が山の麓を繞って、どうどうと小さい石を転がすように最と凄まじく流れ、左手の方を見ると高山峨々として実に屏風を建てたる如く、誠に恐ろしい山で、樹は生茂り、熊笹が地を掩うている、道なき所を踏分け/\段々下りて来たところが、人家は絶てなし、雨は降ってくる、困ったことだと思い、暫く考えたが路は知らず、深更に及んで狼にでも出られちゃア猶更と大きに心配した、時は丁度秋の末さ、すると向うにちら/\と見える」
○「へえー、出たんでござえやすか、狼の眼は鏡のように光るてえから、貴方がうんと立止って小便をなすったろう」
侍「なに、小便などを為やアせん」
○「それから」
侍「これは困ったものじゃ、彼処に誰か焚火でもして居るのじゃアないかと思った」
○「成程山賊が居て身ぐるみ脱いでけてえと、お前さん引こぬいて斬ったんで」
侍「まゝ黙ってお聞き、そう先走られると何方が話すのだか分らん、山賊が団楽坐になっていたのではない、一軒の白屋があった」
○「へえー山ん中に……問屋でしょう」
侍「なに茅屋」
○「え、油屋」
侍「油屋じゃアない、壊れた家をあばらやという」
○「確かりした家は脊骨屋で」
侍「そう先走っては困る、其家へ行って拙者は武辺修行の者でござる、斯かる山中に路に踏み迷い、且此の通り雨天になり、日は暮れ、誠に難渋を致します、一樹の蔭を頼むと云って音ずれると、奥から出て来た」
○「へえー肋骨が出て、歯のまばらな白髪頭の婆が、片手に鉈見たような物を持って出たんだね、一つ家の婆で、上から石が落ちたんでげしょう」
侍「然うじゃアない、二八余りの賤女が出たね」
○「それじゃア気が無え、雀が二三羽飛出したのかえ」
侍「賤女」
○「えゝ味噌汁の中へ入れる汁の実」
侍「汁の実じゃアない、二八余り十六七になる娘が出たと思いなさい」
○「へえー家に居たんだね、容貌は好うごぜえやしたろうね、容貌は」
侍「そんな事は何うでも宜しいが、能く見ると乙な女さ」
○「へえー、おい鐵、此方へ寄れ、ちょいと見ると美い女だが、能く見ると眇目で横っ面ばかり見た、あゝいう事があるが、矢張其の質なんでしょう」
侍「足下が喋ってばかり居っては拙者は話が出来ぬ」
○「じゃア黙ってますから一つやって下せえ」
侍「それから紙燭を点けて出て来て、お武家さま斯様な人も通らん山中へ何うしてお出でなさいました、拙者は武術修業の身の上ゆえ、敢て淋しい処を恐れはせぬが如何にも追々夜は更けるし、雨は降って来る、誠に難渋いたすによって一泊願いたいと云うと、何事も行届きません、召上る物も何もございませんし、着せてお寐かし申す物もございません、それが御承知なれば見苦しけれども御遠慮なくお泊り遊ばせと、親切な女で汚い盥へ谷水を汲んで来て、足をお洗いなさいというので足を洗いました」
○「へえー其の娘の親父か何かいましたろう」
侍「親父もいない、娘一人で」
○「へえー……母親もいませんか」
侍「そう喋っては困りますな」
○「もう云いません、それから」
侍「ところが段々聞くと両親もなく、只一人斯る山の中に居って、躬ら自然薯を掘って来るとか、或は菌を採るとか、薪を採るとか、女ながら随分荒い稼ぎをして微かに暮しておるという独身者さ、見れば器量もなか/\好い、色が白くて目は少し小さいが、眉毛が濃い、口元が可愛らしく、髪の毛の光艶も好し、山家に稀な美人で」
○「へえー、ふう成程」
侍「何とも云やアしない、まア黙ってお聞き」
○「へえ」
侍「拙者は修業の身の上で、好い女だとは思いましたけれど、猥らしい事を云い掛けるなどの念は毛頭ない」
○「それは何年頃の事ですか」
侍「丁度五年以前の事で」
○「あなたは幾歳だえ」
侍「其様な事を聞かなくとも宜い、三十九才じゃ」
○「老けているね……五年以前、じゃア未だア壮な時でごぜえやすな」
侍「左様」
○「へえ、それから何うしました」
侍「拙者の枕元へ水などを持って来て、喉が渇いたら召上れと種々手当をしてくれる、蕎麦掻を拵えて出したが、不味かったけれども、親切の志有難く旨く喰いました」
○「蕎麦粉は宜うごぜえやしたろうが、醤油が悪かったに違えねえ、ぷんと来るやつで、此方の醤油を持って行きたいね」
侍「何を云っている」
○「へえ、それから」
侍「娘は向うの方へ一人で寝る、時は丁度秋の末の事、山冷でどうも寒い、雨はばら/\降る」
○「成程/\うん/\」
侍「娘は何うしたか何時までも寝ないようで」
○「うん(膝へ手を突き前へ乗出し)それから」
侍「拙者に夜具を貸してしまい、娘は夜具無しで其処へごろりと寝ているから、どうも其方の着る物を貸して、此の寒いのに其方が夜具無しで寝るような事じゃア気の毒じゃ、風でも引かしては宜しくないというと、いえ宜しゅうございます、なに宜しい事はない、掛蒲団だけ持って行ってください、拙者は敷蒲団をかけて寝るから、いゝえ何う致しまして、それならば旦那さま恐入りますが、貴方のお裾の方へでも入れて寝かしてくださいませんかと云った」
○「へえー、ふう鐵もっと此方へ出ろ、面白い話になって来た、旦那は真面目になってるが、能く見ると助平そうな顔付だ、目尻が下ってて、旨く女をごまかしたね、中々油断は出来ねえ、白状おしなさい」
侍「ま、黙ってお聞きなさい、苟めにも男女七才にして席を同じゅうせずで、一つ寝床へ女と一緒に寝て、他に悪い評でも立てられると、修行の身の上なれば甚だ困ると断ると、左様ならば御足でも擦らして下さいましと云った」
○「へえー、女の方で、えへ/\、矢張山の中で男珍らしいんで、えへ/\/\成程うん」
侍「どうも様子が訝しい、変だと思った」
○「なに先で思っていたんでしょう」
侍「それから拙者は此方の小さい座敷に寝ていると、改めて又枕元へ来てぴたりと跪いて」
○「其の女が蹴躓きやアがったんで」
侍「蹴躓いたのではない、丁寧に手を突いて、先生私は何をお隠し申しましょう、親の敵を尋ねる身の上でございます」
○「うん、其の女が…成程」
侍「敵は此の一村隔いて隣村に居ります、僅に八里山を越すと、現に敵が居りながら、女の細腕で討つことが出来ません、先方は浪人者で、私の父は杣をいたして居りましたが、山界の争い事から其の浪人者が仲裁に入り、掛合に来ましたのを恥かしめて帰した事があります、其の争いに先方の山主が負けたので、礼も貰えぬ所から、それを遺恨に思いまして、其の浪人が私の父を殺害いたしたに相違ないという事は、世間の人も申せば、私も左様に存じます、其の傍に扇子が落ちてありました、黒骨の渋扇へ金で山水が描いて有って、確に其の浪人が持って居りました扇子で見覚えが有ります、どうか先生を武術修行のお方とお見受け申して、お頼み申しますが、助太刀をなすって敵を討たして下さいませんか、始めてお泊め申したお方に何とも恐入りますが、助太刀をなすって本意を遂げさせて下されば、何の様な事でも貴方のお言葉は背きません、不束な者で、迚もお側にいるという訳には参りませんが、御飯焚でもお小間使いでも、お寝間の伽でも仕ようという訳だ」
○「へえー、此奴ア矢張然ういう事があるんでげしょう、へえー、なア……鐵やい、左官の松の野郎が火事の時に手伝って、それから御家様の処え出入りをし、何日か深い訳になったが、成程然ういう事がありましょう、それから何うしました」
侍「然ういう訳なれば宜しい、助太刀をして慥かに本意を遂げさせて遣ろうと受合うと、女は悦んで、あゝ有難う草葉の蔭において両親も嘸悦びましょうと、綺麗な顔で真に随喜の涙を流した」
○「へえー芋売見たような涙を」
侍「なに有難涙を」
○「へえ成程それから何うしました」
侍「ところで同衾に寝たんだ」
○「へえー甚いなア……成程、鐵ウもっと前へ出ろ、大変な話になって来た」
向座敷で手をぽん/\と打つと、又候下女がまいって、
下婢「皆さんお静かになすって、なるたけわア/\云わねえように願います」
○「へえ/\……それから何うしました、先生」
侍「いや止そう」
○「其処まで遣って止すてえ事はありません、お願えだから後を話しておくんなせえ」
侍「病人があると云うから止そう」
○「だって先生、こゝで止めちゃア罪です」
侍「こゝらで止める方が宜かろう」
○「落話家や講釈師たア違えます」
侍「此処が丁度宜い段落だ」
○「おい、よ話しておくんねえな/\」
侍「困るな…すると其の女にこう□□[#底本2字伏字]められた時には、身体痺れるような大力であった」
○「へえー、それは化物だ、面白い話だね、それから」
侍「もう止そう」
○「冗談じゃアない、これで止められて堪るものか……皆さん誰か一つ旦那に頼んでおくんなせえな、是から面白え処なんで、今止められちゃア寝てから魅されらア」
侍「やるかなア」
○「うん成程、其の女が貴方の顔をペロ/\甜めたんで」
侍「なに甜めるものか、うーんと振解して、枕元にあった無反の一刀を引抜いて、斬付けようとすると、がら/\/\と家鳴震動がした」
○「ふうん」
侍「ばら/\/\表へ逃げる様子、尚追掛けて出ると、這は如何に、拙者が化されていたのじゃ、茅屋があったと思う処が、矢張野原で、片方はどうどうと渓間に水の流れる音が聞え、片方は恐ろしい巌石峨々たる山にして、ずうっと裏手は杉や樅などの大樹ばかりの林で、其の中へばら/\/\と追込んだな」
○「へえー成程、狐狸は尻を出して何かに見せると云うが、貴方それから何うしました」
侍「追掛けて行って、すうと一刀浴せると、ばたり前へ倒れた…化物が…拙者も疲れてどたーり其処へ尻餅を搗いた」
○「成程是は尤もです、痛うござえましたろう、其処に大きな石があったんで」
侍「なに石も何もありゃアせん、余計な事を云わずに聞きなさい」
○「な何の化物でげす」
侍「善く善く其の姿を見ると、それが伸餅の石に化したのさ」
○「へえ、何故だろうなア」
侍「だから何うしてもちぎる訳にいかん」
○「冗談じゃアない、真面目な顔をして嘘ばっかり吐いてる、皆な嘘っぺい話でいけねえ、己のは本当だ、此の中に聞いた人もあるだろう、何の話さ、大変だな、己ア江戸の者だ、谷中の久米野美作守様の屋敷へ出入の職人だったが、其処に大変な悪人がいて、渡邊様てえ人を斬って、其の上に女を連れて逃げたは、えゝ何とかいう奴だっけ、然うよ、春部梅三郎よ、其奴は甚い奴で、重役の渡邊織江様を斬殺したんで、其の子が跡を追掛けて行くと、旨く言いくろめて、欺して到頭連出して、何とかいう所だっけ、然う/\、新町河原の傍で欺し討に渡邊様の子を殺して逃げたというんだが、大騒ぎよ、八州が八方へ手配りをしたが、山越をして甲府へ入ったという噂で」
鐵「止しねえ/\、うっかり喋るな、冗談じゃアねえぜ、若し八州のお役人が、是れは何う云う訳だ、他人に聞いたんでと云っても追付くめえ」
と一人が止めるのを、一人の男が頻りに知ったふりで喋って居ります。
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