三十二
祖五郎は前席に述べました通り、春部梅三郎を親の敵と思い詰めた疑いが晴れたのみならず、悪者の密書の意味で、略ぼお家を押領するものが有るに相違ないと分り、私の遺恨どころでない、実に主家の大事だから、早くお国表へまいろうと云うので、急に二人梅三郎と共にお国へ出立いたしましたが、其の時姉のお竹の方へは、これ/\で梅三郎は全く父を殺害いたしたものではない、お屋敷の一大事があって、細かい事は申上げられんが、一度お国表へまいり、家老に面会して、どうかお家の安堵になるようと、梅三郎も同道してお国表へ出立致しますが、事さえ極れば遠からず帰宅いたします、それまで落着いて中の条に待っていて下さい、必らずお案じ下さらぬようにとの手紙がまいりました。なれどもお竹は案じられる事で、
竹「何卒して弟に会いたい、年歯もいかない事であるから、また梅三郎に欺かれて、途中で不慮の事でも有ってはならん」
と種々心配いたしても、病中でございますから立つことも出来ず、忠平に介抱されまして、段々と月日が経つばかり、其の内に病気も全快いたしましたが其の後国表から一度便りがござりまして、秋までには帰る事になるから、落着いて居てくれという文面ではありますが、其の内に六月も過ぎて七月になりました時に、身体も達者になり、こんな山の中に居たくもない、江戸へ帰って出入町人の世話に成りたい、忠平の親父も案じているであろうから、岩吉の処へ行って厄介になりたいと、常々喜六という家来に云って居りました。然るに此の喜六が亡くなった跡は、親戚ばかりで、別に恩を被せた人ではないから、気詰りで中の条にも居られませんので、忠平と相談して中の条を出立し、追分沓掛軽井沢碓氷の峠も漸く越して、松枝の宿に泊りました、其の頃お大名のお着きがございますと、いゝ宿屋は充満でございます。お大名がお一方もお泊りが有りますと、小さい宿屋まで塞がるようなことで、お竹は甲州屋という小さい宿屋へ泊りまして、翌朝立とうと思いますと、大雨で立つことも出来ず、其の内追々山水が出たので、道も悪し、板鼻の渡船も止り、其の他何処の渡船も止ったろうと云われ、仕方がなしに足を止めて居ります内に、心配致すのはいかんもので、船上忠平が風を引いたと云って寝たのが始りで、終に病が重くなりまして、どっと寝るような事になりました。お医者と云っても良いのはございません、開けん時分の事で、此の宿では第一等の医者だというのを宿の主人が頼んでくれましたが、まるで虚空蔵様の化物見たようなお医者さまで、脉を診って薬と云っても、漢家の事だから、草をむしったような誠に効能の薄いようなものを呑ませる中に、終に息も絶え/″\になり、八月上旬には声も嗄れて思うように口も利けんようになりました。親の仇でも討とうという志のお竹でありますから、家来にも甚だ慈悲のあることで、
竹「あの忠平や」
忠「はい」
竹「お薬の二番が出来たから、お前我慢して嫌でもお服べ、確かりして居ておくれでないと困るよ」
忠「有難う存じますが、お嬢様私の病気も此の度は死病と自分も諦めました、とても御丹誠の甲斐はございませんから、どうぞもお薬も服まして下さいますな、もう二三日の内にむずかしいかと思います」
竹「お前そんなことを云っておくれじゃア私が困るじゃアないか、祖五郎はお国へ行き、喜六は死に、お前より他に頼みに思う者はなし、一人ではお屋敷へ帰ることも出来ず、江戸へ行ってもお屋敷近い処へ落着けない身の上になって、お前を私は家来とは思わない、伯父とも親とも力に思う其のお前に死なれ、私一人此処に残ってはお前何うする事も出来ませんよ」
忠「有難う……勿体ないお言葉でございます、僅か御奉公致しまして、何程の勤めも致しませんのに、家来の私を親とも伯父とも思うという其のお言葉は、唯今目を眠りまして冥土へ参るにも好い土産でございます、併し以前とちがって御零落なすって、今斯う云うお身の上におなり遊ばしたかと存じますと、私は貴方のお身の上が案じられます、どうぞ私の亡い後は、他に入っしゃる所もございません故、昨夜貴方が御看病疲れで能く眠っていらっしゃる内に、私が認いて置きました手紙が此処にございます、親父は無筆でございますから、仮名で細かに書いて置きましたから、あなたが江戸へ入らっしゃいまして、春木町の私の家へ行って、親父にお会いなさいましたら、親父が貴方だけの事はどうかまア年は老っても達者な奴でございますから、お力になろうと存じます、此処から私が死ぬと云う手紙を出しますと、驚いて飛んで来ると云うような奴ゆえ、却って親父に知らせない方が宜いと存じますから、何卒お嬢さん、はッはッ、私が死にましたら此処の寺へ投込みになすって道中も物騒でございますから、お気をお付けなすって、あなたは江戸へ入っしゃいまして親父の岩吉にお頼みなすって下さいまし」
竹「あい、それやア承知をしましたが、もし其様なことでもあると私はまア何うしたら宜かろう、お前が死んでは何うする事も出来ませんよ、何うか癒るようにね、病は気だというから、忠平確かりしておくれよ」
忠「いえ何うも此度はむずかしゅうございます」
と是が主従の別れと思いましたからお竹の手を執って、
忠「長らく御恩になりました」
と見上げる眼に泪を溜めて居りますから、耐えかねてお竹も、
竹「わア」
と枕元へ泣伏しました。此の家の息子が誠に親切に時々諸方へ往っちゃア、旨い物と云って田舎の事だから碌な物もありませんが、喰物を見附けて来ては病人に遣ります。宿屋の親父は五平と云って、年五十九で、江戸を喰詰め、甲州あたりへ行って放蕩をやった人間でございます。忰は此の地で生立た者ゆえ質朴なところがあります。
忰「父さま、今帰ったよ」
五「何処へ行ってた」
忰「なに医者の処へ薬を取りに行って聞いたが、医者殿が彼の病人はむずかしいと云っただ」
五「困ったのう、二人旅だから泊めたけれども、男の方は亭主だか何だか分らねえが、彼がお前死んでしまえば、跡へ残るのは彼の小娘だ、長え間これ泊めて置いたから、病人の中へ宿賃の催促もされねえから、仕方なしに遠慮していたけんど、医者様の薬礼から宿賃や何かまで、彼の男が亡くなってしまった日にゃア、誠に困る、身ぐるみ脱だって、碌な荷物も無えようだから、宿賃の出所があるめえと思って、誠に心配だ、とんだ厄介者に泊られて、死なれちゃア困るなア」
忰「それに就て父に相談打とうと思っていたが、私だって今年二十五に成るで、何日まで早四郎独身で居ては宜くねえ何様者でも破鍋に綴葢というから、早く女房を持てと友達が云ってくれるだ、乃で女房を貰おうと思うが、媒妁が入って他家から娘子を貰うというと、事が臆劫になっていかねえから、段々話い聞けば、あの男が死んでしまうと、私は年が行かないで頼る処もない身の上だ、浪人者で誠に心細いだと云っちゃア、彼の娘子が泣くだね」
五「浪人者だと…うん」
早「どうせ何処から貰うのも同じ事だから、彼の男がおっ死んだら、彼の娘を私の女房に貰えてえだ、裸じゃアあろうけれども、他人頼みの世話がねえので、直にずる/\べったりに嫁っ子に来ようかと思う、彼を貰ってくんねえか父」
五「馬鹿野郎、だから仕様がねえと云うのだ、これ、父はな、江戸の深川で生れて、腹一杯悪い事をして喰詰めっちまい、甲州へ行って、何うやら斯うやら金が出来る様になったが、詰り悪い足が有ったんで、此処へ逃げて来た時に、縁があって手前の死んだ母親と夫婦になって、手前と云う子も出来て、甲州屋という、ま看板を掛けて半旅籠木賃宿同様な事をして、何うやら斯うやら暮している事は皆なも知っている、手前は此方で生立って何も世間の事は知らねえが、家に財産は無くとも、旅籠という看板で是だけの構えをしているから、それ程貧乏だと思う人はねえ何処から嫁を貰っても箪笥の一個や長持の一棹ぐらい附属いて来る、器量の悪いのを貰えば田地ぐらい持って来るのは当然だ、面がのっぺりくっぺりして居るったって、あんな素性も分らねえ者を無闇に引張込んでしまって何うするだ、医者様の薬礼まで己が負わなければなんねえ」
早「それは然うよ、それは然うだけれど、他家から嫁子を貰やア田地が附いて来る、金が附いて来るたって、ま宅へ呼ばって、後で己が気に適らねえば仕様がねえ訳だ、だから己が気に適ったのを貰やア家も治まって行くと、夫婦仲せえ宜くば宜いじゃアねえか、貰ってくんろよ」
五「何を馬鹿アいう手前が近頃種々な物を買って詰らねえ無駄銭を使うと思った、あんな者が貰えるか」
早「何もそんなに腹ア立てねえでも宜い相談打つだ」
五「相談だって手前は二十四五にも成りやアがって、ぶら/\遊んでて、親の脛ばかり咬っていやアがる、親の脛を咬っている内は親の自由だ、手前の勝手に気に適った女が貰えるか」
早「何ぞというと脛え咬る/\てえが、父の脛ばかりは咬っていねえ、是でもお客がえら有れば種々な手伝をして、洗足持ってこ、草鞋を脱がして、汚え物を手に受けて、湯う沸して脊中を流してやったり、皆家の為と思ってしているだ、脛咬りだ/\てえのは止してくんろえ」
五「えゝい喧しいやい」
と流石に鶴の一声で早四郎も黙ってしまいました。此の甲州屋には始終極った奉公人と申す者は居りません、其の晩の都合によって、客が多ければ村の婆さんだの、宿外れの女などを雇います。七十ばかりになる腰の曲った婆さんが
婆「はい、御免なせえまし」
五「おい婆さん大きに御苦労よ、お前又晩に来てくんろよ、客の泊りも無いが、又晩には遊んで居るだろうから、ま来なよ」
婆「はい、あの只今ね彼処のそれ二人連の病人の処へめえりました」
五「おゝ、お前が行ってくれねえと、先方でも困るんだ」
婆「それが年のいかない娘子一人で看病するだから、病人は男だし、手水に行くたって大騒ぎで、誠に可愛想でがんすが、只た今おっ死にましたよ」
五「え、死んだと……困ったなアそれ見ろ、だから云わねえ事じゃアねえ、何様な様子だ」
婆「何様にも何にも娘子が声をあげて泣いてるだよ、あんた余り泣きなすって身体へ障るとなんねえから、泣かねえが宜うがんすよ、諦めねえば仕様がねえと云うと、私は彼に死なれると、年もいかないで往く処も無え、誠に心細うがんす、あゝ何うすべいと泣くだね、誠に気の毒な訳で」
五「はアー困ったもんだな」
早「私え、ちょっくら行って来よう」
五「なに手前は行かなくっても宜い」
早「行かなくっても宜いたって、悔みぐらいに行ったって宜かんべい」
五「えゝい、何ぞというと彼の娘の処へ計り行きたがりやアがる、勝手にしろ」
と大かすでございましたから早四郎は頬を膨らせて起って行く。五平は直にお竹の座敷へ参りまして。
五「はい、御免下せえ」
と破れ障子を開けて縁側から声を掛けます。
竹「此方へお入んなさいまし、おや/\宿の御亭主さん」
五「はい、只今婆アから承わりまして、誠に恟りいたしましたが、お連さまは御丹誠甲斐もない事で、お死去になりましたと申す事で」
竹「有難う、長い間種々お世話になりました、殊に御子息が朝晩見舞っておくれで、親切にして下さるから何ぞお礼をしたいと思って居ります、病人も誠に真実なお方だと悦んで居りました、私も丹誠が届くならばと思いましたが、定まる命数でございまする、只今亡くなりまして、誠に不憫な事を致しました」
五「いやどうも、嘸お力落しでございましょう、誠にお気の毒な事でございます、時に、あゝそれでもって伺いますが、お死去りなすった此の死骸は、江戸へおいでなさるにしても、信州へお送りになるにしても、死骸を脊負って行く訳にもいかないから此の村へ葬るより他に仕方はございますまいが、火葬にでもなすって、骨を持って入らっしゃいますか、其の辺の処を伺って置きたいもので」
竹「はい、何処と云って知己もございませんから、どうか火葬にして此の村へ葬り、骨だけを持ってまいりとう存じますが、御覧の通り是からは私一人でございますから、何かと世話のないように髪の毛だけでも江戸の親元へ参れば宜しゅうございますから、殊に当人は火葬でも土葬でも宜いと遺言をして死去りましたから、どうぞ御近処のお寺へお葬り下さるように願いたいもので」
五「左様でございますか、お泊り掛のお方で、何処の何という確かりとした何か証がないと、お寺も中々厳しくって請取りませんが、私どもの親類か縁類の人が此方へ来て、死んだような話にして、どうか頼んで見ましょう」
と此の話の中にいつか忰の早四郎が後へまいりまして、
早「なに然うしねえでも宜い、此の裏手の洪願寺さまの和尚様は心安くするから頼んで上げよう、まことに手軽な和尚様で、中々道楽坊主だよ、以前は叩鉦を叩いて飴を売ってた道楽者さ、銭が無ければ宜い、たゞ埋めて遣んべえなどゝいう捌けた坊様だ、其の代りお経なんどは読めねえ様子だが、銭金の少しぐれえ入るような事があって困るなら、沢山はねえが些とべいなら己が出して遣るべえ」
五「何だ、これ、お客様に失礼な、お前がお客さまに金を出して上げるとは何だ、そんな馬鹿な事をいうな」
早「父は何ぞというと小言をいうが、無ければ出してくれべえと云うだから宜かっぺえじゃアねえか」
五「其様な事ア何うでも宜いから、早く洪願寺へ行って願って来い」
是から息子がお寺へ行って和尚に頼みました。早速得心でございますから、急に人を頼んで、早四郎も手伝って穴を掘り、真実にくれ/\働いて居ります。丁度其の晩の事でございますが、宿屋の主人が、
五「へえ娘さん、えゝ今晩の内にお葬りになりますように」
竹「はい、少し早いようでございますが、何分宜しゅう……多分に手のかゝりませんように」
五「宜しゅうございます、其の積りに致しました、何も多勢和尚様方を頼むじゃアなし、お手軽になすった方が、御道中ゆえ宜しゅうございましょう」
と親切らしく主人が其の晩の中に、自分も随いて行って野辺送りを致してしまいました。
三十三
其の晩に脱出して、彼の早四郎という宿屋の忰が、馬子の久藏という者の処へ訪ねて参り、
早「おい、トン/\/\久藏眠ったかな、トン/\/\眠ったかえ。トン/\/\」
余りひどく表を敲くから、側の馬小屋に繋いでありました馬が驚いて、ヒイーン、バタ/\/\と羽目を蹴る。
早「あれまア、馬めえ暴れやアがる、久藏眠ったかえ……あれまア締りのねえ戸だ、叩いてるより開けて入る方が宜い、酔ぱれえになって仰向にぶっくり反って寝っていやアがる、おゝ/\顔に虻が附着いて居るのに痛くねえか、起ろ/\」
久「あはー……眠ったいに、まどうもアハー(あくび)むにゃ/\/\、や、こりゃア甲州屋の早四郎か、大層遅く来たなア」
早「うん、少し相談打ちに来たアだから目え覚せや」
久「今日は沓掛まで行って峠え越して、帰りに友達に逢って、坂本の宿はずれで一盃やって、よっぱれえになって帰って来たが、馬の下湯を浴わねえで転輾えって寝ちまった、眠たくってなんねえ、何だって今時分出掛けて来た」
早「ま、眼え覚せや、覚せてえに」
久「アハー」
早「大え欠伸いするなア」
久「何だ」
早「他のことでもねえが、此間汝がに話をしたが、己ア家の客人が病気になって、娘子が一人附いているだ、好い女子よ」
久「話い聞いたっけ、好い女子で、汝がねらってるって、それが何うしただ」
早「その連の病人が死んだだ」
久「フーム気の毒だのう」
早「就ては彼の娘を己の嫁に貰えてえと思って、段々手なずけた処が、当人もまんざらでも無えようで、謎をかけるだ、此の病人が死んでしまえば、行処もねえ心細い身の上でございますと云うから、親父に話をした処が、親父は慾張ってるから其様な者を貰って何うすると、頓と相手になんねえから、汝が己ア親父に会って話を打って、彼の娘を貰うようにしちゃアくんめえか」
久「然うさなア、どうもこれはお前ん処の父さまという人は中々道楽をぶって、他人のいう事ア肯かねえ人だよ、此の前荷い馬へ打積んで、お前ん処の居先[#「居先」は「店先」の誤記か]で話をしていると、父さまが入り口へ駄荷い置いて気の利かねえ馬方だって、突転ばして打転ばされたが、中々強い人で、話いしたところが父さまの気に入らねえば駄目だよ、アハー」
早「欠伸い止せよ……これは少しだがの、汝え何ぞ買って来るだが、夜更けで何にもねえから、此銭で一盃飲んでくんろ」
久「気の毒だのう、こんなに差し吊べたのを一本くれたか、気の毒だな、こんなに心配されちゃア済まねえ、此間あの馬十に聞いたゞが、どうも全体父さまが宜くねえ、息子が今これ壮んで、丁度嫁を娶って宜い時分だに、男振も好し何処からでも嫁は来るだが、何故嫁を娶ってくれねえかと、父さまを悪く云って、お前の方を皆な誉めている、男が好いから女の方から来るだろう」
早「来るだろうって……どうも……親父が相談ぶたねえから駄目だ」
久「相談ぶたねえからって、お前は男が好いから娘を引張込んで、優しげに話をして、色事になっちまえ、色事になって何処かへ突走れ……己の家へ逃げて来う、其の上で己が行って、父さまに会ってよ、お前も気に入るめえが、若え同志で斯ういう訳になって、女子を連れて己の家へ来て見れば、家も治らねえ訳で、是も前の世に定まった縁だと思って、余り喧ましく云わねえで、己が媒妁をするから、彼を
子にして遣ってくんろえ、家に置くのが否だなら、別に世帯を持たしても宜いじゃアねえかという話になれば、仕方がねえと親父も諦めべえ、色事になれや」
早「成れたって……成る手がゝりがねえ」
久「女に何とか云って見ろ」
早「間が悪くって云えねえ、客人だから、それに真面目な人だ、己が座敷へ入ると起上って、誠に長く厄介になって、お前には分けて世話になって、はア気の毒だなんて、中々お侍さんの娘だけに怖えように、凛々しい人だよ」
久「口で云い難ければ文を書いてやれ、文をよ、袂の中へ放り込むとか、枕の間へ挟むとかして置けい、娘子が読んで見て、宿屋の息子さんが然ういう心なれば嬉しいじゃアないか、どうせ行処がないから、彼の人と夫婦になりてえと、先方で望んでいたら何うする」
早「何だか知んねえが、それはむずかしそうだ」
久「そんな事を云わずにやって見ろ」
早「ところが私は文い書いた事がねえから、汝書いてくんろ、汝は鎮守様の地口行灯を拵えたが巧えよ、それ何とかいう地口が有ったっけ、そう/\、案山子のところに何か居るのよ」
久「然うよ、己がやったっけ、何か己え……然うさ通常の文をやっても、これ面白くねえから、何か尽し文でやりてえもんだなア」
早「尽し文てえのは」
久「尽しもんてえのは、ま花の時なれば花尽しよ、それからま山尽しだとか、獣類尽しだとかいう尽しもんで贈りてえなア」
早「それア宜いな、何ういう塩梅に」
久「今時だから何だえ虫尽しか何かでやれば宜いな」
早「一つ拵えてくんろよ」
久「紙があるけえ」
早「紙は持っている」
久「其処に帳面を付ける矢立の巨えのがあるから、茶でも打っ垂して書けよ、まだ茶ア汲んで上げねえが、其処に茶碗があるから勝手に汲んで飲めよ、虫尽しだな、その女子が此の文を見て、あゝ斯ういう文句を拵える人かえ、それじゃアと惚れるように書かねえばなんねえな」
早「だから何ういう塩梅だ」
久「ま其処へ一つ覚と書け」
早「覚……おかしいな」
久「おかしい事があるものか、覚えさせるのだから、一つ虫尽しにて書記し※[#「まいらせそろ」の草書体、344-6]よ」
早「一虫尽しにて書記し※[#「まいらせそろ」の草書体、344-6]」
久「えゝ女子の綺麗な所を見せなくちゃアなんねえ……綺麗な虫は……ア玉虫が宜い、女の美しいのを女郎屋などでは好い玉だてえから、玉虫のようなお前様を一と目見るより、いなご、ばったではないが、飛っかえるほどに思い候と書け」
早「成程いなご、ばったではないが、飛っかえるように思い候」
久「親父の厳しいところを入れてえな、親父はガチャ/″\虫にてやかましく、と」
早「成程……やかましく」
久「お前の傍に芋虫のごろ/″\してはいられねえが、えゝ……簑虫を着草鞋虫を穿き、と」
早「何の事だえ」
久「汝が野らへ行く時にア、簑を着たり草鞋を穿いたりするだから」
早「成程……草鞋虫を穿きい」
久「かまぎっちょを腰に差し、野らへ出てもお前様の事は片時忘れるしま蛇もなく」
早「成程……しま蛇もなく」
久「えゝ、お前様の姿が赤蜻蛉の眼の先へちら/\いたし候」
早「何ういう訳だ」
久「蜻蛉の出る時分に野良へ出て見ろ、赤蜻蛉が彼方へ往ったり此方へ往ったり、目まぐらしくって歩けねえからよ」
早「成程……ちら/\いたし候」
久「えゝと、待てよ……お前と夫婦になるなれば、私は表で馬追い虫、お前は内で機織虫よ」
早「成程……私は馬を曳いて、女子が機を織るだな」
久「えゝ…股へ蛭の吸付いたと同様お前の側を離れ申さず候、と情合だから書けよ」
早「成程……お前の側を離れ申さず候か、成程情合だね」
久「えゝ、虻蚊馬蠅屁放虫」
早「虻蚊馬蠅屁放虫」
久「取着かれたら因果、晩げえ私を松虫なら」
早「……晩げえ私を松虫なら」
久「藪蚊のように寝床まで飛んでめえり」
早「藪蚊のように寝床まで飛んでめえり」
久「直様思いのうおっ晴し候、巴蛇の長文句蠅々※[#かしく」の草書体、345-9]」
早「成程是りゃア宜いなア」
久「是じゃア屹度女子がお前に惚れるだ、これを知れねえように袂の中へでも投り込むだよ」
と云われ、早四郎は馬鹿な奴ですから、右の手紙を書いて貰って宅へ帰り、そっとお竹の袂へ投込んで置きましたが、開けて見たって色文と思う気遣いはない。翌朝になりますと宿屋の主人が、
五「お早うございます」
竹「はい、昨夜は段々有難う」
五「えゝ段々お疲れさま……続いてお淋しい事でございましょう」
竹「有難う」
五「えゝ、お嬢さん、誠に一国な事を申すようですが、私は一体斯ういう正直な性質で、私どもはこれ本陣だとか脇本陣だとか名の有る宿屋ではございませんで、ほんの木賃宿の毛の生えた半旅籠同様で、あなた方が泊ったところが、さしてお荷物も無し、お連の男衆は御亭主かお兄様か存じませんが、お死去になってあなた一人残り、一人旅は極厳ましゅうございまして、え、横川の関所の所も貴方はお手形が有りましょう、越えて入らっしゃいましたから、私どもでも安心はして居りますが、何しろ御病気の中だから、毎朝宿賃を頂戴いたす筈ですが、それも御遠慮申して、医者の薬礼お買物の立替え、何や彼やの御勘定が余程溜って居ります、それも長旅の事で、無いと仰しゃれば仕方が無いから、へえと云うだけの事で、宿屋も一晩泊れば安いもので、長く泊れば此んな高いものはありません、就ては一国なことを申すようですが、泊って入らっしゃるよりお立ちになった方がお徳だろうし、私も其の方が仕合せで、どうか一先ず立って戴きたいもので」
竹「はい、私はさっぱり何事も家来どもに任して置きました内に病気附きましたので、つい宿賃も差上げることを失念致した理由でもございませんが、病人にかまけて大きに遅うなりました、嘸かし御心配で、胡乱の者と思召すかは知りませんが、宿賃ぐらいな金子は有るかも知れません、直に出立いたしますから、早々御勘定をして下さい、何の位あれば宜いか取って下さいまし」
とお屋敷育ちで可なりの高を取りました人のお嬢さんで、宿屋の亭主風情に見くびられたと思っての腹立ちか、懐中からずる/″\と納戸縮緬の少し汚れた胴巻を取出し、汚れた紙に包んだ塊を見ると、おおよそ七八十両も有りはしないかと思うくらいな大きさだから、五平は驚きました。泊った時の身装も余り好くなし、さして、着換の着物もないようでありました、是れは忠平が、年のいかない娘を連れて歩くのだから、目立たんように態と汚れた衣類に致しまして、旅※[#「宀/婁」、347-6]れの姿で、町人体にして泊り込みましたので、五平は案外ですから驚きました。
竹「どうか此の位あれば大概払いは出来ようかと思いますが、書付を持って来て下さい」
と云われたので、流石の五平も少し気の毒になりましたが、
五「はい/\、えゝ、お嬢さま、誠に私はどうも申訳のない事をいたしました、あなた御立腹でございましょうが、あなたを私が見くびった訳でもなんでもない、実はその貴方にお費りのかゝらんように種々と心配致しまして、馬子や舁夫を雇いましても宿屋の方で値切って、なるたけ廉くいたさせるのが宿屋の亭主の当然でへえ見下げたと思召しては恐入ります、只今御勘定を致します、へい/\どうぞ御免なすって」
と帳場へまいりまして、
五「あゝ大層金子を持っている、彼は何者か知らん」
と暫くお竹の身の上を考えて居りましたが、別に考えも附きません。医者の薬礼から旅籠料、何や彼やを残らず書付にいたして持って来ましたが、一ヶ月居ったところで僅かな事でございます。お竹は例の胴巻から金を出して勘定をいたし、そこ/\手廻りを取片附け、明日は早く立とうと舁夫や何かを頼んで置きました。其の晩にそっと例の早四郎が忍んで来まして、
早「お客さん……お客さん……眠ったかね、お客さん眠ったかね」
竹「はい、何方」
早「へえ私でがすよ」
竹「おや/\御子息さん、さ此方へ……まだ眠りはいたしませんが、蚊帳の中へ入りましたよ」
早「えゝ嘸まア力に思う人がおっ死んで、あんたは淋しかろうと思ってね、私も誠に案じられて心配してえますよ」
竹「段々お前さんのお世話になって、何ぞお礼がしたいと思ってもお礼をする事も出来ません」
早「先刻親父が処え貴方が金え包んで種々厄介になってるからって、別に私が方へも金をくれたが、そんなに心配しねえでも宜え、何も金が貰いてえって世話アしたんでねえから」
竹「それはお前の御親切は存じて居ります誠に有難う」
早「あのー昨夜ねえ、私が貴方の袂の中へ打投り込んだものを貴方披いて見たかねえ」
竹「何を…お前さんが…」
早「あんたの袂の中へ書えたものを私が投り込んだ事があるだ」
竹「何様な書いたもの」
早「何様たって、丹誠して心のたけを書いただが、あんたの袂に書いたものが有ったんべい」
竹「私は少しも知らないので、何か無駄書の流行唄かと思いましたから、丸めて打棄ってしまいました」
早「あれ駄目だね、流行唄じゃアねえ、尽しもんだよ、艶書だよ、丸めて打棄っては仕様がねえ、人が種々丹誠したのによ」
と大きに失望をいたして欝いでいます。
三十四
お竹は漸々に其の様子を察して、可笑しゅうは思いましたが、また気の毒でもありますからにっこり笑って、
竹「それは誠にお気の毒な事をしましたね」
早「お気の毒ったって、まア困ったな、どうも私はな……実アな、まア貴方も斯うやって独身で跡へ残って淋しかろうと思い私も独身でいるもんだから、友達が汝え早く女房を貰ったら宜かろうなんてって嬲られるだ、それに就いては彼の優気なお嬢さんは、身寄頼りもねえ人だから、病人が死なば己がの女房に貰いてえと友達に喋っただ、馬十てえ奴と久藏てえ奴が、ぱっ/\と此れを方々へ触れたんだから、忽ち宿中へ広まっただね」
竹「そんな事お前さん云立てをしておくれじゃア誠に困ります」
早「困るたって私もしたくねえが、冗談を云ったのが広まったのだから、今じゃア是非ともお前さんを私の女房にしねえば、世間へ対して顔向が出来ねえから、友達に話をしたら、親父が厳ましくって仕様がねえけんども、貴方と己と怪しな仲になっちまえば、友達が何うでも話をして、親父に得心のうさせる、どうせ親父は年い老ってるから先へおっ死んでしまう、然うすれば此の家は皆己のもんだ、貴方が私の女房に成ってくれゝば、誠に嬉しいだが、今夜同志に此の座敷で眠っても宜かんべえ」
竹「怪しからん事をお云いだね、お前はま私を何だとお思いだ、優しいことを云っていれば好い気になって、お前私が此処へ泊っていれば、家の客じゃアないか、其の客に対して宿屋の忰が然んな無礼なことを云って済みますか、浪人して今は見る影もない尾羽打枯した身の上でも、お前たちのようなはしたない下郎を亭主に持つような身の上ではありません、無礼なことをお云いでない、彼方へ行きなさい」
早「魂消たね……下郎え……此の狸女め……そんだら宜え、そうお前の方で云やア是まで親父の眼顔を忍んで銭を使って、お前の死んだ仏の事を丹誠した、また尽しものを書いて貰うにも四百と五百の銭を持ってって書いて貰ったわけだ、それを下郎だ、身分が違うと云えば、私も是までになって、あんたに其んなことを云われゝば友達へ顔向が出来ねえから、意気張ずくになりゃア敵同志だ、可愛さ余って憎さが百倍、お前の帰りを待伏して、跡を追かけて鉄砲で打殺す気になった時には、とても仕様がねえ、然うなったら是までの命だと諦めてくんろ」
竹「あらまア、そんな事を云って困るじゃアないか、敵同志だの鉄砲で打つのと云って」
早「私は下郎さ、お前はお侍の娘だろう、併し然う口穢く云われゝば、私だって快くねえから、遺恨に思ってお前を鉄砲で打殺す心になったら何うするだえ」
竹「困るね、だけども私はお前に身を任せる事は何うしても出来ない身分だもの」
早「出来ないたって、病人が死んでしまえば便りのない者で困るというから、家へ置くべいと思って、人に話をしたのが始まりだよ、どうも話が出来ねえば出来ねえで宜いから覚悟をしろ、親父が厳ましくって家にいたって駄目だから、やるだけの事をやっちまう、棒鼻あたりへ待伏せて鉄砲で打ってしまうから然う思いなせえ」
竹「まアお待ちなさい」
と止めましたのは、此様な馬鹿な奴に遇っては仕様がない、鉄砲で打ちかねない奴なれど、斯る下郎に身を任せる事は勿論出来ず、併し世に馬鹿程怖い者はありませんから、是は欺すに若くはない、今の中は心を宥めて、ほとぼりの脱けた時分に立とうと心を決しました。
竹「あの斯うしておくれな私のようなものをそれ程思ってくれて、誠に嬉しいけれども、考えても御覧、たとえ家来でも、あゝやって死去ってまだ七日も経たん内に、仏へ対して其んな事の出来るものでもないじゃアないか」
早「うん、それは然うだね、七日の間は陰服と云って田舎などではえら厳ましくって、蜻蛉一つ鳥一つ捕ることが出来ねえ訳だから、然ういう事がある」
竹「だからさ七日でも済めば、親御も得心のうえでお話になるまいものでもないから、今夜だけの処は帰っておくれ」
早「然うお前が得心なれば帰る、田舎の女子のように直ぐ挨拶をする訳には往くめえが、お前のように否だというから腹ア立っただい、そんなら七日が済んで、七日の晩げえに来るから、其の積りで得心して下さいよ」
とにこ/\して、自分一人承知して帰ってしまいました。斯様な始末ですからお竹は翌朝立つことが出来ません、既に頼んで置いた舁夫も何も断って、荷物も他所へ隠してしまいました。主人の五平は、
五「お早うございます、お嬢さま、えゝ只今洪願寺の和尚様が前をお通りになりましたから、今日お立ちになると申しましたら、和尚様の言いなさるには、それは情ない事だ、遠い国へ来て、御兄弟だか御親類だか知らないが、死人を葬り放しにしてお立ちなさるのは情ない、せめて七日の逮夜でも済ましてお立ちになったら宜かろうに、余りと云えば情ない、それでは仏も浮まれまいとおっしゃるから、私も気になってまいりました、長くいらっしゃったお客様だ、何は無くとも精進物で御膳でもこしらえ、へゝゝゝ、宅へ働きにまいります媼達へお飯ア喰わして、和尚様を呼んで、お経でも上げてお寺参りでもして、それから貴方七日を済まして立って下されば、私も誠に快うございます、また貴方様も仏様のおためにもなりましょうから、どうか七日を済ましてお立ちを」
竹「成程私も其の辺は少しも心附きませんでした、大きに左様で、それじゃア御厄介序に七日まで置いて下さいますか」
というので七日の間泊ることになりました。他に用は無いから、毎日洪願寺へまいり、夜は回向をしては寝ます。宵の中に早四郎が来て種々なことをいう。忌だが仕方がないから欺かしては帰してしまう。七日まで/\と云い延べている中に早く六日経ちました。丁度六日目に美濃の南泉寺の末寺で、谷中の随応山南泉寺の徒弟で、名を宗達と申し、十六才の時に京都の東福寺へまいり、修業をして段々行脚をして、美濃路辺へ廻って帰って来たので、まだ年は三十四五にて色白にして大柄で、眉毛のふっさりと濃い、鼻筋の通りました品の好い、鼠無地に麻の衣を着、鼠の頭陀を掛け、白の甲掛脚半、網代の深い三度笠を手に提げ、小さな鋼鉄の如意を持ちまして隣座敷へ泊った和尚様が、お湯に入り、夕飯を喰べて夜に入りますと、禅宗坊主だからちゃんと勤めだけの看経を致し、それから平生信心をいたす神さまを拝んでいる。何と思ったかお竹は襖を開けて、
竹「御免なさいまし」
僧「はい、何方じゃ」
竹「私はお相宿になりまして、直き隣に居りますが、あなた様は最前お著の御様子で」
僧「はい、お隣座敷へ泊ってな、坊主は経を誦むのが役で、お喧ましいことですが、夜更まで誦みはいたしません、貴方も先刻から御回向をしていらっしったな」
竹「私は長らく泊って居りますが、供の者が死去りまして、此の宿外れのお寺へ葬りました、今日は丁度七日の逮夜に当ります、幸いお泊り合せの御出家様をお見掛け申して御回向を願いたく存じます」
僧「はい/\、いや/\それはお気の毒な話ですな、うん/\成程此の宿屋に泊って居る中、煩うてお供さんが…おう/\それはお心細いことで、此の村方へ御送葬になりましたかえ、それは御看経をいたしましょう、お頼みはなくとも知ればいたす訳で、何処へ参りますか」
竹「はい、こゝに机がありまして、戒名もございます」
僧「あゝ成程左様ならば」
と是から衣を着換え、袈裟を掛けて隣座敷へまいり、机の前へ直りますと、新しい位牌があります、白木の小さいので戒名が書いてあります。
僧「あゝ、是ですか、えゝ、むう八月廿四日にお死去になったな、うむ、お気の毒な事で南無阿弥陀仏々々々々々々、宜しい、えゝ、お線香は私が別に好いのを持って居りますから、これを薫きましょう」
と頭陀の中から結構な香を取出し、火入の中へ入れまして、是から香を薫き始め、禅宗の和尚様の事だから、懇に御回向がありまして、
僧「えゝ、お戒名は如何さま好いお戒名で、うゝ光岸浄達信士」
竹「えゝ、是は只心ばかりで、お懇の御回向を戴きまして、ほんのお布施で」
僧「いや多分に貴方、旅の事だから布施物を出さんでも宜しい、それやア一文ずつ貰って歩く旅僧ですから、一文でも二文でも御回向をいたすのは当然で、併し布施のない経は功徳にならんと云うから、これは戴きます、左様ならば私は旅疲れゆえ直ぐに寝ます、ま御免なさい」
と立ちかけるを留めて、
竹「あなた少々お願いがございます」
僧「はい、なんじゃな」
と又坐る。お竹はもじ/\して居りましたが、応て、
竹「おつな事を申上げるようでございますが、当家の忰が私を女と侮りまして、毎晩私の寝床へまいって、怪しからん事を申しかけまして、若し云うことを肯かなければ殺してしまうの、鉄砲で打つのと申します、馬鹿な奴と存じますから、私も好い加減に致して、七日でも済んだら心に従うと云い延べて置きましたが、今晩が丁度七日の逮夜で、明朝早く此の宿を立とうと存じますから、屹度今晩まいって兎や角申し、又理不尽な事を致すまいものでもあるまいと存じますで、誠に困りますが、幸い隣へお相宿になりましたから、事に寄ると私が貴方の方へ逃込んでまいりますかも知れません、其の時には何卒お助け遊ばして下さるように」
僧「いや、それは怪しからん、それは飛んだ事じゃ私にお知らせなさい、押えて宿の主人を呼んで談じます、然ういう事はない、自分の家の客人に対して、女旅と侮り、恋慕を仕掛けるとは以ての外の事じゃ、実に馬鹿程怖い者はない、宜しい/\、来たらお知らせなさい」
竹「何卒願います」
と少し憤った気味で受合いましたから、大きにお竹も力に思って、床を展って臥りました、和尚さまは枕に就くと其の儘旅疲れと見え、ぐう/\と高鼾で正体なく寝てしまいました。お竹は鼾の音が耳に附いて、どうも眠られません、夜半に密と起きて便所へまいり、三尺の開きを開けて手を洗いながら庭を見ると、生垣になっている外は片方は畠で片方は一杯の草原で、村の人が通るほんの百姓道でございます。秋のことだから尾花萩女郎花のような草花が咲き、露が一杯に下りて居ります。秋の景色は誠に淋しいもので、裏手は碓氷の根方でございますから小山続きになって居ります。所々ちら/\と農家の灯火が見えます、追々戸を締めて眠た処もある様子。お竹が心の中で。向うに幽かに見えるあの森は洪願寺様であるが、彼処へ葬り放しで此処を立つのは不本意とは存じながら、長く泊っていれば、宿屋の忰が来て無理無体に恋慕を云い掛けられるのも忌な事であると、庭の処から洪願寺の森を見ますと、生垣の外にぬうと立っている人があります。男か女か分りませんが、頻りと手を出してお出/\をしてお竹を招く様子、腰を屈めて辞儀をいたし、また立上って手招ぎをいたします。
竹「はてな、私を手招ぎをして呼ぶ人はない訳だが……男の様子だな、事によったら敵の手係りが知れて、人に知れんように弟が忍んで私に会いに来たことか、それとも屋敷から内々音信でもあった事か」
と思わず褄を取りまして、其処に有合せた庭草履を穿いて彼の生垣の処へ出て見ると、十間ばかり先の草原に立って居りまして、頻りと招く様子ゆえお竹は、はてな……と怪しみながら又跡を慕ってまいりますと、又男が後へ退って手招きをするので、思わず知らずお竹は畠続きに洪願寺の墓場まで参りますと、新墓には光岸浄達信士という卒塔婆が立って樒が上って、茶碗に手向の水がありますから、あゝ私ゃア何うして此処まで来たことか、私の事を案じて忠平が迷って私を救い出すことか、ひょっとしたら私が気を落している所へ附込んで、狐狸が化すのではないか、もし化されて此様な処へ来やアしないかと、茫然として墓場へ立止って居りました。
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