四十一
さて秋月喜一郎は、飴屋源兵衞を柔らかに欺して白状させようという了簡、其の頃お武家が暴い事をいたすと、町人は却って驚いて、云うことも前後致したり、言いたいことも言い兼て、それがために物の分らんような事が、毎度町奉行所でもあった事でございます。源兵衞は何うして知れたかと思って、顔色を変え、突いていた手がぶる/″\震える様子ゆえ、喜一郎は笑を含みまして、物柔らかに、
秋「いや源兵衞何か心配をして、これを言ってはならんとか、彼を言っては他役人の身の上にも拘わるだろうと深く思い過して、隠し立てを致すと却って為にならんぞ、定めし上役の者が其の方に折入って頼んだ事も有るであろうが、其の者の身分柄にも障るような事があってはならんから、これは秋月に言っては悪かろうと、斯う手前が考えて物を隠すと、却って悪い、と云うのは元来お屋敷へ出入を致すのには、殿様を大事と心得なければならん、そりゃアまた出入町人にはそれ/″\係りの者もあるから、係り役人を粗末にしろと云うのではないが、素より手前は上の召上り物の御用を達す身の上ではないか、なア」
源「へえ誠にどうも其の、えゝ…何うも私がその、事柄を弁えませんものでございまして、唯飴屋風情の者がお屋敷へお出入を致しまして、お身柄のあります貴方様を始め、皆様に直々斯う遣ってお目通りをいたし、誠に有難い事と心得まして、只私はえゝ何うも其の有難くばかり存じますので、へえ自然に申上げます事もその前後に相成ります」
秋「なに有難く心得て、言う事が前後になるというのは可笑しい一体何ういう訳で手前は当家の婆に斑猫を捕ってくれろと頼んだか、それを云えというんだ」
源「それはその私が懇意にいたします近辺に医者がございまして、その医者がどうも其の薬を……薬は一体毒なもので、
疔根太腫物のようなものに貼けます、膏薬吸出しのようなものは、斑猫のような毒が入りませんければ、早く吹切りません、それゆえ欲いと申されました事でございまして」
秋「其の人は何処の者か」
源「へえ実はその……私が平常心易くいたしますから、どうかお前頼んでくれまいかと云われて、私が其の医者を同道いたしてまいりまして、当家の婆に頼みましたのでございます」
秋「ムヽウ、其の医者は何処の者だえ、いやさ近辺にいるというが、よもやお抱えの医者ではあるまい、町医か外療でもいたすものかえ」
源「へえ、その……大概その外療をいたしましたり、ま其の風っ引きぐらいを治すような工合で」
秋「何と申す医者だえ」
源「へい、その誠にその、雑といたした医者で」
秋「雑と致した、そんな医者はありません、名前は何というのだえ」
源「名前はその、えゝ……実はその何でございます、山路と申します」
秋「山路……山路宗庵と云うか」
源「へえ、好く御存じさまで」
秋「是は殿様のお部屋お秋の方の父で、お屋敷へまいる事もあるで、存じて居る、其の者に頼まれて、貴様が此処の婆に斑猫を捕れと頼んだのか、薬に用いるなれば至極道理の事だ……当家の主人は居るの、一寸こゝへ出てくれ」
嘉「はい」
秋「婆も一寸こゝへ」
婆「はい」
と両人とも秋月喜一郎の前へまいりました。
秋「お前方は何かえ、此の飴屋の源兵衞は前から懇意にいたして居るものかえ、毎度此の飴屋方へも行き、源兵衞も度々此方へ参るような事があるかえ」
嘉「いえなに私が処へお出でなすった事も何もない、私は御懇意にも何にもしませんが、婆が商いに出ました先でお目にかゝったのが初り、それから頼まれましたんで、のうお母」
婆「はい、なに心易くも何とも無えので、お得意廻りに歩き、商いをしべえと思って籠を脊負って出て、お前さま、谷中へかゝろうとする途で会ったゞね、それから斯ういう理由だが婆、何うだかと云うから、ま詰らん小商いをするよりもこれ、一疋虫を捕めえて六百ずつになれば、子供でも出来る事だから宜かろうと頼まれましたんで」
秋「左様か、源兵衞当家の嘉八という男も婆も手前は懇意じゃア無いと云うじゃアないか」
源「へえ、別に懇意という……なにもこれ親類というわけでも何でもないので」
秋[#「秋」は底本では「源」]「親類かと問やアせん、手前が当家の婆とは別懇だから、山路が手前に斑猫を捕る事を頼んだと只今申したが、然らば手前は当家の婆は別懇でも何でもなく、通りかゝりに頼んだか山路も何か入用があって毒虫を捕る事を手前に頼んだ事であろうと考えるが、これは誰か屋敷の者の中で頼んだ者でもありはせんか」
源「へえ左様でございますかな」
秋「左様でございますかな、と申して此の方が手前に聞くんだ」
源「へえ……どうか真平御免遊ばして下さいまし、重々心得違で」
秋[#「秋」は底本では「喜」]「只心得違いでは分らん、白状をせんか、此の程御舎弟様が御病気について、大分夜分お咳が出るから、水飴を上げたら宜かろうというのでお上屋敷からお勧めに相成って居る、その水飴を上げる処の出入町人は手前じゃから、手前の処で製造して水飴が上る、其の水飴を召上って若し御病気でも重るような事があれば、手前が水飴の中へ毒を入れた訳ではあるまいけれども、手前が製した水飴を召上ったゝめに病気が重り、手前が頼んで斑猫を捕らしたという事実がある上は、左様な訳ではなくても、手前が水飴の中へ毒虫でも製し込んで上へ上げはせんかと、手前に疑ぐりがかゝる、是は当然の事じゃアないか、なア、決して手前を咎にはせん、白状さえすれば素々通り出入もさせてやる、此の秋月が刀にかけても手前を罪に落さんで、相変らず出入をさせた上に、お家の大事なれば多分に手当をいたして遣るように、此の秋月が重役等と申合せて計らって遣わす、何も怖い事はないから有体に言ってくれ、殿様のお為じゃ、殿様が有難いと心得たら是を隠してはなりませんよ、のう源兵衞」
源「へえ、私が愚昧でございまして、それゆえ申上げますことも前後に相成ります事でございまして、何かとお疑ぐりを受けますことに相成りましたが、なか/\何う致しまして、水飴の中へ毒などは入れられません、透いて見えます極製でございますから、へえ、なか/\何う致しまして、其様なことは……御免遊ばして下さいまし」
と泣声を出し涙を拭う。
秋「何故泣く」
源「私は涙っぽろうございます」
秋「涙っぽろいと云っても何も泣くことはない、別段仔細は無いから……左様な事は致すまいなれども、また御舎弟様付とお上屋敷の者と心を合せて、段々手前も存じて居ろうが、どうも御舎弟さまを邪魔にする者があると云うのは、御癇癖が強く、聊かな事にも暴々しくお高声を遊ばして、手打にするなどという烈しい御気性、乃でどうも御舎弟様には附が悪いので上屋敷へ諂う者も多いが、今大殿様もお加減の悪い処であるから、誠に心配で、万一の事でもありはせんか、有った時には御順家督で、何うしても御舎弟紋之丞様を直さねばならん、ところがその、此処に婆が居っては……他聞を憚ることじゃ……婆が聞いても委しいことは分るまいが……、婆嘉八とも暫時彼方へ退いてくれ」
婆「はい」
と立ってゆく。後見送りて、
秋「手前も存じて居る通り、只今其の方が申した医者の娘、お秋の方が儲けられた菊さまという若様がある、其の方を御家督に立てたいという慾心から、菊様の重役やお附のものが皆心を合せて御舎弟様を亡き者にせんと……企むのでは有りはすまいが、重役の者一統心配して居る、御舎弟様は大切のお身の上、万一間違でもあっては公儀へ対しても相済まんことだが、そりゃア手前も心得て居るだろう、只山路が頼んだというと、山路はお秋の方の実父だから、左様なこともありはせんかと私は疑ぐる、併し然うで有るか無いか知れんものに疑念を掛けては済まんけれども、大切のことゆえ有体に云ってくれ、其の方御舎弟様を大切に思うなれば云ってくれ、秋月が此の通り手を突いて頼む……な……決して手前の咎めにはせんよ、出入も元々どおりにさせ、また事に寄ったら三人扶持か五人扶持ぐらいは、若殿様の御世になれば私から直々に申上げて、其の方一代ぐらいのお扶持は頂戴さしてやる」
と和らかに言わるゝ程気味が悪うございますから、源兵衞は恐る/\首を上げ、
源「へえ、有難う、恐入りますことで、貴方さまのような御重役が、私ごとき町人風情に手を突いてお頼みでございましては、誠に恐入ります、私も実はその、えゝ……始めは驚きましてございますが……実はその、へえ、お立派なお方さまのお頼みでございまして、斑猫てえ虫を捕って水飴の中へ入れてくれろというお頼みでございます、初めは山路というお医者が、何とかいう、えゝ、
石とかいう薬を入れて練ったらと云うので練って見ましたが、これは水飴の中へ入れても好く分りますので、毒虫を煮てらんびきにいたして、その毒気を水飴の中へ入れたら、柔かになって宜かろうというお頼みで、迂濶りお目通りをして其の事を伺い、これは意外な事と存じまして、お断りを申上げましたら、其の事が不承知と申すなら、一大事を明したによって手打に致すとおっしゃって、刀の柄へ手を掛けられたので、恟り致しまして、否と云えば殺され、応と云えば是迄通り出入をさせ、其の上多分のお手当を下さるとの事、お金が欲くはございませんでしたが、全く殺されますのが辛いので、はいと止むを得ずお受けをいたしました、真平御免下さいまし」
秋「うむ、宜く言ってくれた、私も然うだろうと大概推察致して居った、宜く言ってくれた」
源「えゝ私が此の事を申上げましたことが知れますと、私は斬られます」
秋「いや/\手前が殺されるような事はせん、決して心配するな、あゝ誠に感心、宜く言ってくれた、これ当家の主人」
嘉「はい」
秋「今私が源兵衞に云った事が逐一分ったかえ、分ったら話して見るが宜い」
嘉[#「嘉」は底本では「梅」]「なにか仰しゃったようでごぜえますが、むずかしくって少しも分りませんが、若え殿様に水飴を甜めさせて、それから殿様にも甜めさせて、それを何ですかえ両方へ甜めさせるような事にして御扶持をくれるんだって」
秋「あはゝゝ分らんか、宜しい、至極宜しい、分らんければ」
嘉「それで何ですかえ、飴屋さんが御扶持を両方から貰って」
秋「宜しい/\、分らん処が妙だ、どうぞな私が貴様の家へ来て、飴屋と話をした事だけは極内々でいてくれ、宜いか、屋敷の者に……婆が又籠を脊負って、大根や菜などを売に来た時に、秋月様が入しったと長家の者に云ってくれちゃア困る、是だけは確かと口留をいたして置く、いうと肯かんよ、云うと免さんよ、何処から知れても他に知る者は無いのだから、其の儘にしては置かんよ」
嘉「はい……どうか御免を」
秋「いや、云いさえしなければ宜しいのだ」
嘉「いう処じゃアありません、婆さんお前は口がうるせえから」
婆「云うって云わねえって何だか知んねえものそれじゃア誰が聞いても、殿様は己ア家へおいでなすった事はごぜえません、飴屋さんとお話などはなせえませんと」
秋「そんな事を云うにも及ばん、決して云ってはならんぞ」
婆「はい、畏まりました」
秋「源兵衞、毒虫を入れた水飴は大概もう仕上げてあるかの」
源「へえ、明後日は残らず出来ます」
喜「明後日出来る……よし宜く知らせてくれた辱ない、源兵衛手前に何ぞ望みの物を取らしたく思う、持合せた金子も少ないが、是はほんの手前が宅への土産に何ぞ買って行ってくれ、私が心ばかりだ」
源「何う致しまして、私がこれを戴きましては」
秋「いや/\遠慮をせずに取って置いてくれ、就てはの、源兵衞大概此の方に心当りもある、手前に頼んだ侍の名前は、これ誰が頼んだえ」
源「へえ、是だけは、それを言えば斬ると仰しゃいました、へえ、何うかまア種々そのお書物の中へ、私にその、血で爪印をしろと仰しゃいましたから、少し爪の先を切りました」
秋「左様か、云っては悪いか、併し源兵衞斯う打明けてしまった事じゃから云っても宜かろう」
源「何卒それだけは御勘弁を」
秋「云えんかえ」
源「へえ、何うもそれは御免を蒙ります」
秋「併し源兵衞、是までに話を致して、依頼者の姓名が云えんと云うのは訝しい、まだ手前は悪人へ与み致して居るように思われる、手前が云わんなら私の方で云おうか」
源「へえ」
秋「神原五郎治兄弟か、新役の松蔭かな」
源兵衞は仰天して、
源「よ好く御存じさまで」
四十二
喜一郎は態と笑を含みまして、
秋「何うも其辺だろうと鑑定が附いていた、ま宜しいが、彼の松蔭並びに神原兄弟の者はなか/\悪才に長けた奴ゆえ、種々罠をかけて、私が云ったことを手前に聞くまいものでもないが、手前決して云うな」
源「何う致しまして、云えば直ぐに私が殺されます、貴方様も仰しゃいませんように」
秋「私は決して云わん、首尾好く悪人を見出して御当家安堵の想いを為すような事になれば、何うか願って手前に五人扶持も遣りたいの」
源「何う致しまして、悪人へ与み致しました罪で、私はお手打になりましても宜しいくらいで、私は命さえ助かりますれば、御扶持は戴きませんでも宜しゅうございます、お出入りだけは相変らず願います」
秋「うむ、承知いたした、一緒に帰ろうか、いや/\途中で他人に見られると悪いから、早く行け/\」
源「有難うございます」
ほっと息を吐いて、ぶる/\震えながら出て、後を振返り/\二三丁行って、それからぷうと駈出して向うへ行く様子を見て、
秋「何も駈出さんでも宜さそうなものだ」
と笑いながら心静かに身支度をいたし、供を呼んで、是から嘉八親子にもくれ/″\礼を陳べて帰られましたが、丁度八月九日のことで、川添富彌という若様附でございます、御舎弟様は夜分になりますとお咳が出て、お熱の差引がありますゆえ、お医者は側に附切りでございます。一統が一通りならん心配で、お夜詰をいたし、明番になりますと丁度只今の午前十時頃お帰りになるのですが、御容態が悪いと忠義の人は残っている事がありますので、富彌様はお留守勝だから、御新造はお留守を守って、どうかお上の御病気御全快になるようにと、頻りに神信心などを致して居ります。御新造は年三十で名をお村さんといい、大柄な美い器量の方で、お定という女中が居ります。
村「定や/\」
定「はい」
村「あの此処だけを少し片附けておくれ、何だか今年のように用の遅れた事はない、おち/\土用干も出来ずにしまったが、そろ/\もう綿入近くなったので、早く綿入物を直しに遣らなければならない、それに袷も大分汚れたから、お襟を取換えて置かなければなるまい」
定「左様でございます、矢張旦那様がお忙しくって、日々御出勤になりましたり、夜もお帰りは遅し、お留守勝ですから夜業が出来ようかと存じますが、何だか矢張りせか/\致しまして、なんでございますよ、御用が段々遅れに遅れてまいりました」
村「あの今日はお明番だから、大概お帰りだろうとは思うが、一時でも遅れると又案じられて、お上がお悪いのではないかと、何だか私は気が落着かないよ、旦那のお帰り前に御飯を戴いてしまおうか」
定「何もございませんが、いつもの魚屋が佳い鰈を持ってまいりました、珍らしい事で、鰈を取って置きました」
村「然うかえ、それじゃアお昼の支度をしておくれ」
定「畏まりました」
と是から午飯の支度を致して、午飯を喫べ終り、お定が台所で片附け物をして居ります処へ入って来ましたのは、茶屋町に居りますお縫という仕立物をする人で、好くは出来ないが、袴ぐらいの仕立が出来るのでお家中へお出入りをいたしている、独り暮しの女で、
縫「御免遊ばして」
定「おや、お縫さん、よくお出掛け……さ、お上んなさい」
縫「誠に御無沙汰をいたしました、此間は有難う……今日は御新さんはお宅に」
定「はア奥にいらっしゃるよ」
縫「実はたった一人の妹で、私が力に思っていました其の者が、随分丈夫な質でございましたが、加減が悪くって、其方へ泊りがけに参って居りまして、看病を致してやったり、種々の事がありまして大分遅くなりました、尤もお綿入でございますから、未だ早いことは早いと存じまして」
定「出来ましたかえ」
縫「はい、左様でございます」
定「御新造様、あの茶屋町のお縫どんがまいりました」
村「さ、此方へお入り」
縫「御免遊ばしまし……誠に御無沙汰をいたしました」
村「朝晩は余程加減が違ったの」
縫「誠に滅切御様子が違いました、お変り様もございませんで」
村「有難う」
縫「御意に入るか存じませんが、お悪ければ直します」
村「大層好く出来ました、誠に結構……お前のは仕立屋よりか却って着好いと旦那も仰しゃってゞ、誠に好く出来ました、大分色気も好くなったの」
縫「これは何でございます、お洗い張を遊ばしましたら滅切りお宜しくなりました、尤もお物が宜しいのでございますから、はい仕立栄がいたします」
村「久しく来なかったの」
縫「はいなんでございます、直に大門町にいる妹ですが、平常丈夫でございましたが、長煩いを致しましたので、手伝いにまいりまして、伯母が一人ございますが、其の伯母は私のためには力になってくれました、長命で八十四で、此の間死去りましたが、あなた其の歳まで眼鏡もかけず、歯も好し、腰も曲りませんような丈夫でございましたが、月夜の晩に縁側で裁縫を致して居りましたが、其処へ倒れたなり、ぽっくり死去りましたので、それゆえ種々取込んで……お小袖ですから間に合わん気遣いはないと存じまして、御無沙汰をいたしました、今年は悪い時候で、上方辺は大分水が出たという話を聞きました、お屋敷の大殿様も若殿様もお加減がお悪いそうで」
村「あゝ誠にお長引きで」
縫「私は毎も然う申しますので、伯母が死去りましても悔むことはない、これ/\のお屋敷の殿様が御病気で、お医者の五人も三人も附いて、結構なお薬を召上り、お手当は届いても癒る時節にならなければ癒らんから、くよ/\思う事はないと申して、へえ」
村「何分未だお宜しくないので、実に心配しているよ、夜分はお咳が出ての」
縫「然うでございますか、それはまア御心配でございますね、併しまだお若様でいらっしゃいますから、もう程無う御全快になりましょう」
村「御全快にならなくっちゃア大変なお方さまで、一時も早くと心配しているのさ」
縫「えゝ御新造様え、こんな事をお勧め申すと、なんでございますが、他から頼まれて、余りお安いと存じまして持って出ましたが、二枚小袖の払い物が出ましたので、ま此様な物を持って出たり何かして、済みませんが、出所も確かな物ですから、お目にかけますが、それに八丈の唐手の細いのが一枚入って居ります、あとは縞縮緬でお裏が宜しゅうございます、お平常着に遊ばしても、お下着に遊ばしても」
村「私は古着は嫌いだよ」
縫「左様でございましょうが、出所が知れているものですから」
村「じゃア出してお見せ」
縫「畏まりました」
とお次から包を持ってまいり、取出して見せました。唐手の縞柄は端手でもなく、縞縮緬は細格子で、色気も宜うございます。
村「大層好い縞だの」
縫「誠に宜うございます」
村「これは何の位というのだえ」
縫「これで先方じゃア最少し値売をしたいように申して居りますが、此の書付でと申すので」
村「二枚で此の値段書では大層に安い物だの」
縫「へい、お安うございます、貴方お裏は新しいものでございます」
村「何ういう訳で此れを払うというのだえ」
縫「先方はよく/\困っているのでございます」
村「丈や身巾が違うと困るね」
縫「左様ならお置き遊ばしては何うでございます、一日ぐらいお置きあそばしても宜しゅうございます」
村「余り縞柄が好いから、欲しいような心持もするから、置いてっておくれ」
縫「左様でございますか、じゃア私が今日の暮方までに参りませんければ、明朝伺いに上ります」
村「では後で好く
めて見よう」
是をお世話いたせば幾許か儲かるのだから先ず気に入ったようだとお縫は悦んで帰ってしまう、後でお定を呼んで、
村「手伝っておくれ、解いて見よう、綿は何様なか」
と段々解いて見ると。不思議なるかな襟筋に縫込んでありました一封の手紙が出ました。
村「おや、定や」
定「はい」
村「此様な手紙が出たよ」
定「おや/\襟ん中から奇態でございますね、何うして」
村「私にも分らんが、何ういう訳で襟の中へ……訝しいの」
定「女物の襟へ手紙を入れて置くのは訝しい訳でございますが、情夫の処へでも遣るのでございましょう」
村「だってお前それにしても襟の中へ……訝しいじゃアないか」
定「左様でございますね、開けて御覧遊ばせよ、何と書いてあるか」
村「無闇に封を切っては悪かろう」
定「これを貴方の物にして、此の手紙を開けて御覧なすって、若し入用の手紙なれば先方へ返したって宜いじゃア有りませんか」
村「本当に然うだね、封が固くしてあるよ、何と書いてあるだろう」
定「お禁厭でございますか知らん、随分お守を襟へ縫込んで置く事がありますから、疫病除に」
村「父上様まいる菊よりと書いてある、親の処へやったんで」
定「だって貴方親の処へ手紙をやるのに、封じを固くして襟の中へ縫付けて置くのは訝しゅうございますね、尤も芸者などは自分の情郎や何かを親の積りにして、世間へ知れないようにお父様/\とごまかすてえ事を聞いて居りますよ」
村「開けて見ようかの」
定「開けて御覧遊ばせよ」
村「面白いことが書いてあるだろうの」
定「屹度惚気が種々書いてありましょうよ」
悪いようだが封じが固いだけに、尚お開けて見たくなるは人情で、これから開封して見ますと、女の手で優しく書いてあります。
村「…文して申上※[#「まいらせそろ」の草書体、426-5]…、極っているの」
定「へえ、それから」
村「…益々御機嫌能御暮し被成候御事蔭ながら御嬉しく存じ上※[#「まいらせそろ」の草書体、426-7]」
定「定文句でございますね、併し色男の処へ贈る手紙にしちゃア改り過ぎてるように存じますね」
村「然うだの、左候えば私主人松蔭事ス……神原四郎治と申合せ渡邊様を殺そうとの悪だくみ……おや」
定「へえ……何ういう訳でございましょう」
村「黙っていなよ、……それのみならず水飴の中へ毒薬を仕込み、若殿様へ差上候よう両人の者諜し合せ居り候を、図らず私が立聞致し驚き入り候」
定「呆れましたね、誰でございますえ」
村「大きな声をおしでないよ、世間へ知れるとわるいわ……一大事ゆえ文に認め差上候わんと取急ぎ認め候え共、若し取落し候事も有れば、他の者の手に入っては尚々お上のために相成らずと心配致し、袷の襟[#「襟」は底本では「縫」]へ縫込み差上候間、添書の通りお宅にてこれを解き御覧の上渡邊様方に勤め居り候御兄様へ此の文御見せ内々御重役様へ御知らせ下され候様願い上※尚[#「まいらせそろ」の草書体、427-1]、申上度事数々有之候え共取急ぎ候まゝ書残し※[#「まいらせそろ」の草書体、427-2]おお目もじの上委しく可申上候、芽出度かしく、父上様兄上様、菊…と、……菊というのは何かの、彼の新役の松蔭の処に奉公していた女中は菊と云ったっけかの」
定「私は存じませんよ」
村「松蔭の家にいた女中が殺されたような事を聞いたから、旦那様に聞いてもお前などは聞かんでも宜い事だと仰しゃるから、別段委しくお聞き申しもしなかったが、是は容易な事ではないよ」
と申している処へ一声高く、玄関にて、
僕「お帰りい」
村「旦那がお帰り遊ばした」
と慌てゝお玄関へ出て両手を支え、
村「お帰り遊ばしまし」
定「お帰り遊ばせ」
富「あい、直に衣服を着換えよう」
村「お着換遊ばせ、定やお召換だよ、お湯を直に取って、さぞお疲れで」
富「いやもう大きに疲れました、ハアーどうも夜眠られんでな、大きに疲れました、眠れんと云うのは誠にいかんものだ」
是から衣服を着替えて座蒲団の上に坐ると、お烟草盆に火を埋けて出る、茶台に載せてお茶が出る。
村「毎日/\お夜詰は誠にお苦労な事だと、蔭ながら申して居りますが、貴方までお加減がお悪くなると、却ってお上のお為になりませんから、時々は外村様とお替り遊ばす訳にはまいりませんので」
富「いや、外村と代っているよ」
村「今日の御様子は如何で」
富「少しはお宜しいように見受けたが、どうもお咳が出てお困り遊ばすようだ」
定「御機嫌宜しゅう、お上は如何でございます」
富「あい、大きに宜しい、定まで心配して居るが、どうも困ったものじゃ」
村「早速貴方に申上げる事がございます、茶屋町の縫がまいりまして」
富「うん」
村「彼が払い物だと云って小袖を二枚持ってまいりましたから、丈は何うかと存じまして、改める積りで解きましたところが、貴方襟の中から斯様な手紙が出ました、御覧遊ばせ」
と差出すを受取り、
富「襟の中から、はて」
と披いて読み下し、俄に顔色を変え、再び繰返し読直して居りまする内に、何と思ったか、
富「定」
定「はい」
富「茶屋町の裁縫をいたす縫というものは何かえ、彼は亭主でも有るのか」
定「いえ、亭主はございません、四年已前に死去りまして、子供もなし、寡婦暮しで、只今はお屋敷やお寺方の仕事をいたして居りますので、お召縮緬の半纒などを着まして、芝居などへまいりますと、帰りには屹度お茶屋で御膳や何か喫べますって」
富「其様な事は何うでも宜い、御新造松蔭の家にいた下婢は菊と云ったっけの」
村「私は名を存じませんが、其の下女が下男と不義をいたして殺されたという話を聞きましたから、只今考えて居りますので」
富「只松蔭とのみで名が分らんと、他にない苗字でもなし、尤も神原四郎治は当家の御家来と確かに知れている、その四郎治と心を合せる者は大藏の外にはないが、先方の親の名が書いてあると調べるに都合も宜しいが、ス……これ定、其の茶屋町の縫という女を呼びに遣れ、直に……事を改めていうと胡乱に思って、何処かへ隠れでもするといかんから、貴様一寸行って来い、先刻の衣服の事について頼みたい事がある、他に仕立物もある、置いてまいった衣服二枚を買取るに都合もあるから、旦那様もお帰りになり、相談をするからと申してな、それに旨い物が出来たで、馳走をしてやる、早く来いと申して、直に呼んでまいれ」
定「じゃア私がまいりましょうか」
富「却って貴様の方が宜かろう、女は女同志で、此の事を決していうな」
定「何う致しまして、決して申しは致しません」
と急いで出てまいりました。
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