三
その同じ夜更け――。
牛込柳町の奥まった一軒である。その一軒では、長いこともうすすり泣きの声がつづいてやまなかった。泣いているのは誰達でもない。秘めかくした恋を見咎められて、身縁りのこの家に、追放された当座の身を潜めているあの道弥とお登代の二人だった。――いとしみ愛する心が強ければ強いだけに、美しく若い二人にとってはその恋を叱られたことが、限りなくも悲しかったに違いないのである。
お登代が泣き濡れた睫毛に雫をためて、思い出したようにまた言った。
「それにしてもあんまりで厶ります……。殿様もあんまりで厶ります。……」
「ならぬ! 言うでない! なりませぬ!」
勃然として道弥がうなだれていた面をあげると、きびしく制して叱った。
「殿様をお恨みに思う筋は毫もない。お目を掠め奉った二人にこそ罪があるのじゃ。正直にこれこれとも少し早うお打ちあけ申し上げておいたら、屹度御許しもあったものを、今までお隠し申し上げておいたのが悪かったのじゃ。なりませぬ! 殿様にお恨み申し上げてはなりませぬ!」
「いいえ申します。申します。隠した恋では厶りましょうと、あれほどもおきびしゅうお叱りを受けるような淫らな戯むれでは厶りませぬ。それを、それを、只のひと言もお調べは下さりませいで、御追放遊ばしますとはあんまりで厶ります。あんまりで厶ります」
「ならぬと言うたらなぜ止めませぬ! どのような御仕置きうけましょうとも、御恩うけた殿様の蔭口利いてはなりませぬ。御手討ちにならぬが倖わせな位じゃ。もう言うてはなりませぬ!」
「でも、でも……」
「まだ申しますか!」
「あい、申します! 晴れて添いとげたいゆえに申します。わたくしはともかく、あなた様は八つからお身近く仕えて、人一倍御寵愛うけたお気に入りで厶ります。親とも思うて我まませい、とまでお殿様が仰せあった程のそなた様で厶ります。それを、それを、只の御近侍衆のように、不義はお家の法度、手討ちじゃと言わぬばかりな血も涙もないお仕打ちは、憎らしゅう厶ります。殿様乍らお憎らしゅう厶ります」
――道弥も、ふいとそのことが思いのうちに湧き上った。思い出せばなる程そうだった。八つの年初めてお目見得に上って、お茶との御所望があったとき、過ってお膝の上にこぼしたら、ほほう水撒きが上手よ喃、と仰せられた程の殿である。それからまた十の年に若君のお対手となって、お書院で戯むれていたら、二人して予の頭を叩き合いせい、とまで仰せられた程も人としての一面に於て、情味豊な対馬守である。
それだのに、なるほど厳しすぎると言えば厳しすぎるお仕打ちだった。――道弥は、悲しげに面をあげて、じっとお登代の目を見守った。目から、そうして乳房を通って、道弥のふたつの眼は怪しくおののき輝き乍ら、乳房の下のほのかなふくらみにそそがれた。
四月! ――そこには四月の愛の結晶がすでにもう宿されているのである。
これまでになっていることをお気づきだったら、ああまで強くお叱りにならなかったかも知れぬ。よしや一度はお叱りになったにしても、昔ほどの御豊な情味をお持ちになっていたら――だが、そのとき道弥の心に浮び上って来たものは、日夜の御心労におやつれ遊ばしている殿のいたいたしいお姿だった。
あのお顔に刻まれている皺の一つ一つの暗い影は、とりもなおさず国難の暗い影なのである。
殿の一動は、江戸の運命を左右するのだ。
そうしてまた殿の一挙は、国の運命をも左右するのだ。
おいたわしいことである。心に一刻半刻のゆるみをも持つことの出来ない殿の日夜は、只々おいたわしい限りである。――いや、それゆえにこそ、自分等ごとき取るに足らぬものの恋なぞは、心にも止めていられないのだ。
カチカチと、オランダ渡りの置土圭が、静かな時の刻みをつづけていった。――勿論殿から拝領の品だった。追放の身にはなっても、せめてこればかりは御形見にと思って持って来たのである。
恨んではならぬ!
お護り申さねばならぬ!
「登代どの!」
ほっと蘇ったように面をあげると、道弥は不意にきいた。
「あすは十五日で厶ったな」
「あい。月次お登城の日で厶ります」
きくや矢庭に立ち上ると、敢然として言った。
「行って参る! 並々ならぬ身体じゃ。大切に致されよ」
「ま! 不意にどこへお越し遊ばすので厶ります。このような夜中、何しに参るので厶ります」
「せめてもお詫びのしるしに――、いや、道弥がせねばならぬことを致しに参るのじゃ。健固でお暮し召されよ……」
「ま! お待ちなされませ! お待ちなされませ!」
しかし道弥の姿は、もう表の闇に消えていった。――同時のように、ジイジイと置土圭が四時を告げた。
大書院の置土圭もまたその時四時だった。
だが対馬守は、あれから今まで死像のようにじっと端座したままだった。――老職多井がそれを気遣って言った。
「夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったように厶ります。お微行のあとのお疲れも厶りましょうゆえ、御寝遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
「…………」
「きこえませぬか。殿! もう夜あけに間も厶りませぬ。暫しの間なりとお横におなり遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
そのとき、死像のように声のなかった対馬守が、ふいっと面をあげると突然言った。
「あすは十五日であったな」
「はっ。月次総登城の御当日で厶ります。それゆえ暫しの間なりとも御寝遊ばしましてはと、先程から申し上げているので厶ります。いかがで厶ります」
「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。……屋台店の寂れがちらついておる……。たしかに十五日じゃな」
「相違厶りませぬ」
「しかと間違いあるまいな」
「お諄う厶ります」
「諄うのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心告げるに丁度よい都合じゃ――硯を持てい」
「はっ?」
「紙料持参せいと申しているのじゃ」
いぶかり乍ら格之進が取り揃えた奉書を手にすると、対馬守はきりっと唇を決断そのもののように引き締めて、さらさらと書きしたためた。
「ポルトガル国トノ交易通商ハ、最早ヤ断乎トシテ之ヲ貫ク以外ニ途ハナシ。早々ニ条約締結ノ運ビ致スヨウ、諸事抜リナク御手配可然候。人ノ命ニ明日ハナシ。ソノ心シテ諸準備御急ギ召サルベク安藤対馬シカト命ジ置キ候」
筆をおくと凛として言った。
「予が遺言に――、いや、夜がいか程更けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい」
「ではもうやはり――」
「聞くがまではない。ちらつく……、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ……」
声をおとして、他を顧みるように言うと、対馬守は静かにきいた。
「湯浴の支度は整うておるであろうな」
「おりまするで厶ります」
――入念な入浴だった。
そうして夜が白々と明けかかった。紊れも見えぬ足取りでお湯殿から帰って来ると、対馬守は愈々静かに言った。
「香を焚け」
いかにも落ちついた声なのである。焚いてそのお膝の前に格之進が捧げ持っていったのをズバリと言った。
「聴くのでない。予が頭に焚きこめい」
はっとなって老職は、打ちひしがれたように面を伏せた。死を覚悟されているのである。斎戒沐浴して髪に香を焚きこめる、――刺客の手にかかることがあろうとも、見苦しい首級を曝したくないとの床しい御覚悟からなのだ。
格之進の老眼からは、滝のようにハラハラと雫が散った。
香炉を捧げ持つ手がわなわなとふるえた。
声もカスレ乍らふるえた。
「お潔ぎよいことで厶ります。只もう、只もうお潔ぎよいと申すよりほかは厶りませぬ」
「長い主従であったよな」
「…………」
「不吉じゃ。涙を見するは見苦しかろうぞ。大老も、井伊殿の御最期もそうであった。登城を要して討つは、刺客共にとって一番目的を遂げ易い機である。十五日であるかどうかを諄うきいたのもそのためじゃ。決断を急いだのもそれゆえじゃ。予を狙う刺客共もあすの来るのを、いや、今日の来るのを待ちうけておるであろう。多井!」
「はっ……」
「すがすがしい朝よな」
――カラリと晴れて陽があがった。
登城は坂下門からである。対馬守は颯爽として言った。
「供揃いさせい」
「整えおきまして厶ります」
「人数増やしたのではあるまいな」
「いえ、万が一、いや、いずれに致せ多いがよろしかろうと存じまして、屈強の者選りすぐり、二十名程増やしまして厶ります」
「要らぬ。減らせ!」
言下に斥けると、さらに颯爽として言った。
「首の座に直るには供は要らぬ。七八名で沢山ぞ。館に山村、それから道弥、――道弥はおらなんだな。あれがおらばひとりでも沢山であろうのに、いずれにしても半分にせい」
命ぜられた供人達が平伏しているお駕籠へ対馬守は紊れた足音もなく進んでいった。しかしその刹那である。
一閃! キラリ、朝陽に短く光りの尾が曳いたかと見るまに、どこからか飛んで来て、プツリ、お駕籠の棒先に突きささったのは手裏剣だった。
ぎょっとなって色めき立ったのを、静かに制して対馬守は見守った。火急に何か知らせねばならぬことでもあるのかまさしく手裏剣文なのである。
「見せい」
押し開いた目に読まれたのは次の一文だった。
「新らしき敵現われ候間、御油断召さる間敷候。堀織部正殿恩顧の者共に候。
殿に筋違いの御恨み抱き、寄り寄り密謀中のところを突き止め候間、取急ぎおしらせ仕候」
ふいっと対馬守の面には微笑が湧いた。
「誰ぞ蔭乍ら予の身辺を護っている者があると見ゆるな」
だが一瞬にその微笑が消えて、怒りの声が地に散った。
「愚か者達めがっ。私怨じゃ。いいや、安藤対馬、堀織部正恩顧の者共なぞに恨みをうける覚えはないわっ。人が嗤おうぞ。――行けっ」
痛罵と共に、姿は駕籠に消えた。――堀織部正は先の外国奉行である。二月前の去年十一月八日、疑問の憤死を遂げたために、流布憶説まちまちだった。対馬守の進取的な開港主義が度を越えているとなして憤死したと言う説、外国奉行であり乍ら実際は攘夷論者であったがゆえに、任を負いかねて屠腹したと言う説、それらのいろいろの憶説の中にあって、最も広く流布されたものは、品川御殿山八万坪を無用の地との見地から、対馬守がこれを外国公使館の敷地に当てようとしたところ、織部正が江戸要害説を固執して肯じなかったために、怒って幽閉したのを憤おって自刃したと言う憶測だった。もしも堀家恩顧の家臣が恨みを抱いているとするなら、その幽閉に対する逆恨みに違いないのである。
「馬鹿なっ。大義も通らぬ奸徒達にむざむざこの首渡してなるものかっ。やらねばならぬ者がまだ沢山あろうぞ。早う行けっ」
お駕籠は揺れらしい揺れも見せないで、しずしずと坂下門にさしかかっていった。供揃いはたった十人。一面の洗い砂礫を敷きつめたその坂下御門前に行きついたのは、冬の陽の冷たい朝まだきの五ツ前である。
と見えた刹那――、轟然として銃音が耳をつんざいた。一緒に羽ばたきのような足音が殺到したかと思われるや、突然叫んで言った。
「国賊安藤対馬、斬奸じゃっ。覚悟せい!」
チャリンと言う刃音が同時に伝わった。
刺客だ!
七八名らしい剣気である。
「来おったな」
対馬守は、待ちうけていた者に会うような、ゆとりのある態度で、従容と駕籠を降りた。――途端、目についたのは脱兎のごとくに迫って来る若侍の姿だった。それも十八九。
三島――対馬守は咄嗟に思い当った。刃をふりかぶって悪鬼のごとくに襲撃して来たそのいち人こそは、まさしく見覚えの堀織部正家臣三島三郎兵衛である。間をおかずに大喝が飛んでいった。
「うろたえ者めが。退りおろうぞっ。私怨の刃に討たれる首持っていぬわっ。退れっ。退れっ。退りおれっ」
叫んで、さっと身をすさったが、三島が必死の刃は、圧する凄気と共に、対馬守の肩先に襲いかかった。しかしその一刹那である。弾丸のように黒い影が横合いから飛びつけると、間一髪のうちに三島三郎兵衛の兇刃を払ってのけて、技もあざやか! ダッと一閃のまにそこへ斬ってすてた。――頭巾姿の顔も誰か分らぬ救い手である。
黒いその影は、つづいて右に走ると、さらにいち人見事に刺客を斬ってすてた。そのまに館がひとり、山村がいち人、あとの四人を残りの近侍達が斬りすてて、広場の砂礫は凄惨として血の海だった。
対馬守は自若として打ち見守ったままである。その目は、救い手の黒い姿に注がれて動かなかった。しかしやがて肯いた。
「道弥よな」
呟いたとき、頭巾を払って救い手が砂礫に手をついた。――やはりそれはあの道弥だった。崩れるようにうっ伏すと道弥の声が悦びに躍って言った。
「御無事で何よりに厶ります……」
ふいっと対馬守の面に微笑が湧いた。だが一瞬である。打って変った荒々しい声が飛んでいった。
「見苦しい! 退れっ。縁なき者の守護受けとうないわっ。行けっ」
「では、では、これ程までにお詫び致しましても、――手裏剣文放って急をお知らせ致しましたのも手前で厶りました。蔭乍らと存じまして御護り申し上げましたのに、では、では、どうあっても――」
「知らぬ! 行けっ」
「やむをえませぬ! ……」
さっと脇差抜くと、道弥のその手は腹にいった。途端である。対馬守の大喝がさらに下った。
「たわけ者めがっ。言外の情分らぬか。死んでならぬ者と、死なねばならぬ者がある――」
そうしてふいっと声をおとすと言った。
「嬰児が父なし児になろうぞ。早う行けっ」
「左様で厶りましたか! 左様で厶りましたか!」
血の匂う砂礫の上に道弥の涙が時雨のようにおち散った。
見眺めて対馬守は、ほころびかかった微笑を慌てて殺すと、急いで眼鏡をかけた。
はっと平伏し乍ら、並居る侍臣達は、そのとき新らしい発見をした。殿の眼鏡は時代の底の流れと、海の外を視る御用にのみ役立つと思っていたのに、人の情の涙をもおしかくす御役に立つことを初めて知ったのである。
その時何侯か登城した大名があったとみえて、城内遥かの彼方からドドンと高く登城しらせのお城太鼓が鳴り伝わった。
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