小笠原壱岐守 |
講談社大衆文学館文庫、講談社 |
1997(平成9)年2月20日 |
1997(平成9)年2月20日第1刷 |
1997(平成9)年2月20日第1刷 |
佐々木味津三全集10 |
平凡社 |
1934(昭和9)年 |
一
ゆらりとひと揺れ大きく灯ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯りが消えた。奇怪な消え方である。
「……?」
対馬守は、咄嗟にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅から隅へ眼を放ち乍ら、静かに闇の中の気配を窺った。
――オランダ公使から贈られた短銃も、愛用の助広もすぐと手の届く座右にあったが、取ろうとしなかった。刺客だったら、とうに覚悟がついているのである。
だが音はない。
呼吸のはずみも殺気の取きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。
しかし油断はしなかった。――少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲しようとしているために、国賊と罵り、神州を穢す売国奴と憤って、折あらばとひそかに狙っている攘夷派の志士達は勿論その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲しようとしており乍ら倒れかかった江戸大公儀を今一度支え直さんために、不可能と知りつつ攘夷の実行を約して、和宮の御降嫁を願い奉った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起る外人襲撃を憤って、先日自分が声明したあの言質に対する敵だった。
「公使館を焼き払い、外人を害めて、国難を招くがごとき浪藉を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑し奉ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激して、国家を危うきに導くごとき妄動するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」
そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。――刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。
対馬守は端然として正座したまま、潔よい最期を待つかのように、じいっと今一度闇になった書院の中の気配を窺った。
だがやはり音はない。
「誰そあるか」
失望したような、ほっとなったような気持で対馬守は、短銃と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。
「道弥はおらぬか。灯りが消えたぞ」
「はっ。只今持参致しまするところで厶ります」
応じて時を移さずに新らしい短檠を捧げ持ち乍ら、いんぎんにそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍道弥ならで、茶坊主の大無である。
「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃?」
「只今四ツを打ちまして厶ります」
「もうそのような夜更けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」
「……?」
「首をひねっておるが、何としてじゃ」
「ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――」
「喃!……充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――」
「忍びの術に達した者めの仕業で厶ります」
「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈じゃ。そう致すと少し――」
「気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ」
「…………」
「およろしくば?」
「何じゃ」
「さそくに宿居の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意は?」
「…………」
「いかがで厶ります。およろしくば?」
「騒ぐまい。行けい」
「でも――」
「国政多難の昨今、廟堂に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」
秋霜烈日とした声だった。
斥けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向った。――読みかけていた一書は蕃書取調所に命じて訳述させた海外事情通覧である。
しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。
だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。
「大無! 大無! また消えおったぞ」
「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」
「ちと腑におちぬ。油壷予に見せい」
覗いた対馬守の面は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽ちすべての謎が解けたからである。
「粗忽者共よ喃。みい。油ではないまるで水じゃ。納戸の者共が粗相致して水を差したであろう。取り替えさせい」
「いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶ります」
「しかし乍ら――」
「はっ」
「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎めるでないぞ」
「はっ。心得まして厶ります。御諚伝えましたらいずれも感泣致しますることで厶りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶ります」
「うむ……」
大きくうむと言い乍ら対馬守は、突然何か胸のうちがすうと開けたように感じて、知らぬまにじわりと雫が目がしらに湧き上った。
安心! ――いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって思わぬまに湧き上った涙だったに違いないのである。
銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机の左右に並べられた。
静かに端座して再び書見に向おうとしたとき、――不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然慌ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無がうろたえ乍らそこに膝を折って言った。
「御油断なりませぬぞ! 殿! ゆめ御油断はなりませぬぞ!」
「来おったか」
「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由にて宿居の方々只今追うて参りまして厶ります!」
さっと立ち上ると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。
同時に庭先の向うで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那――。
「お見のがし下されませ! お許しなされませ! 後生で厶ります。お見のがし下されませ!」
必死に叫んだ声は女! ――まさしく女の声である。
対馬守の身体は、思わず御縁端から暗い庭先へ泳ぎ出した。
同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍らしい者も一緒の二人だった。
「御、御座ります。ここに御灯りが厶ります」
「……」
差し出した紙燭の光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍って飛んだ。
「よっ。そち達は、その方共は、道弥とお登代じゃな!」
見られまいとして懸命に面を伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍の道弥だったのである。
不義!
いや恋! ――この頃中から、ちらりほらりと入れるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成行に、対馬守の口辺には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。
だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者としての冷厳な心を取り返して、荒々しく叱りつけた。
「不埒者たちめがっ。引っ立てい!」
「いえあの、そのような弄み心からでは厶りませぬ! 二人とも、……二人ともに……」
必死に道弥が言いわけしようとしたのを、
「聞きとうない! 言いわけ聞く耳も持たぬ! みなの者をみい! 夜の目も眠らず予の身を思うておるのに、呑気らしゅう不義の戯れに遊びほうけておるとは何のことか! 見苦しい姿見とうもない! 早々に両名共追放せい!」
ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、荒々しい言葉で抑えつけるように手きびしく叱っておくと、傍らを顧みて対馬守はふいっと言った。
「そろそろその時刻じゃ。微行の用意せい」
――九重の筑紫の真綿軽く入れた風よけの目深頭巾にすっぽり面をつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。
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