九
その夜ふけ……。
丑満近(うしみつちか)い本所あたりは、死の国のような静けさでした。
もうおかえりか、もう御戻りの頃であろうと、寝もやらず兄の帰りを待ったが、しかし主水之介は、番町の腰本治右屋敷へ乗り込んでいったきり、待てど暮せど一向に帰る気色(けしき)もないのです。
るすを守る京弥と菊路のふたりは、当然のごとくに不安がつのりました。
「ちとおそうござりますのな。どうしたのでござりましょう。大丈夫かしら?」
「………」
「なぜお黙りでござります! 菊がこんなに心配しておりますものを、あなたさまは何ともござりませぬのか。もう他人ではない筈、いいえ、菊の兄ならあなたさまにもお兄上の筈、一緒に心配してくれたらいいではありませぬか」
「心配すればこそ、京弥もこうして、さきほどからいろいろと考えているのでござりまするよ」
「あんなことを! 心配していたら、御返事ぐらいしたとていいではありませぬか。憎らしい……。このごろのあなたさまは何だかわたくしにつれなくなりましたのな。そのような薄情のお方は――」
「イタイ! イタイ! なにをなさります! そんなところを抓(つね)ってなぞして痛いではありませぬか!」
「いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……」
同じ心配をするにしても、このふたりの心配振りは諸事穏やかでない。
だが、肝腎の主水之介は、いつまで経っても帰らないのです。
しらじらとして、ついに夜があけかかりました。
しかし、沓(よう)として消息はない。
「どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓(すじょう)が素姓、わたくし何だか胸(むな)騒ぎがしてなりませぬ」
「ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい」
読み直してみたが、しかしそれには、てまえごときもの、とうていお対手は出来申さず候、おちかづきのしるしに粗酒一献(こん)さしあげたく、拙邸までお越し下さらば云々と書いてあるばかりなのです。
何でもないと思えば何でもない。
何か企らみがあると思えば思えないこともない。
突然、京弥のおもてに、さッと血の色がのぼりました。
「お支度なさりませ!」
「いってくれまするか!」
「ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!」
緋じりめん鹿ノ子絞りの目ざめるような扱帯(しごき)キリキリと締め直して、懐剣(かいけん)甲斐々々しく乳房の奥にかくした菊路を随えながら、ふたりの姿は朝あけの本所をいち路番町に急ぎました。
陽があがって間もないのに、江戸の六月は朝まだきから蒸し風呂のなかに這入ったような暑さです。
「あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります」
「どのようなことがあっても、狼狽(うろた)えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ」
うしろに菊路を庇(かば)って、油断なく門前へ近づきました。
だが、屋敷のうちはしいんと静まり返って、ことりとの音もない。
八文字にひらかれた門から大玄関まで、打ち水さえもが打ってあって、血の嵐、争闘、殺陣は元よりのこと、騒ぎらしい騒ぎがあったらしい跡もなく、不気味なほどに静まり返っているのです。
しかしそれだけに京弥たちふたりは、一層不安がつのりました。
この静まり方は尋常な静まり方ではない。とうにもう主水之介を陥(おと)し入れて、あと片附けまでが済んだようにも思えるのです。
京弥の目はいつのまにかほのぼのとして美しい殺気に彩(いろ)どられました。
「頼もう! 頼もう!」
「………」
「急用で参ったものじゃ。取次の者はおいで召さらぬか。頼もう! 頼もう!」
二度目の声でようやくに小侍(こざむらい)がそこへ手を突いたのを見迎えると、京弥は殺気におどる声であびせました。
「侮(あなど)ったことを申すと、手は見せませぬぞ! 早乙女の屋敷から参った者じゃ。御前はいずれでござる!」
「ああ、なるほど。お暑いところをようこそ。少々お待ち下されませ」
奥へ消えていったかと思うまもなく、再び姿をみせて手をつくと、言葉までが実に気味のわるいほどいんぎん鄭重(ていちょう)なのです。
「主人は火急の御用向にて只今御登城中にござりまするが、お出かけぎわにお言いのこしなされたとのことでござりました。早乙女家の方々が御前をお迎いに参られるやも知れぬ。参られたならばねんごろに御案内申せとの御伝言でござりますゆえ、手前これより御案内申しまするでござります。御遠慮なくどうぞあれへ――」
指さしたのは駕籠である。
それも只の乗物ではない。二挺ともにためぬり、定紋(じょうもん)入りの屋敷駕籠なのでした。
「まだ計るつもりか!」
「計るとは?」
「御前もこの手でたばかったであろう! われら二人も計るつもりか!」
「滅相もござりませぬ。あの通り陸尺(ろくしゃく)どもは只の下郎、御案内いたすものはこの手前ひとり、計るなぞとそのような悪企み毛頭ござりませぬ。早乙女の御前は少々他言を憚(はばか)るところに至って御満悦の体にてお越しにござりますゆえ、そこまで御案内を申上げるのでございます。どうぞお疑いなくお乗り下されませ」
「よしッ。乗ってやろう。菊どの、御油断あってはなりませぬぞ」
「あなたさまも!」
乗るのを待って駕籠は、小侍を道案内に立てながら、しずしずと歩き出しました。
一〇
土手沿いに午込御門へ出て、そこから濠ばた沿いに右へ道をとり、水戸邸の手前からさらに左へ折れて、どうやら駕籠は伝通院を目ざしているらしいのです。
目ざしているところも不思議だが、今か今かと油断なく駕籠の中から左右へ目を光らしていたのに、出る気色(けしき)もない。
やがて乗りつけたところは、やはり伝通院でした。開基(かいき)は了誉上人(りょうよしょうにん)、始祖(しそ)家康(いえやす)の生母がここに葬られているために、寺領六百石を領して、開山堂、弁財天祠(べんざいてんし)、外久蔵主稲荷(たくぞうぬしいなり)、常念仏堂(じょうねんぶつどう)、経堂(きょうどう)、無縁塚(むえんづか)坊舎(ぼうしゃ)が三カ寺、所北寮(しょけのりょう)が百軒、浄土宗(じょうどしゅう)関東十八檀林中(だんりんちゅう)の随一を誇るだけあって、広大壮麗言うばかりない大伽藍(だいがらん)です。
「ここからはお乗物さし止めでござりますゆえ、お拾いにてどうぞ。手前御案内いたしまするでござります」
山門のまえで乗物をとめさせて、心得顔に小侍はさきに立ちながら、しんしんと静かな境内の中へ這入りました。
場所が寺です。
墓のあるお寺なのです。
もしやもうお墓に!……。
「まてッ!」
京弥は抑え切れぬ胸騒ぎを覚えて、するどく呼びとめました。
「われら、御前のむくろや新墓検分(にいばかけんぶん)に参ったのではない。不埓(ふらち)な振舞いいたすと容赦はせぬぞ!」
「どうぞお静かに。ご案内せいとの主人言いつけでござりますゆえ、手前は只御案内するだけでござります……」
しいんとした声で言って、取り合おうともせずに小侍は本堂わきから裏へ廻ると、一杯の墓だ。
ハッとなったとき、だが、導き入れたところはそこではない。墓の中を通り越して、そこの柴折戸(しおりど)をしずかにあけると、目で笑いながら立っているのです。
「ここにおいでか!」
「さようでござります。伝通院自慢の裏書院でござります。今もまだたしかにおいでの筈、手前の役目はこれで終りました。どうぞごゆっくり……」
言いすてかとみるまに、もう一二間向うでした。
躊躇(ちゅうちょ)はない。京弥は脇差し、菊路は懐剣、にぎりしめながら高縁におどりあがって、ガラリと左右からぬり骨障子をあけた刹那、――あッとおどろいてふたりは棒立ちになりました。書院というは名ばかり、几帳(きちょう)、簾垂(すだ)れ、脇息(きょうそく)、褥(しとね)、目にうつるほどのものはみな忍びの茶屋のかくれ部屋と言ったなまめかしさなのです。
しかも、その几帳のわきには女がいるのです。年の頃二十二三。青ざおとした落し眉に、妖(あや)しき色香がこぼれんばかりにあふれ散って、肉はふくらみ、目はとろみ、だが只の女ではない。姿、容子、化粧(つくり)の奢(おご)り、身分のあるもののおてかけか寵姫(おもいもの)か、およそ容易ならぬ女でした。
その女の膝へまた主水之介が何と穏やかならぬことか、江戸にゆかりの眉間傷を軽くのせて、この世の極楽ここにありと言いたげに、悠々と膝枕の夢を結んでいるのでした。のみならず不思議なのはその女です。さぞやおどろくだろうと思いのほかに、気色(けしき)ばんでふたりが闖入(ちんにゅう)したのを見眺めると、ことさらに主水之介の首のあたりを抱きすくめながら、恋をえたことを見せびらかそうとでもするかのように、淫花(いんか)のごとく嫣然(えんぜん)と笑いました。
京弥は言うまでもないこと、妹菊路のろうばいはいたいたしい位でした。女遊び、曲輪通い、折々の退屈払いに兄主水之介がこの世の女どもとかりそめのたわむれはすることがあっても、こんなのは、寺の裏書院のかくれ部屋で素姓(すじょう)も計りがたい女と、かような目にあまる所業は今が初めてなのです。
菊路の美しい柳眉(りゅうび)は知らぬまに逆立ちしました。
「何ごとでござります! お兄上!」
「………」
「この有様は何のことでござります! お兄上!」
「御案じ申してはるばると御迎いに参ったのではござりませぬか! このはしたないお姿は何のことでござります!」
声に膝枕したまま薄目をあけて、物うげに見眺めていたが、こんな兄というものはまたとない。
「よう。お人形さまたち、いちゃいちゃとやって来おったのう。アハハハ……。膝枕五千石という奴じゃ。後学のためにようみい。男女陰陽(なんにょおんよう)の道にもとづいてたわむれするはこうするものぞよ。どうじゃ、妬(や)き加減は? アッハハハ。では、罷りかえるかのう。……」
飄々(ひょうひょう)として立ち上がると、けろりとしているのです。
「いかい御馳走さまで御座った。御縁があらばまたお膝をお借り申したい。これにて御免仕る。両人かえるぞ。参れ」
すうと出て行きました。
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