二
「これはようこそ。毎度、ご贔屓(ひいき)さまにありがとうござんす。まもなく二番目が開きますゆえ、お早くどうぞ。ひとり殖(ふ)えた、三人にしろとゆうべお使いがござりましたんで、ちやんと平土間が取ってござります……」
「じゃ兄さん……」
顔なじみの出方に迎えられて導かれていった桟敷(さじき)は、花道寄りの恰好な場所でした。――下総から来た小芳の兄というのは、打ち見たところ先ず三十五六。小作りの実体(じってい)そうな男です。そのあとから小芳、つづいて梅甫、兄さんなる男も梅甫も別に人目を引く筈はないが、この日の小芳はまたいちだんの仇っぽさ。こういうところへ来ると、三年曲輪(くるわ)の水でみがきあげた灰汁(あく)の抜けた美しさが、ひとしお化粧栄えがして、梅甫の鼻もまた自然と高い……。
出しものは景政雷問答(かげまさいかずちもんどう)、五番続き。
もう中日はすぎていたが、団十郎(なりたや)と上方くだりの女形(おやま)、上村吉三郎(うえむらきちさぶろう)の顔合せが珍しいところへ、出しものの狂言そのものが団十郎自作というところから、人気に人気をあおって、まこと文字通り大入り大繁昌でした。
「兄さん、下総の筵(むしろ)芝居とはちと違いましょう?」
「人前で恥をかかすものじゃねえ。下総、下総と大きな声で言や、田舎もののお里が分るじゃねえかよ。それにしても梅甫さん、江戸ってところは、よくよく閑人(ひまじん)の多いところだね」
小芳を真中にして、幕のあくのを待ちながら、三人むつまじく話し合っているところを、
「ちょっとご免やす」
変なところを通る男があればあるものです、すぐそばに花道もあることだし、横には桝目(ますめ)の仕切り板もあることだから、わざわざ三人の真中を割って通らなくてもよさそうなのに、幇間風(たいこもちふう)の男が無遠慮にも小芳の肩を乗りこえて、ひょいと大きく跨ぎながら通り越しました。
咄嗟に首をまげてこちらは避けたが、向うは故意からか、それとも跨ぐはずみからか、その裾がひらりと舞うように小芳の結い立ての髪に触れて、見事に出した小鬢(こびん)をゆらりとくずしたからたまらない。――梅甫の声が咎めるように追いかけました。
「おいおい。ちょっとまてッ」
「へえへえ、毎度ありがとうござりやす」
「白っぱくれたこと言うな。大切な髪をこわして、毎度ありがとうござりやすとは何だよ。貴様、たいこだな」
「左様で。何かそそうを致しましたかい」
「これをみろ。この髪のこわれた奴が分らねえのかよ」
「なるほど。ちっとこわれましたね、しかし、こういう大入り繁昌の人込みなんだからね。こわれてわるい髪なら、兜(かぶと)でもやっていらっしゃることですよ」
「なに! 跨いで通るってことがそもそも間違っているんだ。詫(あやま)[#「詫」は底本では「詑」と誤植]りもしねえでその言い草は何だよ」
「何だ! 何だ!」
声と一緒に、そのときどやどやと立ち上がって、花道向うの鶉(うずら)から飛び出して来たのは、六人ばかりのいかつい大小腰にした木綿袴のひと組です。たいこもちとは同じ連れか、でなくば見知り越しらしい話工合でした。
「何じゃ。三平。こやつら何をしたのじゃ」
「いいえなに、このおめかしさんの髪へ触ったとか触らないとか言ってね。大層もないお叱りをうけましたんで、ちょっとわびを言ったら、そのわびの言い草が気に入らないというんですよ」
「文句を言ったは貴様等か!」
「何でござんす」
ひょいと見あげた梅甫の目と小芳の目とが、なにげなくうしろの鶉へ向けられると一緒に、
「あッ……」
小さなおどろきの叫びが先ず小芳の口からあげられました。見覚えのある顔!
いや、見覚えどころではない。小侍たち六人が飛び出して来たその鶉席に傲然(ごうぜん)と陣取って、嘲笑(あざわら)うようにこちらを見眺めていた顔こそは、小芳がまだ曲輪にいた頃、梅甫とたびたび張り合った腰本(こしもと)治右(じえ)衛門なのです。――元は卑(いや)しい黒鍬組(くろくわぐみ)の人足頭にすぎなかったが、娘が将軍家のお手かけ者となってこのかた、俄かに引き立てられて、今では禄も千石、城中へ出入りも自由のお小納戸頭取(こなんどとうどり)というすばらしい冥加者(みょうがもの)でした。
「あいつめが来ておるとすると――」
「企んで仕かけた事かも分りませぬ。兄さん!……」
小芳はさッと青ざめ、兄の方へ目まぜを送ると、小声で囁きました。
「何とかうまく扱っておくんなんし……」
「よしよし。惚れ合っていると兎角こんなことになるんだ。こっちへどきな」
小作りの下総男、田舎じみた風体をしているが、なかなか扱いが馴れたものです、腰低く小侍たちに一礼すると、人中で騒ぎを起して、近所迷惑になってはならぬと言うように、ひたすらわび入りました。
「こちらこそ飛んだ粗相、本当に三平さんとやらがおっしゃる通りです。髪なんどこわれようとつぶれようと、また結い直せば済みますこと、もう追っつけ幕もあくことでござんしょうから、いざこざなしにきれいさっぱり旦那方もお引きあげなすって下せえまし」
「いざこざなしとは何じゃ。こっちで売った喧嘩でない。うぬらがつけた因縁じゃ。わびを言うならそのように法をつけい」
「だから、立つ腹もこっちが納めて、この通り下手(したて)からおわびを申しているんでごぜえます」
「なにッ。下手からとは何じゃ! その言い草が面憎い! こっちへ出い!」
「笑(じょ)、笑談(じょうだん)じゃござんせぬ。ごらんの通りわたしどもは田舎ものばかり、この人前で手前ども風情(ふぜい)を恥ずかしめてみたとて、お旦那方のご自慢になるわけじゃござんせぬ。騒ぎ立てたら、みなさまも迷惑、小屋も迷惑、この位でもう御勘弁下さいまし」
「お旦那方がご自慢とは何じゃ! きさま、見くびっておるなッ。たわけものめがッ。出い! 出い! ここへ出い! こうしてやるわ!」
ピシャリ、と、理も非もない。初めから売る因縁、売る喧嘩だったと見えるのです。前後左右から木綿袴の小侍共がこぶしを固めて、小芳の兄の横びんをおそいました。
「喧嘩だッ。喧嘩だッ」
「出方はおらんか! おうい! 出方! 早く鎮めろッ」
どッとわき立つ人の波! 騒ぎの中を、六人の木綿袴は、なおピシャリピシャリとおそいました。
打たれるままにまかせていたが、なかなかに打ち打擲(ちょうちゃく)はやむ色がないのです。
刹那! 下総男、すさまじい豹変(ひょうへん)でした。
「さんぴん、よさねえなッ」
ダッと一躍、花道の上へ飛び上がると、パラリぬいだもろ肌いちめん、どくろ首の大朱彫(しゅぼ)り!
「べらぼうめ! 下手に出りゃつけ上がりゃがって、下総十五郎を知らねえか! 不死身(ふじみ)の肌だッ。度胸をすえてかかって来やがれッ」
彫りも見ごと、啖呵(たんか)も見事、背いちめんの野晒(のざら)し彫りに、ぶりぶりと筋肉の波を打たせて、ぐいと大きくあぐらを掻(か)きました。
同時です。
舞台の幕をやんわり揚げて、ぬうと静かにのぞいた顔がある。
「御前だ!」
「早乙女の御前だ!」
まことやそれこそ、眉間の傷もなつかしい早乙女の退屈男でした。
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