三
その翌日――。
長割下水のあたりは早朝から、押すな押すなと言いたい位の雑沓でした。勿論、退屈男が八百八町ところどころの盛り場へ建てさせた、あの不審きわまりない建札が吸いよせた人出です。――あとからあとからと極々雑多色とりどりの人影がつづいて、ざッと二三百名でした。
着流しがある。七三にはし折っている奴がある。
頬かむりに弥造をこしらえて、ふるえながら歩いている影がある。
ぺたりぺたりと尻切れ草履で、ほこりを立てながら、いかにもひもじそうに歩いて行く奴がある。
それらの人をまたたくうちに追い越して通っていったのは、建札に足早き者とあった、その早足自慢の男に違いない。耳敏(みみさと)き者とあったその早耳の男も沢山交っているとみえて、歩きながらも内証話をきき出そうと、しきりにニヤニヤやっているのがいくたりか見えました。
それから世間通(せけんつう)。
人の顔を見れば他人の悪口蔭口を囁きたそうな憎まれ男。
かと思うと、ゆうべもどこかのバクチ穴で文無しに叩きハタイてしまったらしいサイコロ好きも数人交って、いずれも一両を目あてに門前のあちらこちらに押し合いながら大変な騒ぎです。
「わはは。いや、参ったな。参ったな。亡者千人何の如きぞ。これが江戸の御繁昌とは恐れ入った繁昌ぶりじゃ。いずれもようこそ参った。早乙女主水之介賞めつかわすぞ」
しらせをうけて、のっしのっしと門脇に現れると、
「京弥、用意の品、これへ持参せい」
呼び招いて、小姓袴も相応(ふさわ)しい京弥に運ばせたのは、うず高く三宝に盛られた小判の山でした。五十両? いや正しく二三百両です。江戸前気ッ腑の主水之介にとっては、大した品ではないが、馳せ集った亡者共にとっては容易でない。百の目、六百の目が同時にキラリキラリと怪しく輝きました。
見眺めて三宝うけとると、眉間傷もろともやおら言ったことです。
「約束じゃ。遣わすぞ。ほら! めいめい勝手に拾って行けい!」
意外でした。ひとりひとり呼び出して、一枚ずつ手渡しでもするだろうと思われたのに、小判の山を鷲掴みにすると、群がり集(たか)る人山を目がけて、惜しげもなくバラバラと投げ棄てました。――同時です。凄惨と言うか、悲惨というか、浅ましさおぞましさ言いようがない。わッと言う矢声(やごえ)もろ共、犇(ひし)めきわめきながら殺到すると、押しのけはねのけ、揉み合いへし合いながら、われ先にと小判の道へ雪崩(なだ)れかかりました。
しかし、たった四人だけ、拾おうともしないのがいるのです。あちらにひとり、こちらにひとり、向うに二人、呆然と佇んで、虫けらのようにうごめき争っている人々を見守っている四人の姿が見えるのです。
早くもそれと知るや、莞爾(かんじ)として退屈男が打ち笑うと、会心そうに命じました。
「浅ましい奴等に用はない。京弥、あの四人の者こそわが意に叶うた者じゃ。早う座敷にあげい」
「………」
「何をぼんやりしておるぞ。ぜひにも二人三人手が要(い)るゆえ、一両を餌(えさ)にして人足共を狩り集めたのじゃ。小判を投げたは早乙女流の人選みよ。欲破り共のうちからせめてもの欲心すくなき者を選み出そうと、わざわざ投げて拾わしてみたのじゃ。あの四人には見どころがある。余の亡者には用がないゆえに早々に追ッ払って、あの者共早う召し連れい」
「いかさま、左様でござりましたか。そうのうてはなりませぬ。御深慮さすがにござります」
まことにさすがは退屈男、趣向も直参らしく豪奢(ごうしゃ)きわまりない趣向であるが、人の選み方もまた巧みに人情の急所を衝いて、目のつけどころが違うのです。
やがてのことに座敷へ導かれて来たのは、いずれも一風ありげなその四人でした。
「来たか。来たか。遠慮は要らぬぞ。勝手に膝をくずしてずっと並べ。その方共とてあの建札眺めて参ったからには、小判がほしゅうての事であろうが、なにゆえ拾わざった」
「………」
「怕(こわ)いことはない。念のためにきくのじゃ。遠慮のう言うてみい。さだめし咽喉(のど)から手が出おったろうに、なにゆえ拾わざったぞ」
「あさましいあの有様を眺めましたら、急に情なくなりましたんで、ぼんやりと見ていたんでごぜえます」
「やはりそうであったか。なかなかにうれしい気性の奴等じゃ。そこを見込んでちと頼みたいことがあるゆえ、先ず名をきいておこうぞ。いずれあの建札知って参ったからには、それぞれ得手(えて)がある筈、右の奴は何と申す名前の何が得手じゃ」
「大工の東五郎と申しやす。少しばかり足の早いが自慢でごぜえます」
「ほほうのう。大工ならば足なぞ早うのうても役に立つ筈なのに、人一倍早いと申すか。いや、面白い面白い。次は何じゃ」
「床屋が渡世(とせい)の新吉と申す者でござります。髪床は人の寄り場所、したがって世間のことを少々――」
「なるほど。世間通じゃと申すか。いや、面白いぞ面白いぞ。段々と役者が揃うて参ったわい。三人目は何じゃ」
「鳶(とび)の七五郎と申します。ジャンと来りゃ火の子の中へ飛び出すが商売(しょうべえ)、そのせいか人より少し耳が早うごぜえます」
「ウフフ。面白い面白い。ずんと面白いぞ。お次はどうじゃ」
「あッしばかりはまことに早やどうも――」
「バクチの方か!」
「へえ。相済みませぬ。御名物のお殿様でごぜえますから、直(ちょく)に申しまするが、名前は人好(ひとよ)し長次、まとまった金がころがりこむと、じきにうれしくなって人にバラ撒いちまいますんで、この通り年がら年中文なしのヤクザ野郎でごぜえます」
「わはは。道理でのう。目が細うて、鼻が丸うて、極楽行の相がある。いや、揃うた揃うた。注文通りによくも揃うたわい。早足に早耳に世間通に、世馴れ者のバクチ打ちとはひと狂言打てそうじゃ。何を頼むにしても先立つものはこれであろうゆえ、五両ずつ遣わそうぞ。ほら、この通り五枚ずつじゃ、遠慮のう懐中せい。――いや、苦しゅうない。びっくりせいでもいい。五両の小判で命売れと言うのではない。折入って頼みたいことがあるゆえ遣わしたのじゃ。もじもじせずと早う懐中致せ! ――そうそう。いずれも蔵(しま)うたな。ではそれなる頼み言うて聞かすゆえ、よう聞けよ。と申すはほかでもないが、吉原三ツ扇屋抱えの遊女誰袖と、京橋花園小路糸屋六兵衛の伜源七と申す両名が、同じ日に行方(ゆきがた)知れずとなって、奇態なことに似せ者の死体が大川から揚がったのじゃ。頼みと申すはこのこと、本人同士が何ぞ細工をしたか、それとも恋讐(こいがたき)共がよからぬ企らみ致しおったか、何れに致せすておけぬゆえ、その方共に今からすぐ不審の正体探り出しにいって貰いたいのじゃ。先ず第一は吉原へ参って、誰袖の行状探り出すこと、第二にはうつつぬかして通いつめた色讐(がたき)共じゃが、対手は三人ある。本石町油屋藤右衛門伜又助なる者がそのひとりということゆえ、こやつの行状探り出すには、油いじりが商売の床屋新吉がよかろうぞ。二人目は浅草大音寺前人入れ稼業新九郎の身内十兵衛と申す奴ゆえ、男達(おとこだて)にバクチ打ちは縁ある仲じゃ。人好し長次がこの方を探ってな。あとのひとりはちと大物ゆえ、残った早足東五郎と早耳七五郎の両名揃うて参るがよい。探り先は二万四千石城持ち、赤坂溜池際に屋敷を頂戴致しおる遠藤主計頭じゃが、大工と鳶なら近よる手段(てだて)もあろうし、よしまた近寄ることが出来ずとも、お抱えお出入りの鳶、大工があろうゆえ、少しく智慧を働かしなば、屋敷の秘密なにくれとのう雑作なく嗅ぎ出せるというものじゃ。床新と人好し長次両名はまたその足で三ツ扇屋へ参り、なにかと詳しゅう探ってな、別して新吉は世事に通じておるが自慢とのことゆえ、人の話、世間の噂、ぬからずに、――のう分ったか! 事は急じゃ。早う行けい!」
「なるほど! 御名物の御殿様ゆえ、只の御酔狂ではあるまいと思いましたが、いや、変ったお頼みでごぜえます。そういうことは大の好き、折角お目鑑(めがね)に叶ったものをヘマしちゃならねえ。じゃ、兄弟(きょうでえ)! ひとッ走りにいって来ようぜ」
「合点だ! 支度しな!」
四人ともに粒が揃っているのです。イナセ早気の鳶の者七五郎にせき立てられて、江戸の底に育ち、底を歩き、底を泳ぐが達者の四人は、その場に命ぜられた町々へ飛び出しました。
「小気味のよい者共じゃ。篠崎流の軍書にも見えぬ智慧才覚じゃが、あれに気がつくとは主水之介の眉間傷もまだ錆(さ)びぬかのう。――京弥。ゆるゆる待とうぞ。菊路に琴でも弾かせい」
これがまた落付いているのです。千二百石直参旗本の貫禄を肱枕にのせて、長々とそこに横たわりながら、やがて弾き出した琴の音に聴き入りつつ、目を細めつつ、京弥菊路のふさわしい一対(つい)を眺めつつ、出来るものなら生れ代って二日か三日主水之介になりたい位でした。
かくして待つこと三刻(とき)――。
暮れ易い冬ざれの陽はいつか黄昏(たそがれ)そめて、訪れるは水の里に冷たい凩(こがらし)ばかり。
「只今立ち帰りました。御前! 分りましたぞ!」
景気よく飛び込んで来たのは、鳶の七五郎です。あとからぞろぞろと三人。
「ほほう。みな揃うて帰ったな。どこで落ち合うたのじゃ」
「遠藤主計頭様はなんしろ御大名、ヘマを踏んで引ッくくられでもしちゃ大変だから、その時はお屋敷へしらせてお殿様にお救い願おうと存じまして、万一の用意にと、床新さん達に用のすみ次第、あちらへ廻って貰ったんでござんす。その遠藤様が仕掛け細工の張本人ですぜ」
「なにッ。そうか! そうであったか! 仕掛け細工とは何をしたのじゃ」
「何うもこうもねえんですよ。太(ふて)え御了簡ッちゃありゃしねえ。どうして探り出そう、誰から嗅ぎ出そうと手蔓(てづる)をたぐって行くうちにね、ゆうべこちらへ御菓子折とかを届けためくらとあの若い野郎とを嗅ぎ当てたんですよ。めくらはお出入り按摩、若い奴も同じお出入りの小間物屋だそうでござんすが、こちらへお伺いしたからには、何もかも話せばいいのに、うっかり申しあげたら、御殿様にバッサリやられそうな気がしたんで、怕い怕いの一心から、ひた隠しに隠してひた逃げに逃げて帰ったんだそうですがね。事の起りゃ御身分甲斐もねえ、みんな遠藤様の横恋慕からなんですよ。三日にあげず通いつめたが、御存じのように誰袖花魁には真夫(まぶ)がある。ぬしと寝ようか五千石取ろうかの段じゃねえんです。万石(まんごく)積んでも肌一つ見せねえというんで、江戸ッ児にゃ気に入らねえお振舞いをなすったんですよ。源七どんと誰袖を手もなく浚(さら)って、屋敷へ閉じこめ、切れろ、別れろ、別れなきゃこれだぞと、毎日毎夜古風な責め折檻(せっかん)に嫉刄(ねたば)を磨いでいらっしゃると言うんですがね。対手は曲輪(くるわ)育(そだ)ちの気性の勝った花魁(おいらん)だ。なかなかうんと言わねえんで、だんだん日が経つ、世間が騒いで悪事露見になりゃ御家の名に傷がつくというところから、人目をごまかそうと遠藤様がひと狂言お書きなすって、仰せの心中者をひと組こしらえたというんですよ。それも聞いてみりゃむごい事をしたもんじゃござんせんか。年頃恰好の似通ったお屋敷勤めの若党と女中の二人をキュウと絞め殺させてね、源七どんに無理無体書置をしたためさせて、ぽっかり大川へ沈めたというんです。そうして置けば、世間は心中したろうと思い込んで、騒ぎもなくなるし、人目もたぶらかすことが出来るから、そのすきにゆっくり責め立てて、二人に手を切らし、まんまと誰袖を手生けの花にしようと、今以て日夜の差別なく交る交る二人を折檻しているというんですがね」
「ほほうのう! ならば源七をバッサリやればよい筈、邪魔な真夫(まぶ)を生かしておいて、似せの心中者を細工するとはまたどうした仔細じゃ」
「そこが江戸花魁のうれしいところでござんす。斬りたいは山々でしょうが、源七どんに万一のことがありいしたら、わちきも生きてはおりいせぬ、とか何とか程よく威(おど)しましたんでね、元も子も失(な)くしちゃ大変と、首をつないでおいて、下郎風情があのような別嬪(べっぴん)を私するとは不埓至極じゃ、分にすぎるぞ。手を切れ、たった今別れろと、あくどく源七どんを御責めになっていらっしゃると言うんですが、二人にとっちゃ必死も必死の色恋に相違ねえから、どうぞして逃れたい、救い出して貰いたいと考えた末、ふと思い出したのは――」
「身共の事じゃと申すか!」
「そうでござんす! そうなんでごぜえます! 対手はとにもかくにも城持ち大名、これを向うに廻して、ひと睨(にら)みに睨みの利くのは傷のお殿様より他にはあるまいと、二人が二人、同じように考え当って、源七どんは出入りの按摩に、誰袖花魁は小間物屋の若い衆に、こっそりとお使いを頼み込んだというんですがね。気に入らねえのは使いに立ったその二人ですよ。しかじか斯々(かくかく)でごぜえますからと早く言えばいいものを、お殿様程の分った御前を、怕いの恐ろしいのと思い違えて逃げ帰ったのがこんな騒ぎのもととなったんでごぜえます」
「不埓者(ふらちもの)めがッ。傷がむずむずと鳴いて参った! 京弥! 千二百石直参旗本の格式通り供揃いせい!」
颯爽たる声でした。すっくと立ち上がって、手馴れの平安城相模守(へいあんじょうさがみのかみ)をたばさむと、駕籠は塗り駕籠、奴合羽(やっこがっぱ)に着替えさせた鳶の七五郎達四人を供に、京弥召し随えて直ちに行き向ったところは、赤坂溜池際の遠藤屋敷です。
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