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旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)08 第八話 日光に現れた退屈男

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 10:28:45  点击:  切换到繁體中文


       五

 そうしていち夜があけました。――深い霜の朝です。
 つづいてまたひと夜があけました。――やはりいちめんに深い霜です。
 三日目の朝がさらに訪れました。――満目荒涼いちめんに白々として、やはり深い霜です。
 日光から江戸まではざッと三十里、飛脚でいって、早駕籠で来るならば、三日目のその今日あたりは、もうそろそろ妹菊路が駈けつける頃でした。待つうちに陽がおち、丁度夕方――。
「御老体」
「何じゃな」
「身共にわるい癖が一つござってな」
「なるほど、なるほど。里心がおつき申したか」
「どう仕って。宿までさせて頂いて、いろいろと御造作に預る居候(いそうろう)の身がわがまま言うて相済まぬが、旅に出るとどういうものか身共、三日目に一度位ずつ、塩ものを食さぬと骨放れが致すようでならぬのじゃ。夕食に何ぞよい干物(ひもの)御無心出来ませぬかな」
「ウフフ。これはどうも恐れ入った。口栄耀(くちえいよう)をした天罰(てんばつ)でござりますわい。お直参旗本千二百石取り疵の早乙女主水之介[#「主水之介」は底本では「主水之」と誤植]と言わるるお殿様が、干物を好物とは話の種でおじゃる。と申すものの、実は、ウフフ、この正守もな」
「御好物か」
「恥ずかしながらこの通り、今日は出そうか今日は出そうかと、そなたに気兼ねして実はこの本箱の奥に隠しておいたのじゃ。口の合うたが幸い、早速に用いましょうわい」
 変り者同士の、きくだにまことに胸のすくような団欒(だんらん)でした。程よく焼いて用いるとき、――ピタピタと言う軽い足音が社務所の玄関口に近づいて来たかと思われるや一緒で、訪(おと)のうた声はまさしく銀鈴のような涼しい女の声です。
「お兄様! お兄様! あの、お兄様はどこにござります」
「おお、菊か。菊路か」
「あい、遅なわりました。只今ようやく参着致しましてござります。お早く! お早く! 御無事なお顔をお早く見せて下さりませ」
「まてまて、今参る今参る。ちょっと今大変なのじゃ。今参る、今参る。――そらみい。兄じゃ、よう見い。傷もあるぞ」
「ま! 御機嫌およろしゅうてなにより……。お色つやもずっとよろしくおなり遊ばしましたな」
「うんうん。旅に出ると干物なぞが頂けて食べ物がよろしいのでな。そちも半年(はんとし)見ぬまにずんと美しゅうなったのう」
「もうそのような御笑談ばかり。――あの、それより、あの方も、あの、あのお方も御一緒にお越しなさりました」
「誰じゃ。書面にはそちひとりに参れと書いてやった筈じゃが、あの方とは誰ぞよ」
「でもあの……、いいえ、あの、あの方でござります。京さまでござります。京弥さまでござります」
「なに? ――いずれにおるぞ?」
「その駕籠の向うに……」
 ひょいと見ると、恥ずかしそうにうつむきながら、駕籠の向うにかくれていたのは、まさしく妹菊路の思い人霧島京弥です。
「わッははは、そちもか。もッと出い。こッちへ出い。恥ずかしがって何のことじゃ。ウフフ、あはは。のう京弥、諺(ことわざ)にもある。女子(おなご)の毛一筋は、よく大象(たいぞう)をもつなぐとな。わはは。そちも菊に曳かれて日光詣りと洒落おったな」
「いえ、あの、そのようなことで手前、お伴(とも)をしたのではござりませぬ。長い道中を菊どのおひとりでは何かとお心もとなかろうと存じましたゆえ、御警固かたがたお伴をしたのでござります」
「なぞと言うて、嘘を申せ。嘘を申せ。ちゃんと二人の顔に書いてあるぞ。菊がねだったのやら、そちが拗(す)ねたのやら知らぬが、別れともない、別れて行くはいやじゃ、なら御一緒にと憎い口説(くぜつ)のあとで、手に手をとりながら参ったであろうが喃。ウフフ、あはは。いや、よいよい、京弥までが一緒に参ったとあらば、風情の上になおひと風情、風情を添えるというものじゃ……。のう御老体。沼田の御老体!」
「ここじゃ。ちゃんとうしろにおりますわい」
「……? なるほど、左様か。いつのまにおいでじゃ。これが主水之介の妹菊路でござる」
「そちらが御妹御御意中の御小姓か」
「と、まア、左様に若い者を前にして、あからさまなことは言わぬものじゃ。役者が揃わば手段(てだて)は身共の胸三寸にござる。すぐさま参りましょうぞ。……のう菊」
「あい……」
「そち、疲れておるか」
「あい、少しばかり。……いいえ、あの、久方ぶりに懐かしいお兄様のお顔を見たら、急に元気が出て参りました。何でござります、わたくしに火急の御用とは何でござります」
「それがちと大役なのじゃ。なれどもそちとて早乙女主水之介の妹じゃ。よいか。この兄の名を恥ずかしめぬよう、この兄に成り代ってこの兄にもまさる働きをするよう、充分覚悟致して大役果せよ。と申すはほかでもないが、当大和田の郷(ごう)に、みめよき女子と見ればよからぬ病の催す不埓(ふらち)な旗本がひとりおるのじゃ。領民達の妻女、娘なぞを十一人も掠(かす)め奪り、沙汰の限りの放埓(ほうらつ)致しおると承わったゆえ、早速に兄が懲(こ)らしめに参ろうと思うたが、わるいことにきやつめ、兄と面識のある間柄なのじゃ。それゆえ……」
「分りました。それゆえ顔を見知られぬこの菊に、お兄様に代って懲らしめに参れとおっしゃるのでござりまするか」
「然り。なれども只懲らしめに参るのではない。ちとそこに工夫がいるのじゃ。今も申した通り、至っての女好きじゃでな。さぞかしそちとしては辛くもあろうし、きくもけがわらしい事であろうが、一つには可哀そうな十一人の女子(おなご)のために、二つにはその女子共を掠められて恨み泣きに泣き恨んでおる領民共のために、三つには八万騎旗本一統の名誉のために、そちが重責荷(にな)った節婦になるのじゃ。それゆえ、よいか、このように申してそちひとりがきゃつの屋敷に乗り込んで参れよ。わたくし、旅に行き暮れて道に踏み迷い、難渋(なんじゅう)致しておる者でござります。ぶしつけなお願いでござりまするが、いち夜の宿お貸し願えませぬかと、この様にな、さもさも困り果てているように見せかけてまことしやかに申すのじゃ。さすれば人一倍色好みのきゃつのことじゃ、兄の口からこのようなこと言うのもおかしいが、江戸でもそう沢山はないそちの縹緻(きりょう)ゆえ、きゃつがほっておく筈はない。わるい病が催して何か言い寄って参らば、そこがそちの働きどころじゃ。近寄らず近寄らせず巧みにあしらって懲(こら)しめてやるのよ」
「ま! 恐ろしい! ……でも、でも仕損じて、もしも身にけがらわしい危険が迫りましたら……」
「死ね!」
「えッ!」
「いや、恥ずかしめられなば死ぬ覚悟で参れと申すのじゃ。役者はそちひとりじゃが、うしろ楯(だて)にはこの兄がおる。京弥もついておる。それからここにお在での風変りなおじい様も控えておられる。そちと一緒に兄達三人も庭先に忍び入り、事急と相成らば合図次第押し入って、充分に危険は救うてつかわすゆえ、その事ならば心配無用じゃ。よいか、今申した通り、きゃつめがいろいろと淫(みだら)がましゅう言い寄って参るに相違ないゆえ、風情(ふぜい)ありげに持ちかけて、きゃつを坊主にせい」
「坊主?![#「?!」は横1文字、1-8-77] なんのためにござります。何の必要がござりまして、御出家にするのでござります」
「それはあとで相分る。わざわざそちを呼び招いたのも、つまりは、やつの頭をクリクリ坊主にさせたいからじゃ。是が非でも出家にさせねばならぬ必要があるゆえ、そちが一世一代の手管(てくだ)を奮って、うまうまと剃髪(ていはつ)させい」
「でも、でも、わたし、そんな手管とやらは……」
「知るまい、知るまい、そちがはしたない女子(おなご)の手管なぞ存じおらば事穏かでないが、でも、近頃は万更知らぬ事もなかろうぞ。兄がるす中、それに似たようなことを京弥と二人して時折試みていた筈じゃ。わはは。のう、違うかな」
「ま!……」
「いや、怒るな、怒るな、これは笑談じゃ。いずれに致せ、一つ間違わば操に危険の迫るような大役ゆえ、行けと言う兄の心も辛いが、そちの胸も悲しかろう。なれども、天下の御政道のために、是非にも節婦となって貰わねばならぬ。どうじゃ、行くか」
「………」
「泣いてじゃな。行くはいやか」
「いえ、あの、京弥さまさえお許し下さいましたら――」
「参ると申すか」
「あい、行きまする!」
「出かしたぞ、出かしたぞ、いや、きつい当てられたようじゃ。京弥、どうぞよ。菊めが赤い顔して申してじゃ。そち、許してやるか」
「必ずともに危険が迫っても、手前のために操をお護り下さると申しますなら――」
「わはは。当ておるわ、当ておるわ、若い者共、盛んに当ておるわい。いや、事がそう決まらば急がねばならぬ。御老体、先ず事は半(なかば)成就(じょうじゅ)したも同然じゃ。御支度さッしゃい」
 健気(けなげ)な菊路の旅姿を先にして、主水之介、京弥、老神主三人がこれを守りながら、目ざす大和田十郎次の屋敷へ行き向ったのが丁度暮れ六ツ。
 元より門はぴたりと締って、そこはかとなくぬば玉の濃い闇がつづき、空も風も何とはのう不気味です。
 だが菊路は、涙ぐましい位にも今健気(けなげ)でした。つかつかと門の外へ歩みよると、ほとほと扉を叩いて中なる門番に呼びかけました。
「あの、物申します。わたくし、旅に行き暮れた女子(おなご)でござります。宿を取りはぐれまして難渋(なんじゅう)ひと方ではござりませぬ。今宵いち夜、お廂(ひさし)の下なとお貸し願えぬでござりましょうか、お願いでござります」
「なに、女子でござりますとな。待たッしゃい、待たッしゃい。宿を取りはぐれた女子とあっては耳よりじゃ。どれどれ、どんなお方でござります」
 ギイとくぐりをあけて、しきりにためつすかしつ、差しのぞいていたが、菊路ほどの深窓(しんそう)珠をあざむく匂やかな風情が物を言わないという筈はない。にたりと笑って、忠義するはこの時とばかり、屋敷の奥へ注進に駈け込んでいったその隙を狙いながら、退屈男達三人はすばやく身をかくしつつ、邸内深くの繁みの中に忍び入りました。
「御老体、そなた屋敷の模様御存じであろう。十郎次の居間はいずれでござる」
「今探しているところじゃ。待たっしゃい。待たっしゃい。いや、あれじゃ、あれじゃ。あの広縁を廻っていった奥の座敷がたしかにそうじゃ」
 息をころして忍びよると、容子やいかにと耳を欹(そばた)てながら中の気勢(けはい)を窺(うかが)いました。――どうやらあの十一人の掠(かす)め取った女達をその左右にでも侍(はべ)らせて、もう何か淫(みだ)らな所業を始めているらしい容子です。と思われた刹那、門番から近侍の者へ、近侍の者から十郎次へ、菊路のことが囁(ささや)かれでもしたらしく、急に座内が色めき立ったかと思われるや一緒に、十郎次の言う声が戸の外にまで洩れ伝わりました。
「そのような椋鳥(むくどり)が飛び込んで参ったとすれば、ほかの女共がいては邪魔(じゃま)じゃ。下げい。下げい。残らずいつものあの部屋へ閉じこめて、早うその小娘これへ連れい」
 声と共に忽ちすべての手筈が運ばれたらしく、程たたぬまに主水之介達三人が窺いよっているそこの広縁伝いに、こちらへさやさやとつつましやかに衣(きぬ)ずれの音を立てながら、大役に脅(おび)えおののいているのに違いない菊路が導かれて来た気配(けはい)でした。と同時です。もうその場から汚情(おじょう)に血が燃え出したものか、十郎次の濁(にご)った声が伝わりました。
「ほほう、いかさまあでやかな小娘よ喃。道に踏み迷うたとかいう話じゃが、どこへの旅の途中じゃ」
「………」
怖(こわ)うはない、いち夜はおろか、ふた夜三夜でも、そなたが気ままな程に宿をとらせて進ぜるぞ。どこへ参る途中じゃ」
「あの、日光へ行く途中でござります」
「ほほう、左様か。このあたりは道に迷いやすいところじゃ。それにしてもひとり旅は不審、連れの者はいかが致した」
「あの、表に、いいえ、表街道までじいやと一緒に参りましたなれど、ついどこぞへ見失うたのでござります」
「じいやと申すと、そなた武家育ちか」
「あい、金沢の――」
「なに、加賀百万石の御家中とな。どことのうしとやかなあたり、育ちのよさそうな上品さ、さだめて父御(ててご)は大禄の御仁であろう喃」
「いえ、あの、浪人者でござります。それも長いこともう世に出る道を失いまして、逼息(ひっそく)しておりますゆえ、よい仕官口が見つかるようにと、二つにはまた、あの――」
「二つにはまたどうしたと言うのじゃ」
「あの、わたくしに、このような不束者(ふつつかもの)のわたくしにでもお目かけ下さるお方がござりますなら、早くその方にめぐり合うよう、日光様へ願懸けに行っておじゃと、母様からのお言いつけでござりましたゆえ、じいやと二人して参ったのでござります」
「ウフフ。うまいぞ。うまいぞ」
 きいて戸の外の退屈男は小さく呟(つぶや)きました。しかし、穏かでないのは京弥です。きき堪えられないように身悶えながら色めき立ったのを、
「大事ない、大事ない。あれが手管ぞよ。手管ぞよ。今暫くじゃ、辛抱せい」
 小声で叱りながら、なおじッと聞耳立てました。それとも知らずに十郎次は、菊路の巧みな誘いの一手に汚情を釣り出されたとみえて、ますます色好みらしい面目をさらけ出しました。
「聟探しの日光詣(もう)でとはきくだに憎い旅よ喃。もしも目をかけてとらす男があったら何とする」
「ござりましたら――」
「ござりましたら、何とするのじゃ」
「そのようなお方がござりましたら、きっと日光様が御授け下さりましたお方に相違ござりませぬゆえ、いいえ、あの、わたくしもうそのようなこと申上げるのは恥ずかしゅうござります」
 きくや、実に十郎次の行動は直接なのです。直接以上に露骨でした。にじり寄ってむんずとその手をでも取ったらしい気勢(けはい)がきこえると共に、あからさまな言葉がはっきりときこえました。
「可愛いことを申す奴よ喃。身共がなって進ぜよう。誰彼と申さずに、この拙者が聟になって進ぜるがいやか」
「ま! でも、でもあのそんな、ここをお放し下されませ! あの、そんな今お会い申したばかりなのに、もうそんな――」
「いつ会うたばかりであろうと、そなたが可愛うなったら仕方がないわい。どうじゃ。拙者の心に随うてくれるか」
「でも、あの、あなた様は――」
「わしがどうしたと申すのじゃ」
卑(いや)しいわたくしなぞが、お近づくことすら出来そうもないほど、御身分の高いお方のようでござりますゆえ、わたくし、空恐ろしゅうござります」
「しかし、恋に上下はないわい。この通りまだ三十になったばかり、妻も側女(そばめ)もないひとり身じゃ。そちさえ色よい返事致さば、どんなにでも可愛がってつかわすぞ。いいや、そちの望みなら何でもきき届けて進ぜるぞ。親御の仕官口もよいところを見つけて、世に出るよう取り計らってつかわすぞ。どうじゃ、言うこときくか」
「それがあの、本当なら倖(しあわせ)でござりますなれど……わたくし、あの只一つ――」
「只一つどうしたと言うのじゃ」
「………」
「黙っていては分らぬ。言うてみい、只一つどうしたと申すのじゃ」
「気になることがあるのでござります」
「どういうことじゃ」
「あの、小さい時、鞍馬(くらま)の修験者(しゅげんじゃ)が参りまして、わたくしの人相をつくづく眺めながら、このように申したのでござります。そなたは行末ふとしたことから、身分の高いお方のお情をうけるやも知れぬが、その節は必ずこの事守らねばならぬ。俗人のままの姿でお情うけたならば、その場で悲しい禍(わざわ)いに会わねばならぬゆえ、ぜひにもお頭(つむり)を丸め、御法体(ほったい)になって頂いてからお情うけいと、このように申されましたゆえ、それが気になるのでござります」
「馬鹿な! 修験者風情(ふぜい)の申すことが何の当になるものぞ。くだらぬことじゃ。そのようなことは気にかけるが程のものもないわい」
「いいえ、でも、三年の間に三人の違った修験者に観て頂きましたら、三人共みな同じことを申しましたのでござります。それゆえ、ふとしたことからお情頂戴致すようなことになるとか申したその身分の高いお方というは、もしやあの、お殿様ではないかと思うて、気になるのでござります」
「では、このわしに頭(つむり)を丸めいと言うのか」
「あい。末々までもと申すのではござりませぬ。御出家姿となって最初の夜のお情をうけたら、邪気(じゃき)が払われて必ずともに倖(しあわせ)が参るとこのように修験者共が申しましたゆえ、本当にもし――」
「本当にもし、どうしたと言うのじゃ」
「わたくしのような不束者(ふつつかもの)を本当にもしお目かけ下さるならば、愛のしるしに、いえ、あの誓いの御しるしに、わたくしのわがままおきき届け願いとうござります。そしたらあの……」
「身をまかすと申すか!」
「あい……。いいえ、あの、わたくしもう、なにやら恥ずかしゅうて、胸騒ぎがして参りました。あの、胸騒ぎがしてなりませぬ」
 愈々筋書通りに事が運ばれました。しかも、虫一つ殺さぬげに見えた菊路の手管、なかなかにうまいのです。――何と答えるか、庭先にひそむ三人の耳は異様に冴え渡りました。だが、こんなおろか者もそう沢山はないに違いない。いや、花も恥じらわしげな菊路の、触れなばこぼれ散りそうな初々(ういうい)しい風情が、ついにおろか者十郎次の情欲をぐッと捕えてしまったに違いないのです。にたにたと北臾(ほくそ)笑みながらでも言っているらしい笑止な声がきこえました。
「剃ろうぞ。剃ろうぞ。見ているうちにそちの可愛さが、もうもう堪らずなった。ふるいつきとうなったわい。今宵は丸めたとても、あすからまた伸びて参る髪の毛じゃ。いいや、却って座興がますやも知れぬ。そうと事が決らば早いがよいゆえ、今すぐ可愛い頭(つむり)となって見しょうわい。誰ぞある! 誰ぞある!」
 まことに言いようなく笑止な男です。
「十郎次の変った姿を見せてやるぞ。早うこの髪、剃りおろせい」
 ごたごた暫く何かつづいていたかと思われるまもなく、ついに思い通り、頭を丸めさせられたと見えて、菊路の白々しげに、しかも、いかにも情ありげに言った声がきかれました。
「ま! おかわゆらしい……。わがまま御きき届け下さりまして、うれしゅうござります」
 頃はよし!
 ダッともろ手体当てに、雨戸を難なく押し破りながら、先頭に主水之介、つづいて京弥、あとから神官正守の順でいきなり広縁に躍り上がるや、ずいと先ず退屈男が静かに部屋の中へ押し入ると、悠揚莞爾(ゆうようかんじ)としながら、さらに静かに浴びせかけました。
「わッはは。俄か坊主、唐瓜(とうがん)頭が青々と致して滑(なめら)かよ喃。風を引くまいぞ」
「なにッ? よよッ! 貴公は!」
「誰でもない。傷の早乙女主水之介よ。江戸でたびたび会うた筈じゃ。忘れずにおったか」
「何しに参った! 狼狽致して夜中何しに参った!」
「ウフフ、おろか者よ喃。まだ分らぬか。三日前の夜、こちらの沼田先生にお伴(とも)して、百姓共をとり返しに参ったのもこの主水之介よ。そこのその旅姿の女も、身共の妹じゃわい。八万騎一統の名を穢(けが)す不埓者(ふらちもの)めがッ。その方ごときケダモノと片刻半刻たりともわが肉身の妹を同席させた事がいっそ穢らわしい位じゃ。主水之介、旗本一統に成り変って、未練のう往生させてつかわすわッ。神妙に覚悟せい」
「さてはうぬが軍師となって謀(はか)りおったかッ。同輩ながら職席禄高汝にまさるこの大和田十郎次じゃ。屋敷に乱入致せし罪許すまいぞッ、者共ッ者共ッ。狼藉者捕って押えいッ」
 声に、抜きつれながら七八人の近侍達が一斉に襲いかかろうとしたのを、
「何じゃい。何じゃい。わしのこの白髯が目に這入らぬかい。片腹痛い真似を致さば、こやつでプツリ御見舞い申すぞ」
 咄嗟にそこの長押(なげし)から短槍はずし取って青江流(あおえりゅう)手練(てだ)れの位取りに構えながら威嚇したのは、九十一の老神官の沼田正守です。怯(ひる)んで一同たじたじと引き下がったのに苛(いら)ってか、十郎次が剃り立て頭に血脈を逆立てながら代って襲いかかろうとしたのを、一瞬早く退屈男の鋭い命が下りました。
「京弥、青道心(あおどうしん)を始末せい!」
「お差し支えござりませぬか!」
「投げ捕り、伏せ捕り、気ままに致して、押えつけい」
 大振袖がヒラリ灯影(ほかげ)の下に大きく舞ったかと見るまに、もう十郎次は京弥の膝の下でした。
「ま! ……お見事でござります」
 感に堪えたように目を涼しくしたのは菊路です。
「ウフフ。十郎次、ちと痛そうじゃな。その態(ざま)は何のことぞ。それにても一朝事ある時は、上将軍家の御旗本を固むる公儀御自慢の八万騎と申されるかッ。笑止者めがッ。慈悲をかけてつかわすべき筈の領民共を苦しめし罪、お直参の名を恥ずかしめたる不埓(ふらち)の所業の罪、切腹しても足りぬ奴じゃが、早乙女主水之介、同じ八万騎のよしみを以て、涙ある計らいを致して進ぜる。――御老体! 御老体! このまに十一人の可哀そうな女共、早う逃がしておやり下されい」
 心得たとばかりに、近侍の者共を槍先一つであしらいあしらい、向うに消えていった老神官を心地よげに見送りながら、主水之介はどっかと、そこの脇息(きょうそく)に腰打ちかけると、文庫の中の奉書(ほうしょ)を取り出して、さらさらと達筆に書きしたためました。

 拙者儀、領内の女共を掠めて、不埓の所業仕候段慚愧(ざんき)に堪えず候間、重なるわが罪悔悟(かいご)のしるしに、出家遁世仏門(しゅっけとんせいぶつもん)に帰依(きえ)致し候条、何とぞ御憐憫(ごれんびん)を以て、家名家督その他の御計らい、御寛大の御処置に預り度、右謹んで奉願上候。なお家督の儀は舎弟重郎次に御譲り方御計らい下さらばわが家門の面目不過之(めんもくこれにすぎず)、併せて奉願上候。
願人 旗本小普請頭 大和田 十郎次 

右証人  旗本   早乙女主水之介 

 大目付御係御中


「どうじゃ。十郎次、よくみい! そちを坊主にさせた仔細これで相解ろう。早う名の下に書判(かきはん)せい」
「何じゃ。こ、これは何じゃ! 勝手にこのようなものを書いて、何とするのじゃ!」
「勝手に書いたとは何を申すぞ、この一埓(らつ)、表立って江戸大公儀に聞えなば、家名断絶、秩禄没収(ちつろくぼっしゅう)は火を睹(み)るより明らかじゃ。せめては三河ながらの由緒ある家名だけはと存じて、主水之介、わざわざ手数をかけその方を坊主にしてやったのじゃ。有難く心得て書判せい」
 ぐいとその手をねじむけて、介添(かいぞ)えながら十郎次に書判させると、折から晴れ晴れとした顔で再び姿を見せた老神主に、大目付上申のその奉書をさしながら、莞爾(かんじ)として言った事でした。
「御老体いかがじゃ。こうして十郎次を隠居放逐しておいて、家名食禄を舎弟に譲り取らしておかば、この先当知行所の女共は元より、領民一統枕を高くして農事にもいそしめると言うものじゃ。御気持はいかがでござる。屈強な者共二三人えりすぐって、これなる上申書、すぐさま江戸へ持参するよう、御手配なさりませい」
「ウフフ、あはは、左様か左様か。病の根を枯らし取ると言うたはこの事でおじゃったかい。いや、さすがは干物がお好きなだけのものがおじゃる。飛ばそう、飛ばそう。すぐに江戸へ飛ばしましょうが、その間、丁度よい都合じゃ。今十一人の女共を救うてやったあの部屋が、錠前つき、出入りままならぬ座敷牢ゆえ、大目付御係り役人がお取り調べに参るまで、この青いお頭(つむり)を投げ込んでおきましょうわい。十郎次出家、立たッしゃい」
 ぐんぐん引立てて行くと、手もなく投げ込んだと見えて、ピーンと錠前のかかる音がひびき伝わりました。――刹那、ちらりと庭先を掠(かす)めて通りすぎようとした姿は、まさしくあの鳥刺しです。
「まだ貴様、まごまご致しおったか。事のついでに主水之介自ら手を下して、うぬも一緒に坊主にしてやろうぞ」
 すいと泳いでその襟髪引ッ捕えながら、早くもすでにプツリ髻(もとどり)を切ってすてました。
「馬鹿者めがッ。行けッ。わはは、いいこころもちよ喃。御老体どうぞ御先に。では、京弥、菊路、そろそろ参ろうかい」
 事もなげに、そうして悠々と引上げていった退屈男のその足どりの爽やかさ! ――救い出された女共から知らせをうけて駈けつけたと見えて、屋敷の門の前に蝟集(いしゅう)していた農民共が、見迎え見送りながら、一斉に歓呼(かんこ)の声を浴びせかけました。
「殿様、有難うござります」
「お蔭で領民共一統生き返りました」
「有難うござります。有難うござります」
 夜空に高く星も喜ばしそうにまたたいた。



底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
※混在する「不埒」と「不埓」は、底本通りとした。
入力:tatsuki
校正:皆森もなみ
ファイル作成:野口英司
2001年10月18日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について

・本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

領主大和田八郎次※――

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