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旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)03 第三話 後の旗本退屈男

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 10:20:11  点击:  切换到繁體中文


       三

 行きついてみると、いかさま言葉の通り、算数手習い伝授、市毛甚之丞と看板の見える一軒が労せずして見つかりましたので、在否やいかにと、先ず玄関口にそっと歩みよりながら、家内の様子を見調べました。
 と――、いぶかしや、そこに見えたのは、八足ばかりの雪駄です。子供のものならば商売柄不思議はないが、いずれも大人履(おとなば)きでしたから、退屈男に何の躊躇があるべき――案内も乞わず、ずかずか上って行くと、さッと奥の一間の襖を押しあけながら、黙然と敷居ごしに佇んだままでぐるり部屋の内を見眺めました。
 一緒に目を射た八人の者の姿! いずれも五分月代(ごぶさかやき)の伸び切った獰猛(どうもう)なる浪人者です。その八人に取り巻かれて、床の間を背にしているのが、目ざした手習い師匠の市毛甚之丞であるらしく、そしてまたその市毛甚之丞の傍らに奴姿(やっこすがた)をして控えているのが、これぞ逐電先を追い求めてやって来たところの、古高新兵衛馬丁六松であることは、一目にして瞭然でした。
 然るに、それなる十人の者どもが、殊のほか不審でした。ぐるりと車座になっていましたので、聞いて来た通り、丁半開帳の最中ででもあるかと思いのほかに、中間六松をのぞいての九人の者が、何をこれからどうしようというのか、いずれも腰の業物(わざもの)を抜きつれて、各自それぞれに刀身へ見入りつつ、見るから妖々とした殺気をそこにみなぎらしていましたので、退屈男のいぶかしく思ったのは当然、いや、より以上に打ちおどろいたのは、十人の面々でした。ぎょッとたじろいだようにいずれも面(おもて)をあげて、一斉に退屈男の上から下を見あげ見おろしていましたが、中なるひとりが早くもあの額際のぐっと深く抉られた三日月形で気がついたものか、その顔を蒼めて言い叫びました。
「さては、早乙女主水之介じゃな!」
 しかし、退屈男は無言でした。黙然と両手を懐中にしたままで、じっと九人の者を静かに只にらめすえたばかり――。
 とみて、苛立ったごとくに、いな、むしろ、無言のその威嚇に不気味さが募りまさったもののごとくに、甚之丞がじろじろと今迄見改めていた強刀を引きよせると、同じく唇まで蒼めながら叫びました。
「案内も乞わず何しに参った!」
 きくや、依然ふところ手のままで、ほのぼのとした微笑をその唇にのせていましたが、冷たく錆のある太い声が、ようやく主水之介の口から重々しく放たれました。
「退屈払いに参ったのじゃ、びっくり致したか」
「なにッ? 何の用があってうしゃがったんだ!」
「血のめぐりがわるい下郎共よ喃。退屈男が御手ずから参ったからには、只用ではない。それなる中間の六松に用があるのじゃ」
 途端――。
 市毛甚之丞が、ちらり八人の者になにか目くばせしたかと見えましたが、同時でした。
「そうか。六松に用あってうしゃがったと分りゃ、あの毒蛇の一件を嗅ぎつけやがったに相違ねえ。各々ッ、いずれはこんなことにもなるじゃろうと存じて、今、お腰の物にも研ぎを入れて貰うたのじゃ。出がけの駄賃に、それッ、抜かり給うなッ」
 問いもしないうちに、うろたえながら毒蛇の一件を言い叫ぶと、下知と共に素早く六松をうしろへ庇(かば)いながら、八人の者へ助勢を促したので、退屈男の色めき立ったのは言う迄もないことでしたが、しかし、両手は依然懐中のまま――。そして、静かに威嚇いたしました。
「馬鹿者共めがッ。江戸御免の篠崎流正眼崩しを存ぜぬかッ。その菜切(なっき)り庖丁をおとなしゅう引けッ」
 だのに、身の程もわきまえぬ鼠輩共(そはいども)です。蟷螂(とうろう)の竜車(りゅうしゃ)に刄向うよりもなお愚(おろ)かしき手向いだてと思われるのに、引きもせずじりじりと、爪先立ちになって、九本の刄を矢来目陣(やらいめじん)に備えながら、退屈男に押し迫ろうとしましたので、京弥が伺い顔に傍らから言いました。
「手間どってはあとが面倒にござりますゆえ、ちょっと眠らしてつかわしましょうか」
「そうのう、では、揚心流小出しにせい」
「はッ。――ちと痛いかも知れぬが、暫くの間じゃ。お辛抱召されよ」
 言いつつ、漆(うるし)なす濡れ羽色の前髪をちらちらとゆり動かして、すいすいと右と左へ体を躱(かわ)しつつ、駈け違ったかと見えましたが、左の及び腰になっていたのっぽを先ずぱったり、右のしゃちこばっていた薄汚ない奴をつづいてばたり、前の、目を血走らせていた蟹股(がにまた)を同じくばたり、いと鮮かに揚心流遠当てで、そこにのけぞらしました。
 とみて、笑止千万な者共です。はや腰を抜かして、へたへたと縁側に這いつくばりつつ逃げおくれた六松をひとり残して、誰先にとなく裏口へ逃げ走り去ったので、あとから追いかけようとした京弥を、退屈男は慌てて制しつつ呼び止めました。
「すておけ、すておけッ。六松さえ押え取らば、どこまで逃げ伸びようと、いずれはこちらのものじゃわ。深追いするな」
 逃げるままに逃がしておいて、やおら六松のところへ歩みよると、鋭くきき訊ねました。
「主人と言えば、親にもまさる大切なご恩人、然るにあの素浪人共の手先となって、毒蛇など仕掛けるとは何事じゃ。かくさず有体(ありてい)に申し立てろ」
「へえい……」
「へえいでは分らぬ。何の仔細あって、あのような憎むべき所業致しおった」
「………」
「強情を張りおるな。そら、ちと痛いぞ。どうじゃ、どうじゃ。まだ申さぬか」
「ち、ち、ち……、申します、申します。もう申しますゆえ、その頤(あご)をお押えなさっていらっしゃるお手を、お放し下されませ。――ああ痛てえ! いかにも、三十両の小判に目が晦(くら)みまして、つい大それたことを致しましたが、しかし、毒蛇を頼まれましたのは、今のあの市毛の旦那様じゃござんせんよ。そもそものお頼み手は、あの時うちの旦那様と先着を争ってでござりました、あの八条流の黒住団七様でござりまするよ」
「なにッ!?[#「!?」は横一列] そもそもの頼み手は黒住団七とな! いぶかしい事を申しおるが、まことの事かッ」
「なんの嘘偽りがござりましょうぞ。あの黒住の旦那様が、昔宇都宮藩で御同役だったとかいう市毛の旦那様と二人して、ゆうべこっそり手前を訪れ、あの毒蛇を鞍壺に仕掛けるよう、三十両の小判の山を積んで、手前を欲の地獄に陥し入れたのでござります。あの時鉄扇を投げつけたのも、やっぱりお二人様の企らみですぜ」
「なに!?[#「!?」は横一列] 鉄扇も二人の企らみとな? でも、あの時狙われた対手は、たしかに黒住団七と見えたが、それはまたどうした仔細じゃ」
「それがあの方達の悪智慧(わるぢえ)でごぜえますよ。もし、仕掛けた毒蛇でうまく行かねえようだったら、鉄扇でうちの旦那様を仕止めようと、前からお二人がちゃんと諜(しめ)し合って、今、ここにい合せた八人のご浪人衆に、それぞれ鉄扇を持たせて、どこからでも投げられるように、幔幕外(まんまくそと)のところどころへ忍ばせておいたのでござります。だからこそ、黒住の旦那様は、初めからそれをご存じでごぜえましたので、うまくご自身は身を躱(かわ)したんでごぜえますよ。さもあの方が狙われたように見せかけた事にしてからが、黒住の旦那様の悪智慧なんでごぜえまさあ。ああしてご自身をさもさも狙ったように見せかけて投げつけりゃ、事が起った場合、御番所の方々のお見込みが狂うだろうというんだね、なかなか抜け目のない悪企みをしたんでごぜえますよ」
「きけば聞く程奇怪な事ばかりじゃが、何のためにまた黒住団七めは、そのような悪企み致しおった」
「知れた事でござんさあ、あの時、降って湧いたように姿をお見せなすった、あの別嬪(べっぴん)の女の子が目あてだったのでごぜえますよ」
「なに!?[#「!?」は横一列] では、あれなる腰元、あの早駈けに勝を占めた者へお下しなさるとでも賭けがしてあったか」
「へえい。ご存じかどうか知りませぬが、あの別嬪の女の子は御台様付(みだいさまつき)の腰元中で、一番のご縹緻(きりょう)よしじゃとか申しましてな、お上様をあしざまに申し上げるようでごぜえますが、あの通り、御酔狂な御公方様の事でごぜえますので、ほかに何か下されりゃいいのに、別嬪を下げつかわすとおっしゃったものでごぜえますから、お腹黒い黒住の旦那が、女ほしさに、とうとうあんな悪企みをしたんでごぜえますよ。それっていうのが、手前方の旦那様があの四人のうちじゃ、一番の御名手でごぜえましたからね、それがおっかなくて、うちの旦那様だけを、ほかには罪もねえのにあんなむごい目にも遭わせる気になったんでごぜえます」
「馬鹿者ッ」
「へえい?」
「ずうずうしゅう、へえいとは何ごとじゃ。主人に危難来ると知らば、身を楯にしても防ぐベきが当り前なのに、自ら手伝って、死に至らしむるとは不埓者めがッ」
「へえい。それもこれも元はと言えば、バクチが好きのさせたわざ――、たった三十両の端(はし)た資本(もとで)に目が眩(くら)みまして、何ともはや面目次第もごぜえませぬ。この通り、もう後悔してござりますゆえ、お手やわらかに願います」
「虫のよい事申すな! 立てッ」
「へえい?」
「立てと申すに立たぬか」
「痛えい! 立ちますよ。立ちますよ。そんなにお手荒な事をなさらずとも、立てと言えば立ちますが、一体どこへ御引立てなさるんでござりますか」
「くどう申すな。行けッ」
 引立てながら道の途中で見つかったそこの自身番へ、小突き入れると、事もなげに言いました。
「この下郎めは、三十両の目腐れ金で、大切な主人の命を売った不埓者(ふらちもの)じゃ。早乙女主水之介、約束通り土産一匹つかわすとこのように申し伝えて、今ただちに南町御番所の水島宇右衛門なる与力の許へ引立てて参れ」
 言いおくと、通り合わせた町駕籠を急ぎに急いで仕立てながら、京弥いち人のみを引き随えて、ただちに黒住団七の禄を喰(は)む、宇都宮九万石の主、奥平美作守昌章(おくだいらみまさかのかみまさあき)の上屋敷に行き向いました。またこれが許しておかれる筈はない。わが江戸旗本中の旗本男たる早乙女主水之介の三河ながらなる正義観において、憎むべき黒住団七が許しておかれる筈はないのです。よし仮りに、奥平美作守が、九万石封主の力を借りて、これを庇(かば)い立てすることあるも、われわれにはまた直参旗本の威権あり! 篠崎流奥義の腕にかけても、やわか許すまじと、真に颯爽としながら打ち乗って、一路、美作守上屋敷なる麻布(あざぶ)六本木へ急がせました。

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