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旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)01 第一話 旗本退屈男

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 10:17:10  点击:  切换到繁體中文

旗本退屈男 第一話

旗本退屈男

佐々木味津三




       一

 ――時刻は宵の五ツ前。
 ――場所は吉原仲之町。
 それも江戸の泰平(たいへい)が今絶頂という元禄(げんろく)さ中の仲之町の、ちらりほらりと花の便りが、きのう今日あたりから立ちそめかけた春の宵の五ツ前でしたから、無論嫖客(ひょうきゃく)は出盛り時です。
 だのに突如として色里に野暮な叫び声があがりました。
「待て、待て、待たぬかッ。うぬも二本差しなら、売られた喧嘩を買わずに、逃げて帰る卑怯者があるかッ。さ! 抜けッ、抜けッ。抜かぬかッ」
 それもどうやら四十過ぎた分別盛りらしいのを筆頭に、何れも肩のいかつい二本差しが四人して、たったひとりを追いかけながら、無理無体に野暮な喧嘩を仕掛けているらしい様子でしたから、どう見てもあまりぞっとしない話でしたが、売られた方ももうそうなったならば、いっそ男らしく抜けばいいのにと思われるのに、よくよく見るとこれが無理もないことでした。――年はよくとって十八か九、どこか名のあるお大名の小姓勤(こしょうづと)めでもしているとみえて、普通ならばもうとっくに元服していなければならない年頃と思われるのに、まだふっさりとした前髪立(まえかみだ)ちの若衆なのです。
 だからというわけでもあるまいが、なにしろ一方は見るからに剣豪(けんごう)らしいのが、それも四人連れでしたので、どう間違ったにしても不覚を取る気遣いはないという自信があったものか、中でも一番人を斬りたくてうずついているらしいのが、最初に追っかけて来た四十侍に代り合って若衆髷の帰路を遮断すると、もう柄頭(つかがしら)に手をかけながら、口汚なく挑みかかりました。
生(なま)ッ白(ちろ)い面(つら)しやがって、やさしいばかりが能じゃないぞッ。さ、抜けッ、抜かぬかッ」
 可哀そうに若衆は、垣間(かいま)見ただけでも身の内が、ぼッと熱くなる程な容色を持っているというのに、こういう野暮天な人斬り亡者共にかかっては、折角稀れな美貌も一向役に立たぬとみえて、口汚なく罵しられるのをじっと忍びながら、ひたすらに詫びる[#「詫びる」は底本では「詑びる」と誤植]のでした。
「相済みませぬ。相済みませぬ。先を急がねばなりませぬゆえ、お許しなされて下さりませ。もうお許しなされて下さりませ」
「何だとッ? では、貴様どうあっても抜かぬつもりかッ」
「はっ、抜くすべも存じませぬゆえ、もうお目こぼし下されませ」
「馬鹿者ッ、抜くすべも知らぬとは何ごとじゃ、貴様われわれを愚弄いたしおるなッ」
「どう以(も)ちまして。生れつき口不調法でござりますゆえ、なんと申してお詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]したらよいやら分らぬのでござります。それに主人の御用向きで、少しく先を急がねばなりませぬゆえ、もうお許しなされまして、道をおあけ下さりませ。お願いでござります」
「ならぬならぬ! そう聞いてはなおさら許す事罷(まか)り成らぬわ。どこの塩垂(しおたれ)主人かは存ぜぬが、かような場所での用向きならば、どうせ碌な事ではあるまい。それに第一、うぬのその生ッ白い面(つら)が癪に障るのじゃ。聞けば近頃河原者が、面の優しいを売り物にして御大家へ出入りいたし、侍風を吹かしているとか聞いているが、うぬも大方その螢侍(ほたるざむらい)じゃろう。ここでわれわれの目にかかったのが災難じゃ。さ! 抜けッ、抜いていさぎよく往生しろッ」
 ――これで見ると喧嘩のもとは、若衆の姿が柔弱なので、それが無闇と癪に障ってならぬと言うのがその原因らしいのですが、いずれにしても脅迫されているのは只ひとり、している他方は四人という取り合せでしたから、同情の集まるのはいつの時代も同じように弱そうなその若衆の方で、新造禿(しんぞうかむろ)、出前持の兄哥(あにい)、はては目の見えぬ按摩迄が口々にさざめき立てました。
「ま! お可哀いそうに。ああいうのがきっと甚助侍と言うんですよ」
「違げえねえ。あのでこぼこ侍達め、きっといろ[#「いろ」に傍点]に振られたんだぜ」
「なんの、あんなのにいろ[#「いろ」に傍点]なんぞあってたまりますかい。誰も女の子がかまってくれねえので、八ツ当りに喧嘩吹っかけたんですよ」
 しかし言うは言っても只言うだけの事で、悲しい事に民衆の声は、正義の叫びには相違ないが、いつも実力のこれに相伴わないのが遺憾です。芝居や講談ならばこういう時に、打ちかけ姿の太夫が降って湧いて、わちき[#「わちき」に傍点]の身体に傷をつけたら廓(くるわ)五町内が闇になるぞえ、という啖呵(たんか)をちょッと切ると、ひとたまりもなく蜘蛛の子のように逃げ散ってしまうのが普通ですが、どうしたことか、今宵ばかりは、不都合なことにも花魁太夫(おいらんだゆう)達に、ひとりもお茶を引いているのがいないと見えて、そのお定まりの留め女すらも現れない生憎(あいにく)さでした。
 と――、誰が言い出したものかその時群集の中から、残念そうに呟いた伝法な声がきこえました。
「畜生ッ、くやしいな! こういう時にこそ、長割下水(ながわりげすい)のお殿様が来るといいのにな」
「違げえねえ違げえねえ。いつももう、お出ましの刻限だのにな」
 誰の事かよく分らないが、この呟きで察すると、長割下水のお殿様なる者は、よッ程この五町街では異常な人気があるらしいのです。しかし騒ぎの方は、それらのざわめきが聞えるのか聞えないのか、なおしつこく四人の者がひたすらにわび入っている若衆髷をいじめつづけるのでした。
「馬鹿者ッ。詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]たとて免(ゆる)さぬと言うたら免さぬわッ。さ! 抜けッ。抜かずばブッタ斬るぞッ」
 威丈高(いたけだか)にわめき立てると、執拗(しつよう)な上にも執拗に挑(いど)みかかりましたので、等しく群衆がはらはらと手に汗をにぎった途端――。
「あっ! お越しのようでござりまするぞ! お越しのようでござりまするぞ! な、ほら長割下水のお殿様のようでござりまするぞ!」
「え? ど、どう、どこに? ――なる程ね、お殿様らしゅうござんすね」
「そうですよ。そうですよ。あの歩き方がお殿様そっくりですよ」
 愁眉(しゅうび)を開いたかのごとくに群集の中から叫んだ声が挙がったかと思われるや同時に、いかさま仲之町通りを大門口の方から悠然とふところ手をやって、こちらにのっしのっしと歩いて来る一個の影がありました。それも尋常普通の人影ではない。背丈なら凡(およ)そ五尺六寸、上背のあるその長身に、蝋色(ろいろ)鞘の長い奴をずっと落して差して、身分を包むためからか、面(おもて)は宗十郎頭巾に深々とかくしながら、黒羽二重を着流しの、素足に意気な雪駄ばきというりりしい姿です。
 それと見て駈け寄ったのは、お通し物の出前持かなんかであるらしい伝法な兄哥でした。もう顔馴染ででもあるかして、駈けよるとざっくばらんに言いました。
「殿様殿様! いいところへおいでなせえました。早く来ておくんなさいよ」
 と――、頭巾の中からいとも静かに落ちつき払った声がありました。
「うろたえて何ごとじゃ」
「だって、これをうろたえなきゃ、何をうろたえたらいいんですか! ま、あれを御覧なせえましよ」
「ほほう、あの者共も退屈とみえて、なかなか味なことをやりおるな」
「相変らず落ちついた事をおっしゃいますね。味なところなんざ通り越して、さっきからもうみんながじりじりしているんですよ。あんまりあの四人のでこぼこ共がしつこすぎますからね」
「喧嘩のもとは何じゃ」
「元も子もあるんじゃねえんですよ。あっしは初めからこの目で見てたんだから、よく知ってますがね、あの若衆の御主人様が、お微行(しのび)でどこかへお遊びに来ていらっしゃると見えましてね、そこへの御用の帰りにあそこの角迄やって来たら、あの四人連れがひょっこり面(つら)出しやがって、やにわと因縁つけやがるんですよ。それも粕(かす)みていな事を根に持ちやがってね、若衆は笑いも何もしねえのに、笑い方が気に喰わねえと、こうぬかしゃがるんですよ。おまけに因縁のつけように事を欠いて、あの若衆の顔が綺麗すぎるから癪に障ると、こんな事をぬかしゃがるんで、聞いてるものだって腹が立つな当り前じゃござんせんか」
「ほほう、なかなか洒落れた事を申しおるな。それで、わしに何をせよと申すのじゃ」
「知れたこっちゃござんせんか。あんまり可哀えそうだから、何とかしてあの若衆を救ってあげておくんなさいよ」
「迷惑な事になったものじゃな。どれどれ、では一見してつかわそう――」
 一向に無感激な物腰で、ふところ手をやったままのっそり人垣の中へ這入ってゆくと、じろり中の様子を一瞥(べつ)したようであったが、殆んどそれと同時です。にんめり微笑を見せると事もなげに言いました。
「折角じゃが、どうやらわしの助勢を待つ迄の事はなさそうじゃよ」
「なんでござんす! じゃ、殿様のお力でも、あの四人には敵(かな)わねえとおっしゃるんですかい」
「ではない、あの若者ひとりでも沢山すぎると申すのじゃ」
「冗談おっしゃいますなよ! 対手はあの通り強そうなのが四人も揃っているんだもの、どう見たって若衆に分があるたあ思えねえじゃござんせんか」
「それが大きな見当違いさ。ああしてぺこぺこ詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]てはいるが、あの眼の配り、腰の構えは、先ず免許皆伝も奥義(おうぎ)以上の腕前かな。みていろ、今にあの若者が猛虎のように牙を出すから」
 言うか言わないかの時でした。しきりと詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]つづけているのに、対手の四人はあくまでも許そうとしなかったので、若衆はその執拗さに呆れたもののごとく、一二歩うしろへ身を引くと、やんわり片手を飾り造りの佩刀(はいとう)にかけたかと見えたが、果然、謎の宗十郎頭巾が折紙つけたごとくその態度が一変いたしました。
「けだ物共めがッ、人間の皮をかむっているなら、も少し聞き分けがあるじゃろうと存じていたが、それ程斬られて見たくば、所望通り対手になってつかわすわッ。抜けッ、抜けッ、抜いて参れッ」
 裂帛(れっぱく)の美声を放って、さッと玉散る刄(やいば)を抜いて放つと、双頬(そうきょう)にほのぼのとした紅色を見せながら、颯爽(さっそう)として四人の者の方ににじりよりました。それも、今迄柔弱とばかり見えたのが、俄然一変したのですから、その冴えまさった美しさというものはない。しかも、その剣気のすばらしさ!――不意を打たれて四人はたじたじとたじろぎました。しかし、もともと売った喧嘩です。
「けだ物共とは何ごとじゃ! 抜きさえすればそれで本望、では各々、用意の通りぬかり給うな」
 四十がらみの分別盛りが下知を与えると、唯の喧嘩と思いきや、意外にもすでに前から計画してでもあったかのごとくに諜し合せながら、ぎらりと刄襖(はぶすま)をつくりました。
 それと見てにんめり微笑しながら、静かに呟いたものは長割下水のお殿様と言われた不審の宗十郎頭巾です。
「ほほう、あの若衆髷、揚心流(ようしんりゅう)の小太刀を嗜(たしな)んでいると見えるな。お気の毒に、あの奥義では四人の大男共、この人前でさんざ赤恥を掻かねばならぬぞ。そらそら、言ううちに怪(あや)しくなったようじゃな、みろ、みろ、左の奴が先にやられるぞ」
 呟(つぶや)いたとき、果然若衆の前髪がばらばらと額先で揺れ動いたと見えたが、ひらりと蝶のように大振袖が翻った途端――言葉のごとく左翼のいち人が、長々と地に這いつくばりました。しかし床しいことに、峰打ちの血を見せない急所攻めです。それだけに怒り立ったのはあとの三人達でした。
「小僧! 味な真似をやったなッ」
 雄叫(おたけ)びながらひたひたと間をちぢめて、両翼八双に陣形を立て直しつつ、爪先き迫りに迫って来ると、左右一度が同時に襲いかかりました。けれども、若衆の腕の冴えは、むしろ胸がすく程な鮮かさでした。迫る前に左右の二人は笑止なことに右と左へ、最初のひとりと同じように、急所の峰打を頂戴しながら、もろくも長々と這いつくばりました。
 それと見て残った四十がらみが、うで蛸のごとく真赤になった時、どかどかと人込みを押し割って、門弟らしい者を六七人随えた、一見剣客と思われる逞しい五分月代(ごぶさかやき)が、突如そこに姿を見せると、明らかに新手の助勢であることを示しながら、叱咤(しった)するように叫びました。
「腑甲斐ねえ奴等だな! こんな稚児ッ小僧ひとりを持てあまして何とするかッ。どけどけ。仕方がねえから俺が料(りょう)ってやらあ!」
 聞くと同時に、先刻からの伝法な兄哥がやにわに、長割下水の殿様と称されている不審な宗十郎頭巾に、かきすがるようにすると、けたたましく音(ね)をあげて言いました。
「いけねえいけねえ! 殿様、ありゃたしかに今やかましい道場荒しの赤谷(あかたに)伝九郎ですぜ。あの野郎が後楯(うしろだて)になっていたとすりゃ、いかな若衆でも敵(かな)うめえから、早くなんとか救い出してやっておくんなせいな」
「ほほう、あの浪人者が赤谷伝九郎か、では大人気ないが、ひと泡吹かしてやろうよ」
 それを耳にすると、初めて宗十郎頭巾がちょッと色めき立って、静かに呟きすてながら、のっそり人垣の中へ割って這入ると、騒がず、若衆髷をうしろに庇ったかとみえたが、おちついた錆のある冷やかな言葉が、ゆるやかにその口から放たれました。
「くどうは言わぬ、この上人前で恥を掻かぬうちに、あっさり引揚げたらどうじゃ」
「なにッ。聞いた風な白(せりふ)を吐かしゃがって、うぬは何者だッ」
「そうか、わしが分らぬか。手数をかけさせる下郎共じゃな。では、仕方があるまい。この顔を拝ましてつかわそうよ」
 静かに呟き呟き、おもむろに頭巾へ手をかけてはねのけたと見るや刹那! さッとそこに、威嚇するかのごとく浮き上がった顔のすばらしさ! くっきりと白く広い額に、ありありと刻まれていたものは、三日月形の三寸あまりの刀傷なのです。それも冴(さ)え冴えとした青月代(あおさかやき)のりりしい面に深くぐいと抉(えぐ)り彫られて、凄絶と言うか、凄艶と言うか、ちらりとこれを望んだだけでも身ぶるい立つような見事さでした。
 と見るや不審です。
 道場荒しの赤谷伝九郎と言われた剣客らしい奴が、じろじろとその眉間の傷痕を見眺めていましたが、おどろいたもののごとくに突然ぎょっとすると、うろたえながら下知を与えました。
「悪い奴に打つかりやがった。退(ひ)けッ退けッ」
 しかも自身先に立って刄を引くと、周章狼狽しながら、こそこそと群衆の中に逃げかくれてしまいました。

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