三
「なに! 異なことを申したな。何じゃ! 何じゃ!」
きいて当然のごとくに長国が不審を強め乍ら言い詰じった。
「やめろとは何としたのじゃ! あの話とはどんな話ぞ? 千之介がまたなぜ止めるのじゃ」
「…………」
「のう林田。仔細ありげじゃ。聞かねばおかぬぞ。何が一体どうしたというのじゃ」
「いえ、実は、あの――」
「言うなと申すに! なぜ言うかっ」
別人のように千之介がけわしく制したのを、
「控えい! 波野!」
長国がきびしく叱って言った。
「気味の悪い奴よのう! その方は今宵いぶかしいことばかり致しおる。尋ねているのはそちでない。門七じゃ。林田! 主の命じゃ! 言うてみい!」
「はっ。主命との御諚で厶りますれば致し方厶りませぬ。千之介がけわしく叱ったのも無理からぬこと、実は波野と二人してこの怪談を先達てある者から聞いたので厶ります。その折、語り手が申しますのに、これから先うっかりとこの怪談を人に語らば、話し手に禍いがかかるか、聞き手の身に禍いが起るか、いずれにしても必ずともに何ぞ怪しい祟りがあるゆえ気をつけいと、気味のわるい念を押しましたゆえ。千之がそれを怖れてやめろと申したので厶ります」
「わははは。何を言うぞ。そち達両名は二本松十万石でも名うての血気者達じゃ。そのような根も葉もないこと怖がって何とするか、語ったは誰か知らぬが、その者はどうしたぞ?語ったために何ぞ崇りがあったか」
「いえ厶りませぬ」
「それみい! 話し手も息災、きいたそち達も今まで斯様に無事と致さば何の怖れることがあるものか! 長国、十万石を賭けても是非に聞きとうなった。いや主命を以て申し付くる! その怪談話してみい!」
「はっ。君命とありますれば申しまするで厶ります。話と言うは――」
「よさぬか! 門七! 知らぬぞ! 知らぬぞ! 崇りがあっても俺は知らぬぞ」
「構わぬ! 崇りがあらば俺が引きうけるわ。何やら急に話して見とうなった。ハハハ……。殿! 物凄い話で厶りまするぞ。とくと、おきき遊ばしませ」
物の怪に憑かれでもしたかのごとくふるえ声で叫んだ千之介の制止を、同じ物の怪に憑かれでもしたように林田が跳ね返し乍らつづけていった。
「話と言うはこうで厶ります。ついこの冬の末にそれもこの二本松のお城下にあった話じゃそうに厶りまするが、怪談に逢うたは旅の憎じゃとか申すことで厶りました。多分修行半ばの雲水ででも厶りましたろう。雪の深い夕暮どきだったそうで厶ります。松川の宿に泊ればよいものを夜旅も修業の一つと心得ましたものか、とぼとぼと雪に降られてこの二本松目ざし乍らやって参りますると、お城下へもうひと息という阿武隈川の岸近くで左右二つに道の岐れるところが厶りまするな、あの崖際へさしかかって何心なく道を曲ろうと致しましたところ、ちらりと目の前を走り通っていった若い女があったそうに厶ります。ぎょっと致しましたが、そこはやはり旅馴れた出家で厶りますゆえ、雪あかりにすかしてよくよく女を見直すと、これがどうで厶りましょう。パラリと垂れたおどろ髪の下から、ゲタゲタと笑いましてな、履物も履きませず、脛もあらわに崖ぷちへ佇み乍ら、じいっと谷底を覗いていたかと思うと止めるひまも声を掛けるひまもないうちに、ひらりと飛込んで了ったと言うので厶りまするよ。それからが大変、なにしろ身は出家で厶りまするからな。人ひとり救うことが出来ぬようではと、お城下で宿を取ってからもそのことばかり気に病んでおりましたところ、急に何やら町内の者がそわそわと宿の内外で騒ぎ出しましたゆえ、それとなく探ってみると、因縁で厶ります。泊り合わせたその宿の若い内儀が夕方近くから俄かに行方知れずになったとやらで、それがよくよく人相など聞いて見ますると、崖ぶちから身を投げたあの女にそっくりそのままで厶りましたのでな、それならばしかじか斯々じゃと言う出家の話から騒ぎが大きくなってすぐに人が飛ぶ、谷底から死骸が運ばれて来る。しらべて見るとやはり宿の内儀だったので厶ります。それゆえせめても救うことの出来なかった詫び心にあとの菩提でも弔いましょうと、身投げした仔細を尋ねましたところ、亭主が申すには何一つ思い当る事がないと言うのじゃそうで厶ります。ない筈はあるまい。何ぞあるであろうと根掘り葉掘りきき尋ねましたところ、やはり変なことがあったので厶りまする。身投げした十日程前に古着屋から縮緬の夜具を一組買ったそうで厶りましてな、それを着て寝るようになってから、どうしたことか毎夜毎夜内儀が気味わるく魘されるばかりか、時折狂気したようにいろいろとわけのわからぬことを口走っては騒ぎ出すようになったと言うので厶ります。――それじゃ。屹度それじゃ、その古着の夜具に何ぞ曰くがあろうと思い当りましたゆえさすがは出家、さそくに運び出させて仔細に見しらべましたところ――、別に怪しいことはない。ないのに魘されたり、狂い出したり、あげ句の果てに身投げなぞする筈があるまいと一枚々々、夜具の皮を剥がしていってよくよくしらべますると、ぞっといたします。申しあげる手前までがぞっと致します。古着の敷布団の、その一枚の丁度枕の下になるあたりの綿の中から、歯が出て来たと言うので厶りまする。人が歯が、何も物言わぬ人の歯がそれも二枚出て来たと言うので厶ります」
「なにっ。歯が二枚とな! 歯とのう! 人の歯とのう! ……」
ぎょっと水でもあぴたように長国の声がふるえて疳走った。
鬼火のように青あおと燃えていた月光がふっと暗くかげった。――同時である。何ぞ火急のしらせでもあると見えて、キイキイと書院の廊下の鶯張りを鳴らせ乍ら一足が近づいて来ると、憚り顔に声がのぞいて言った。
「茶坊主世外めに厶ります。御老臣伴様が、殿に言上せいとのことで厶りました。もう三日もこちら一睡も致さず論議ばかり致しておりましたせいか、人心地失いまして、よい智慧も浮びませぬゆえ、まことに我まま申上げて憚り多いことで厶りまするが、ひと刻程睡りを摂らせて頂きましてから、今度こそ必ずともに藩議いずれかに相まとめてお目にかけまするゆえ、今暫く御猶予願わしゅう存じまするとのことで厶ります」
「何を言うぞ! 返す返すも人を喰った老人共じゃ。武士の本懐存じておらば、三日も寝ずに論議せずとも分る事じゃ! たわけ者達めがっ。勝手にせいと申し伝えい!」
疳高く凛とした声だった。颯っと褥を蹴って立ち上ると苛立たしげに言った。
「予も眠る! 城主なぞに生れたことがくやしいわっ。予も寝るぞ! ――今宵の宿居は誰々じゃ。早う参れっ」
足取りも荒々しく消えていったあとから、宿居に当っていた近侍永井大三郎と石川六四郎がお護り申しあげるように追っていった。
平伏しつつ、濃い謎を包みつつ、見送っていた千之介が、ほっとなったように面をあげると、なぜか明るい微笑すらも泛べて、急に元気に立ち上った。無論もうお長屋に帰って、ゆるゆる一夜を明かすことが出来るのである。多々羅も林田も、やはりもう用のない身体だった。――やがて黙々と肩を並べ乍ら三つの影が城内の広場に現われた。
同時のように観音山の頂から天守をかすめて、さっとまた月光が三つの影の上にそそぎかかった。
光りは濠の水面にまでも散りこぼれて、二本松十万石の霞ヶ城は、いち面に只ひと色の青だった。
三つの影はその青の間を縫い乍ら、二ノ濠わきのお長屋目ざして、黙々と歩いていった。
「では――」
「おう、また――」
お長屋の離れている多々羅は右へ、隣り合っている門七と千之介は左へ、覗き松のところから分れて行くのが道順なのである。
分れて二つの影になった千之介と門七は、三歩ばかり黙々と歩いていった。しかし、その四歩目を踏み出そうとしたとき、突然門七が嘲るように千之介に言った。
「馬鹿め!」
「なにっ」
「怒ったか」
「誰とても不意に馬鹿呼ばりされたら怒ろうわ。俺がどうして馬鹿なのじゃ」
「女々しいからよ。君前であの態は何のことかい。なぜ泣いたか殿はお気付き遊ばしておられるぞ。あの時も意味ありげに仰有った筈じゃ。乱世ともならば月を眺めて泣く若侍もひとりや二人は出て参ろうわと仰せあった謎のようなあの御言葉だけでも分る筈じゃ。たしかにもう御気付きなされたぞ」
「馬鹿を申せ! 誰にも明かさぬこの胸のうちが、やすやすお分り遊ばしてなるものか!第一そう言うおぬしさえも知らぬ筈じゃわ」
「ところが明皎々――」
「知っておると申すか!」
「さながらに鏡のごとしじや。ちゃんと存じておるわ。さればこそ、さき程もあのように願ってやったのじゃ。疑うならば聞かしてやろうか」
「聞こう! 言うてみい! まこと存じておるか聞いてやるわ! 言うてみい!」
「言わいでか。当てられて耻掻くな。おぬしが女々しゅうなったそもそもはみな奥方にある筈じゃ。契ったばかりの若くて美しいあの恋女房が涙の種であろうがな! どうじゃ。違うか!」
「……!」
ぎょっと図星を指されでもしたかのように口を噤んだ千之介の影へ門七が、押しかぶせるように嘲笑をあびせかけ乍ら言った。
「みい! アハハ……。見事的中した筈じゃ。俺は嗤うぞ! わはは。嗤ってやるぞ! 未練者めがっ。会津御援兵と事決まらば、今宵にも出陣せねばならぬゆえ、残して行くが辛さにめそめそ泣いたであろうがな! どうじゃ! 一本参ったか!」
「…………」
「参ったと見えるな。未練者めがっ。たかが女じゃ。婦女子の愛にうしろ髪曳かれて、武士の本懐忘れるとは何のことか! 情けのうて愛想がつきるわ」
「いやまてっ」
「何じゃ」
「たかが女とはきき棄てならぬ。いかにもおぬしの図星通りじゃ。出陣と事決まったらどうしようと思うて泣いたも確かじゃが、俺のあれは、いいや俺とあれとの仲は人と違うわ」
「言うたか。今にそう言うであろうと待っていたのじゃ。ならば迷いの夢を醒ましてやるために嗅がしてやるものがある。吃驚するなよ」
まさしくそれは声の上に出さぬ凄艶な笑いだった。深く心に期して待ちうけてでもいたかのように突然門七がにっと笑うと、千之介の鼻先に突き出したものはその左片袖である。
「嗅いでみい! 想い想われて契った恋女房ですらも、やはり女は魔物じゃと言う匂いがこの袖にしみついている筈じゃ。よう嗅いでみい!」
「……?」
「のう! どうじゃ! 合点がいったか!」
「よっ。まさしくこの匂いは!――」
「そうよ! お身が恋女房と自慢したあの女の髪の油の匂いじゃわ。ウフフ。迷いの夢がさめたか」
「ど、どう、どうしたのじゃ! この匂いがおぬしの袖についているとは、何としたのじゃ! ど、どうどうしたと言うのじゃ」
「どうでもない。忘れもせぬ夕暮どきじゃ。殿より火急のお召しがあったゆえ、おぬしを誘いに参ったところ、どこへいっていたのかるすなのじゃ。それゆえすぐに引返そうと出て参ったところ、もしあのお袖が、――と恥しそうに呼びとめたゆえ、ひょいと見るとなる程綻びておったのじゃ。やさしいお手で縫うて貰うているうちに、どちらが先にどうなったやら、――それからあとは言わぬが花よ。この通り片袖に髪の油がしみついたと言えば大凡察しがつこうわ。どうじゃ! 千之! 未練の夢がさめたか!」
「なにっ。うぬと、あれが! あれと、うぬが! ……」
ふるえて声がつづかなかった。目である。目である。血走った目が青白い月光の中を一散に只飛んでいった。
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