二
「……!」
「……!」
一斉に目が不審の色に燃え乍ら、影と声の主を見守った。
だが、二瞬とたたない凝視だった。城主長国の声がおどろきと悦びに打ちふるえ乍ら、月光の中の影に飛んでいった。
「おう! そちか! ――波野よな! 千之介じゃな!」
「はっ……。おそなわりまして厶ります……」
「小気味のよい奴じゃ。丹羽長国の肝を冷やさせおったわ。わっはは。井戸の中からでも迷うて出おったかと思ったぞ。来い。来い。待っておった。早うここへ来い」
「はっ……。参りまする……。只今それへ参りまするで厶ります……」
どうしたことか、這入って来た時の影のように力なく打ち沈んだ声で答え乍ら、おどおどとして主侯の近くへ進んでいったのは、同じお気に入りの近侍波野千之介である。しかし座を占めると同時だった。不思議なことにその千之介が君前の憚りもなく、突然、声をこらえ乍ら幽かに忍び泣いた。
「なに! 泣いているな! どうしたぞ。解せぬ奴じゃ。何が悲しいぞ!」
「…………」
「のう! 言うてみい! 何を泣いておるのじゃ!」
「いえあの、な、泣いたのでは厶りませぬ。不調法御免下さりませ。風気の気味が厶りますので、つい鼻が、鼻がつまったので厶ります……」
「嘘をつけい!」
見えすいたそんな言いわけを信ずる長国ではないのである。――ぐいと脇息の前に乗り出して来た顔から、追及の声がうなだれている千之介のところへ迫っていった。
「言うてみい! 言うてみい! のう! 遠慮は要らぬぞ。悲しいことがあらば残らずに言うてみい!」
「…………」
「気味のわるい奴よ喃。なぜ言わぬぞ。そう言えば来た時の容子も腑に落ちかぬるところがあったようじゃ。林田達みなの者と一緒にそちのところへも火急出仕の使いが参った筈なのに、その方ひとりだけ、このように遅参したのも不審の種じゃ。のう! 何ぞ仔細があろう。かくさずに言うてみい!」
「いえ、あの、殿!」
ついと横からそれを千之介ならで林田門七が奪い乍らさえ切ると、すべてのその秘密を知りつくしているがためにか、君前を執り成そうとするかのように言った。
「この男のことならばおすておき下さりませ。千之介の泣き虫はこの頃の癖で厶ります。それよりもうお灯りをおつけ遊ばしたらいかがで厶ります?」
「なに? 灯り? そう喃。――いや、まてまて。暗ければこそ心気も冴えて、老人共の長評定も我慢出来ると申すものじゃ。すておけ、すておけ。それより千之介の事がやはり気にかかる。のう! 波野! どうしたぞ? 早う言うてみい!」
「いえ、あの、殿――」
再び門七が慌てて遮切ると、千之介を庇うように言った。
「何でも厶りませぬ。仔細は厶りませぬ。気鬱症にでもとり憑かれましたか、月を見ると――、そうで厶ります。馬鹿な奴めが、月を見るといつもこの通りめそめそするのがこの男のこの頃の病で厶りますゆえ御見のがし下さりませ。それよりあの――」
「アハハハ……」
突然というよりもむしろ不気味な変り方だった。ふいと笑い声をあげ乍ら、そうしてふいと切ってすてでもしたように笑いをやめると、遠い空を見つめ乍ら何ごとかまさぐり思案していた長国が呟くように言った。
「月か……。月にかこつけて了うたか。いやよいよい。乱世じゃ。乱世ともならば月を見て泣く若侍もひとりやふたり出て参ろうわ。アハハハ……。そう言えば月の奴めもいちだんと気味わるう光り出して参った。――のう! そち達!」
不意だった。むくりと脇息から身を起すと、襟を正すようにして突然言った。
「怪談をするか! のう! 気を張りつめていたいのじゃ。今から怪談を始めようぞ」
「……?」
「……!」
「ハハハ……。いずれも首をひねっておるな。長国、急に気が立って参ったのじゃ。いまだに何の使者も大広間から来ぬところを見ると、相変らず老人達が小田原評定の最中と見ゆる。気の永い奴等めがっ。じれじれするわ。のう! どうじゃ。一つ二つぞっとするような怪談聞こうぞ」
「……!」
「……?」
「まだ不審そうに首をひねっておるな。長国の胸中分らぬか! 考えてもみい。今宵こうしているまも、山一つ超えた会津では、武道の最後を飾るために、いずれも必死となって籠城の準備の最中であろうわ。いや、中将様も定めし御本懐遂げるために、寝もやらず片ときの御油断もなく御奔走中であろうゆえ、蔭乍ら御胸中拝察すると、長国、じっとしておれぬ。せめて怪談なときいて、心をはりつめ、気を引きしめていたいのじゃ。誰ぞ一つ二つ、気味のわるい話持ち合せておるであろう。遠慮のう語ってみい」
「なるほどよいお思いつきで厶ります。いかさま怪談ならば、気が引締るどころか、身のうちも寒くなるに相違厶りませぬ。なら、手前が一つ――」
漸く主候の心中を察することが出来たと見えて、膝のり出したのは石川六四郎だった。
「あり来たりと言えばあり来たりの話で厶りまするが、手前に一つ、家重代取って置きの怪談が厶りますゆえ、御披露致しまするで厶ります」
「ほほう、家重代とは勿体つけおったな。きこうぞ。きこうぞ。急に何やら陰にこもって参って、きかぬうちから襟首が寒うなった。離れていては気がのらぬ。来い、来い。みな、もそっと近う参って、ぐるりと丸うなれ」
ほの暗い書院の中を黒い影が静かに動いて、近侍達は膝のままにじり寄った。濃い謎を包んでいる千之介も、みんなのあとからおどおどとし乍ら膝をすすめた。しかし依然としてしょんぼりとうなだれたままだった。――うなだれつつ、必死とまた声をころして幽かにすすり泣いた。
「やめろと申すに!」
言うように林田が慌ててツンと強くその袖を引いて戒めた。
――たしかに門七は千之介のその秘密を知りつくしているのである。
「ではきこうぞ」
「はっ……」
しいんと一斉に固唾を呑んだ黒い影をそよがせて、真青な月光に染まっている障子の表をさっとひと撫で冷たい夜風が撫でていった。
そうして黒い六つのその影の中から、しめやかに沈んだ話の声が囁くよう伝わった。
「――先年亡くなりました父からきいた話で厶ります。御存じのように父は少しばかり居合斬りを嗜みまして厶りまするが、話というのはその居合斬りを習い覚えました師匠にまつわる怪談で厶ります。師匠というのは仙台藩の赤堀伝斎、――父が教を乞いました頃は勿論赤堀先生のお若い時分の事で厶りまするが怪談のあったというのはずっとのちの事で厶ります。なにしろ居合斬りにかけては江戸から北にたったひとりと言われた程のお方で厶りましたゆえ、御自身も大分それが御自慢だったそうに厶りまするが、しとしとといやな雨が降っていた真夜中だったそうに厶ります。どうしたことか左の肩が痛い……。いや、夜中に急に痛くなり出しまして、どうにも我慢がならなくなったと言うので厶ります。右が痛くなったのであったら、武芸者の事でも厶りますから、別に不思議はないが、奇怪なことに左が痛みますゆえ、不審じゃ、不思議じゃと思うておりましたとこへ、ピイ……、ピイ……と、このように悲しげに笛を鳴らし乍ら按摩が通りかかったと言うので厶ります。折も折で厶りますゆえ、これ幸いとなに心なく呼び入れて見ましたところ、その按摩がどうもおかしいと言うので厶りまするよ。目がない! いや、按摩で厶りますゆえ、目のつぶれているのは当り前で厶りまするが、まるで玉子のようにのっぺりと白い顔をしている上に、まだ年のゆかぬ十二三位の子供だったそうに厶ります。それゆえ赤堀先生もあやぶみましてな、お前のような子供にこの肩が揉みほぐせるか、と申しましたところ、子供が真白い顔へにったりと薄ら笑いを泛べまして、この位ならどうで厶りますと言い乍ら、ちょいと指先を触れますると、それがどうで厶りましょう。ズキリと刺すように痛いと言うので厶りまするよ。その上に揉み方も少しおかしい。左が痛いと言うのに機を狙うようにしてはチクリ、チクリと右肩を揉むと言うので厶ります。それゆえ、流石は武芸者で厶りまするな。チクリチクリと狙っては揉み通すその右肩は居合斬りに限らず、武芸鍛練の者にとっては大事な急所で厶ります。用もないのに、その急所を狙うとはこやつ、――と思いましてな、なに気なくひょいと子供を見ますると、どうで厶りましょう! のっぺりとした子供のその白い顔の上に今一つ気味のわるい大人の顔が重なって見えたと言うので厶りまするよ。しかも重なっていたその顔が、――ひょいと見て思い出したと言うので厶ります。十年程前、旅先で、自慢の居合斬りを試して見たくなり、通りがかりにスパリと斬ってすてた、どこの何者とも分らない男の顔そのままで厶りましたのでな、さては来たか! そこ動くなっとばかり、抜く斬る、――実に見事な早業だったそうに厶ります。ところが不思議なことにもその子供が、たしかに手ごたえがあった筈なのに、お台所を目がけ乍らつつうと逃げ出しましたのでな、すかさずに追いかけましたところ、それからあとがいかにも気味がわるいので厶ります。開いている筈のない裏口の戸が一枚開いておって、掻き消すようにそこから雨の中へ逃げ出していったきり、どこにも姿が見えませなんだゆえ、不審に思いましてあちらこちら探しておりますると、突然、流し元の水甕でポチャリと水の跳ねた音がありましたのでな、何気なくひょいと覗いて見ましたところ、クルクルとひとりでに水が渦を巻いていたと言うので厶りまするよ。そればかりか渦の中からぬっと子按摩の父の顔が、――そうで厶ります。旅先で斬りすてたどこの何者とも分らないあの男の顔が、それも死顔で厶ります。目をとじてにっと白い歯をむいたその死顔が渦の中からさし覗いていたと言うので厶ります。いや、覗いたかと思うと、ふいっと消えまして、それと一緒にバタリと表の雨の中で何やら倒れた音が厶りましたゆえ、さすが気丈の赤堀先生もぎょっとなりまして怕々すかして見ましたところ、子按摩はやはりいたので厶りました。見事な居合斬りに逆袈裟の一刀をうけ、息もたえだえに倒れておったと言うので厶ります」
「ふうむ。なるほどな」
唸るようにほっと息を吐き乍ら面をあげると、長国がしみじみ言った。
「気味のわるい話じゃ。やはり子按摩は親の讐討ちに来たのじゃな」
「はっ、そうで厶ります。魂魄、――まさしく魂魄に相違厶りませぬ。親の魂魄の手引きうけて、仇討に来は来ましたが、赤堀先生は名うての腕達者、到底尋常の手段では討てまいと、習い覚えた按摩の術で先ず右腕の急所を揉み殺し、然るのちに討ち果そうと致しましたところを早くも看破されて、むごたらしい返り討ちになったのじゃそうに厶ります」
「いかさまな、味のある話じゃ。それから赤堀はどうなったぞ」
「奇怪で厶ります。それから先、水甕を覗くたびごとに、いつもいつも父親の死顔がぽっかりと泛びますゆえ、とうとうそれがもとで狂い死したそうで厶ります」
「さもあろう。いや、だんだんと話に気が乗って参った。今度は誰じゃ。誰ぞ持合せがあるであろう。語ってみい!」
「…………」
「返事がないな。多々羅はどうじゃ」
「折角乍ら――」
「ないと申すか。永井! そちは如何じゃ?」
「手前も一向に――」
「不調法者達よ喃。では林田! そちにはあるであろう。どうじゃ。ないか」
「いえ、あの――」
「あるか!」
「はっ。厶りますことは厶りまするが……」
ためらいもよいつつ林田が言いかけたのを、
「言うなっ。門七!」
実に奇怪だった。それまで点々としてしょんぼりうなだれていた千之介が、突如面をあげると、何ごとか恐れるように声をふるわせ乍らけわしく遮切った。
「話してはならぬ! やめろっ。やめろっ。あれを喋舌ってはならぬ! 言うのはやめろっ」
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