5
ひと曲がり、ふた曲がり、三曲がりと曲がって、忍びに忍びながら、ふたつの影は、通り新石町をまっすぐに柳原へかかりました。
右は
さびしいその柳原堤に沿って下ると、
同時のように、ふたりは、にわかにあたりへ注意を配りはじめましたが、目ざした場所が近づいた証拠なのです。
と思うまもなく、ふたつの影は、そこの
「ちくしょう。墓だ! 墓だ! 新墓をあばいて、死人の血を絞りに来たにちげえねえですぜ」
「黙ってろい。しゃべらねえという約束じゃねえか。聞こえて逃げたらどうするんだ」
「だ、だ、だまっていてえんだが、あんまり気味のわりいまねばかりしやがるんで、ひとりでに音が出るんですよ。埋めたばかりの死人なら、血の一合や二合絞り取れねえってえはずはねえんだ。きっと、新墓をねらいに来たんですぜ」
だが、ふたりのはいっていったところは、意外なことにも本堂なのです。しかも、ここへ来ればもうだいじょうぶといわぬばかりに、足音さえも高めて、
中にはうすぼんやりとお燈明が二つともっているのです。戸もまた板戸ではなく網戸なのです。のぞけば網目を通して、おぼろげながらも中の様子が見られたが、しかし、うっかりのぞいたらこちらの顔も見つけられる危険があるのです。のぞきたいのをこらえて、ふたりはそこへうずくまりながら、じっと息をころして聞き耳立てました。
同時のように、娘の千萩のほそくなまめかしい引き入れられそうな声が耳を制しました[#ママ]。
「お待ちかねでしたでしょう。千さま、もういいですよ。早くいっていらっしゃい……」
「…………」
「いいえ。だいじょうぶ。だれも見ちゃいないから、こわいことなんぞありませんよ。ええ、そう、――そう。まあ、かわいらしい。わたしにあいさつしていらっしゃるの。長遊びしちゃいけませんよ。早く帰っていらっしゃいね……」
声といっしょに、するする、とかすかなきぬずれのような音がありました。
右門主従は、おもわず息をのみました。のぞきたいのをけんめいにこらえて、じっと耳をすましながら、中のけはいをうかがいました。
と思うまもなく、かたことと、
「まあ。おてがらおてがら。千さま。おみごとですよ。もういいでしょう。早くいらっしゃい。来なければしかりますよ」
せつなです。名人主従は、引き入れられるようなその声につられて、われ知らずにさっと身を起こしました。しかし、同時に、右門も伝六も、おもわずぞっと身の毛がよだちました。
へびです。へびなのです。大きなねずみをあんぐりとくわえて、位牌の間から長いかま首をぬっともたげながらのぞいているのです。
いましがたちゅうちゅうと鳴きもがいたのは、じつにそのかま首がくわえているねずみなのでした。なまめかしい声で今、千萩が話をした相手も、そのへびなのでした。お櫃の中の正体も、またその長虫なのでした。
へびを飼う娘!
へびと話をする娘!
意外な秘密を隠していた奇怪なお
伝六はもとよりのこと、さすがの名人も全身あわつぶだって、そこへ立ちすくんだままでした。それにしても、あの床の間へ降った血の出どころが不思議です。櫃に隠れた今のへびが降らせるとも思えないのです。
しかし、そのとき、くぎづけになったように立ちすくんでいるふたりをおどろかして、とつぜん、
年は二十三、四。寺の者ではない、町人でもない、侍でもない、なにものかかいもく素姓のわからぬ不思議な若い男なのです。なにをいきどおっているのか、
「聞き分けのないおかたでござりまするな! あれほどいったのに、まだおやめなさらないのでござりますか!」
「…………」
「こんなものを飼えば、こんな気味のわるいものを飼ったら、なにがおもしろいのでござります! どこがかわいいのでござります」
なじるようにいったのを、しかし千萩はひとことも答えないで、悲しげに微笑しながら、取り合うのも煩わしそうに目をそらしました。
なにかふたりの間に、秘密のつながりがあるに相違ないのです。もうためらっている場合ではない。ひらりとわき出たように姿を見せると、黙って近づいて、黙って名人は千萩の前に立ちふさがりました。
「あッ。あなたは……! あなたさまは……!」
「右門でござる。さきほどはお宅の二階でお騒がせいたしましたな」
不意を打たれて、千萩はまっさおに色を変えると、なによりもというように、うろたえながら足もとのお櫃にあわててふたをきせました。しかし、もうおそいのです。名人の射るような声と目が、ぶきみに笑ってその胸を貫きました。
「始終の様子は、のこらず見せていただきました。とんだにょろにょろとした隠し男をおかわいがりでござりまするな」
「ではもう……ではもう、なにもかも……」
「聞きもいたしましたし、詳しく拝見もいたしましたゆえ、ここらが潮どきとおじゃまに出てきたんでござんす。虫も殺さぬようなお美しい顔をしておいでなすって、あんまり人騒がせをするもんじゃござんせんよ。いま聞きゃ、こっちのこの若いおかたと、なにかいわくがありそうでござんすが、なにをいったい、どうしたというんでござんす。あれほどいったのに、まだやめないかと、たいへんこちらがおしかりのようでしたが、このかたはいったい、どういう掛かり合いのおかたなんです」
「…………」
「え? お嬢さま!」
「…………」
「じれったいね、むっつりの右門といわれるあっしが耳に入れて、このとおりにょろにょろとはい出してきたんです。櫃の中の大将に比べりゃかま首もみじけえし、からだもみじけえが、目はもっと光っているんだ。手間を取らせねえほうがおためですぜ。え? お嬢さん! はきはきいったらどんなものでござんす」
たたみかけたことばに、千萩はわなわなと身を震わせていたが、とつぜん、おもてを伏せると、しみ入るような声をあげて、すすり泣きだしました。
聞いていて、右門ということに気がついたとみえるのです。横から不審な若い男が割ってはいると、これさいわいというように口をはさみました。
「わたくしが申しましょう。あなたさまなら大事ござりますまい。そのかわり、くれぐれもご内密に頼みますぞ」
「そなた何もかもご存じか」
「知っている段ではござりませぬ。その女は、千萩は、なにを隠しましょう。このわたくしの妻たるべき女でござります」
「おいいなずけか!」
「そうでござります。どういうお
「なに、ご子息!――なるほど、そうか。道理で、さきほど家族しらべをしたおり、ほかに子はない、この娘ひとりきりじゃと、しどろもどろにいった様子がちとおかしいとにらんでおったが、やっぱり隠し子がありましたな。血を分けた実のせがれが家を出て、いいなずけの女が娘同様家におるとは、なんぞ深い子細がござろう。それが聞きたい。どうしてまた、そなたは家を出ておるのじゃ。夜遊びでも高じて、勘当でもされましたか」
「めっそうもござりませぬ。それもこれもみんな、もとはといえば、千萩のこの気味のわるい病気ゆえでござります。こうなりますればもう、千萩の素姓も申しましょうが、この女は、わたくしの父三庵が、書生のうちからかわいがられて、今のような医業を授けていただいたたいせつな先生の、お師匠さまの忘れ形見なのでござります。年をとってからこの千萩をもうけて、まだ成人もせぬうちにご他界なさいましたゆえ、父の三庵が子ども同様にして引きとり、わたくしともいいなずけの約束を取りかわし、四年まえまで一つ家に育ってきたのでござりまするが、なんの因果か、千萩めがちいさいうちから、こんなものを、こんな気味のわるい長虫をかわいがって、昼も夜もそばを離さないのでござります。それゆえ――」
「そなたがきらって家出をしたと申されるか」
「一口に申さばそうなんでござります。一匹や二匹ではござりませぬ。多いときは七匹も八匹も飼って、死ねばとっかえとっかえ、またどこからか手に入れて、あげくのはてには、夜一つふとんへ抱いて寝るような始末でござりましたゆえ、ほかの生き物とはちがうのじゃ、人のきらう長虫なのじゃ、いいかげんにおやめなされと、口のすっぱくなるほどいさめたのでござりまするが、どうあっても聞き入れないのでござります。父からしかってもらいましょうと、父に申したところ、その父がまたいっこうにわたくしの味方となってくれないのでござります。たわけを申すな、だれのお嬢さまと思っておるのじゃ、わしにとってはかけ替えのないご恩人の娘じゃ、先生の娘じゃ、お師匠さまの忘れ形見じゃ、わしが一人まえの医者になれたのも、みんな千萩どののおとうさまのたまものじゃ、恩人の娘に意見ができるか、バカ者、ほかの男を抱いて寝るとでもいうなら格別、長虫をかわいがるくらい、がまんができなくてどうなるのじゃ、おまえがいやなら、たって添いとげてもらわなくともいい、ほかから養子を迎えて千萩に跡目を継がせるから、気に入らずばどこへでも出ていけと、実の子のわたくしをかえってしかりつける始末なのでござります。くやしいのをこらえて、三度、五度と千萩にも頼み、父にも頼みましたが、いっこうにわたくしのいうことなぞ取りあげてくれませぬゆえ、ええままよ、恩じゃ、義理じゃ、先生の娘じゃと、他人の子をわがままいっぱいに育てて、実の子をそでにするような親なら、かってにしろとばかり、家を飛び出し、こっそりと
「美しくなっていたゆえ、また未練が出てきたというのじゃな」
「お恥ずかしゅうござります。未練といえば未練でござりまするが、いいなずけの約束までした女じゃ、他人にとられとうはない。けれども気味のわるい長虫はいまだにやめぬ、――どうしたものかと迷っていたやさき、さいわいなことに、ここの寺はてまえたち一家の
美しいだけに、なお一倍千萩の長虫いじりがくやしくてならないとみえて、三之助はじわりと目がしらへ涙さえ浮かべながら、うらめしそうに、足もとのお
意外な秘密が隠れていたのです。
しかし、それにしても、床へ降ったあの血が奇怪でした。だれがしたたらしたか、千萩か? それとも三之助か――残ったなぞは、それ一つなのです。名人のさえた声が、とつぜん、えぐるように襲いました。
「憎いか! 三之助!」
「は……」
「千萩は憎いかときいておるのじゃ」
「こ、恋しゅうござります。いいえ、うらめしゅうござります。こんなに思うておるのに、人の心を知らない千萩が、ただただうらめしゅうござります……いいえ! いいえ! 千萩よりも父が憎い! 親が憎い! 実の子を捨てても他人の子をかばうような、父が、親が、もっともっとうらめしゅうござります……」
「そうか! 親が憎いか! 父がうらめしいか! では、おまえだな!」
その恨めしさのあまりにやったいたずらにちがいないのです。名人の声が刺すように三之助の胸をつきえぐりました。
「隠しても目は光っているぞ! おまえがあんないたずらしたんだろう」
「気、気味のわるい。不意になんでござります! あんないたずらとは、なんのことでござります」
「しらっばくれるな! 父が憎い、親がうらめしいと、今その口でいったはずだ。他人の子をかばって自分を追ん出した腹いせに、あんないたずらをしたんだろう!」
「な、な、なんのことでござります! いっこうてまえにはわかりませぬが、何をお疑いなさっているんでござります!」
「血だ! 床の間へたらしたあの血のことなんだ!」
「血! 床の間の血……?」
ぎょっとなって、おどろきでもするかと思いのほかに、三之助はけげんそうな顔をしているのです。ばかりか、まあどうしたんでござりましょう、――というように、そばから、千萩もおもてをあげて、泣きぬれた目をみはりました。
名人もいささかずぼしがはずれて、意外そうにふたりの顔を見比べました。目のいろ、顔のいろ、三之助にうそはない。千萩にも疑わしい色は見えないのです。それのみか、急に三之助がいとしくなりでもしたように、ぬれたひとみへ情熱の光をたたえて、微笑すらもかわしているのです。
「へへえ……とんだ長いしっぽがお櫃の中から出たかと思ったら、またにょろりと隠れてしまったか。――どうやら、こいつあ難物だよ。来い! あにい! なにをまごまごしているんだ」
「へ……?」
「へじゃないよ。新規まき直し、狂ったことのねえ
「まごまごしているのは、あっしじゃねえですよ。ばかばかしい。だんなこそまごまごして、どこへ行くんですかよ。そんなところは出口じゃねえんです。木魚ですよ。外へ出るなら、ここをこう曲がって、こっちへ出るんですよ」
どこに出口があるか、どっちへ道が曲がっているか、霧の中をでも歩くようなこころもちで、名人はしんしんと考えこんだままでした。
不思議は不思議につづき、ぶきみはぶきみにつづいて、しかも血のなぞは、いよいよ深い迷霧の中へはいってしまったのです。
家族以外の者……? いや断じてそんなはずはない。丹念にあのとき調べたとおり、外からあの二階へはいりうる足場は皆無でした。家人の目をくらまして押し入ったら格別、でないかぎりは、どうあっても岡三庵一家のものにちがいないのです。しかし、その家族のものは、宵のあの裏返しでためしたとおり、書生、代診、母親、女中、だれひとりそれと疑わしい顔いろさえ変えたものもないのでした。わずかにひとりあった娘の千萩は、血をたらすどころか、生き血を吸いたがるとんだ長虫を飼っていたのです。あのときあんなに震えたのは、その秘密を知られたくないために、われしらずおびえたにちがいないのです。しかも、その秘密の長い尾につながっていた三之助も、あの目、あのいろ、あの様子では、どこに一つ疑わしいところはないのでした。なぞの雲は、はてしもなく深くなったのです。
考え迷い、考え迷って、いつどこを歩いたとも知らないように歩いてきた名人は、ぴたりとそこの