2
絵図面どおりに、引祥寺のわきから小道を折れて、加賀家裏門の前までいってみると、あたりいっぱいの人にかこまれて、なるほどその裏門の左手前に、新しいこもをかぶった長い姿がころがっているのです。
しかし、出張っているのはもよりの自身番の小役人が三人きりで、加賀家のものらしい姿はひとりも見えないのでした。
「ちと変じゃな。ずっとはじめから、おまえらだけか」
「そうでござります。加州さまのかたがたは顔もみせませぬ。知らせがあって駆けつけてから、わたくしどもばかりでござります」
不思議というのほかはない。変死人の素姓身分はどうあろうとも、たとい路傍の人であろうとも、このとおり屋敷の近くに怪しい死体がころがっているとしたら、せめて小者のひとりふたり、見張らせておくがあたりまえなのです。ましてや、駆け込み訴訟をしたものは、たしかに加州家の者と名のっているのに、その家中の者がひとりもいないとは奇怪千万でした。
「よしよし、なんぞいわくがあろう。こもをはねてみな」
気味わるそうにのけたのを近よって、じっとみると、変死人がまた奇怪です。
羽織、はかま、大小もりっぱな侍でした。
しかも、その死に方が尋常ではない。
手、足、顔、耳、鼻、首筋、外へ出ている部分は、端から端まで火ぶくれとなって、一面にやけどをしているのです。
「さあいけねえ。たしかにこいつアやけどだ。やけどだ。道ばたにれっきとしたお侍が、やけどをして死んでいるとは、なんたることです。とんでもねえことになりやがったね。気をつけなせいよ。あぶねえですぜ。
たちまちに伝六が目を丸めました。
まことや奇怪千万、路傍にれっきとした二本差しが、やけどを負って死んでいるとは、古今にも類のないことです。
しかし、不思議なことには、全身火ぶくれとなって焼けただれているのに、着ている着物には焼け焦げ一つ見えないのでした。ばかりか、はかまも、羽織も、ぐっしょりとぬれているのです。死体のまわりの道も、また一面にぬれているのです。
「さてな。大きにおかしなやけどだが、ねえ、おい、伝あにい」
「へえ……?」
「今は冬かい」
「冗、冗、冗談いうにもほどがあらあ。とぼけたことをいうと、おこりますぜ、ほんとうに! 一月十五日、冬のまっさいちゅうに決まっているじゃねえですかよ」
「江戸は降らねえが、さだめし加賀あたりは大雪だろうね」
「なにをべらぼうなこというんです。加賀は北国、雪の名所、冬は雪と決まっているんだ。加賀に雪が降ったらどうだというんですかよ」
「べつにどうでもないが、おかしなやけどなんでね、ちょっときいてみたのさ。さてな、どのあたりかな」
突然、不思議なことをいって、伸びあがり、伸びあがり、加賀家の屋敷のもようをしきりと見しらべていたが、なにごとかすばらしい
「ウフフ……なんでえ、そうかい。なるほど、あれか。とんでもねえやけどのにおいがしてきやがった。しかし、弱ったな。百万石のお屋敷へ素手でもはいれまいが、どなたかご家中のかたはいませんかのう……」
つぶやくようにいった声をきいて、群れたかっていた群衆のうしろから、つかつかと影が近よりました。
年のころ二十八、九の若い武家です。
なれなれしげに名人のそばへ歩みよると、なれなれしげに呼びかけました。
「さきほどは失礼、めぼしがおつきか」
「さきほどと申しますると?」
「もうお忘れか。けさほど駆け込んでいったは、このてまえじゃ」
「ああ、なるほど、そなたでござったか。貴殿ならばなおけっこうでござる。どうやらめぼしがつきましたが、ちと不思議なものでやけどをしておりますゆえ、お尋ねせねばなりませぬ。お隠しなさらば
「申す段ではござらぬ。お尋ねはどんなことじゃ」
「加賀さまの献上雪は、たしか毎年いまごろお取り寄せのように承っておりますが、もうお国もとからお運びでござりまするか」
「運んだ段ではない。知ってのとおり、あれは日中を忌むゆえ、夜道に夜道をつづけて、ちょうどゆうべこの裏門から運び入れたばかりじゃ」
「やっぱりそうでござりましたか。たぶんもうお運びとにらみをつけたのでござりまするが、ようようそれでなぞが一つ解けました。おどろいてはなりませぬぞ。この変死人は、その雪で死にましたぞ」
「なに! 雪!――そうか! 雪で死んだと申されるか。道理でのう。凍え死んだ者はやけどそっくりじゃとか聞いておったが、雪か! 雪であったか……!」
いまさらのように目を丸めました。――献上雪は加賀百万石の名物、同時にまた江戸名物の一つです。将軍家とても夏暑いのにお変わりはない。そのお口をいやすために、加賀大納言が、
しかし、それでなぞが解けきったのではない。第一は、この変死の裏に、なにごとか恐ろしいたくらみと秘密があるかないかの
第三には、変死人の素姓。
それと顔いろを読みとって、ここぞとばかりしゃきり出たのは伝六でした。
「あのえ。だんな。少々ものをお尋ねいたしますがね」
「なんだ。うるさい」
「いいえ、うるさかねえ。さすがにえらいもんさ。ちょいとにらんだかと思うと、こいつア雪だとばかり、たちまち眼をつけるんだからね。あっしも雪で死んだに不足はねえが、それにしたって、なにも人が殺したとはかぎらねえんだ。自分で雪にはまったって、けっこう死ねるんだからね。気に入らねえのはそれですよ。えらそうなことをいって、もしもてめえがすき好んで凍え死んだのだったら、どうなさるんですかえ」
「しようのねえやつだな。そんなことがわからなくてどうするんだ。ひと目見りゃ、ちゃんとわかるじゃねえかよ。自分ではまって死んだものが、こんな道ばたにころがっているかい。加賀さまの雪室は、たしか七つおありのはずだ。ゆうべ運び入れたどさくさまぎれに、そのどれかへこかしこんでおいて、夜中か明けがたか、凍え死んだのを見すましてから、そしらぬ顔でここへひっころがしておいたに決まっているんだ。そんなことより、下手人の詮議がだいじだ。そっちへ引っこんでいな」
知りたいのはまずその素姓です。ぼうぜんとしてたたずんでいる加賀家の若侍のそばへ歩みよると、なにか手づるを引き出そうというように、やんわりと問いかけました。
「なにもかも正直におあかしくだされましよ。けさほど八丁堀へわざわざおいでのことといい、こうして今ここへお立ち会いのご様子といい、特別になにかご心配のようでござりますが、貴殿、このご仁とお知り合いでござりまするか」
「同役じゃ」
「なるほど、同じ加賀家のご同役でござりまするか。このおきのどくな最期をとげたおかたは、なんという名まえでござります」
「松坂
「お役は何でござります」
「
「奥祐筆……! なるほど、そうでござりましたか」
名人の胸にぴんとよみがえったのは、朝ほどのあの絵図面の字のうますぎたことでした。どうやら、本筋のにおいがしかけてきたのです。
「なるほど、ご祐筆とあっては、ご
「あの書き手を女とお見破りか!」
「見破ったればこそお尋ねするのでござります。お妹ごでござりまするか」
「いいや、ご内儀じゃ」
「ほほう、ご家内でござりまするか。お年は?」
「わこうござる」
「いくつぐらいでござります」
「二十三、四のはずじゃ」
「お顔は?」
「上の部じゃ」
「なに、上の部!――なるほど、美人でござりまするか。美人とすると――」
事、穏やかでない。いくつかの不審が、急激にわきあがりました。
第一、夫がここで変死をしているというのに、妻なる人がちらりとも顔すら見せないことが不思議です。
妻さえも顔を見せないというのに、目の前のこの若侍が、ただの同役というだけでかくのごとくに力こぶを入れているのが不思議です。
第三に不審は、いまだに加賀家家中のものがひとりも顔をみせないことでした。これだけ騒いでいるのに、しかも変死を遂げているのは奥仕えの祐筆であるというのに、その加賀家が知らぬ顔であるという法はない。がぜん、名人の目は光ってきたのです。
「雪が口をきかねえと思ったら大違いだ。そのご内室に会いとうござりまするが、お住まいはどちらでござります」
「住まいはついこの道向こうのあの外お長屋じゃが、会うならばわざわざお出かけなさるには及ばぬ。さきほどから人ごみに隠れて、その辺においでのはずじゃ」
「なに、おいででござりまするか。それはなにより、どこでござります。どのおかたがそうでございます」
「どのおかたもこのおかたもない。てまえといっしょに参って、ついいましがたまでその辺に隠れていたはずじゃが――はてな。おりませぬな。おこよどの! おこよどの……! どこへお行きじゃ。おこよどの!」
おこよというのがその名とみえて、人ごみをかき分けながら、しきりにあちらこちらを捜していたその若侍が、とつぜん、あっとけたたましい叫び声を放って、どたりとそこへ打ち倒れました。
矢です。矢です。
どこから飛んできたのか、ぷつりとそののどに刺さったのです。
「ちくしょうッ。さあ、いけねえ! さあ、たいへんだ! まごまごしちゃだめですよ! だんな! そっちじゃねえ、こっちですよ! いいえ、あっちですよ!」
いう伝六がことごとく肝をつぶして、あちらにまごまご、こちらにまごまご、ひとりでわめきながら駆け回りました。そのあとから群集もうろうろと走りまわって、さながらにはちの巣をつついたような騒ぎでした。
しかし、むっつりの名人ひとりは、にやにやと笑っているのです。
「くやしいね。なにがおかしいんですかよ! 笑いごっちゃねえですよ! 矢が来たんだ。矢が! 大将のどから血あぶくを出しているんですよ!」
「もう死んだかい」
「なにをおちついているんですかよ! せっかくの手づるを玉なしにしちゃなるめえと思うからこそ、あわてているんじゃねえですか。のそのそしていりゃ死んでしまうんですよ!」
「ほほう。なるほど、もうあの世へ行きかけているな。しようがねえ、死なしておくさ」
じつに言いようもなくおちついているのです。のっそり近よると、騒ぐ色もなくじいっと目を光らして、その矢の方向を見しらべました。
左からではない。
右から来て刺さっているのです。左は加賀家の屋敷だが、その右は、道一つ隔てて、すぐに引祥寺のへいつづきでした。
へいを越して、方角をたどって、のびあがりながら寺の境内を見しらべると、ある、ある。距離はちょうど射ごろの十二、三間、上からねらって射掛けるにはかっこうの高い鐘楼が見えるのです。
「よし、もう当たりはついた。騒ぐにゃ及ばねえ[#「及ばねえ」は底本では「及ばねね」]。
居合わした自身番の小者たちへ命じておくと、その場に鐘楼詮議を始めるだろうと思いのほかに、くるりと向きかえりながら、加賀家外お長屋を目ざして、さっさと急ぎました。