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「ちッ、なんて人がいいんだろうな。せっかく眼をつけて、ホシを見つけてやって、へえどうぞと、のしをつけてくれてやるバカがありますかよ。当節はとびだっても、こうぞうさなく油揚げをさらえねえんだ。人がよすぎてむかむかすらあ」 悲憤やるかたなかったとみえて、伝六の空もようは大荒れです。 「やい! 何がおもしれえんだ。ぽかんと口をあけて見てたって、一文にもなりゃしねえぞ、かせげ、かせげ、うちへ早く帰ってかせぎなよ。やじうまじゃ乗り手もありゃしねえや、べらぼうめ。――ね、ちょいと、これからいったいどうするんですかい。長年苦労をしただんなとあっしの仲なんだからね、いやみなこたアいいたくねえが、いまさら指をくわえていたって始まらねえんだからね、お人よしの直るお灸でもすえに行ったほうが賢いですよ」 「…………」 「え! だんな! 返事をしなさいよ、返事を! これこれかくかくで、今度だけはあやまった。ついおまえのまねをして、おしゃべりしたのがわるかった、以後気をつけるからかんべんしろ、とすなおにおっしゃりゃ、あっしだってがみがみいやしねえんだからね。ぼんやりしていねえで、なんとかおいいなさいよ」 しかし、声はない。 名人の頭は冷たくさえて、この怪奇な事件のことでいっぱいなのです。 父親にも疑いがある。 ことに、七百両という女房の大金を持ち出して、ゆうべひと晩どこかをうろうろしていたということが、大きな嫌疑の種でした。 子どもたちにも疑いがある。 まま子だったということが、だいいちよくないのです。そのうえにつめ跡がまたそろいもそろってあのとおり子どものものであってみれば、ますます嫌疑が濃くなるばかりでした。 あのときの目もよくない。ゆうべちゃんはどこへ行ったときいたとき、けわしくねめつけた父親のまなざしも疑惑を強める種なのです。 世間にありがちな例のごとく、まま子いじめに耐えかねて子どもたちふたりが絞め殺したのを、知りつつ父親がおおいかくしているとも考えられるのでした。 あるいは、父親が使嗾して、子どもたちにまま母を殺させたとも考えられるのです。 「それにしては、わざわざ知らせにあの子どもが来たのがおかしいな。ふたりとも、なかなかかわいいからな」 「え? なんとかいいましたかい。あっしがかわいいっておっしゃるんですかい」 「うるせえや。黙ってろ」 「ちぇッ、黙りますよ。黙りますとも! ええ、ええ、どうせあっしゃかわいい子分じゃねえんでしょうからね。もうひとことだって口をきくもんじゃねえんだから、覚悟しておきなさいよ」 聞き流しながら、ひょいと見ると、はしなくもそのとき、名人の目を強く射たものがある。 ふろおけのすえてある反対側の羽目板の高いところに、すすでよごれた手の跡が、あちらとこちらに飛び離れて、はっきりと二つ残っているのです。 しかも、二つとも明らかに、子どもの手の跡なのでした。子細に見比べてみると、その手の跡に大小がある。 ふたりの子どもの別々の手の跡に相違ないのです。 「はてのう……」 烱々と目を光らして、手の跡から手の跡を追いながら、その位置をよく見しらべると、湯気抜きの押し窓のちょうど真下になっているのでした。 窓の長さは三尺、幅は一尺あるかないかの狭いものでしたが、子どもなら出はいりができないことはないのです。 念のために、伸び上がって押しあけながらよく見ると、すすほこりが着物かなぞですれたらしく、さっとはけめがついているのでした。 疑いもなく、ここからふたりの子どもが忍び込んだに相違ない。忍び込んだとするなら、うちのあのきょうだいたちがわざわざ外から忍び込むはずはないから、よそのほかの子どもにちがいないのです。手の跡から判断すると、窓からはいって、羽目板に手を突いて、ひらりと身軽に飛びおりたものにちがいない。 身軽な子ども……! 身軽な少年……? 「ウフフ、そろそろ風向きが変わったかな」 「え? え? なんですかい。いろけがよくなったんですかい」 「うるさいよ。おまえ今、もうひとことも口をきかないといったじゃないか、おまえさんなぞにしゃべってもらわなくとも、こっちゃけっこう身が持てるんだから、黙っててくんな」 「ああいうことをいうんだからな。薄情っちゃありゃしねえや。いっさいしゃべらねえ、口をききませぬといっておいてしゃべって、あっしのおしゃべりゃ人並みぐれえなんですよ。しゃべりだしゃこれでずいぶんとたのもしいんだ。どっちの風向きがどう変わったんですかい」 「あきれたやつだ。これをよく見ろい」 「なるほど、あるね。手だね。もみじのお手々というやつだ。まさに、まさしく手の跡だね」 「だから、捜すんだよ」 「へ……?」 「あのおやじが七百両背負って、ゆうべどこへ出かけていったか、そのなぞの解けるようなかぎを捜し出すんだよ。うちじゅう残らず調べてみな」 「じきそれだからな。この手の跡が七百両するんですかい。もうちっと話の寸をつめていってくれなきゃアわからねえんですよ」 「しようのねえやつだ。このとおり不思議な手の跡がこんなところに残っているからにゃ、下手人の風向きもこっちへ変わったじゃないかよ。変わったとすりゃ、かわいそうなあの親子を助け出さなきゃならねえんだ。しかし、相手は敬四郎だ。尋常なことでは嫌疑を晴らすはずアねえんだ。だから、敬四郎がぐうの音も出ねえように、おやじがゆうべどこへいったか動かぬ足取りを洗いたてて、攻め道具にしなきゃならねえんだよ。おやじの嫌疑が晴れりゃ、子どもたちの嫌疑の雲の晴れる糸口もおのずと見つかるというもんじゃないかよ。一刻おくれりゃ、一刻よけいあの親子が、むごたらしい敬四郎の責め折檻を受けなきゃならねえんだ。早くしな」 「ちげえねえ! さあこい! 物に筋道が通ってきたとなりゃ、伝六ののみ取りまなこってえのはすごいんだからな。べらぼうめ、ほんとうにおどろくな――ええと、なるほど、これが大福帳だね。向こう柳原、遠州屋玉吉様二升お貸し。糸屋平兵衛様五升お貸し――なんてしみたれな借りようをするんだい。どうせ借りるなら、五千石も借りろよ」 名人は居間のほうを、伝六は店のほうを、手分けしてあちらこちらと捜しているうちに、その伝六が、とつぜんけたたましく呼びたてました。 「あった! あった! ね、ちょっと、途方もねえものが見つかりましたよ。これから先ゃ、だんなの役なんだ。知恵箱持って、早くおいでなせえよ」 ひらひらとかざすようにして差し出したのは、一枚の紙切れです。 見ると、受け取りでした。しかし、ただの受け取りではない。不思議なことにも、駕籠屋の受け取りなのです。
覚え 一金壱両二分 ただし夜中増し金つき 右まさに受け取りそうろうなり
佐久間町 駕籠留
増屋弥五右衛門殿
金くぎ流でそう書いた受け取りなのでした。 「なるほど、少し変な受け取りだな。どこから見つけ出したんだ」 「この大福帳にはさんであったんですよ。伝六も知恵は浅いほうじゃねえが、まだ駕籠屋の受け取りてえものを聞いたことがねえ。だいいち、この金高も少し多すぎるじゃござんせんかよ。一両二分ってえいや、江戸じゅう乗りまわされるくれえの高なんだからね。それに、この夜中増し金付きってえただし書きも気にかかるじゃござんせんかよ。夜中にでも乗りまわしたにちげえねえですぜ」 「偉い。おまえもこの節少し手をあげたな。捕物の詮議はそういうふうに不審を見つけてぴしぴしたたみかけていくもんだよ。佐久間町といや隣の横町だ。宿駕籠にちがいない。行ってみな」 糸がほぐれだしたのです。 主従の足は飛ぶようでした。案の定、佐久間町の通りかどに、油障子で囲んだ安駕籠屋が見えるのです。 「だれかおらんか」 「へえへえ。ひとりおります」 無作法なかっこうで奥から出てきた若い者の鼻先へ、ずいと受け取りをつきつけながら、名人が鋭く問いかけました。 「この受け取りは、おまえのところでたしかに出したか」 「どれどれ。ちょっと見せておくんなさいまし。――ああ、なるほど、うちから出したものに相違ござんせんよ」 「変だな」 「何がでござんす?」 「駕籠屋が受け取りを出すという話をあまり聞かぬが、どうしたわけだ」 「アハハ。そのことですか。ごもっともさまでござんす。あっしのほうでもめったにないことですがね。じつア、あの米屋さんのご新造ってえのが、とても金にやかましい人なんでね、だから、つかった金高を女房に見せなくちゃならねえんだから、ぜひに受け取りをくれろと増屋さんがおっしゃったんで書いたんですよ」 「いつだ」 「けさの夜明けでござんす」 「なに! けさの夜明け! 乗ったは米屋のおやじか!」 「さようなんでござんす」 「一両二分もどこを乗りまわした!」 「それがじつアちょっと変でしてね。ゆうべ日が暮れるとまもなくでした。今からお寺参りするんだから急いで来てくれろというんでね。夜、お寺参りするのもおかしいがと思ってお迎えにいったら、米屋のあのおやじさんが、鍬を一丁と重そうなふろしき包みを一つ持ってお乗んなすったんですよ。はてなと思って、肩にこたえる重みから探ってみると、どうもふろしきの中は小判らしいんです。小判に鍬はおかしいぞ、お寺へ行くのはなおおかしいというんで、相棒と首をひねりひねりお供していったら――」 「どこのお寺へいった!」 「小石川の伝通院の裏通りに、恵信寺ってえいう小さなお寺がありますね、あのお寺の寂しい境内へ鍬とふろしき包みを持ってはいって、しばらくあちらこちらのそのそ歩いていた様子でござんしたが、まもなくまたふた品を持ったままで出てきて、変なことをおっしゃるんです。どうもこの寺じゃあぶない、どこかもっと寂しいお寺へやってくんな、とこういうんでね。今度は本郷台へ出て、加賀様のお屋敷裏の新正寺ってお寺へ乗せていったんですよ。ところが、そこでまたあっしどもを門前に待たしておいて、米屋さんたったひとりきり――」 「鍬と小判を持って境内へはいったか!」 「そうでござんす。同じように、あちらこちらをのそのそやっていたようでしたがね、まもなくまたふた品を持ったままで出てくると、やっぱりあぶない、もっとどこかほかの寺へやってくれろというんでね、今度[#「今度」は底本では「今年」]は浅草へいったんでござんす。ところが、そこのお寺もやっぱりいけない。川を渡って本所へいって三カ寺回ったが、そこもいけない、いけない、いけないで、神田へまた舞いもどってきたら、とうとう夜が明けちまったんですよ。こっちもきつねにつままれたような心持ちでござんしたが、米屋のおやじさんもぼんやりとしてしまって、鍬と包みを背負いながらにやにや笑っていらっしゃるからね。何がいったいどうしたんでござんす、といってきいたら、いうんですよ。顔なじみのおまえたちだから打ち明けるが、あんな無理をいう女房ってえものはねえ。この金をどこか人に見つからねえところへこっそり埋めてこいといわれたんだが、江戸じゅうにそんなところがあるもんけえ。どこもかも見つかりそうであぶねえところばかりじゃねえか、とこういってね、この受け取りを作らせてお帰んなすったんですよ」 右門の目がきらりと光りました。 米屋のおやじ弥五右衛門の身辺を包んでいた不審の雲はからりと晴れたが、はしなくも、ここに今、新しい不審がわいてきたのです。七百金という小判を、あの女がなぜに埋めさせようとしたか、そこに不審がある。疑惑がある。どういう金であるか。なぜにそれほどだいじな小判であるか、なぜに埋めて隠して人目を恐れねばならぬか。そこに疑惑がある。不審があるのです。 目がきらりと光ると、鋭い声が飛びました。 「あの女房について、何か知っていることはないか!」 「そうですね。やかましやの、きかん気の、亭主をしりに敷いている女だということは町内でも評判だからだれも知っておりますが、ほかのことといったら、まず――」 「何かあるか!」 「昔、吉原で女郎をしておったとかいうことだけは知っておりますよ」 「なに! 女郎上がり! どうしていっしょになったか知らぬか。あのおやじが身請けでもしたか!」 「さあ、どうでござんすかね。両国の河岸っぷちに見せ物小屋のなわ張り株を持っている松長ってえいう顔役がありますが、その親分が世話をしたとか、口をきいていっしょにしたとかいう話ですから、いってごらんなさいまし」 「おまえ、そのうちを知っているかい」 「おりますとも、よく知っておりますよ」 「よしッ。話し賃にかせがしてやる。早いところ二丁仕立てろ」 「こいつアありがてえ。おい、おい、きょうでえ! お客さんを拾ったよ。早くしたくをやんな」 乗るのを待って、いっさん走りでした。
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