1
その第三十三番てがらです。
朝ごとに江戸は深い霧でした……。
これが降りるようになると、秋が近い。秋が近づくと、江戸の町に景物が決まって二つふえる。
トウトウトウトウ……ハイヨウハイヨウ……と、まだ起ききらぬ朝の静かな大気を破って、霧をかき分け、町を越えながら、朝ごとにけいこの声が柳原お馬場一帯につづくのでした。
ドコドコドンドン、ヒュウヒョロヒョロと、朝ごとに角兵衛獅子の
ちょうどこの日がまた、数寄屋橋側のけいこ日の半日なのでした。したがって、南町ご番所名代の伝六が来ないというはずはない。来ればまた、ものおじしないその伝六が、ぼんやりと指をくわえているはずもないのです。
「一
「されないようにじょうずに乗ったらいいじゃないかよ」
「そうはいかねえんだ。おいらの馬術は、何流にもねえ流儀なんだからね。――ほらよ、くろ、くろ! おとなしくしているんだよ。名人が乗るんだから、ヒンヒンはねちゃいけねえぜ」
馬ぐらい乗り手を見分けるものはない。ましてや、乗り手が伝六とあっては、くろも南町ご番所名代のこのひょうきん者をよく知っているとみえて、長い顔をさらにぬうと長くのばして笑ったまま、動こうとしないのです。
「ちぇッ、笑いごっちゃねえんです、だんな。なんとか動くように、おまじないしておくんなさいよ」
「何流にもない流儀とやらでお駆けあそばすさ。おいらに頼むより、馬に頼みな。泣かずにひとりでお遊び」
ひらりと乗ると、馬はあしげの逸物、手綱さばきは八条流、みるみるうちに、右門の姿は、深い霧を縫いながらお馬場をまっすぐ向こうへ矢のように遠のきました。
ぐるりと回って帰ってみると、伝六はまだくろとしきりに押し問答をしているさいちゅうなのです。
「後生だから走っておくれよ。何が気に入らなくて、そんなに長い顔をしているんだ」
「…………」
「返事をしなよ、返事を! むりな頼みをしているんじゃねえんだ。おまえは走るが商売じゃねえか。まねごとでもいいから、ちょっくら走ってくんなよ」
せつな。
くろがたてがみをさかだてたかと見るまに、パカパカとすさまじい勢いで走りだしました。
「お、お、おい! な、な、なにをするんだ。冗、冗、冗談じゃねえよ! 本気で走らなくたっていいんだよ! まねごとでいいんだ! よしなよ! よしなよ!」
必死に叫んだが、いまさら止まるはずはない。伝六ごときが、そもそも馬に乗ったのがまちがいなのです。
「一大事だ、一大事だ! だんな、だんな、止めておくんなさいよ。伝六の一大事なんだ。早くなんとかしておくんなさいよ!」
「うまい、うまい。腰つきがなかなかみごとだぞ」
「まずくたっていいですよ! はやしたてりゃ、くろめがよけいずにのって走るじゃござんせんか。よしなよ! よしなよ! くろ! おまえもあんまり薄情じゃねえか! わかったよ、わかったよ! そんなにむきになって走らなくとも、おまえの走れるのはもうわかったんだ。よしなったら、よさねえかよ!」
なだめすかしても聞かばこそ、くろは必死にしがみついている伝六を背中に乗せて、ひた走りに走りつづけました。お馬場は川に沿って細長く七、八町つづいているのです。
ぴゅうぴゅうとうなりをたてんばかりに走りつづけて、その細長いお馬場の行き止まりまであともう一、二町と思われるあたりまで駆けすすんだとき、とつぜん、ちょこちょこと横から飛び出した影がある。
十一、二ぐらいの少年なのです。しかも、手には長い竹ざおを持っているのでした。飛び出してさっと馬の行く手に立ちふさがると、舌を巻きたいほどにも機転のきいた少年なのでした。パカパカと矢のように駆け近づいてくる馬の鼻さきめがけて、手にしていた青竹をひゅうひゅうと打ちふりました。
「な、な、なにするんだ! どきな! どきな! けとばされたらあぶねえじゃねえか!」
「おじさんこそあぶないよ。馬を止めてやるんだ」
「バカいうない! おらに止まらねえものが、おまえなんぞに止められてたまるもんか! そら! そら! あぶねえじゃねえかよ」
その声の終わらぬうちに、ぴたりと馬が止まったから不思議です。
「へえ……偉いね、ちんぴら。止まったね」
「止まったろう。おじさんみたいなしろうとが乗るもんじゃないよ、あぶないからね……」
「何いやがるんでえ。おれがしろうとだかくろうとだか、おまえ知らねえじゃねえかよ」
「知ってるよ。おじさんは伝六のおじさんだろう」
「いやなことをいうね。どうして、おらが伝六のおじさんだってえことを知ってるんだい」
「知ってるから知ってるんだよ。だから……だから……」
ふいっと顔を伏せると、不思議な少年は、とつぜんぽろぽろと涙をおとしながら、しくしく泣きだしました。おどろいたのは伝六です。
「ど、ど、どうしたんだ。気味のわるい子だな、おまえは。おらが伝六のおじさんだからって、なにも泣くこたアねえじゃねえかよ」
「悲しいんだ。悲しいから泣くんだ。早くちゃんを助けておくれよ」
「なに、ちゃん? ちゃんがどうしたというんだ」
「かあやんが、かあやんがな、けさふろおけの中で死んでたんだ。だから、ちゃんが下手人だといって、おなわにされたんだよ」
「さあ、いけねえ! えらいことになりゃがったな。いってえ、だれがおなわにしたんだ」
「顔にいっぱい穴のあるお役人だよ」
「なにっ、あば敬か! ちくしょうッ、さあ、いけねえぞ! さあ、いけねえぞ! いってえ、そりゃいつのことなんだ」
「たった今なんだよ。けさ起きてみると、かあやんがいつだれに殺されたか、死んでたんだ。だから、うちじゅう大騒ぎになって、近所のつじ番所へ知らせにいったら、どこできいたか顔に穴のあるそのお役人がすぐはいってきてな、ふたことみこといばっておいて、いきなりちゃんになわをかけてしまったんだ。ちゃんは、おらのちゃんは、そんな鬼のちゃんじゃねえ。だから、だから、おじさんたちに助けてもらおうと思って、いっしょうけんめいにここへ飛んできたんだよ」
「どうしてまた、おじさんたちがここにいるのを知ってたんだ」
「だって、きょうは半日じゃないか。半日には右門のおじさんがお馬のおけいこに来るはずだから、来れば伝六のおじさんもしかられしかられいっしょに来ているだろうと思ったんだ。はじめはおじさんがだれだかわからなかったけれども、馬がへただったから、へたならきっと伝六のおじさんだろうと気がついて、走るのを止めてやったんだよ」
「あけすけと、よぶんなことをいうねえ。きょうはへただが、じょうずな日だってあるんだ。だんな、だんな。だんなはどこですかい! 一大事ですよ。今度は掛け値のねえ一大事なんだ。だんなはおらんですかい?」
「やかましいや。ここにひとりおるじゃないか。よく目をあけてみろい」
いつのまにかうしろへやって来て、ちゃんともう何もかも聞いたと見えるのです。じろりと少年の姿を一見したかと見るまに、たちまち右門流が飛び出しました。
「おまえ、うちは米屋だな」
「あ、そうだよ。そこの細川
「女のきょうだいがあるな」
「ああ、妹がひとりあるよ」
「へへえ。おどろいたもんだね――」
珍しいことではないのに、たちまちお株を始めたのは伝六です。
「毎度のことだから感心したくねえんだが、ちっとあきれましたね。目に何か仕掛けがあるんですかい」
「あたりめえだ。南蛮渡来キリシタンのバテレン玉ってえいう目が仕掛けてあるんだよ。子どもの着物をよくみろい。米のぬかがほうぼうについているじゃねえか。足もよくみろい。女の子のぞうりをはいているじゃねえか。だから、米屋のせがれで女のきょうだいがあるだろうとホシをさしたのに、なんの不思議があるんだ。米つきばったのようなかっこうをしてへたな馬をけいこするひまがあったら、目のそうじでもやんな。右門のおじさん行ってやるぞ、先へ飛んでおいき!」
ひゅうとむちを鳴らして、馬をお馬場の向こうへ追い返しておくと、まっしぐらに駆けだした少年を道案内に立てながら、その場に米屋へ向かいました。