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その第三十二番てがらです。
ザアッ――と、
まことに涼味
「下りだよう。急いでおくれよう、舟が出るぞう――」
「待った、待った。だいじなお客なんだから、ちょっと待っておくれよ!」
こぎ出そうとしていた船頭を呼びとめて、墨田名代のその通り雨を縫いながら、あわただしく駆けつけたのは二丁の
場所はずっと川上の
川のこっちは浅草もはずれの橋場通り、向こうは寺島、
「では、おだいじに……」
「ああ、ご苦労さん。ふたりとも無事に着いたと、おやじさまたちによろしくいっておくれ」
「へえへえ。かしこまりました。奥さま、かさを! かさを! おかさを忘れちゃいけませんよ。もう今夜から天下晴れてのご夫婦ですもの、なかよく相合いがさでいらっしゃいまし……」
お供の駕籠屋たちは、出入りの者らしい様子でした。かさをさしかけられて、はじらわしげに駕籠から出てきたのは、雪娘ではないかと思われるほどにも色の白い十八、九のすばらしい花嫁でした。つづいて、うしろの駕籠から出てきた男は二十三、四。――一見してだれの目にも
相合いがさに見える文字を拾っていくと、日本橋本石町薬種問屋林幸と読めるのでした。
しかし、雨は遠慮がない……。
ザアッ、ザアッと、けたたましく降り募って、しぶきの煙が川一面にもうもうとたちこめながら、さながらに銀の幕を引いたかのようでした。お客はその相合いがさのぬしがふたりきり……。
しぶきの中をゆさゆさとゆられながら、やがて相合いがさは並み木の土手へ上がりました。三本めの桜の横をだらだらと向こうへ降りながら、まもなく相合いがさのふたりが訪れたところは、ひと目にどこかの寮とおぼしきしゃれたひと構えです。
「ばあや。ばあや」
「あら、まあ! 若だんなさまじゃござんせんか! この降りに、どうしたんでござんす!」
「来たくなったから急に来たのよ」
「なんてまあお気軽なおかたでござんしょう。でも、ゆうべお嫁さんをもらったばかりで、まだろくろく式も済まんじゃござんせんか!」
「だから来たのさ。店にいたんじゃ、わいわいとお客がうるさくて、自分のお嫁さんだか人のお嫁さんだかわからないからね。こっちへ逃げてきたら、しみじみと話もできるだろうと思って、こっそりやって来たんだよ。早くしたくをしておくれ」
「なるほど、そうでござんしたか。ほんにそのとおりでござんす。
「もういいよ! ばあや! そんなにつべこべといろいろなことをいえば、よけい恥ずかしくなるじゃないか。早くしたくをおやり」
「はいはい。では、まずお湯のかげんでも見てまいりましょうよ、あちらでごゆっくり――」
変わった趣向といえば変わった趣向でした。
男は名を幸吉、もちろん林幸の店の若だんなでした。
秋にしたらいいだろうというのを幸吉がせきたてて、この夏のさなかに式を早め、それがちょうどゆうべのことなのです。早めて式をあげたはいいが、話のとおり日本橋のほうでは人目もうるさいし、何やかやとまだごたついて、ゆっくり語らうこともできないところからして、こうして人世離れたこの寮へのがれて、しみじみと新婚の夢を結ぼうというのでした。
ザアッ、ザアッと、また通り雨……。
ふたりきりになってしまうと、この雨までがなかなかふぜいがあるのです。
「おまえ、胸がどきどきしているんじゃないかえ」
「あんなことを……」
「なんだかこうそわそわとして、へんにうれしいね」
「そうですとも! ええ、ええ、だれだってうれしいもんですよ」
そこへばあやが無遠慮に顔を出すと、無遠慮に促しました。
「ちょうど上かげんでございます。情が移ってようござんすからね。仲よくごいっしょにおはいりなさいまし」
「よかろう! どうだい! おまえはいるかい」
「でも……」
「だいじょうぶ。だれも見ちゃおらんからはいろうよ」
「…………」
「恥ずかしいことなんかありゃしないよ。ね、ばあや。それが夫婦じゃないか。いっしょにはいったって、おかしくないやね」
「ええ、ええ、そうですとも! これがおかしかったら、おかしいというほうがおかしいですよ。ここの寮のお湯殿は、とても広くてせいせいしておりますからね、仲よくふたりで水鉄砲でもして遊ぶとようござんすよ」
もじもじしていたが、人目のない寮の湯殿ということが、新嫁の心をそそのかしたとみえるのです。うっすらと顔を赤らめながら、やがてお冬も立ち上がると、新婿のあとから湯殿の中へ姿を消しました。
しかし、ほとんどそれと同時でした。
「ばあや! ばあや! たいへんなことになったよ! ばあやはどこだ!」
幸吉がまっさおになって湯殿から飛び出してくると、なにごとが起きたか、うろたえながら叫びました。
「大急ぎだ。だれでもいい! すぐにだれかお使いを呼んできておくれッ」
「ど、ど、どうしたんでございます! 奥さまが何かおけがでもしたんでございますか」
「そんなこっちゃない! もっとたいへんなことなんだ。早くだれか呼んでくりゃいいんだよ!」
いぶかりながらまごまごしているばあやの目の前へ、帯もしめずにすそ前を押えたままでおろおろしながら出てきたお冬の顔をみると、どうしたというのか、まるで血の色もないのです。
「何がいったいどうあそばしたのでございます」
「おまえの知ったこっちゃない! 呼んでくりゃいいんだ! 早くお行き!」
「はいはい、参ります! 参ります! 近所といっても、ここでは法泉寺一軒きりでございますからね。寺男でも頼んでまいりましょう。それでようございましょうね」
「けっこうだとも! 早くしておくれ!」
ばあやをせきたてて、幸吉はその場に筆をとりながら、何かこまごまと書きしたためました。よくよくぶきみなできごとででもあるとみえて、新嫁のお冬はひと間に隠れたきり、顔もみせないのです。
やがてまもなく、ばあやに伴われてきたのは、
「早く! 早く! 早くしておくれ! 大急ぎだよ! 川を越したら
「わかりました。八丁堀ですね」
「ああ、八丁堀だよ。右門のだんなさまといやあ、すぐわかるはずだからね。ほら、お使い賃をあげます。人に知られると、女房が、いや、女ひとり死ぬようなことになるかもしれんからね。右門のだんなさまにも、なるべくこっそりこの書面をお渡ししておくれ――」
秘密秘密と、ひたかくしに隠しているところをみると、よくよく穏やかならぬできごとに相違ないのです。ザアッ、ザアッと、いまだにふりしきる夕だちの中を、雨がっぱにくるまった寺男の姿が、ぬれつばめのように土手の向こうへ消えました。