1
その三十一番です。
江戸城、
しかし、どちらであるにしても、内濠とある以上は、たとい天下、波風一つ起こらぬ泰平のご時勢であったとて、濠は城の
長つゆがようやく上がって、しっとりと深い霧の降りた朝――ちょうど見まわり当番に当たっていたのは
「よッ……!」
三宅が不意に鋭く叫びながら、馬のたづなをぎゅっと引き締めました。
上と下と
「なんじゃ」
「変なものだぞ」
まだあけたばかりで薄暗いためによくはわからないが、赤いものが一つ、白いものが一つ。とにかく、穏やかでない品でした。
「おりろ。おりろ」
ふたりが馬を捨てて、土手を下りながら長つゆのあとの水かさのました水面に近づいてよくよくみると、二つとも女の持ちものなのです。
一つはなまめかしい紅扇子。
いま一つは、これまたなまめかしい白
「水死人があるかもしれぬぞ」
「のう……!」
「いずれも懐中にさしている品ばかりじゃ。このようなところへ捨てる道理がない。
足跡はなかったが、この二つの品を見て、ただちに水死人と断じたのはさすがです。
「だれか一騎、すぐに
「心得た。手はずは?」
「厳秘第一、こっそりお
パカパカとひづめの音を鳴らして、事変突発注進の一騎が、霧のかなたに消え去りました。
同時に、一騎は半蔵御門へ。一騎は反対の竹橋御門へ。
すべてがじつに機敏です。ご門詰めの番士に事の変を告げて、出入り差しとめ、秘密警戒の応急てはずを講ずるために、たちまち左右へ駆けだしました。
見張りに残ったのは三宅平七ただひとり。この男、旗本の次男でまだ二十三になったばかりだが、諸事みな
あちらへ漂い、こちらへ漂っているふた品を見ていると、どうも少し変なことがある。濠のまんなかごろのある一カ所から、間をおいてときどき思い出したようにぶくぶくとあわが浮きあがって、さながらそのあわの下に何か気味のわるい秘密でもあるかのように、ふたつの品がまた浮き漂いながらも、その一カ所のぐるりを離れないのでした。
「
もしもそこに品物の持ち主の死骸が沈んでいるとするなら、怪談ものです。ふたつの品に何かのぶきみな
いやなことには、まだ霧がなかなか晴れないばかりか、注進にいったものたちの帰りもおそいのです。
待ち遠しい
ぶきみな思いをしながら待ちあぐんでいたところへ、前後して三騎がはせ帰ってくると、城内屯所へいったのが馬上から呼び呼び伝えました。
「城外へ漏れてはならぬゆえ、そのことくれぐれも心して、たち騒がずに見張りせいとのお達しじゃ。お組頭はあとからいますぐ参られるぞ」
「足軽たちは?」
「いっしょに来るはずじゃ、それから……」
「だれかほかにご城内からお検分にお越しか」
「いいや。どういうおつもりか、お組頭、ちとふにおちぬことをされたわい。密々の早馬、すぐに
「ほほう。なるほど、さすがはお組頭じゃ。八丁堀なら、おおかた――」
三宅の平七、なかなかに目がきくのです。いわずとしれた、むっつり右門であろう、というように、にったり笑ったところへ、足軽六、七人を従えて色めきたちつつはせつけたのは、お組頭畑野
「浮いているのはどの辺じゃ」
「あのまんなかでござります」
「いかさま、女物じゃな。だれぞひとり、はようあのふた品をこれへ、残りはすぐさま水へくぐらっしゃい」
下知もろとも足軽たちが下帯一つになって、ひとりは命ぜられたとおりなぞのふた品を岸へ、あとの五人が水底めがけていっせいに飛び込もうとしたのを、
「いや、場所がある。まてまてッ」
三宅が制して指さしました。
「今のあそこじゃ。ぶくぶくと水底からあわが吹いているあのあたりが怪しゅう思われるゆえ、まずあそこへくぐってみい」
いずれも水練自慢とみえて、たくましやかな五体をおどらしながら、さっといっせいにもぐりました。
しかし、まっさきにもぐって、まっさきにあわの下へいったのが、まっさきにまっさおな顔で浮き上がってくると、不思議なことをいったのです。
「いのちには替えられませぬ。あそこばかりは二度ともう――」
「たわけッ、いのちに替えられぬとは何をいうかッ。いいや、なんのためにお
しかりつけてくぐらせようとしたとぎ、ふたりめ、三人め、四人め、五人めと次々に浮かび上がると、いずれも同様に色を失いながらいうのでした。
「あそこばかりは二度ともう――」
「うぬらもかッ」
「でも、気味がわるくて近よれませぬ」
「
「いいえ、何もござりませぬ。死骸はおろか何一つ怪しいものは見えませぬのに、どうしたことか、あそこへ近よりますと身のうちが凍えるように冷たくなりまして、ぐいぐいと気味わるく引き入れられそうになりますゆえ、いかほどしかられましても、てまえどもの手には合いませぬ」
組頭蔵人はじめ三宅平七たち五人の者は、目と目を見合わせながら、いずれもぞっと水をでも浴びせられたように、えり首をすぼめました。
怪しいものがないというのに、ぶくぶくとあわがたっているはずはない。しかも、疑問のふた品が岸へ揚げられるまで、ぶきみなその一カ所の周囲ばかりを、底に引く糸でもあるかのごとく漂って離れなかったのが不思議です。
「そんなバカなはずはない。寄りつけないというはずがない。だれぞ勇を鼓して、いまいちどくぐる者はないか」
「…………」
「戦場と思うたら行けるはずじゃ。だれもおらぬか!」
よくよく恐ろしかったものとみえて、裸男たちが声もなく顔見合わせているとき、
「えへへ。みなさんご苦労さま。ただいまはごていねいに早馬をいただいて、あいすみませんでしたね」
姿より先に、かしましい声を飛ばせながら、大道せましと右に左にからだを振って、霧の中をこちらへ駆けつけてきたのは、
あの男です。
あとから静かにむっつりの名人……。