1
――その第三十番てがらです。
事の起きたのは新緑半ばの五月初め。
さみだれにかわずのおよぐ戸口かな、という句があるが、これがさみだれを通り越してつゆになったとなると、かわずが戸口に泳ぐどころのなまやさしいものではない。へそまでもかびのただようつゆの入り、というのもまんざらうそではないくらい、寝ても起きても、明けても暮れても、雨、雨、雨、雨……女房と畳を新しく替えたくなるというのもまた、このつゆのころです。
しかし、取り替えようにもあいにくと妻はないし、伝六はあいかわらずうるさいし、したがってむっつり名人のきげんのいいはずはない。
「
「…………」
「平助と申すに、なぜ返事をいたさぬか!」
「へえへえ。鳥目でござえますから、どうかもっと大きな声をしておくんなせえまし……」
お番所同心控え席の三番、それが名人右門の吟味席です。その控え席でそこはかとなくほおづえつきながら、わびしく降りつづけている表の雨を見ながめていると、隣二番のお白州、これが右門とは切っても切れぬ縁の深いあばたの敬四郎の吟味席でした。その二番の席で、敬四郎が何を吟味しているのか、しきりといたけだかになってどなりつけているのが聞こえました。
「人を食ったやつじゃ。鳥目ゆえ耳がきこえぬとは何を申すかッ。上役人を茶にいたすと、その分ではさしおかんぞ」
「でも、当節は耳のきこえぬ鳥目がはやりますんで……」
「控えろッ。いちいちと
「へえ、さようで。稼業のほうはたしかにげたの歯入れ屋でごぜえますが、あだ名のほうはあっしがつけたんじゃねえ、世間がかってにつけたんでごぜえますから、しかとのことは存じませぬ」
「控えろッ。ことごとに人を食ったことを申して、許しがたきやつじゃ。比丘尼店家主
「へえ、そのとおりでごぜえます。なんしろ、この長雨じゃ、いくら雨に縁のある歯入れ屋でも上がったりで、お客さまもまた気を腐らしてしみったれになったか、いっこうご用がねえもんだから、親子三人干ぼしになって死ぬよりゃ
「なんだと! 雨が降ってお客がしみったれになるが聞いてあきれらあ。雨は雨、お客はお客。
他人のこともいっしょにして口やかましくわめきながら、声から先に飛び込んできたのは、断わるまでもないおしゃべり屋のあの伝六です。
「おつに気どって雨なんぞ見ていたとても、りこうにゃならねえんだ。今、麻布の自身番から急訴があったんだがね。あそこの
口やかましく注進しているのを、早くも隣の吟味席で聞きつけながら、ぴかりと陰険そうに目を光らしたのはあばたの敬四郎でした。同時に立ち上がると、お白州中の歯入れ屋などはもう置き去りにしておいて、にこりと意地わるそうにほくそえみながら、こそこそ奥へ消えていったかとみえたが、あば敬はなすことすることことごとくがあばた流です。直接、
「そら、ご覧なせえまし。だからいわねえこっちゃねえんだ。まごまごしているから、こういうことになるんですよ! あば敬の意地のわるいこたア天下一品なんだ。あいつが飛び出したとなりゃ、ことごとにじゃまをするに決まってるんだからね。のそのそしてりゃ、せっかく早耳に聞き込んだ事件を横取りされるんじゃねえですかよ!」
たちまち伝六が目かどをたてて鳴りだしたとき、高々と呼びたてた声がひびき渡りました。
「右門殿、お声がかかりましてござります! 火急に
「えっへへ」
鳴ったかと思うとこの男、たちまちまたたいそうもない上きげんです。
「うれしいね。扱いが違うんだ、お扱いがね。こそこそと内訴訟してやっとのことお許しが出るげじげじと、お奉行さまおめがねで出馬せいとお声のかかるだんなとは、段が違うんだ。――
「…………」
ようやくに腰を浮かしたが、ひとことも声はない。何を考え込んで何を思いふけっているのか、じつに驚くほどにもむっつりと押し黙って、まったくの無言の行なのです。――雨ゆえに、きょうばかりは二丁きばった御用駕籠を連ねながら、おしの名人と、おしゃべりの名人とは、一路話のその麻布北条坂目ざして急ぎました。
だが、不思議でした。
あば敬主従と右門主従とは、お番所を出るのに一町と隔たってはいなかったのに、しかも双方ともにその目ざしたところは、孫太郎虫売り娘殺害の現場と思われたのが、途中でひょいとふり返ってみると、右門の駕籠も伝六の駕籠も、いつのまにどこへ消えていったか、かいもく姿がないのです。
ひとてがらしてやろうと先手を打って飛び出しただけに、敬四郎、心中はなはだ気味わるく思ったにちがいない。手下の直九郎、
「ぼんやりしているから、ずらかられちまったんだ。どっちへ曲がったか捜してみろ」
「捜しようがねえんですよ。どこまで姿があって、どこから消えたものか、それがわからねえんだからね」
「文句をいうな! 手下がいのねえやつらだ。所をよく聞かなかったが、人殺しゃどこだといった」
「おどろいたな。あっしどもは、だんなが飛び出したんで、そりゃこそてがら争いとばかり、あとをついてきただけなんですよ」
「いちいちとそれだ。もっと万事に抜からぬよう気をつけろい。たしか北条坂とかいったが、その北条坂はどの辺だ」
「ここがそうなんですよ」
「そんならそうと早くいえッ。殺されたのは小娘だといったはずだ。捜してみろッ」
麻布もこの辺になると町家もまばらだが、人通りも少ない寂しい通りばかりです。ましてや、明け暮れ降りつづく入梅なのでした。行き来の者はまったくとだえて、見えるものはどろ道と坂ばかり……。
「おかしいな。かりそめにも人がひとり殺されたというからには、物見だかりがしているはずだ。もういっぺん坂を上から下へ捜し直してみろッ」
三人でいま一度その北条坂を調べてみたが、人影もない。むくろもない。
「右門め、先回りをしてさらっていったな!」
「これはこれは……」
そのとき、足音を聞きつけたものか、おい茂った道ばたの青葉の陰から、自身番の小役人たちがあたふたと駆けだして、ろうばいしながらしきりと取りなしました。
「あいすみませぬ。ついそのうっかりいたしまして……ご出役ご苦労さまにござります」
「何がご苦労さまじゃッ。怠慢にもほどがあるわッ。これだけの人殺しがあるのに、ご検視の済むまで見張りをせずにおるということがあるかッ」
「つい、その……なんでござります。あんまり寂しいので、つい、その……」
「言いわけなど聞きとうないわいッ。死骸にはだれもまだ手をつけまいな!」
「いいえ」
「いいえとはどっちじゃ! だれか来たかッ。右門めでもがもう参ったかッ」
「いいえ、あなたさまがお初め、だれも指一本触れた者はござりませぬ」
「それならばそうと、はっきり申せい。手数のかかるやつらじゃ。
「それがわかりませぬゆえ、ご出役願ったのでござります」
「ことばを返すなッ。これなる死骸の見つかったのはいつごろじゃ!」
「朝の五ツ下がりころでござります。北条坂に小娘が殺されておるとの注進でござりましたゆえ、すぐにここへ出張って、お番所へ人を飛ばせたのでござります。なにしろ、このとおり寂しいところではござりまするし、それにこの雨でござりまするし――」
「うるさいッ。きかぬことまでかれこれ申すなッ」
あば敬のけんまく権柄、当たるべからざる勢いです。どなり、しかり、当たり散らしながら死骸を見調べると、小娘は年のころ十三、四、
「ホシは仲間だ。絞めたやつのそでにちがいないぞ。おれだって
まったく敬四郎とても目のきくときがあるにちがいない。よくよく調べると、絞め道具に使った菅笠のそのひもに、小娘の身もととおぼしき文字が見えました。
「日本橋
読み取るや同時に、敬四郎の得意げな声があがりました。
「そうれみろッ。馬喰町の新右衛門といや、
小役人たちに命じておくと、死骸の手から証拠の片そでを切り取って、鼻高々とひと飛びに乗りつけたところは、ひもに見える馬喰町の呼び商い元締め、越中屋新右衛門の店先です。
「おやじはおるかッ。八丁堀の敬四郎じゃ。いたら出い!」
「お尋ねはこれでござりましょう。いまかいまかと、お越しになるのをお待ちしていたところでござります」
「なに! その横帳はなんだ」
「身内の売り子の人別帳でござります。麻布で
「気味のわるいことを申すやつじゃな、どうしてそれがあいわかるか!」
「えへへ。あっしがそれとにらみをつけたんじゃござんせぬ。つい先ほど右門のだんなさまがのっそりとおみえになりまして、この人別帳をおしらべなすった末に、あとからいまひとりこれに用のある同役が参るはずじゃ、親切に応対してあげい、とのことでござりましたゆえ、いまかいまかとお待ち申していたのでござります」
せつなに、敬四郎のあばたがゆがんで、ふるえて、目に険しい色がみなぎり渡りました。
来ていたのである! まんまと先手を打ったつもりでいたのに、どうしてそれと眼をつけたか、あざやかにも名人右門が、すでにもう先手を打って、ちゃんとここへ身もとを洗いに来ていたのである。
「見せいッ」
奪い取るようにして手にしながら調べてみると、なつ、ちか、くに、はつ、うめ、なぞ十二、三人の名まえを連ねた孫太郎虫の売り子たちは、
「たわけめがッ。お茶なぞ出すに及ばんわい。気に入らんやつじゃ。気をつけろッ」
わけもなくただふきげんにどなりつけて、ひた走りに神田へ駕籠を急がせました。
2
「これはようこそ。雨中を遠くまでお出かけなさいまして、ご苦労でござりましたな」
敬四郎の駆けつけた気勢をききつけて、さわやかに微笑しつつ、その八文字屋の奥から出てきたのは、だれでもないむっつりの右門です。あとから伝六がのこのことしゃきり出ると、これが浴びせたのに不思議はない。
「えっへへ。敬だんな、お早いおつきでごぜえましたな。麻布はたぬきの名どころだ。子だぬきにちゃらっぽこやられたんじゃござんすまいね」
「なにッ。早かろうとおそかろうと、いらぬお世話じゃ。どけッ、どけッ」
「きまりがわるいからって、そうがみがみいうもんじゃねえですよ。知恵箱のたくさんあるだんなと、知恵働きの
「
にらみつけて奥へ通ろうとしたのを、
「お待ちなされよ。その証拠の品とやらは――」
にこやかに名人が呼びとめると、ずばりといったことです。
「小娘は年のころ十三、四、名まえはおなつ、口にくわえておったか手に握りしめておったかは存ぜぬが、その証拠の品とやらは片そででござらぬか」
「…………」
「いや、お驚きめさるはごもっとも、きのうからきょうへかけて、麻布一円へ呼び商いに出た者は、おなつ、おくに、両人と申すことじゃ。片そでをもぎとられた仕着せはんてんはここにござる。これじゃ。しまがらは合いませぬかな」
にこやかに笑って、帳場のわきから取り出したのは、だんだらじまの右筒そでをちぎられた仕着せはんてんでした。
「いかがでござる。合いませぬかな」
「…………」
「いや、お隠しなさるには及びませぬ。貴殿もこれが第一の手がかりとにらんだればこそ、おしらべにお越しでござりましょう。ご入用ならば、手まえには用のない品、とっくりとそでを合わせて、おたしかめなされい」
合わないというはずはない。しまがらも、引きちぎられた破れ口もぴったりと合うのです。
「亭主! 亭主! このはんてんを着ておった女はどこへうせた!」
敬四郎、鬼の首でも取ったような意気込みで、目かどをたてながら駆け込もうとしたのを、
「あわてたとても、もうまにあいませぬ。このはんてんの主は、いっしょに出かけたおくに、とうにもう帆をかけてどこかへ飛びましたよ。それより、話がござる。ごいっしょにおいでなされよ」
静かに制しながら先へたって奥のへやへはいると、そこに血のけもないもののごとくうち震えながらうずくまっていた八文字屋の亭主を前に座を占めて、いかにも功名名利に
「これなる仕着せの主がおくにとすれば、片そでがふびんなおなつの口なり手なりに残っておった以上、まず十中八、九までおくにが下手人とにらまねばなりませぬ。しかしながら、事は念を入れて洗うがだいじ、てまえ、貴殿よりひと足先にこちらに参るは参りましたが、功名てがら争う心は毛頭ござりませぬ。それゆえ、おくにめ、とうに逐電とは聞いても、足下がこちらへお出向きなさるまではと、なにひとつ洗いたてずにお待ち申しておりました。お番所勤めの役向きは諸事公明正大が肝心、くにの荷物もまだ手をつけずにござります。亭主が知っておることまでも何一つ聞き取ってはおりませぬ。ともども立ち会って吟味いたしとうござるが、ご異存ござりますまいな」
異存はあったにしても、こう持ちかけられては痛しかゆしです。返事のしようもないとみえて、不承不承に敬四郎、座についたのを見ながめると、名人の声はじつにあざやかでした。
「ご異存ござりませねば、てまえ代わって取り調べまする。亭主、神妙に申し立てろよ。上には慈悲があるぜ。くには何歳ぐらいの女じゃ」
「二、二十……」
「二十いくつじゃ」
「三のはずでござります」
「なつと連れだって麻布へ呼び商いに出かけたのはいつじゃ。けさ早くか」
「いいえ、きのう昼すぎからいっしょに出かけまして、ふたりともゆうべひと晩帰りませんなんだゆえ、どうしたことやら、みなしてうち案じておりましたところ、おくにどんだけがけさがた早くこの片そでをちぎられた仕着せ着のままで帰ってくると――」
「うろたえておったか」
「へえ、なにやらひどくあわてた様子で帰りまして、このとおり商売道具も何もかも投げ出したまま、急いで外出のしたくを始めましたゆえ、不審に思うておりましたら、尋ねもせぬに向こうからいうたのでござります。おなつがまい子になったゆえ、これからお願をかけに行くのじゃ、あとをよろしくと申しまして――」
「願かけにはどこへ行くというたか」
「浅草の観音さまへ、とたしかに申しましてござります」
「出かけたときの姿は?」
「日ごろからなかなかのおしゃれ者で、残った金はみな衣装髪のものなぞへ張りかけるほうでござりましたゆえ、けさほどもはでな
「その駕籠はどこで雇うたか」
「黒門町手前の
「顔だちは? べっぴんか」
「さよう、べっぴんというにはちと縁が遠うござりましょうかな」
「持ち物は?」
「何一つ持たずに、手ぶらでござりました」
「路銀は、いや、金はどのくらい所持しておったかわからぬか」
「きのうがちょうど宿払いの勘定日でござりましたゆえ、きんちゃくの中までもよく存じておりまするが、てまえがたの入費を支払ったあと、まるまるまだ三両ばかり残っておりましてござります」
「男なぞの出入りした様子はないか」
「少しも!」
「しかとさようか」
「なれなれしげに男と話をしていたところさえ見たことがござりませぬ。まして、ここへ男なぞ呼び入れたことは、ついぞ一度もござりませぬ」
「よし。では、くにの荷物、残らずこれへ取り出せい」
さし出したのは
まず梱から手初めに調べました。着替えが二枚、帯が二筋、それっきりでした。しかも、共にたいした品ではない。亭主の申し立てによると、衣装髪のものに金をかける伊達女といったが、残った品から判断すると、どうやら出かけたときの服装が第一の晴れ着らしいのです――。これは考えようによってこの場合、いろいろのいみを持つ重要なネタでした。晴れ着に装って、このとおりふだん着はじめ手まわりの品々をそっくり残していったところから判断すると、用を足してまたここへ帰ってくるつもりらしくも思われるのです。反対にまた、これらの品々を未練なく捨てておいて、たいせつな晴れ着だけ着用しながら、二度とここへ舞いもどらぬ決心のもとに高飛びしたかとも判定されるのです。
名人の眼光は、しだいに
さらに要領を得ないもののごとく、いともぼうぜんとして手をこまねいている敬四郎を、じろり、じろりと、微笑とともに見ながめながら、次のふろしき包みの精査に取りかかりました。
しかし、出てきたものは、いずれも着古したよごれ物、ぼろ切ればかりなのです。きたない手ぬぐいが三本、破れた手甲、
「こいつあおどろいたね。この入梅どきだ、よくきのこがはえなかったもんですよ」
「黙ってろ」
「へ……?」
「敬四郎どのと立ち会いのたいせつな吟味だ。おまえなんぞの出る幕ではないよ」
でしゃばり伝六、横からでしゃばりかけたのを一言のもとにたしなめながら、さらに名人は丹念に見調べました。はねのけてははねのけて調べていくと、ぱらり、下へ散ったものがある。水天宮さまのが一枚、
名人の目はいよいよ光を増すと同時に、最後の遺留品たる商売道具の小箱に手がかかりました。
あけてみると、孫太郎虫の黒焼きが三十五、六ほどあるのです。それっきりで、ほかには何もない。――いや、ないと思われたのに、さかさにしながら振ってみると、ぽろッ、落ちたひと品が目を射ぬきました。
くるくると丸めた小さなかんぜんよりです。丸めてあるところから判断すれば、あけてみて、そのままこの小箱の中へ投げ込んでおいたことが明らかでした。
「そろそろにおうてきましたな」
開いてみると、不思議なものが書いてあるのです。