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「へへえ。いばってやがるね、この寺はこりゃまさしく大師さまですよ」 「偉いよ。おまえにしちゃ大できだ。いかにも真言宗のお寺だが、どうして眼がついたかい」 「バカにおしなさんな。だから、さっきもお断わりしておいたんですよ。あっしだっても字ぐれえ読めるんだからね。この上の門の額に、ちゃんとけえてあるんじゃねえですかよ。一真寺、浄円題とね。浄円阿闍梨といや、天海寺の天海僧正と、どっちこっちといわれたほどもこの江戸じゃ名の高かった真言宗のお坊さんなんだ。そのお坊さまのけえた額がこうして門にかかっているからにゃ、まさにまさしく真言派のお寺にちげえねえですよ」 「ウフフ。なかなか物知りだね。おまえにしちゃ珍しく博学だが、このお寺はどのくれえの格式だか、それがわかるかい」 「え……?」 「寺格はどのくれえだかといってきいてるんだよ」 「くやしいね」 「あきれたな。知らねえのかい。そういうのがバカの一つ覚えというやつさ。定額寺といってね、お上からお許しがなくっちゃ、むやみと山門にこういう額は上げられねえんだ。相撲の番付にしたら、りっぱな幕の内もまず前頭五枚めあたりよ。これからもあることだからね、知恵はもっと細っかくたくわえておかなくちゃ笑われるぜ」 「ちぇッ。ほめたかと思うと、じきにそれだからな。だから、女の子も気を許してつきあわねえんです。しかし、それにしちゃこのお寺、ふところにぐあいがちっと悪いようじゃござんせんかい」 なるほど、見ると、寺格の高い割合には、境内の様子、堂宇の取り敷き、どことはなしに貧しく寂れたところが見えるのです。 「くずれていやがらあ。ね、ほら、鐘楼の石がきにいくつもいくつもあんなでけえ穴があいておりますよ。おまけに、ぺんぺん草がはえやがって、どこか気に入らねえお寺だね。……よッ。青坊主があっちで変なさしずをしておりますぜ!」 声にふり返って見ながめると、本堂の横の庭先で、いかさま年若いひとりの僧が、鳶人足らしい三、四人のいなせな男どもにさしずしながら、しきりと矢来杭を結わせているのが目にはいりました。しかも、その結いがきの中には、まぎれもなく六体の地蔵尊が見えるのです。 「ご僧」 静かにうしろへ近づくと、名人は物柔らかく、だが、その目の底になにものも見のがさぬさえた光をたたえて、静かにきき尋ねました。 「不思議なことをしておりますな」 「は……?」 不意を打たれて、いぶかるようにふり向いた若僧の姿をぎろりと見ると、年はまだ三十そこそこでありながら、その手にしている水晶の数珠には紫の絹ひもが通っているのです。――右門流がずばりと飛びました。 「真言宗の紫数珠は、たしか一寺一院をお持ちのしるしでござりますはず、ご住職でありましょうな」 「恐れ入りました。いかにも愚僧、当寺の住職蓮信と申す者でござります。あなたさまは?」 「八丁堀の右門にござる」 「おう! そうでござりましたか。ようこそ! では、永代橋のあの一件、お詮議にお越しでござりまするな」 「さよう、この六体はまさしくあちらの分かれ地蔵とはご因縁の女人地蔵とにらみましたが、急にこのような杭垣設けられるとは、どうした子細でござります?」 「あのようなもったいないお姿にされては、ご寄進のかたがたにも申しわけがござりませぬゆえ、盗み出されぬようにと、こうしてきびしく囲うているのでござります。あはは。いや、まったく、用心に越したことはござりませぬ。興照寺のようなおうちゃく寺では、地蔵尊どころか、いまにご本尊さままでも盗まれまするよ」 「聞き捨てならぬことを申されまするが、では、あちらのお住職はご行状がちと――」 「悪い段ではござりませぬ。いかに修行の足らぬ者でござりましょうとも、あれでは少し度が過ぎましょうわい。あはは、河原者ならば男の良いのがとりえでござりましょうが、み仏に仕える者ではな、かえってじゃまでござりましょうよ」 「と申しますると、何か浮いたうわさでも――」 「うわさどころか、兄弟子ながらこの蓮信も、あれではちと目に余るくらいでござります。同じこのお寺で修行をつづけて、本寺、末寺と分かれた仲でござりますのでな、ことごとにかばいだてもいたしまして、悪いうわさの口端に広まらぬようにと、ずいぶん気をつかってでござりまするが、あれこそまったく女地獄、このごろではどういう素姓の者やら、年上のあばずれ者らしい女とこっそり行き来をつづけて、いいえ、もう近ごろはからだに暇さえあると女を寺に引き入れて淫楽三昧でござりますのでな、さすがのてまえも、ほとほとあいそをつかしているくらいでござります。ちょうどいいさいわい、あなたさまからもきびしくお灸をおすえくださりませ」 「なるほどのう。あちらのお住職とは兄弟弟子でござりまするか。それならば、ご心痛なさるのもごもっとも至極、よもや、今のそのお話、うそではござりますまいな」 「もってのほかのこと、不妄語戒、犯すほどのばち当たりでござりましたら、蓮信、この紫数珠を身につけてはおられませぬ。お疑いならば、あちらへ行ってお調べなさるが早道、今も申したとおり、身に暇ができたとならば、きっと女をこっそり引き入れるか、ないしょに女の隠れ家へ忍んでいくか、よからぬ交わりしているはずでござりますゆえ、じきじきにご詮議なさるとよろしゅうござりまするよ。――いや、いううちに、てまえのからだも少し忙しくなったようでござります。ごめんくださりませ。鳶の衆もな、かきねができたらもうご用済みでござりますゆえ、ゆっくりお説教でもお聞きなさいよ」 数珠つまぐって、静かに会釈しながら立ち去っていったのを見送るともなく見送ったその目に、はしなくも映ったのは、そこの本堂の前の階段口に、麗々と建てられてある次のごとき一札でした。
「紀州、ご本山よりご下向のご番僧説教日割りは、左記のとおり相定め候につき、お心得しかるべく候。
壱、参、五、七、四カ日に当山。 弐、四、六、八、四カ日は興照寺。 ただし朝五ツよりのこと」
「あにい!」 読み下すや同時です。ふいっと名人が不思議なことを尋ねました。 「きょうは幾日だっけな」 「へ……?」 「四月の何日かというんだよ」 「はてね。お待ちなさいよ。おついたちの赤のご飯をいただいたのはおとついだから、ええと――ちきしょう、三日なら三日といやいいんだ。まさしく四月の三日ですよ」 「ウフフ。そうかい。道理でな、蓮信上人、忙しくなりだしたとのたまわったよ。おいらも急に忙しくなりやがった。――来な!」 「ど、ど、どこへ行くんですかよ。いやだね、また急に伝六泣かせをお始めですか、三日なら何がどうしたというんですかい」 「決まってらあ。あそこの立て札にもちゃんと断わってあるじゃねえかよ。三日ならばこっちの説教日、こっちが説教日ならば川向こうは暇の日なんだ。蓮信上人、今なんといったのかい。からだに暇さえあれば、興照寺の住持さん、おしろいつけた女仏さまからとんだ極楽の夢を見せてもらっているといったじゃねえか。さらし地蔵のなぞも、そこら辺にしっぽがのぞいているかもしれねえ。だから、その女、張りに行くんだよ」 「ちぇッ。たまらねえことになりやがったね、色和尚、恋の遺恨の鼻欠け地蔵とくりゃおしばやものだ。行きますとも! 行きますとも! しっぽの出てくるところまで行きますよ。からめ手詮議はだんなが得意、いろごと詮議はあっしの得意、坊主がなめりゃ四光とくらあ。――えっへへ。こうなりゃもう気もたってくるが、足もまたはええんだからね。じれってえな。もっと急いで歩きなせえよ」 じつにどうも言いようなく口達者な男です。急がせながら河岸に沿って曲がりばなをひょいと見ると、乗せてきての帰りか、だれかを待っているのか、いいぐあいにも目についたのは一艘の伝馬でした。――もとより見のがすような伝六ではない。 「ちきしょう。おあつらえ向きにできてやがるね。船頭、乗ってやるぜ。遠慮はいらねえ。早く出しなよ」 「冗、冗、冗談じゃねえですよ。一真寺のお説教を聞きに来た日本橋のご隠居さんたちが買いきりの船なんだ。二文三文の安お客を乗せる渡しじゃねえんですよ」 「なんでえ、なんでえ。二文三文の安お客たア、どなたにいうんでえ。腰の十手がわからねえか! お上御用でお乗りあそばすんだ。向こうっ岸までとっとと出しなよ!」 飛び乗って、ギーギーと急がせながらこぎつけたところは、大川を横堀へはいった興照寺のちょうどその裏手でした。ちらりと見ると、岸にのぞんだ大きな柳の陰に、だれを乗せてきたのか、だれを待っているのか、こざっぱりとした伝馬が一艘やはりつながれてあって、六十がらみの日にやけた船頭が、ぷかりぷかりとのどかになた豆ギセルから紫の煙を吐いているのです。あがりぎわに何心なくひょいとその船の中をのぞいてみると、いともなまめかしい品がある。大がらのはでな座ぶとんが一枚、そばにはまたさらになまめかしい朱ぬりの箱まくらが置かれてあって、その上に朱羅宇が一本、タバコ盆が一個。乗り手の主こそ見えないが、いずれもそれらはひと目にそれと、使用の客の容易ならぬあだ者であることをじゅうぶんに物語っている品々ばかりなのでした。――烱眼はやぶさのごとき名人が見すごしするはずはないのです。 「ウフフ。献立がちゃんとできていらあ。こっそり裏手から船をつけて、尾のあるきつねが日参りするたア、これこそほんとうにお釈迦さまでもご存じあるめえよ。ぽうっとなるようなところ見せつけらても、鳴っちゃいけねえぜ」 ぐるりと築地塀を回って表山門からはいってみると、門には額がない。まさしく寺格は一真寺よりも下てあるはずなのに、だが、境内の様子、堂宇の取り敷きなぞは、不審なことにも本寺よりずっと裕福そうでした。――いぶかりながら、見とがめられぬように本堂の横から裏へ回って、方丈の間とおぼしきあたりの内庭先へこっそり忍び入ってうかがうと、果然目を射たのは、そこのくつ脱ぎ石の上に脱ぎ捨てられてある一足のなまめかしい女げたでした。しかも、穏やかならぬ気勢が聞こえるのです。甘えるような女の声に交じって、ほそぼそとさとすような若上人の声が障子の中から漏れ伝わりました。それっきりしいんと怪しく静かに、静まり返ったかと思うと、やがてまもなく加持祈祷でもはじめたものか、まことしやかなもみ数珠の音につづいて、もったいらしげな称名唱和の声が伝わりました。 「ちきしょう、あの手この手を出しやがらあ。くやしいね。とんだ引導を授けていやがるんですよ。はええがいいんだ、飛び込みましょうよ!」 「黙ってろ」 目顔でしかりつつ、息を殺して木立ちの陰にたたずみながらうかがっていると、ぴたり祈祷の声が終わると同時に、ふたたびまたしいんと怪しく静かに静まり返って、ややしばし気にかかる沈黙がつづいたかと思われるや、とつぜん、シュウシュウと帯でも締め直したらしい気勢が聞こえるといっしょに、すうと障子があいて、あたりをはばかるようおしろい焼けの素顔もかえって艶な二十六、七の、すばらしいあだめかしい年増女です。つづいてあとから現われたのは、それこそ問題の興照寺住職にちがいない。目のさめるようなみずみずしい美男僧でした。――見ながめて、すいと身を現わしながら、歩み近づこうとしたとき、だが、意外なことばをふたりがかわし合いました。 「では、おだいじに。母上にもよろしゅう」 「申しましょう。おまえもたいせつにな」 耳にするや同時です。にたりと苦笑を漏らして名人が、そのままものをもいわず、さっさと足を早めながら山門の表に引っ返していったので、たちまち早雷を鳴らしだしたのは伝六でした。 「な、な、何がどうしたというんですかよ。せっかくねらいをつけただいじなかもを、あの場になってのがすたアどうしたというんです! え! ちょっと? ご返答しだいによっちゃ覚悟があるんだからね。何がいったいどうしたというんですかよ!」 「ウフフフ。とんだ大われえさ」 こらえきれないもののごとくうそうそ笑うと、吐き出すようにいいました。 「いったっておまえは承知しめえ。じかに当たってみるほうが早わかりするだろうから、女を洗ってきてみなよ」 「くやしいね! そんなにそでにするなら、ようがすよ。あとであやまりなさんな!」 ぶりぶりしながら、裏手のあの小舟目ざして姿を消したかと思われたが、ほどなく帰ってくると、いばっていったその伝六が、いかにもきまり悪げに頭をかいているのです。――見迎えながら名人が大きく笑って、ずばりと浴びせました。 「どうだい、あにい。りこうになったろう。きょうだいでござりますといわなかったかい」 「ね……!」 「ねだけじゃわからないよ。いったか、いわなかったか、どっちなんだよ」 「いったんですよ。姉と弟じゃねえ、弟と姉でござりますとね」 「同じじゃねえか。女は水稼業の者だといわなかったかい」 「いったんですよ」 「それから」 「じわりじわりといじくって気に入らねえね。母上があるというんだ、ふたりを産んだおふくろがね」 「決まってらあ。さっきも、ふたりがそれをはっきりいったじゃねえか。よろしく申しましょう、おまえもたいせつにな、とな。だから、きょうだいだなとすぐににらみをつけたんだ。水稼業は何をしているといったんだよ。おそらく、大っぴらに会われねえ商売だと思うが、違うかい」 「そ、そ、そうなんですよ。深川のついこの川上で、湯女をしているんだというんだ。だから、血を分けたきょうだいだが、弟の出世の妨げになっちゃと、世間のてまえもあるんでね、なるべく人に隠れて行き来しているうちに――」 「船で加持祈祷を受けにやって来るにも、まくらがなくちゃ来られねえほど、その姉君が重い病気になったといったろう」 「そうなんです、そうなんです。真言秘密の祈祷を受けに、弟上人のからだの暇を見てはこっそり通ったのが、とんでもないうわさの種になったんでござりましょうというんですよ。したがって、だんなの眼も狂い、あっしが少し男を下げたというわけなんだ。早い話がね」 「おいらの眼が狂ったんじゃねえや。詮議の道が一本、行き止まりになっただけよ。ウフフ。知恵の引き出しをあけ替えなくちゃなるめえッ。二の手をたぐるんだ。さらし地蔵の背中に彫ってあった六人の女を洗ってきなよ。おまえは字が読めるといばったはずだ。覚えているだろう。大急ぎで回ってきな!」 「えっへへ。おいでだね。いずれこんなことにもなろうと思って、ふところ日記にちゃんと所書きも名まえも書き止めておいたんだ。回るはいいが、回って洗って何をするんですかい」 「知れたこっちゃねえか。六人の女の身性がわかりゃ、遺恨の筋にも見当がつくんだ。通し駕籠を気張ってやらあ。あわてねえで、急いで、ゆっくりいってきなよ」 「お手のものだ。だんなは?」 「寝ているよ」 騒ぐ色も見せないのです。第一の道が行き詰まりになったら第二の道へ、――第二の抜け道がまたぷつりと絶えたら第三の裏道へ、それまではまず英気を養ってというように八丁堀へ帰って寝て待っていたが、どうしたことかその伝六の帰りが長引きました。たそがれが来て、宵が来て、夜になって、なやましく四月の夜がふけかかってきたとき、ようやくがたがたと足音までがやかましく帰ってくると、じつに意外でした。思いもよらなかったことを、やにわにまくらもとから浴びせかけたのです。 「バカにしてらあ。六人はね、そろいもそろって大年増ですよ」 「へえ。年増とね。眼がちっと狂ったかな。年増もいろいろあるが、おおよそいくつぐらいだよ。三十五、六か」 「ところが大違い。五十九歳を若頭にね、六十一、六十三、六十八、七十、七十三と、しわから顔がのぞいているようなべっぴんばかりですよ」 「ウフフ。あっはは。参ったね。歯の抜けた年増たア、みごとに一本参ったよ。洗ってきたのはそれっきりかい」 「どうつかまつりまして、いかにもくやしかったからね。事のついでにと思って、一真寺のお残り地蔵のほうも、六人ともにかたっぱし施主の身がらを洗ってみたんだがね。やっぱり……」 「しわ入りのべっぴんかい」 「そのとおり。しかも、金はあるんだ。いろけはねえがね、十二人とも福々の隠居ばかりなんですよ」 「…………」 「どうしたんです! 急にふいっと黙っておしまいなすったが、何かお気に入らんですかい」 「ウッフフ。二本めの道も、またもののみごとに止まったかなと思っているんだよ」 「へ……?」 「裏街道も行き止まりになったというのさ。おいらは寝るよ。あっはは。春のひとり寝はいいこころもちだ。くやしかったら、夜食でも食べにいってきなよ」 あっさりいうと、策あってのことか、思い余ってのことか、ふっくらと夜具にうまって夢の国を追いました。
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