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朝です。
八百八町ひとわたり一円が、薄日の影も淡く銀がすみにけむって、のどかさいうばかりない花曇りでした。
しかし、いっこうにのどかでないのは、宵越しに鼻をつままれたままでいる伝六です。
「じれってえね、いつまで寝ているんですかよ。明けたんだ、明けたんだ。もうとっくに今日さまはのぼったんですよ」
がんがんとやりながらはいってくると、鼻をつままれた寝ざめの悪さが腹にたまっているとみえて、頭ごなしにがなりたてました。
「しゃくにさわるね。ゆうべなんていったんですかよ。朝ははええんだから道草食うなといったじゃござんせんか。つがもねえひとり者がまくらと添い寝をやって、何がそういつまでも恋しいんですかい。お重も、かまぼこも、
朝雷もけたたましく鳴りだしたのを、
「音がいいな」
軽く受け流してぬっと夜着の中から顔を出すと、おちつきはらいながら不意にいいました。
「その鳴りぐあいじゃ切れ味もよさそうだから、威勢ついでにちょっくら
「な、な、なんですかい! ええ! ちょいと! 人を茶にするにもほどがあらあ、だから、ひとり者をいつまでもひとりで寝かしておきたかねえんだ。無精ったらしいっちゃありゃしねえ。寝ていて
「何がなんでもねえよ。じゃいじゃいあたりゃいいんだ、早くしなよ」
「いやですよ」
「じゃ、おいていくぜ。おいら、花見に行くんだからね。それでもいやかい」
「てへへへ……そうですかい! そうですかい! ちくしょうッ。いいだんなだね。なんてまあいいだんなだろうな。あたりますよ! あたりますよ! それならそうと、変に気を持たせねえで、はじめからおっしゃりゃいいんだ。あたりますとも! あたりますとも! あたるなといったってあたりますよ! べらぼうめッ。忙しくなりゃがったね。――どこだ。どこだ、金だらいはどけへいったんだよ! てへへ。うれしがって金だらいまでががんがん鳴ってらあ。――ね! ほら! あたりますよ。じゃい、じゃいとね」
「やかましいな。節をつけてそらなくともいいよ」
「よかアねえんだ。威勢ついでにあたれとおっしゃったからね、景気をつけているんですよ。ね、ほら、じゃいといって、じゃいといって、じゃい、じゃいとね。できました、できました。へえ、お待ちどうさま」
「ばかにはええな。まだらにあたったんじゃあるめえね」
「少しくれえあったって、がまんおしなせえよ。こうなりゃはええほうがいいんだからね。お召し物は?」
「糸織りだ」
「出ました、出ました。それから?」
「
「ござんす、ござんす、それから?」
「おまんまだ」
「ござんす、ござんす。それから?」
「…………」
「え! ちょっと! かなわねえな。もう出かけたんですかい」
すうと立ち上がると、
行くほどに、急ぐほどに、町は春、春。ちまたは春です。鐘は上野か浅草か、八百八町は花に曇って、浮きたつ、浮きたつ。うきうきと足が浮きたつ……。
「てへへ。参るほどに、もはや上野でおじゃる、というやつだ。歌人にはなりてえもんだね。ひとり寝るのはいやなれど、花が咲くゆえがまんできけり、というやつアこれなんだ。たまらねえ景色じゃござんせんかい。え! だんな?」
「…………」
「ちぇッ。またそれをお始めだ。世間つきあいてえものがあるんですよ、おつきあいてえものがね。みんなが浮かれているときゃ、義理にも陽気な顔をすりゃいいんだ。しんねりむっつりとまた苦虫づらをやりだして、なんのことですかよ。――よせやい。酔っぱらい。ぶつかるなよ。でも、いいこころもちだね。えへへへ。花は散る散る、伝六ア踊る。踊る太鼓の音がさえる、とね。――よッ。はてな」
ぴたりと鳴り音を止めて、ややしばしわが目を疑うように見守っていたけはいでしたが、とつぜんけたたましい声をあげました。
「いますぜ! いますぜ! ね、ね、ちょっと! お蘭しごきが二十本ばかり。大浮かれに浮かれていやがりますぜ」
おどろいたのも無理はない。ひとり、ふたり、三人、五人、いや、全部ではまさしく二十四人、その二十四人のお腰元たちが、丘を隔てて真向こうの桜並み木のその下に、加賀家ご定紋の梅ばち染めたる
「おつだね。そろいのあの腰の江戸紫がおつですよ。ね、ちょいと。え! だんな!」
「ひとり足りねえようだな」
「なんです、なんです。何がひとり足りねえんですかい」
「しごきも二十五本、手ぬぐいも二十五本、両方同じ数をそろえて加賀家へ納めたと紅徳のおやじがいったじゃねえかよ。だのに、二十四人しきゃいねえから、ひとり足りねえといってるんだ。ちっとそれが気になるが、まあいいや。ひと目に手踊りの見物できるような場所を選んで、早く店を開きなよ」
「話せるね。むっつりだんなになっているときゃしゃくにさわるだんなだが、こういうことになるとにっこりだんなになるんだから、うれしいんですよ。おらがまた気のきくたちでね。おおかた筋書きゃこうくるだろうと、出がけに敷き物をちゃんと用意してきたんだ。へえ、お待ちどうさま。そちらがうずら、こちらが平土間、見物席ゃよりどりお好みしだいですよ」
どっかりすわると、不思議です。さっそくことばどおり手踊り見物でもやるかと思いのほかに、名人はそのままくるりと背を向けて寝そべると、伝六なぞにはさらにおかまいもなく、もぞりもぞりとあごの下をなではじめました。
「くやしいね。なんてまた色消しなまねするんでしょうね。ちっとほめると、じきにその手を出すんだからね。え! ちょいと! 起きなせえよ!」
「…………」
「ね! だんな!――むかむかするね。酒の味が変わるじゃござんせんかよ、ゆうべ夜中までかかって、せっかくあっしがこせえたごちそうなんだ。せめてひと口ぐれえ、義理にもつまんでおくんなせえよ」
だが、もう声はない。鳴れど起こせど、散るは桜、花のふぶきにちらりもぞりとあごをまさぐって、見向きもしないのです。
「ようござんす! 覚えてらっしゃいよ!、べらぼうッ。意地になってもひとりで飲んでみせらあ。――えへへ。これはいらっしゃい。あなたおひとりで。へえ、さようで。では、お酌をいたします。これは恐縮、すみませんね。おっと、散ります、散ります。ウウイ。いいこころもちだ。さあ来い、野郎、歌ってやるぞ。
ヨヤサノ、ヨヤサノ、コラサッサ。
「伝六さアまはここざんす」
ならば行きましょ、西国へ。
じゃか、じゃか、じゃと踊って舞って、お蘭しごきの二十四人が向こうとこちらに声を合わせつつ、伝六ここをせんどと大浮かれです。
「品川沖から入道が、八本足の入道が、上がった、上がった、ねえ、だんな」
ほんに、寝顔がよいそうな。
意気な殿御にしっぽりと。
「ぬれたあとから花が散る。コラサノサアのさあこいだ。ねえ、だんな、いっぺえどうですかい」
せつな!
ザアという雨でした。花のころにはつきもののにわか雨です。
とたん! 右往左往と右に走り左に逃げて、雨を避けながら走りまどう浮かれ女、浮かれ男の群衆の中から、とつぜん絹を裂くようないくつかの女の悲鳴があがりました。
「お出会いくださいまし!」
「お出会いくださいまし!」
「どろぼうでござります! お山同心さま!」
「くせ者でござります。くせ者が出ましてござります」
「しごきどろほうでござります」
「え! ちくしょうッ。だんな、だんな。出やがった、出やがった。ね、ほら、ほら! あれが出やがったんですよ」
おどろいたのは、品川沖から上がったつもりで、たこも入道のひょっとこ踊りに浮かれ騒いでいた伝六です。うちうろたえて、ひょろひょろと立ち上がったその目の先を、なるほど走る。走る。三人! 五人! いや、六人! 八人!
いずれもそれがならずもの、遊び人、すり、きんちゃくきりといったような風体のものばかりで、奪っては追いかけ、追いかけては奪い取って逃げ走るそのあとを、ぶっさき羽織、くくりばかま姿の上野お山詰め同心たちが追いかけながら、逃げまどうそれらの人の間をまた、雨と突然の変事におどろき逃げ走る群衆が右往左往と駆け違って、ひとときまえの極楽山はたちまち騒然と落花
だが、名人はいかにもおちついているのです。叫びを聞くやもろとも、さっと起き上がったので、すぐにも押えに駆けだすだろうと思われたのに、そのままじっとたたずみながら、おいらはこれを待っていたんだというように、
「狂ったな。おどし
すいすいと足を早めた名人の姿を知って、ぎょっとなりながら逃げ隠れようとしたが、しかしすでにおそい。ぱらぱらと駆け集まっていく手をふさいだのは、お山同心の一隊です。
「神妙にしろッ」
押えとったところへ、
「ご苦労にござる」
ずういと歩みよると、おちついた声でした。
「それなる町人、ちょうだいいたしとうござるが、いかがでござろう」
「なにッ。尊公は何者じゃッ」
けしきばんだのも当然でした。お山同心といえば権限も格別、職責もまた格別、上野東照宮
「ご不審はごもっとも至極、てまえはこれなる巻き羽織でも知らるるとおり、八丁堀の右門と申す者でござる」
「おお、そなたでござったか! ご評判は存じながら、お見それいたして失礼つかまつった。では、この町人たちもなんぞ……?」
「さようでござる。ちと詮議の筋あるやつら、てまえにお引き渡し願えませぬか」
「ご貴殿ならば否やござらぬ。お気ままに」
「かたじけない――」
ずかずかと年若いその町人のそばへ歩みよると、いつものあの右門流です。ぎろりと鋭く上から下へその風体をひとにらみしたかと見えるや、間もおかずに、ずばりとすばらしいずぼしの一語が飛んでいきました。
「きさま、紅屋の手代だな!」
「えッ――」
「びっくりしたっておそいや! 指だよ、指だよ。両手のその指の先に、
「…………」
「はきはき返事をしろい! 気はなげえが、
「恐れ入りました。いかにもおめがねどおり、紅屋の手代幸助と申す者でござります」
「と申す者でござりますだけじゃ恐れ入り方が足りねえや。うちで染めて売ったしごきを、こんなにたくさんの人まで使ってとり返すからにゃ、ただのいたずらじゃあるめえ。二度売りやってもうけるつもりだったか」
「ど、どうつかまつりまして、そんなはしたない了見からではござりませぬ。じつは、ちとその――」
「なんだというんだよ」
「ひとに聞かれますると人命にかかわりますることでござりますゆえ、できますことならお人払いを――」
「ぜいたくいうねえ!
「弱りましたな。じつは、ちと恥ずかしいことでござりますゆえ、いいや、申しましょう。そういうおことばならば申しまするが、じつはその少々人目をはばかる不義の恋をいたしまして――」
「なんでえ! また色
「加賀家奥仕えのお蘭どのでござります」
「へえ。つやっぽい名まえが出りゃがったな。お蘭しごきのご本尊さまが相手かい。それにしても、この騒ぎはどうしたというんだよ」
「どうもこうもござりませぬ。お蘭とてまえは一つ町に育った幼なじみ。向こうは加賀家のお腰元に、てまえは染め物いじりの紅屋さんへ――」
「分かれて色修業に奉公しているうち、とんだほんものの色恋が染め上がったというのかい」
「というわけではござりませぬが、やはり幼なじみと申す者はうれしいものでござります。いつとはなしに思い思われる仲になりましたなれど、てまえはとにかく、お蘭はおうせもままならぬ奥勤め。
「よし、わかった。そんなにたくさんいるはずはねえのに、決まって三本ずつ新しいのを買うというのが不審だとにらんでいたが、ほしいのはしごきじゃなくて、おまえの
「さようでござります。この月の十一日にも新規の品が三十六本仕上がりましたゆえ、そのうちの一本にいつものとおりこっそりとてまえの文を忍ばせておきまして、あすにも加賀様から
「いかにもな。聞いてみりゃたわいがねえが、忍んだ恋ゆえの知恵がくふうさせたお蘭しごきとは、なかなかしゃれていらあ。事がそうと決まりゃ、おまえさんのいい人にも当たってみなくちゃなるめえ。向こうの桜の下に弁天さまが二十四体雨宿りしているようだが、おまえさんがご信心の腰元弁天はどの見当だ」
「それが、じつはおかしいんでござります。あのお腰元連といっしょに来なければならんはずなのに、どうしたことやら、肝心のそのお蘭どのが姿を見せませんゆえ、先ほどから不審に思うているのでござります」
「なに! お蘭がおらんというのかい。しゃれからとんだなぞが出りゃがったな。伝六ッ、伝六ッ。どこをまごまごしているんだ。ちょっくらあそこのお腰元衆のところへいって、お蘭がどうしておらんのか、ついでに二十四本のしごきの中も洗ってきなよ」
「へへんですよ。まごまごしていたんじゃねえ、それをいま洗ってきたんだ。二十五本納めたしごきが花見に浮かれ出たのに一本不足の二十四本とは、これいかにと思ったからね、ちょいと気をきかして当たってみたら、不思議じゃござんせんかい。二十四本のしごきはみなからっぽのぬけがらで、お蘭弁天がまたどうしたことか、きのう急に浅草の並木町とやらの家へ宿下がりを願い出して、それっきりきょうも姿を見せんというんですよ」
「なにッ、そうか! さては、やられたなッ。芽が吹きやがった。ゆうべ八丁堀へこかし込んだあのちゃちなおどし文のなぞが、それでようやく新芽を出しやがったわい。幸助ッ、むろんおまえがおどし文なんぞ、あんないたずらしたんじゃあるめえな」
「め、め、めっそうもござりませぬ。文取り返したさに、この四、五日は無我夢中、どんなおどし文かは存じませぬが、てまえの書いたものは文違いでござります」
「しゃれたことをぬかしゃがらあ。伝六ッ、お蘭の家は並木町のどこだといった」
「かどにかざり屋があって、それから三軒めのしもた屋だという話です」
「
「へえ」
「人の色恋のおてつだいはあんまりぞっとしねえが、お蘭しごきのくふうがあだめかしくて気に入った。おいらが慈悲をかけてひと知恵貸してやるからな。そのかわり、今すぐ南町ご番所へ自訴にいって、しかじかかくかくでござりますと正直に申し立てろ。さすれば、しごきをとられたお嬢さんたちの名まえも居どころもわかるはず。わかったら、けちけちしちゃいけねえぜ。おわびのしるしにお菓子折りの一つずつも手みやげにして、とったしごきは返してやりな。いいかい、忘れるなよ」
「ありがとうござります。このとおり、このとおり、お礼のしようもござりませぬ」
「拝むなはええや。無事におったら、お蘭弁天さまでもたんと拝みなよ。伝あにい! 用意はいいのかい」
「いうにゃ及ぶでごぜえます! ちきしょう、雨が小降りになりやがった。散れ散れ花散れ
「おごってやらあ。二丁にしなよ」
「ちぇッ、話せるね。こんなきっぷのいいおだんなを、なんだってまた江戸の女の子がいつまでもひとりでおくんだろうな。ほれ手がなけりゃ、おらがほれてやらあ。待っているからね、ゆっくり急いでおいでなせえよ」
花のふぶきをひらひら浴びて、小降りの雨にしっぽりぬれて、花びら散り敷く道を山下めがけていっさん走りでした。