2
しかも、早い。じつに早い。 さすがの伝六も毒気を抜かれて、追いつくことも鳴ることもできないほどにすばらしく早いのです。大またにすたすたと裏小路へ抜けて、金看板のむっつりぶりもあざやかに、一路目ざした方角がまたじつに意外でした。何を訴えた訴状であるか、直訴の的はどこにあるか、なぞを解くならまず第一番に訴人が住まいの入舟町へはせつけて、そこから先に手を染めるのが事の順序であろうと思われたのに、奇怪にも目ざした道はまがうかたなく数寄屋橋のあのお番所なのです。 「ああ、くやしい。くやしすぎて目がくらみやがった。どうせね、え、え、そうでしょうとも。どうせあっしなんぞはね――」 ようやく追いついた伝六が、よくよくくやしかったとみえて、陰にからまりながら鳴りだしたのは無理のないことでした。 「どうせそうでしょうよ。え、え、そうでしょうとも、どうせあっしなんぞは血のめぐりもわりいし、いつまでたっても人前で恥をかかされるようにできた人間なんだからね。さぞやだんなはあっしに赤っ恥をかかせていい心持ちでしょうが、それにしても場合というものがあるんだ。場合がね、え? だんな!」 「…………」 「くやしいね。どれだけいやがらせをしたらお気が済むんですかい。ちっとはあっしの身にもなってみるといいんだ。なんしろ、時が時だし、人出もあのとおりの人出なんだからね。とちっちゃならねえ、男をたてずばなるめえと思ったればこそ、だんなが御用というまで、がまんにがまんをして待っていたんですよ。ところへ、お顔が下馬札の陰からぬっとのぞいたんだ。うれしかったね。え、だんな。考えてもみりゃいいというのはここですよ。きのうやきょうの仲じゃねえんだからね。死なばもろとも、出世もいっしょと、口にこそ出して約束したんじゃねえが、あっしが女だったら、人さまにやかれるほどもうれしい仲なんだ。なればこそ、しめたとばかり――」 「うるさいね」 「いいえ、きょうはいうんだ。なにも、ああまで人前で恥をかかせなくともいいんだからね。きょうは腹の虫がいえるまでいいますよ。うるさかったら、だんなもとっくり考えてみりゃわかるんだ。いまかいまかと待っていたところへ、ぬうとお顔がのぞいたんでね、さてこそおれの出幕だ、話せるね、いい気性だよ、あっしに花を持たせるおつもりなんだと思ったればこそ、喜んで勇んで飛んでもいったのに、ありゃなんです。あのまねゃなんです! ぬうと出して、ぬうとそっぽを向いて、ありゃいったいなんのまねですかよ!」 「…………」 「え! だんな! ね、ちょっと!――くやしいね。なんてまたきょうはやけにそう足がはええんだろうな。そんなにお急ぎだったらおごりゃいいんだ。気まえよく駕籠をおごりゃいいんですよ。ね! ちょっと! だんなってたらだんな!」 「…………」 「しゃくにさわるね、あっしがうるさくいうんで、意地わるに急ぐんだったら、あっしも意地わるくいいますぜ。なにもだんなに、伊豆守様をお気どりなせえというんじゃねえがね。せめてあのとき、ひとことぐれえおっしゃったっても、ばちア当たらねえんだ。おお、伝六か、捜したぞ、おめえが来ねえことにゃ役者がそろわねえんだ、かわいいやつだね、ついてきな、とでもおっしゃってごらんなせえよ。わッときたにちげえねんだ。日本一、親方ア、よう伝あにいとね。エヘヘ、エッヘヘ――」 「バカだな」 「え……?」 「がんがんやっていたかと思や、ひとりで急に笑いだしやがって、おめえくらいあいそのつきるやつは、ふたりとねえよ」 「そうでしょう。ええ、そうでしょうとも。どうせあっしはあいそのつきる人間なんだからね。笑ったり、おこったり、方図のねえ野郎ですよ。それにしたっても気に入らねえんだ。これがいったいどうしたっていうんです。え! ちょっと。この直訴状のどこがどうしたというんですかよ。親心に上下がねえならねえで、しかじかかくかく、せがれがこれこれこうでごぜえますゆえ、依怙のご沙汰はごかんべんくだせえましと、何が何してどう依怙の沙汰だか、どうせ死ぬからにはもっと詳しくけえて直訴すりゃいいんだ。それをなんぞや、においばかりかがしたきりで、ご賢察願いあげ奉り候とはくどいですよ。いかにも思わせぶりで、しゃくにさわるんだ。しかも、だんながまた、――ああ、いけねえ! どこまで人に気をもませるんでしょうね。まさかと思ったのに、そこをそっちへ曲がっていきゃお番所じゃねえですかよ。ここにちゃんとけえてあるんだ。ご賢察奉願上候。芝入舟町甚七店束巻き師源五兵衛と所名まえがはっきりけえてあるんですよ。ひと飛びにあっちへ行ったほうが早道なんだ。ね、ちょっと!――ちょっとったら、ね! ちょっと!」 鳴れど叫べど、ひとたびこうと眼をつけてやって来たからには、もうむっつり右門です。町々つじつじの警備に出払ってしまってひっそり閑と静まり返っているお番所の中へさっさとはいっていくと、てこでも動くまいといいたげに、どっかりすわったところは訴状箱の前でした。しかも、すわると同時に、これがいかにもおちついているのです。一状、一封、一枚、一枚、と箱いっぱいに投げ込まれてある訴え状をかたっぱしから丹念に見調べだしたので、鳴り屋の千鳴り太鼓が、ここをせんどとがらがらやりだしたのは当然でした。 「じれってえな。そんなものを調べりゃ何がおもしれえんですかよ。色文にしたっても、日がたちゃ油がぬけるんだ。その中にあるやつア、みんなかびのはえた訴え状ばかりですよ。てっとりばやく入舟町へいって洗いたてりゃ、たちまちぱんぱんとらちがあくじゃねえんですか!」 「…………」 「え! だんな! くやしいね。そもそも、あのおやじが気に入らねえんだ。雪の降るさなかに、なにもわざわざあそこまで飛び出してみえをきるがものはねんですよ。直訴をしてえことがありゃ、息の根の止まらぬうちに、ここへ来りゃいいんだ。それがためのお番所なんだからね。よしやだんなが虫の居どころがわるくてお取り上げにならなくとも、あっしという者があるんだ。あっしという気性のいい男がね。この伝六様がいるからにゃ、どんなうるせえねげえごとでも聞いてやりますよ。ね! ちょっと! え! だんな!」 「申しあげます! あの、もし、お願いでござります。お願いの者でござります!」 「うるせえな。いううちに来りゃがった。忙しいんだよ。伝六様は、いま手がふさがっているんだ。用があるならあしたおいでよ」 「いいえ、あしたになってはまにあいませぬ。てまえは京橋薬研堀のろうそくや大五郎と申す者でござります。うちの女房が、けさほどお将軍さまのお成り先へ裸で飛び出したとか、駆けだしたとか申しまして、こちらへお引っ立てになったそうでござりまするが、あれは三年まえから気の触れている者でござります。座敷牢に入れておいたのを知らぬまに飛び出したのでござりますゆえ、お願いでござります。お下げ渡しくださりませ。お願いでござります」 「べらぼうめ。人の気違いの女房なんぞ、だれが酔狂にさらってくるけえ。おら知らねえや。係りが違うんだ。お係りが違うんだから、あっちへ行きなよ」 「ウフフ」 「え! なんです、だんな! いちいちとしゃくにさわるね。ウフフとは何がなんですかよ。お係りが違うから違うといったんですよ。骨おしみをしてはねつけたんじゃねえんだ。笑う暇があったら、だんなこそとっととらちをあけりゃいいんですよ。ほんとにまったく、がんがんしてくるじゃござんせんかい」 「控えろッ」 「え……?」 「おきのどくだが、そのらちがな」 「あいたんですかい!」 「あいたからこそ、うれしくもなったじゃねえかよ。まあ、そこへすわって、あごでもはずして、ふところへしまってから、とっくりとこれを見なよ」 ようやくのことに、訴状箱の中から目ざしたネタを捜し当てたとみえて、さわやかにうち笑みながら、かんかん虫の伝六の目の前に差しつけたのは、じつに次のごとき三通の訴え状です。
取り急ぎ書面をもって奉願上候。拙者せがれ弥七郎儀、七年このかた芝露月町土偶師泥斎方に奉公まかりあり候ところ、なんの子細あってか、昨二十日夕刻よりとつぜん行くえ知れずにあいなり候との由。寝耳に水のしらせうけ候あいだ、ぎょうてんつかまつりさっそくに八方心当たりを捜し求め候えども、いずれへ参りしものかさらに行くえしれず、親の身として心痛ひとかたならず候につき、書面をもってお訴え申し上げ候。なにとぞ特別なるご慈悲をもって、火急にご詮議お取り調べのうえ、一日も早くお捜し出しくだされたく。右伏して奉願上候。 正月二十一日
願い主 芝入舟町甚七店
束巻き師 源五兵衛
家出人お係りさま御中
というのが一通。
昨日、取り急ぎ書面をもってお訴え申し上げ候えども、いまだなんのご沙汰もこれなく、いかがにあいなり候や、てまえせがれはただのせがれには候わず、天にも地にも掛け替えなき一粒種にて、日ごろ心だても優しく、他より恨みを受けたることなぞもとよりこれなきばかりか、賭けごと、女出入りは申すに及ばず、ただの一度も悪所通いいたせしことこれなきほどのりちぎ者に候えば、それゆえにて世間をせばめ、入水投身なぞ、つまらぬ了見起こせしとも思われず、なにゆえの家出かただただ心労にたえず候。ことに不審は、昨夜またまた奉公先なる露月町泥斎方へ参り候ていろいろ問い正せしところ、先方の申すには拙者方へ参るというて立ちいで候よし、なれども当方へは参った形跡まったくこれなく、今は生死のほども計りかね候あいだ、さだめしお役向きのことどもご繁忙には候わんも、別してご憐憫をおかけくだされ、火急にご詮議くだされたく、改めて奉願上候。 正月二十二日
願い主 芝入舟町甚七店
束巻き師 源五兵衛
家出人お係りさま御中
というのが一通。
咋日、一昨日と再度お訴状差し出し候えども、いっこうにお取り上げこれなきは心外にたえず候。お役向きご繁忙にてお目漏れなら格別、もし何かいわく子細これあり候ために依怙のおさばきなされ候てかくお取り上げこれなくとならば、われらにも覚悟これあるべく候。なんのこれしき、下民のせがれの家出くらいとおぼしめすかも候わんが、弥七郎を失わば拙者の命奪わるるも同然、子を思う親の心は、お係りさまはじめ、みなみな一様と存じ候えば、至急にお取り上げお捜し出しくだされたく、右懇願つかまつり候。 正月二十三日
願い主 芝入舟町甚七店
束巻き師 源五兵衛
家出人お係りさま御中
というのがその第三通めでした。 「はあてね」 うるさいやつが、読み終わると同時に、さっそくあの首をひねったことです。 「ちっとこりゃおかしいじゃござんせんか」 「何がよ」 「きょうは忘れてならねえ二十四日だ。最初の一通は二十一日、次は二十二日、しめえは二十三日の日づけになっているところをみるてえと、三日まえから毎日毎日お番所へお百度を踏んだってわけですかい」 「決まってらあ。だからこそ、いつまでたってもお取り上げにならねえので、われらにも覚悟これあるべく候とある、その覚悟の直訴をしたんじゃねえかよ。そんなことぐれえがわからねえんでどうするんだ」 「いいえね、それをいってるんじゃねえんですよ。見りゃ弥七郎とかいう至極とできのいいせがれが、奉公先の露月町で姿をくらましやがったとけえてあるじゃござんせんか。そんなれっきとした大騒動が持ち上がっているなら、なにもこんなふうに直訴状へ陰にこもった思わせぶりを書かなくたっていいでしょう。はっきり書きゃいいんだ、はっきりとね。しかもですよ、この直訴状の表には、お取り上げこれなきをさらさらお恨みには存ぜず候えどもとぬかしているくせに、この三通めの文句はなんですかよ、いわく子細これあり候ために依怙のおさばきがどうのこうのと、さもさもお番所勤めをしておる者は、そでの下しだいで十手吟味をしてでもいるようなことをぬかしているじゃござんせんか。べらぼうめ、おれがおるんだ。生きのいい江戸っ子のこの伝様がいるんですよ。え? ちょいと。それでもひねっちゃわりいんですかい。え! だんな!――気に入らねえね、何がおかしくてニヤニヤするんですかよ」 「あいかわらず、この伝様とやらがご利発でいらっしゃるからだよ。考えてもみろい、直訴じゃねえか。直訴は天下の法度だ。お取り上げくださるかくださらねえかは、先さましだい、風しだい、腹しだいだよ。さればこそ、お取り上げなさらぬときに訴状をろくでもねえやつに拾われて、上お役人、われわれお番所勤めの者たち一統をあしざまにけえたことが世間に知れちゃ、あとの響きも大きかろうと、それを遠慮して特にこんななぞをかけた文句だけでぼかしたんだ。その心づかいがいっそゆかしいじゃねえかよ。死にぎわもまた源五兵衛、りっぱなものだよ。おめえなんぞは知るめえが、束巻き師源五兵衛といや、源五巻きという名で通るくれえの、刀の束の綾巻きじゃ江戸にひびいた男だ。さすがは刀いじりの職人よ。町人ながら腹かっさばいたうえで直訴するたア、性根が見上げたもんじゃねえかよ。おいら、心がけのゆかしさに、ちっとばかり今ほろりとなっているんだが、いけねえかい」 「あやまった。あやまりました。なるほどね、ちくしょうめ、さあ来い! もうこうなりゃ忙しいんだぞ。事がそうと決まりゃ、露月町の泥斎とやらが本能寺だ。ぱんぱんと早手回しにやってめえりますからね、ちょっくらお待ちなせえよ」 飛び出していったかと思うと、いかさま早い。 「へえ、お待ちどうさま。お駕籠ですよ」 そろえて待って、さあいらっしゃいとばかりちょっと気どりながら、伝六なかなかにやるのです。――雪の道を二丁前後させながら、急ぎに急いでやっていったところは、いわずと知れた芝露月町土偶師泥斎の住まいでした。
3
通りからちょっとはいっていくと、いかさまひとひねり凝った構えの住まいの前に、それとひと目にわかる看板が見えました。 「宗七焼き人形師、泥斎」 達筆に書きつづったそういう看板がさがっているのです。見ながめるや同時に、ずばりと小気味のいい右門流がもう始まりました。 「なんでえ。つがもねえ、こりゃ博多人形のこぶ泥じゃねえかよ」 「フェ……? こぶ泥たアなんですかい」 「知らねえのかい、あきれた物知らずだな。訴え状に土偶師泥斎と書いてあるんで、どこの何者かいなと頭をひねったんだが、こりゃ博多焼きのこぶ泥だといっているんだよ」 「はてね」 「まだわからねえのかい。お手数のかかるおあにいさんだな。博多人形はその昔宗七というのが焼きだしたんで、ほんとうの名は宗七焼きというんだよ。その博多焼きの泥斎ならば、二十年間博多で修業したといういま江戸で折り紙つきの名工だ。左の耳下に福々しいこぶがあるところから、人呼んでこれをこぶ泥というのよ。おまえよりちっと物知りで、気に入らねえかい」 「どうつかまつりまして。ちくしょうめ、やけにうれしくなりゃがったね。そういうふうにずばりずばりとだんなの眼がついてくりゃ、もうしめたものなんだ。なんともかんともたまらねえね。え! だんな。――やい、こぶ泥、通っていくぞ」 じつにどうも、伝六がうれしくなったとなると、いいようのない男です。先にたってどんどんはいっていくと、そこの仕上げべやにうずくまりつつ、しきりと焼き人形の仕上げを急いでいる老人と若いのとふたりに、ぱんぱんとあびせました。 「このとおりお出ましなんだ。景気のいい親方がいっしょになって、おっかねえだんながじきじきにお出ましなんだよ。ね! おい! わけえの! 年寄り! 気をつけてものをいいなよ。奉公に上がっていたといや弟子にちげえねえんだ。その弟子の弥七郎は、どけえいったのかい」 えッ――というように、不意を打たれて、ギョッとなりながら見上げたふたりを、じろり見すくめた名人の目のつけどころはまた、おのずから伝六なぞと格が違うのです。目の動き、顔いろのそよぎ、心の芯に何ぞ狼狽しているところはないかと、その鋭く烱々と光るまなざしでじいっと両名を見すくめました。 見ると老人は五十五、六。左耳下にこぶがあるからには、まさしくそれが泥斎にちがいない。しかし、しいんとおちついてなんのうろたえも見せないのです。そのうえ、どことはなく人品骨柄に渋みがあって鍛えられたところがあって、寂び冴えすらもがたたえられて、さすがは名取りの焼き人形師と思われる名工ぶりでした。 隣にうずくまっているのは二十五、六。弟子か?――いや、そうではない。どことはなし泥斎に面ざしの似通ったところがあるのを見ると、まさしくせがれにちがいないのです。しかも、これが何を恐れているのか、ひた向きにさしうつむいて、五体のうちにもあきらかな震えが見えるのでした。 「ウフフ。ちとにおいだしたぞ。泥斎、親子であろうな」 「…………」 「なぜ、はきはき答えぬか! せがれでなくば甥であろうが、どちらじゃ」 「甥ではござりませぬ」 「ひねったことを申すのう。甥でないゆえせがれじゃと申したつもりか。せがれならばせがれと、すなおに申せ!――せがれ! 名はなんというか!」 「名、名は……」 「名はなんというか!」 「粂、粂五郎と申します……」 「ひとり身か!」 「ま、まだ家内を迎えませぬ……」 「ウフフ。それだけ聞いておかば、これから先はちっと生きのいい啖呵入りでいこうかい。泥斎老人、お互い心配だな。弥七郎は二十日の夕刻から消えてなくなったってね」 「へえ、しようのないのらくら者で、三日にあげず悪所通いはする、ばくちには入れ揚げる、仕事はなまける、いくつ人形を焼かしても手筋はわるい、七年まえから内弟子に取ってはいたんですが、からきしもう先に望みのない野郎でございましたんで、どこへいったのやら、あの晩ふらふらと出ていったきりいまだに帰らねえところをみると、また女のところにでもはまっているんじゃねえかと思っているんでごぜえます」 「ちっと変だね」 「何がでございます?」 「でも、おやじの源五兵衛の訴え状にゃ、たいそうもなくできのいいりちぎ者だと、きわめ書きをつけてあるぞ」 「とおっしゃいますと、なんでございますか。源五兵衛どんがなんぞお番所へでも訴えてまいったんでございますか」 「訴えたどころじゃねえ、腹を切って伊豆守様に直訴をしたぜ」 「えッ――。まさか! まさかに、そんなことも――」 「これをみろい。直訴状だ、みごとな最期だったよ。肝が冷えたかい」 「なるほど! そうでござりましたか――。思いきったことをやりましたな。いいや、無理もござりますまい。のらくら者でしたが、老い先かけて楽しみにしておったひとり子でござりますもの。それが消えてなくなったとなると、親の身にしてみれば心配のあまり、命を捨てて直訴もする気になりましたろうよ。それにしても、親の心子知らず、どこへ姿をかくしたのやら、弥七郎めはばち当たりでござります。てまえども親子にうしろめたいことはなに一つござりませぬ。ご不審の晴れるまで、どこなとお捜しくだされませ。お案内いたしまするでござります」 「さすがは名工、肝に鍛えができているとみえて、なかなかに神妙のいたりだ。弥七郎が寝起きしていた居間はどこかい」 「ところが、変な男といえば変な男でござります。あちらにあれのためのへやが一つ取ってあるのに、人形の中へ寝るが好きじゃと申して、毎夜この仕事べやに寝起きしておりましてござります」 「ほほう。のらくら者で、仕事に魂の打ち込めぬなまけ者が、焼き人形の中に寝るが好きとは、なにさま変わっておるな。だいぶ色焼きのみごとな人形が並んでいるじゃないかよ。宗七焼きの粋というしろものを、しみじみ拝見するかね」 いいつつ、あちらこちらとたなからたなへ見ながめていたその目に、はしなくも映ったのは、ひときわできばえのすぐれた三体の人形です。珍しいことに、その三体が三体共に、ただひと色のじつにすっきりしたいやみのない群青色でした。 しかし、よくよく見比べると、三体の焼きぐあい、色付けの仕上がり、細工のできばえに、あきらかな優劣が見えるのです。右がいちばん上でき、まんなかがそれにつづき、左端のがもっともふできでした。 「こぶ[#「こぶ」は底本では「ごぶ」]泥、いや、泥斎」 「はッ」 「いい焼き色だな。この三体はだれの作かい」 「てまえとせがれと弥七郎とで、それぞれ一体ずつ、この正月の初焼きにこしらえたものでござります」 「いちばん左はだれの作かい」 「せがれでござります」 「まんなかは?」 「てまえの作でござります」 「ほほう、そうかい。とすると、右端が弥七郎の作だな」 「さようでござります」 「おかしなこともあればあるものだ。ちょっと拝見するかな」 仕事に精進していないといったはずの弥七郎の作が、師泥斎をもしのぐできばえに不審をうって、いぶかりながら手にとりあげて台じりを返して見ると、なるほど彫りがある。泥斎門人弥七郎作、という焼き彫りの銘が、無言のなぞを秘めながら刻まれてあるのです。――名人の声がそろそろとさえだしました。 「妙だな。泥斎! ちっとおかしかねえかい」 「何がでござります」 「せがれ粂五郎のふできはとにかくとして、のらくら者の弥七郎が、師匠のおまえさんより上物をこしらえるとは変じゃないかよ」 「なるほど、しろうと目にはさように見えるかも存じませぬが、どうしてなかなか、われわれくろうと目には老いても泥斎、自慢するのではござりませぬが、まだまだ弟子に劣るようなものはこしらえませぬ。弥七郎ごとき及びもつかぬはずでござります」 「ほほう。しろうと目だというのかい。そうかもしれぬ。名作名品、芸道のこととなると常人の目の届かぬところがあろうからな。しかし、それにしても――」 「なんでござります?」 「土も同じ、薬も同じ、おそらく窯も同じ一つ窯であろうが、にかかわらず、焼き色、仕上がりに、できふできのあるは不思議だな」 「どういたしまして、土こそ、薬こそ同じでござりまするが、窯ばかりは一つでござりませぬ」 「それはまたどうしたわけかい」 「そこが流儀のわかれどころ、苦心の入れどころ、火くせ、焼きくせ、窯くせというものがござりまして、えもいわれぬ働きをいたすものでござりますゆえ、てまえの窯、せがれの窯、弥七郎の窯と、窯ばかりは三人別々でござります」 「なるほど、そういうものかい。その窯はどこにある」 「あの庭先の小屋の中に見えるのがそれでござります」 縁側からさしのぞいてみると、いかさま雪に閉ざされた庭の向こうの小屋の中に、三つの窯が見えるのです。 「どれがどうだ」 「右端がてまえ、左がせがれ、まんなかが――」 「弥七郎の窯か」 「そうでござります」 「三窯ともに火口がふさいであるのう」 「この露月町はご承知のとおり増上寺へのお成り筋、煙止めせいとのお達しでござりましたゆえ、そそうがあってはならぬと、二十日の夕刻に焼き止めまして、火口ふさいだままになっているのでござります」 「なに、二十日! 二十日の夕刻に火止めしたとのう!」 つぶやきながら、じいっと三つの窯を見比べていたその目が、がぜん[#「がぜん」は底本では「がせん」]、きらりと鋭く光りました。色が違うのです。形も様式も三つながら同じであるのに、泥斎親子の窯といった左右の二つに比べると、まんなかの弥七郎の窯のすそがかすかながらも違った色をしているのです。――黒光り! というよりも油光りでした。しかも、なまなましい、ほんのりとした色ではあるが、まさしくなまなましい油光りなのです。 「伝六ッ。はきものをそろえろ」 ちゅうちょのあろうはずはない。間遠にちらりほらりと、いまだに降りつづけている淡雪を浴びながら、庭先伝いに歩みよると、うち騒ぐ色も見せずに、烱々とまなこを光らしながら、いま一度三つの窯を見比べました。 やはり、色がちがうのです。 目のせいでもない。気のせいでもない。かすかに、ほんのりとにじみ出た色ではあるが、まさしく油光りがしているのです。 いや、そればかりではない。より不審なことは、火口のそのふさぎ方に相違のあることでした。泥斎親子の窯の火口は、当然のごとく表からどろ目張りをもってふさいであるのに、弥七郎の窯の火口は内からふさいであるのです。 せつな!――いぶかしみながらあとにつき従ってきた泥斎のところへ、さえざえとした声が飛びました。 「こぶ泥! びっくりするじゃねえぜ! おいらがどこのだれだか知ってるだろうな」 「はッ、存じておりまする。右門のだんなさまと気がついたればこそ、何をお見破りかと不審に思いまして、おあとについてまいったのでござります」 「ならば、改まって名のるにも及ぶめえ。右門流の眼のさえというな、ざっとこんなもんだ。よくみろい!」 声もろともに小わきざし抜き払って切り裂いた疑問の火口が、ぽっかりと口をあけたとたん! 「あッ!」 期せずして、伝六と泥斎の口から驚愕の声が放たれました。紛れもない人の足首がぶきみにぬッと窯の口からのぞいていたからです。 「あれの足だ! 弥七郎の足だ! 泥斎のこの目に狂いはござりませぬ! まさしく、弥七郎めの足首でござります。ど、どう、どうしたのでござりましょう! あれが、あの男が蒸し焼きになっているとは、どうしたのでござりましょう」 「どうでもない。たった一つの出入り口の火口が内側から塗りこめられてあったとすりゃ、考えてみるまでもねえことよ、まさにまさしく自害だよ」 「えッ。自害! 自、自害でござりまするか! あの男が、弥七郎が、自害をしたというのでござりまするか!」 泥斎のおどろきがつづけられているとき、 「あッ。ちくしょうッいけねえ! いけねえ! 野郎待ちやがれッ。だんな、だんな」 うちうろたえながら、伝六が不意にけたたましい声をあげました。 「野郎が、野郎が、ね、ほら! せがれの青僧が、粂五郎が逃げ出しやがったんですよ!」 「なにッ」 「ね、ほら! ほら! あのとおりまっしぐらに逃げ出しやがったんです。逐電するからにゃ、野郎め何かうしろぐれえことがあるにちげえねえんだ。てつだっておくんなせえよ。野郎足がはええんだ。いっしょに追いかけておくんなせえよ」 うろたえ騒ぎつつ駆けだそうとしたのを、だが右門はおどろくかと思いのほかに、ごく静かでした。 「あわてるな、あわてるな。逃げたきゃ逃がしなよ。どこまで逃げたからとて、おいらの目玉がぴかりと光りゃ、勘どころをはずれたためしはねえんだから、じたばたせずとほっときなよ。それより、こっちを先にかたづけなくちゃならねえ。神妙にしていろよ」 制しておいて、ぶきみも恐れず近よりながら、じいっと窯の中をさしのぞきました。同時に、その目を射たのは、ふびんな最期を遂げた弥七郎のむくろを守護でもするかのごとく、そのそばに置かれてあった一個の立ち人形です。 しかも、そのすばらしさ! 地はだ、色合い、仕上がりともに、一点の非も見えぬすばらしい男の立ち人形でした。あまつさえ、その色のよさ!――魂までも引き入れられるようなただひと色の、さえざえとした群青色なのです。いや、ひと色ではない。ひと色はひと色であっても、その群青色のなかに幽玄きわまりない濃淡があって、その濃淡がおのずから着付けのひだ、しまめを織り出し、人形ながらもそこにあやかな人の息づき、いぶきが聞かれるような玲瓏たる上作でした。 自分といっしょに焼いたにちがいない! 形もまた弥七郎自身の面影を写しとったのではないかと思われる、意味ありげな陶工姿の立ち人形でした。否! 台じりを返してみると、紛れもなく銘があるのです。ワガ姿ヲ写ス、――泥斎門人弥七郎作、というきざみ字が見えました。 「なぞはこれだな! よしッ、伝あにい!」 ひしとかいいだくようにその青人形を胸に抱いて、さっと身を起こすと、静かに命じたことです。 「野郎をつかまえろッ。粂五郎のやつが、なぞのかぎを握っているにちげえねんだ。跡を追いかけろッ」 「跡を追いかけろといったって、とうに野郎はもうつっ走ったんですよ。ばかばかしい。だから、あっしがさっきあわてて呼んだんじゃねえですか。今ごろになって、そんな無理をおっしゃったっても知りませんよ」 「あいもかわらず血のめぐりが鷹揚だな。おいらのやることにむだはねえんだ。これをみろ。きょうは何が降ってると思ってるんだい。よく目をあけてこれを見ろよ」 おちつきはらいながら表へ立って、笑ましげにほほえみながら、静かに指さしたのは庭一面、道一面を埋めつくしている深い雪です。いや、銀白のその深い雪の上に、逃げ延びた先を物語るかのように点々と残されてあった粂五郎の足跡です。 「ちげえねえ。なるほど江戸じゅう雪が積もってるからには、どこまで逃げやがったってぞうさはねえや。おれの血のめぐりもちっとばかり鷹揚かもしれねえが、これに気がつかねえたア粂五郎もちゃちな野郎だね。さあ来い、奴! もう逃がさねえぞ」 まことに、いつもながら名人右門のすることなすことには、そつがない。雪に足跡の残ることを心づいていたればこそ、騒がずに悠揚と構えて、追いかけようともしなかったのです。――十手を斜に握りとったあいきょう者を先頭にして、なぞのかぎを追う主従ふたりは、その場から点々と残されている粂五郎の足跡を拾いはじめました。
|