1
その二十三番てがらです。
時は真夏。それもお盆のまえです。なにしろ暑い。旧暦だからちょうど土用さなかです。だから、なおさら暑い。
「べらぼうめ、心がけが違うんだ、心がけがな。おいらは日ごろ善根を施してあるんで、ちゃあんとこういうとき、暑くねえようにお天道さまが特別にかばってくださるんだ。というものの――」
いばってみたが、伝六とて暑いのに変わりはないのです。しかし、もうお盆はあと
「おこるなよ。なにもおめえが小さかったんで、からかうつもりでこんなちっちぇえ精霊だなをこしらえるんじゃねえんだが、しろうと大工の悲しさに、道具がいうことをきかねえんだ。気は心といってな、それもこれもみな兄貴のこのおれが、いまだにおめえのことを忘れかねるからのことなんだ。――だが、それにしても、この精霊だなはちっと小さすぎるかな」
骨組みだけできたのを見ると、なるほど少しちいさい。どうひいきめに見ても、たなの大きさは四寸四角ぐらいしかないのです。
「かまわねえや。どうせおめえとおれとは水入らずの仲なんだからな。さだめし窮屈だろうが、がまんしねえよ。お盆がすぎりゃまた極楽さけえって、はすのうてなでぜいたくができるんだからな。――ほうれみろ、こう見えてもなかなか器用じゃねえか。この
「もしえ……」
「…………」
「あの、もしえ。だんな」
「ゲエッ。ちくしょうッ。おどすじゃねえか! わ、わりゃ、だれだ! だれだ!」
精霊だなをこしらえながら、いいこころもちになってあの世の
「ま、まさかにおめえは、辰じゃあるめえな。た、辰ならまだ出てくるにゃちっとはええぞ。――ど、どこのどいつだ。な、なに用があって来たんだ」
「…………」
「返事をしろ。な、なにを気味わるく黙ってるんだ。むしのすかねえ野郎だな。返事をしろ。な、なんとかものをいってみろ」
「…………」
「耳ゃねえのか。気、気味のわりい野郎だな。なんだって人の顔をやけにまじまじと見つめていやがるんだ。今、もしえといったじゃねえか。声の穴が通ってるんだろ、返事をしろ。どこから来たんだ。な、なんの用があって来やがったんだ」
たたみかけていったのを、不思議な男は一言も答えずにじいっと伝六の顔を長いこと見守っていましたが、とつぜん奇妙なことをずばりといいました。
「だんなは、江戸っ子でござんしょうね」
「なんだと!」
「だんなは江戸っ子かどうかとおききしているんでござんす」
「べらぼうめ。気をつけろ。余人は知らず、江戸っ子の中の江戸っ子のこの伝六様をつかまえて、だんなは江戸っ子でござんしょうかねとはなにごとだ。いま八百八町にかくれのねえ右門のだんなの一の子分といや、ああ、あの江戸っ子かと、名まえをいわなくともわかっているくれえのものなんだ。おれが江戸っ子でなかったら、ど、どう、どうしよってんだい。ええ、おい。ちっちぇえの!」
「あいすみませぬ。ただいま、ぽんぽんと景気よくおっしゃった
「なら一つがどうしたってえいうんだい。江戸っ子なら、べっぴんでも世話するっていうのかい」
「冗、冗談じゃござんせぬ。そんな浮いた話で来たんじゃねえんです。右門のだんなの一の子分の伝六様は江戸っ子だってことをあっしも聞いちゃいたんですが、ほんとうにだんなが江戸っ子だったら、あっしの話を聞いただけでもきっとむかっ腹をおたてになるんだろうと思って、じつあこうしておねげえに参ったんでござんす」
「こいつあおもしれえ。おめえ、がらはこまっけえが、なかなか気のきいたことをぬかすやつだな。なんだか知らねえが、その言いぐさが気に入った。頼みとありゃ、いかにもむかっ腹をたててやろうじゃねえか。事としだいによっちゃ、今からたててもかまわねえぜ」
「いえ、けっこうでござんす。けっこうでござんす。話を申し上げねえうちにぽんぽんとやられちゃ、ちぢみ上がっちまいますから、どうかしまいまでお聞きくだせえまし。じつあ、余のことじゃねえんですが、だんなはいま奥山に若衆
「べらぼうめ、知らねえでどうするかい。それがどうしたというんだい」
「じゃ、詳しく申し上げる必要もござんすまいが、あいかわらずあの気味のわるい水騒動が、今も毎晩毎晩絶えねえんです。だから――」
「ちょっと待ちねえ、待ちねえ。嵐三左衛門とか八左衛門というやつあ、いってえ何をしょうべえにしている野郎なんでえ」
「へ……?」
「今おめえがいったその奥山の若衆歌舞伎とかに出ている上方役者とかいう野郎は、何をしょうべえにしているんだい」
「役者だから、役者を商売にしているんでござんす」
「決まってらあ。役者はわかっているが、何をしょうべえにしているかといってきいているんだよ」
「こいつあおどろきましたな。じゃ、だんなはあの気味のわるい騒動のうわさも何もご存じないんですね」
「あたりめえだよ。かりにもご番所勤めをしている者が、知らねえといったんじゃ、お上の威光のしめしがつかねえから、大きに知っているような顔をしたまでなんだ。けれども、君子女人を語らず、町方役人どじょうを食せずと申してな、どじょうにかぎらず、町方役人となれば、そのほうたち下々の者へのしめしのためにも、知っておいてわるいことと、知らないほうがかえって役目の誉れになることがあるんだ。だから、おれが奥山くんだりの
「恐れ入ました。いちいちごもっともさまでごぜえます。いえ、なに、ご存じないとなりゃ、なにもあっしだって口おしみするわけじゃねえんだから詳しく申しますがね、じつあ、こうなんですよ。ただいま申しました上方役者の嵐三左衛門っていうのがね、若衆歌舞伎の一座を引きつれて、はるばるとこの江戸へ下り、十日ほどまえから奥山に小屋掛けして、お盆を当て込んでのきわもの興行を始めたんでござんす。ところが、だんな、世の中にゃ、まったく気味のわるいことがあるもんじゃござんせんか。その嵐三左衛門が寝泊まりしている宿屋でね、毎晩水の幽霊が出るんですよ。水の幽霊がね」
「おどすねえ。お盆が近いからといって、人をからかっちゃいけねえよ。なんでえ、なんでえ、その水の幽霊ってえのは、いってえどんなしろものなんでえ。やっぱり、ヒュウドロドロと鳴り物がはいって、目も口も足もねえのっぺらぼうの水坊主でもが出てくるのかい」
「そうじゃねえんです。そんななまやさしい幽霊水じゃねえんですよ。朝起きてみるてえと、その三左衛門の泊まっているへやじゅうが、あっちにぽたり、こっちにぽたりと――、いいえ、ぽたりどころの騒ぎじゃねえんです。からかみから、びょうぶから、着て寝ている夜具ふとんまでがぐっしょりと水びたしになっているというんですよ。それがひと晩やふた晩じゃねえんで、毎晩知らぬまに、出どころたれどころのわからねえ幽霊水にぐっしょりとぬれているんでね。とうとう気味がわるくなって、四日めに宿屋を替えたんですよ。するてえと、だんな――」
「また出たか」
「出た段じゃねえんです。泊まり替えたその宿屋でもまた、朝になってみるてえと、
「よし、わかった。べらぼうめ。ほかならぬこの伝六様がお住まいあそばす江戸のまんなかに、そんなバカなことがあってたまるけえ。おおかた、
「いえ、もし、ちょっとちょっと、血相変えてどこへいらっしゃるんです。まだあるんですよ。まだこれから肝心な話がのこっているんです」
「なんでえ、べらぼうめ。じゃ、おめえはおれに、その幽霊水の正体を見届けてくれろと頼みに来たんじゃねえのかい」
「来たんです。来たんだからこそ、このあとを聞いておくんなさいましというんです。だからね、嵐の三左衛門もとうとう考えちまったというんですよ。こいつあただごとじゃねえ、どいつかきっと意趣遺恨があって、そんなまねするんだろうとね、いろいろ考えて、あれかこれかと疑わしい者に見当つけていったところ、同じその奥山で小屋を並べながら、やっぱり若衆歌舞伎のふたをあけている、江戸屋江戸五郎っていう役者があるんですよ。名まえのとおり三代まえからのちゃきちゃきの江戸っ子なんですが、疑ってみるてえと、どうもこれが怪しいとこういうんです。というのは、どうしたことか、この江戸屋江戸五郎のほうが最初から人気負けしておりましてね、芸だってもそうたいして違っちゃいねえし、なにをいうにもおひざもとっ子なんだから、人気負けなんぞするはずはねえと思うのに、三左衛門の大坂下りっていうのが珍しいのか、ふたをあけてみたらからきし江戸屋のほうに入りがねえっていうんです。だから、三左衛門がいうのには、きっとその江戸五郎が人気負けした意趣晴らしに、毎晩宿へ忍び込んで、あんなけちをつけてまわっているにちげえねえ、とこういうんですよ。でなきゃあ、行く先泊まり替えた先にまで水が降るってはずアねえんだからね、江戸五郎自身がしねえにしても、だれか忍術でも使う手下をそそのかして、あんな気味のわるいまねをさせるんだ、とこういうんです。むろんのことに、そいつあ疑いだけのことなんで、現の証拠を突きとめたわけじゃねえんだが、てっきりもう江戸屋のしわざにちげえねえと、嵐三左衛門が会う人、出会う人に
「…………」
「え! 伝六だんな! ねえ、だんな! だんなは腹がたちゃしませんかい。おたげえ江戸っ子なら、だれだってもきっとあっしゃ腹がたつと思うんだ。考えてみてもごらんなさいまし。江戸屋の江戸五郎がほんとうにやったという、現の証拠を突きとめてのうえで、かれこれと三左衛門が人に吹聴するならもっとも至極な話なんだが、ねこがやったか、きつねがいたずらしたかもまるきし見当がつかねえうちに、罪を人に着せて、それでもって人気をあおるなんて、どう考えてもあっしゃ上方
「…………」
ぐいぐいと油をそそぎかけられて、一の子分の伝六親分、すっかりいい心持ちそうに黙り込みながら、必死と首をひねりにひねりだしました。まことに無理がない。伝えたところが事実とするなら、だいいち正体のわからぬその幽霊水からしてが、はなはだぶきみ至極なのです。しかも、ぶきみなうえに、事はふたりの役者のうえにからまっているのです。はたして、江戸屋江戸五郎がやったかどうか?――三左衛門が世間に吹聴しているごとく、人気をさらわれた腹いせに、事実江戸屋がかかる水いたずらをやったものなら、事はさしたる問題でないが、実証もつかまず、その現場も押えずに、単なる疑いのみから、不用意にこれを下手人のごとく吹聴しているとするならば、江戸っ子中の江戸っ子をもって任ずる伝六親方が、とうていこれを許せるはずはないのです。ましてや、一の子分の伝六親方のこと、大いに油をそそぎかけたばかりか、だんながご出馬しないことにはといわぬばかりに持ちかけたので、わが愛すべき親方は、ことごとくいいこころ持ちになりながら、おつに気どってすっかり考え込みました。
「まて、まて、せくでない、せくでない、せいては事をしそんじる。とかく、こういうときは、あれだ、あれだ、右門のだんなをまねるわけじゃねえが、あごをなでると奇妙に知恵がわくものなんだ。大船に乗った気でいろ。いまにぱんぱんと
名人のいないのをいいことに、しきりと大きく構えながらあごをなでなで首をひねっているさいちゅう。
「ウフフ……」
不意にそこのそでがきの向こうから聞こえてきたのは、いかにもおかしくてたまらないといったような笑い声でした。