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しかるに、行きついてみると、それなる吉原
「辰ッ、投げなわで押えろッ」
しかし、妙です。
「おやッ。辰めがどこかへ消えてなくなっちまいましたぜ!」
「なにッ、いない? ねこはいるかッ」
「そいつもいっしょに駆け落ちしちまったらしいですよ」
蛸平に、辰に、怪猫と、一瞬に三個の姿が、
だのに、豆やかな善光寺辰めがさらに奇怪で、一方の端には怪猫をからめ取り、他方の端には逃げ去ったはずの蛸平を、両々振り分けの投げなわにからめとって、いっこう恐るるけしきもなくにやにやとやっていたものでしたから、伝六のことごとく目を丸くしたのはいうまでもないことでしたが、名人もいささか意外にうたれたとみえて、まず辰に尋ねました。
「これはいったい、どうした子細じゃ」
「どうもこうもない、あの人形とぶつぶつさえずっている薄気味のわるいおやじが、さっき八丁堀で取り逃がした当の本人でござんすよ」
「えッ
![※(疑問符感嘆符、1-8-77)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-08/1-08-77.png)
「いいえ、てがらでもなんでもねえんですよ。ねこを見張ってだんなのあとからついてめえりましたらね、やにわとこいつめがニャゴニャゴいって、どうしたことかここの二階へ駆け上がってきたんで、逃がしちゃならねえと追っかけてきて押えたところへ、あの蛸平坊主めがあとから裏のへいを乗りこえやがって、逃げこみましたんで、ついでにちょいとからめとってやったんですよ」
事がここにいたって、がぜん予想外の大場面に展開したものでしたから、では、そろそろ右門流に取りかかろうといわぬばかりで、いと涼しげに微笑すると、まず吉原
「神妙に申し立てろよ。なにゆえ逃げおった」
「へえい……」
「へえいではわからぬ。わしがなんという名のものであるか、もうわかったであろうな」
「へえい。ようようただいまわかりましてござります。初めからむっつり右門のだんなさまと知りましたら、逃げるんではございませんでしたが、こんなことになったのも、あの気味のわるいお大尽に見込まれたのがそもそもの不運でござりましょうから、身の災難とあきらめまして、もうじたばたはいたしませぬ」
「では、これなる怪しの髪の毛を携えて、人形師
「いいえ、使いに立ったのはいかにもこの蛸平めにござりまするが、頼み手はあそこの気味のわるいお大尽でござりまするよ」
「なに、あの老人とな。うち見たところ常人でなさそうじゃが、気でも狂いおるか」
「それが、さっぱりてまえにも、正気やら狂気やら見境がつかないんでござりまするよ。忘れもいたしませぬが、三日まえの朝早くでござりました。だれでもよいから
いわれましたので、目を転ずると、いかさまじつに奇態でした。毛をはぎとられた丸坊主の京人形をしっかりとその胸に抱きすくめるようにしながら、ふらふらと狂えるもののごとくに立ち上がったかと思われましたが、と――不意に奇妙なことばを人形に向かって、さながら生あるもののように話しかけました。
「な、
いいつつ、涙すらも流して、そこにあった黄金の山の中から小判をわしづかみにすると、気味わるがっている花魁の前へ近づいていっては、ひとりあたり二両ずつ、それも正確に小判を二枚ずつ、祝儀としてきってまわりましたものでしたから、たちまちまた噴水のように吹きあげたのはあいきょう者でした。
「世の中にゃ、変わったキ印もあるもんじゃござんせんか。まさかに、あのおやじ、
聞き流しながら、じっといぶかしい老人の行動を最後まで見守っていましたが、なに見破りけん、名人がずばりと断定を下しました。
「
「えッ
![※(疑問符感嘆符、1-8-77)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-08/1-08-77.png)
「次から次へと、よくいろんなとんきょう口のきけるやつだな。ひとり頭に小判を二枚ずつとかぎって、祝儀にしたところが、芯からの気違いじゃねえなによりの証拠だよ。ほんとうに気がふれてりゃ、三両も五両も金の差別はわからねえや。まてまて、今おれが気つけ薬を飲ましてやらあ」
いいつつ、ずかずかとそれなるいぶかしき老大尽の身近くに歩きよったかと思われましたが、こはそもいかなる気つけ薬を飲ませようというつもりでありましたろう――やにわに、ぎらりと
「ふびんながら、命はもらいうけるぞ!」
叫びざまに、老大尽の面前五分の近くへ、
心底からの狂人ならば、白刃が鼻先へ襲ってこようと、矢玉が雨とあられに降ってこようと、びくともするものではあるまいと思われたのに、名人の看破どおり、一時の逆上であったものか、たじたじと老大尽がうしろに身をひくや、ふッと我に返ったもののごとく、きょときょととあたりを見まわしましたので、また噴水を始めたのは伝六です。
「へへいね。命がほしかったところを見ると、やっぱりへその中は暖かかったのかね」
いったことばに、老大尽がいぶかしそうに右門主従を見つめていましたが、辰のからめとっている黒ねこを発見すると、おどろきながら呼びかけました。
「おお、黒か、黒か! おまえもここにいたか」
その声に答えるもののごとく、怪猫がニャゴウと鳴きたてましたものでしたから、名人の口辺に静かに微笑がのると、物柔らかな問いが発せられました。
「そなたのねこであるか」
「へえい。なくなった娘が、命よりもたいせつにかわいがっていたやつにござりまするが、どうやらお見かけすれば、その筋のかたがたのようなご様子。どなたさまにござりましょう」
「わからぬか」
「と申しますると、もしや、あの、むっつり右門の……」
「さようじゃ。右門とわからば、こわうなったか」
「いえいえ、だんなさまにござりますれば、このようなうれしいことはござりませぬ。できますことなら、ふびんなこのおやじめがただいまの身の上をお話し申し上げ、お力にもおすがり申したいと念じてござりましたゆえ、こわいどころではござりませぬ」
「なに、右門の力にすがりたいとな。では、先ほどそれなる京人形をかかえて八丁堀へ参ったのも、そのためじゃったか」
「この二、三日こちら、わが身でわが身がわからぬほど心が乱れておりましたゆえ、よくは覚えておりませぬが、もしお屋敷のあたりをさまよっていましたとすれば、だんなさまにお会いしたいと思うた一念が知らずに連れていったやも存じませぬ」
「よほど心痛していることがあるとみえるな。そう聞いては、聞くなというても聞かいではおられぬが右門の性分じゃ。いかにも力となってやろうから、ありのままいうてみい!」
「そうでござりまするか。ありがとうござります、ありがとうござります。では、かいつまんで申しまするが、てまえは日本橋の橋たもとに両替屋を営みおりまする
「ほかに契り合うた恋人があったというのじゃな」
「へえい。まだおぼこじゃ、おぼこじゃと思うて、気を許していたうちに、いつのまにか、親の目をかすめまして、それも言いかわした相手がうちの手代の
「なるほどのう。そのあげくに、とうとうこの
「へえい。ひと口にいえばそうなんでござりまするが、ちとそれが妙なんでござりましてな。家出をしたとて、まさかに死にもいたすまいと、捜しにも行かずにほっておきましたら、その晩ひょっくりと船頭衆のようなおかたが、どこからかお使いにみえましてな、この紙包みをお嬢さんから頼まれましたと申しますので、なにげなくあけてみましたら、だんながお持ちのその髪の毛なんでござりますよ。においをかいでみましたら、娘が好んで日ごろ使っておりました丁子油の髪油がかおりましたゆえ、こりゃ、どっちにしてもただごとではあるまいというので、急に騒ぎだしましてな、所々ほうぼうと人を派して、だんだんと捜すうちに、あろうことかあるまいことか、深川の先で死体となって揚がったのでござります。
「いかにものう。だが、それにしても、京人形をあつらえて、小判をまきに吉原へ来たとは、ちといぶかしいな」
「いいえ、それが今のてまえの心持ちになってみれば、ちっとも不思議ではないのでござりまするよ。だんなさまをはじめ、
「なるほど、そうか、よくあいわかった。話の初めを聞いているうちは、人の皮かむったけだものじゃなと思うていたが、今のそのざんげ話を聞いて、いささか胸がすっといたした。では、なんじゃな、あれなる黒ねこが、髪の毛をはぎとったのも、そちはどこでとられたか覚えもあるまいが、生前娘がかわいがっていたゆえ、丁子油のにおいから、畜生ながらもだいじにしてくれた人の面影を慕うて、人形とも知らずにとびついたのじゃな」
「おそらくそうでござりましょう。子どものようにかわいがっておりましたゆえ、それが忘れかねて、知らぬうちにつけ慕っていたものと思われまするでござります」
「よし、もうそれで、すっかりなぞは解けた。では、なんじゃな、そちがわしに力を借りたいというは、弥吉のまくらもとにあったとかいう三千両の盗み出し手をよく調べたうえで、万が一ぬれぎぬだったならば、罪人の汚名を着せて追いだした弥吉にそれ相当のわびをしたいというのじゃな」
「へえい。ぬれぎぬでござりますればもちろんのこと、よしんばあれがついした盗みにござりましょうとも、それほどまでにして娘がほしかったのかと思いますると、憎いどころか、弥吉の心がふびんに思われますゆえ、おついでにあれの居どころもお捜し当て願えますれば、つまらぬ了見違いで、若い者の思い思われた仲を割ろうとしたこのわからず屋のおやじの罪をいっしょにわびたいのでござります」
「気に入った、大いに気に入った、そういう聞いてもうれしい話で、このおれの力が借りたいというなら、むっつり右門の名にかけて、きっと望みをかなえさせてやらあ。じゃ、もうこの丁子油の髪の毛も用がねえ品だから、ついでにねこへも供養させてやるぜ。ほら、黒とかいったな、おまえにこいつあいただかしてやるから、
投げ与えてやると、愛するものにめぐり会いでもしたかのごとく、黒ねこがニャゴウゴロゴロ、ゴロゴロニャゴと、のどを鳴らしつつ髪の毛をくわえながら、いずれかへいっさんに走り去りましたので、われらの名人の秀麗な面に、はじめて
「さ! 伝六ッ、
「ちぇッ、ありがてえッ。いまに出るか、いまに出るかと、さっきからなげえこと、しびれをきらしていたんですよ。だんなの分が一丁ですね」
「二丁だよ」
「えッ! じゃ、あっしが兄貴分の役得で、乗られるんですね」
「のぼせんな! こちらのお人形お大尽がお召しになるんじゃねえか」
「ほい、また一本やられたか。なんでもいいや、だんなのお口から駕籠が出りゃ、おいら、胸がすっとするからね。じゃ、辰ッ、おまえもひざくりげにたんと湿りをくれておけよ」
こうなると伝六なかなかにうれしいやつで、骨身も惜しまずたちまち揚げ屋の表へ、くるわ駕籠を二丁見つけてまいりましたものでしたから、いよいよ捕物名人の第十五番[#「第十五番」は底本では「第五番」]てがらが、丁子油ならぬ