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右門捕物帖(うもんとりものちょう)08 卍のいれずみ

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 9:08:50  点击:  切换到繁體中文


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 しかし、八丁堀へ引き揚げてしまうと、右門は今までのむだぼねに対する落胆と疲労とがいちじに発したものか、時刻はちょうどお昼どきだというのに、昼食をとろうともしないで、ぐったりそこにうち倒れてしまいました。伝六のそれにならったのはもとよりのことでしたが、するとまもなく、うるさいことには、表でしきりとどなる声がありました。
「もし、どなたもおりませんか! わっちゃ急ぎの使いで来た者ですがね、この家ゃあき家ですか!」
「べらぼうめ! あき家じゃねえや、なに寝ぼけたことぬかすんでえ」
 しかたがないので、伝六がぶりぶりしながら取り次ぎに出向きましたが、帰ってくると黙って右門に一本の手紙をさしつけました。
「うるせいや、きさま読め!」
「じゃ、封を切りますぜ」
 寝そべったままで右門がうけとろうともしなかったものでしたから、代わって伝六が読みあげました。
「ええと、前略、先刻は遠路のところをわざわざご苦労さまにそろ。その節ご検死くだされそうらえども、埋葬ご許可のおことば承り漏れそうろうあいだ、使いの者をもっておん伺い申し上げそろ。なにぶん、いまだ夏場のことにそうらえば、仏の始末なぞも火急に取り行ないたく、ご許可くださらば今夕にも急々に式葬つかまつりたくそうろうあいだ、右おん許し願いたく、貴意伺い上げそろ。頓首とんしゅ不宣。恒藤権右衛門家内より、近藤右門様おんもとへ――」
「こめんどうくせえこといってくるじゃねえか。検死を済ましゃ、埋葬許可をしたも同然だから、そういって追っ払いなよ!」
 少し雲行きのよろしくないところへ、ご念の入りすぎた手紙でしたから、吐き出すようにいっていましたが、伝六が使いの者を追い返して帰ってきたのを見ると、がぜん、右門が何思いついたか、むくりとはね起きながらいいました。
「今の手紙はどこへやった!」
「これこれ、ここにありますよ」
「使いに来た者はさかな屋だな」
「そう、そう、そうですよ。魚勘と染めたはっぴを着ていましたからね、たぶん、そこの家のわけえ者でがしょうが、会いもしねえのに、どうしてまたそれがわかりますかい」
「手紙にさかなのにおいがしみてるじゃねえか」
 そろそろ右門一流の気味がわるいほどな明知のさえを小出しにしかけて、じっとその手紙の文字と、まだそばにころがしたままであるさきほどの、伝六が日本橋から引き抜いてきた、あの立て札の文字とを見比べていたようでしたが、真に突然でありました。にやりと意味ありげな笑いをうかべると、不意に妙なことをまたいいはじめました。
「なあ、伝六、人間の心持ちってものは、おかしな働きをするもんじゃねえか」
「気味のわるい。突然変なことおっしゃって、坊主にでもなるご了見ですかい」
「いいやね、おれ自身じゃちっともあせったつもりはねえんだが、どうもあばたの野郎が向こうに回るたびに、こういうしくじりがあるんだから、いつのまにかおれもあせるらしいよ」
「じゃ、何かお見おとしでもあったんですかい」
「それが大ありだから、おれにも似合わねえって話さ。まあ、おめえもよく考えてみなよ。だいいち、おかしいのはこの立て札なんだが、中仙道へ突っ走ったやつが、いつのまにこいつを日本橋へもってこられるんだい」
「なるほどね。考えてみりゃ、足の二十本ぐれえもあるやつでなきぁできねえや」
「だから、そいつがまず第一の不審さ。第二の不審は、この立て札の文句だよ。念のために、もういっぺんおめえも読み直してみるといいが、諸君よ、恒藤権右衛門はみごとわれら天誅てんちゅうを加えたれば、意を安んじて可なり、としてあるぜ」
「ちげえねえ。いくら無学でも、あっしだって天誅という文句ぐれえは知ってらあ。天に代わって討ったってえ意味じゃござんせんか」
「しかるにだ、権右衛門のおかみは、理不尽に切りつけたといったぞ」
「なるほど、少しくせえね」
「まだあるよ。第三の不審は、いま使いがもってきたこの手紙の筆跡と、こっちの立て札の筆跡だが、実に奇妙なこともあるじゃねえか。棒の引き方、点の打ちぐあい、まるで二つが同じ人間の書いたほどに似ているぜ」
「なるほどね、墨色までがそっくりでござんすね」
「しかも、恒藤権右衛門家内といや、女でなくちゃならねえはずなのに、だれが書いたものか、この手紙はそっちの立て札の筆跡同様、れきぜんと男文字だよ」
「ちげえねえ。じゃ、また駕籠ですかい」
「いや、まだ早いよ。それから、第四の不審は、恒藤夫人自身だがな、おめえもなにか思い出すことはねえのかい」
「あるんですよ、あるんですよ。あっしゃ行ったときから変に思ってるんだがね。あの家の構えは、浪人者親子三人にしちゃ、すこしぜいたくすぎゃしませんか」
「しかり。まだあるはずだが、気のついたことはねえかい」
「あのおかみさんのおちつきぐあいじゃござんせんかい」
「そうだよ、そうだよ。おれゃさっき、あのおちつきかたを実あ感心したんだがね。日ごろの身だしなみがいいために、あんな非常時に出会っても取りみだした様子を見せないところは、さすが侍の妻女だなあと思ってな、つい今まで感服していたんだが、考えてみりゃ、ちっとおさまりすぎているぜ。しかもだ、それほどのともえ板額ごときおちつきのある侍の勇夫人が、目の前で夫の殺されるのを指くわえて見ているはずもねえじゃねえか。あまつさえ、路用の金を二十両もみすみす強奪されたというにいたっては、ちっとあの恒藤夫人くわせ者だぜ」
「しかり、しかりだ。それに、あの恒藤権右衛門も、切られ方がちっと不思議じゃござんせんか。物取り強盗が時のはずみで人を殺したにしても、あれまで顔をめった切りにする必要はねえんだからね」
「だからよ、急におら腹がへってきたから、まずお昼でもいただこうよ」
「気に入りやした。いわれて、あっしも急にげっそりとしましたから、さっそく用いましょうが、なんかお菜がござんしたかね」
「くさやの干物があったはずだから、そいつを焼きなよ。それから、奈良ならづけのいいところをふんだんに出してな。そっちの南部のお鉄でゆっくりお湯を沸かして、玉露のとろりとしたやつで奈良茶づけとはどんなものだい」
「聞いただけでもうめえや。じゃ、お待ちなせいよ。伝六さまの腕のいいところを、ちょっくらお目にかけますからね」
 にわかにほのぼのとして事件に曙光しょこうが見えだしたものでしたから、伝六はもうおおはしゃぎで、ふうふうとひとりで暑がりながら、右門のいわゆる奈良茶づけのしたくをととのえていましたが、かくてじゅうぶんに満腹するほどとってしまうと、ふたたび主従は道灌山どうかんやま裏の恒藤権右衛門宅に向かって、駕籠かごを走らせました。むろん、それは今にして新しく疑問のわいた権右衛門の横死と、その妻女の陳述のうちに潜んでいる不審な点をあばこうためで、それにはまず第一に、さきほどろくに調べもしなかったあの横死死体を、いま一度入念に点検する必要がありましたものでしたから、案内も請わずに玄関へかかると、右門はずかずかと奥へ通っていきました。
 仏間ではすでに死体を棺に納め、いましちょうど僧侶そうりょ読経どきょうが始まろうとしていましたので、右門はまずそこに居合わす会葬者の、あまりにも少なすぎるのに目を光らせました。へや数にしたら十間以上もあろうというお屋敷住まいをしながら、家具調度なぞも分限者らしいぜいをつくしているのに、居合わした会葬者は、先刻の恒藤夫人と、ことし六歳になるとかいった子どもをのぞいてはたった六人きりで、しかもその六人が士籍にある者はひとりもなく、ことごとく町人ばかりでしたから、まず右門の鋭い尋問がそれに向かって飛んでいきました。
「みりゃあみなさんいずれも町家の者らしいが、これが恒藤家のご親戚しんせき衆でござるか」
 突然また右門が姿を見せて、不意に鋭い質問をしたものでしたから、恒藤夫人はぎょっとなったようでしたが、しかし弁舌さわやかに申し開きをいたしました。
「いいえ、これはみな、出入りの町人ばかりでござります」
「では、ご親戚のかたがたをなぜお呼び召さらなかったか」
「いずれも遠国にござりますので、急の間には招きかねたゆえにござります」
「知人も江戸にはござらぬか」
「はっ、一人も居合わしませぬ」
「では、その六人に相尋ねる。そちらのいちばんはじにいるやつは何商売だ」
「てまえは米屋にござります」
「次はなんじゃ」
「やお屋の喜作と申します」
「その次の顔の長いのはなんじゃ」
「なげえ顔だからそんな名まえをつけたんじゃござんせんが、あっしゃ炭屋の馬吉と申しやす」
「人を食ったこと申すやつじゃな。お次はなんじゃ」
「酒屋の甚兵衛じんべえめにござります」
「その隣のくりくり頭をしたおやじは何者じゃ。按摩あんまでもいたしおるか」
「じょ、じょうだんじゃござんせんぜ、こうみえても、この家の家主でござんすよ」
「さようか、失敬失敬。では、そちらのいちばんはじにいるいなせな若い者は何商売じゃ」
「うれしいな、わっちのことばかりゃ、いなせな若い者とおっしゃってくだせえましたね。それに免じて名を名のりてえが、ところで、どいつにしましょうかね」
「そんなにいくつもあるのか」
「ざっと三つばかり。うちの親方はぬけ作というんですがね。河岸かしのやつらはぽん助というんでげすよ」
「よし、もうあいわかった。さては、きさまがさっき手紙の使者に参った魚勘とかの若い者だな」
「へえ、そうなんですが、どうしてまたそれがおわかりなすったんですかい」
「きさま今、河岸といったじゃねえか」
「ちえッ、おっかねえことまで見ぬいてしまうだんなだな。してみるてえと、おれが隣のお美代みよ坊に去年から夢中になっていることも、もうねたがあがっているんかな――」
 とんだところで魚勘の若い者は、あだ名どおりのぬけ作たる馬脚を現わしてしまいましたが、右門はもはや第一段の尋問を了しましたので、ずかずかと棺のそばに歩みよると、ぶきみさにもひるまずに、そのうわぶたをはねあげて、死者の白衣をはだけながら、第二の死体点検にとりかかりました。
 と同時に、右門のまなこを最初にはげしく射たものは、その胸の右乳下に見えるあのまんじのいれずみ――たしかに破牢罪人の同じ右乳下にもあったはずの、あのいぶかしき卍の朱彫りでありました。だから、なんじょうその慧眼けいがんの光らないでいらるべき、烱々けいけいとしてまなこより火を発しさせると、突き刺すごとくに鋭い質問が夫人のところに飛んでいきました。
「少しくいぶかしい節があるが、これなる仏は、たしかにご主人恒藤権右衛門どのに相違ないか」
 夫人はぎょっとなったようでしたが、間をおかずに、なじるごとく答えました。
「死者をお恥ずかしめなさりまするな! 浪人者ながらも武士の妻にござります。たしかに主人の死体と申しあげましたら、それに相違ござりませぬ」
「では、この右乳下の、卍のいれずみは何の印でござる!」
「それあればこそ、恒藤権右衛門のなによりな証拠にござりますゆえ、お疑いにござりますなら、お立ち会いのかたがたにもお尋ねくださりませ」
 他の立証を求めるように、居合わした者たちへの尋問を迫りましたものでしたから、右門は一同に矢を向けました。
「そのほうどもも聞いてのとおりじゃが、権右衛門どのの右乳下に卍のいれずみのあったことを、だれぞ存じおるか」
 すると、待ってましたというように、魚勘の若い者が、威勢よくいいました。
「知ってますよ、知ってますよ。こないだ、だんながこの縁側で、もろはだ脱ぎでいたところを見やしたからね。わっちが妙ないれずみでござんすねと尋ねたら、なあに、お寺の娘と昔約束をしてな、忘れねえように彫っておいたのさって、こんなふうにおっしゃいましたぜ」
 事もなげに立証したものでしたから、右門はいよいよ事件の迷宮にはいったのを知って、まゆを強く一文字によせ、そのやや蒼白そうはくな面に沈吟の色を見せながら、雲霧の中に小さな玉を探ろうとするように、じっとくちびるを結んでいましたが、と、――ちょうどそのときでありました。突然、天井裏で、何かねこかいたちのようなものの、けたたましく走りまわる音があったと思われましたが、さっと一匹の黒ねこが、それも特別大きい黒ねこが、なにやら口にくわえて、はりを伝わりながら、おどり逃げるようにそこの庭先へ天井裏から飛び出してきたので、右門のまなこはのがさずに、口へくわえているその品物に鋭くそそがれました。見ると、それはなんたるいぶかしさでありましたろうぞ! ねずみでもあろうと思われたのに、意外や、一匹の頭も尾もあるりっぱなさかなだったのです。しかも、生ではなく焼いたさかなで、あまつさえおしょうゆらしいもののつゆしるがしたたっていたものでしたから、右門のまなこは、ここにみたびらんらんと輝きを呈しました。なにをいうにも、くわえ出してきた場所は天井裏です。それも、古いさかなならば格別ですが、今、食膳しょくぜんにでものせようとしていたらしくみえる、たべごろの焼きざかなでしたから、右門のまなこはらんらんと輝くと同時に、その口のあたりにはにたりと会心のみが浮かんで見られましたが、突然、いんぎんに恒藤夫人へわびをいいました。
「いや、つまらないことを申し立てまして、いかい失礼をいたしました。さぞお腹だちでござりましたろうが、お奉行に上申いたすおりに、何かと手落ちがあっては役儀の面目が相立ちませぬによって、かくいま一度検視に参ったまででござるから、なにとぞ失礼の段はひらにお許しくださりまするように……。ついででござるが、ご主人権右衛門殿に不慮の災を与えた憎むべきつじうら売りの下手人は、さきほど同僚の者が板橋口でめしとりましてな。それなる者が自白いたしましたによって、よくそのことも仏に申しきけ、ねんごろにお弔いなさりませよ。では、伝六、きさまもちょっとお参りしておきな」
 いうと、死者に向かってしばし黙礼を与えていたようでしたが、そのままなにごともなかったような面持ちで、さっさと八丁堀へ引き揚げてしまいました。


 

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