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いよいよ平和になったとなると、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春――まことに豪儀なものです。三月の声を聞くそうそうからもうお花見気分で、八百八町の町々は待ちこがれたお花見にそれぞれの趣向を凝らしながら、もう十日もまえから、どこへいっても、そのうわさでもちきりでした。
南町
六日からその準備にかかって、九日がその総ざらい、一夜あくればいよいよご定例のその十日です。上戸は酒とさかなの買い出しに、下戸はのり巻き、みたらし、はぎのもちと、それぞれあすのお弁当をととのえて、夜のあけるのを待ちました。
と――定例の十日の朝はまちがいなく参りましたが、あいにくとその日は朝から雨もよいです。名のとおりの春雨で、降ったりやんだりの気違い天気――けれども、ほかの職業にある人たちとは違って、許された公休日というのは天にも地にもその日一日しかないのですから、雨にかまわず催し物を進行させてゆきました。呼び物の虎退治をやりだしたのがお昼近い九つまえで、清正に
お約束のようにヒュードロドロと下座がはいると、上手のささやぶがはげしくゆれて、のそりのそりと出てきたものは、岡っ引き長助の扮している朝鮮虎です。それが、いったん引つ込むと、代わって出てきたのが清正公で、しかしその清正公が少しばかり趣の変わった清正でありました。とんがり
「よおう、ご両人!」
「しっぽりと頼みますぜ!」
なぞとたいへんな騒ぎで、場内はもうわきかえるばかり――。
その中を長いキセルでぽかりぽかりと
舞台はとんとんと進んで、ふたたび長助の虎が現われる、鈴江の妓生がきゃっと朝鮮語で悲鳴をあげる、それからあとは話に伝わる清正のとおりで、やおら三つまたの
ところが――実はその拍手の雨が注がれていた中で、世にも奇怪なできごとがおぞましくもそこに突発していたのです。いつまでたっても虎が起き上がらないので、いぶかしく思いながら近よってみると、清正の長槍に生血のしたたったのもまことに道理、虎の死に方が真に迫ったもまことに道理、岡っ引きの長助はほんとうにそこで突き伏せられていたのでした。
「わっ! たいへんだ! 死んでるぞ! 死んでるぞ!」
なにがたいへんだといって、世の中におしばいの殺され役がほんとうに殺されていたら、これほど大事件はまたとありますまいが、あわてて縫いぐるみをほどいてみると、長助はぐさりと一突き
事件は当然のごとく騒ぎを増していきました。むろん、もうこうなればお花見の無礼講どころではないので、遺恨あっての
しかし、事実はいっそう奇怪から奇怪へ続いていたのです。坂上与一郎もその娘の鈴江も、舞台裏にいるにはいましたが、まことに奇怪、いま清正と妓生に扮したはずの親子が、それぞれじゅばん一つのみじめな姿で、厳重なさるぐつわをはめられながら、高手小手にくくしあげられていたのでしたから、血相変えて駆け込んでいった一同は等しく目をみはりました。しかも、親子の口をそろえていった陳述はいよいよ奇怪で、なんでもかれらのいうところによると、扮装をこらして舞台へ出ようとしたとき、突然引き入れられるように眠りにおそわれてそのまま気を失い、気がついたときはもうじゅばん一つにされたあとで、そのまま今までそこにくくしあげられていたというのでありました。事実としたら、何者か犯人はふたりでこれを計画的に行ない、まず坂上親子を眠らしておいて、しかるのち巧みに清正と妓生に化けて舞台に立っていたことになるのですから、場所がらが場所がらだけに、奇怪の雲は、いっそう濃厚になりました。いずれにしてもまず場内の出入り口を固めろというので、そこはお手のものの商売でしたから、厳重な出入り禁止がただちに施されることになりました。
と、ちょうどそのとたんです。
「お願いでござります! お願いの者でござります……」
必死の声をふり絞りながら、その騒ぎの中へ、鉄砲玉のように表から駆け込んできたひとりの町人がありました。
四十がらみの年配で渡り職人とでもいった風体――声はふるえ、目は血走っていましたから、察するに本人としては何か重大事件にでも出会っているらしく思われましたが、何をいうにも騒ぎのまっさいちゅうです。だれひとり耳をかそうとした者がありませんでしたので、町人は泣きだしそうにしてまたわめきたてました。
「お係りのだんなはどなたでござりまするか! お願いでござります! お願いの者でござります!」
その声をふと耳に入れたのが本編の主人公――すなわち『むっつり右門』です。本年とってようやく二十六歳という水の出花で、まだ駆けだしの同心でこそあったが、親代々の同心でしたから、
けれども、口をきかないからといってかれに耳がなかったわけではないのですから、町人の必死なわめき声が人々の頭を越えて、はからずもかれのところへ届きました。その届いたことが右門の幸運に恵まれていた
「目色を変えてなにごとじゃ」
そばにいてそれを聞いたのが、右門の手下の岡っ引き伝六です。変わり者には変わり者の手下がついているもので、伝六はまた右門とは反対のおしゃべり屋でしたから、右門が口をきいたのに目を丸くしながら、すぐとしゃべりかけました。
「おや、だんな、物がいえますね」
おしでもない者に物がいえますねもないものですがむっつり屋であると同時に年に似合わず胆がすわっていましたから、普通ならば腹のたつべきはずな伝六の暴言を気にもかけずに、右門は静かにくだんの町人へ尋問を始めました。
「係り係りと申しておったようじゃが、願い筋はどんなことじゃ」
苦み走った男ぶりの、見るからにたのもしげな近藤右門が、だれも耳をかしてくれない中から、親しげに声を掛けたので、町人はすがりつくようにして、すぐと事件を訴えました。
「実は、今ちょっとまえに、三百両という大金をすられたんでござんす……」
「なに、三百両……! うち見たところ職人渡世でもしていそうな身分がらじゃが、そちがまたどこでそのような大金を手中いたしてまいった」
「それが実は富くじに当たったんでがしてな。お目がねどおり、あっしゃ畳屋の渡り職人ですが、かせぎ残りのこづかいが二分ばかりあったんで、ちょうどきょう湯島の天神さまに富くじのお開帳があったをさいわい、ひとつ金星をぶち当てるべえと思って、起きぬけにやっていったんでがす。ことしの正月、浅草の観音さまで金運きたるっていうおみくじが出たんで、福が来るかなと思っていると、それがだんな、神信心はしておくものですが、ほんとうにあっしへ金運が参りましてな、みごとに三百両という金星をぶち当てたんでがすよ。だから、あっしが有頂天になってすぐ小料理屋へ駆けつけたって、なにも不思議はねえじゃごわせんか」
「だれも不思議だと申しちゃいない。それからいかがいたした」
「いかがいたすもなにもねえんでがす。なにしろ、三百両といや、あっしらにゃ二度と拝めねえ大金ですからね。いい心持ちでふところにしながら、とんとんとはしごを上って、おい、ねえさん、中ぐしで一本たのむよっていいますと……」
「中ぐしというと、うなぎ屋だな」
「へえい、家はきたねえが天神下ではちょっとおつな小料理屋で、玉岸っていう看板なんです」
「すられたというのは、そこの帰り道か」
「いいえ、それがどうもけったいじゃごわせんか、ねえさんが帳場へおあつらえを通しにおりていきましたんでね、このすきにもう一度山吹き色を拝もうと思って、そっとふところから汗ばんで暖かくなっている三百両の切りもち包みを取り出そうとすると、ねえ、だんな、そんなバカなことが、今どきいったいありますものかね」
「いかがいたした」
「あっしの頭の上に、なにか雲のようなものが突然ふうわりと舞い下がりましてね、それっきりあっしゃ眠らされてしまったんですよ」
「なに、眠らされた?」
その一語をきくと同時に、むっつり右門の苦み走った面には、さっと血の色がわき上がりました。これがまたどうして色めきたたずにいられましょうぞ! 現在同僚たちが色を失って右往左往と立ち騒いでいる長助殺しの事件の裏にも、坂上親子の陳述によれば、同じその眠りの術が施されていましたので、右門の面はただに血の色がわき上がったばかりではなく、その両眼はにわかに異様な輝きを帯びてまいりました。心をはずませてひざをのり出すと、たたみかけて尋ねました。
「事実ならばいかにも奇怪じゃが、その眠りというのは、どんなもようじゃった」
「まるで穴の中へでもひきずり込まれるような眠けでござんした」
「で、金はその間に紛失いたしておったというんじゃな」
「へえい、さようで……ですから、目のくり玉をでんぐらかえして、すぐと
「よし、あいわかった、普通なら、そんな事件、手下の者にでも任すのがご法だが、少しく思い当たる節があるから、てまえがじきじきに取り扱ってつかわす。念のために、そのほうの所番地を申し置いてまいれ」
おどり上がって町人が所番地を言い置きながら引き下がったので、むっつり右門はここにはじめて敢然と奮い立ちました。まことにそれは、敢然として奮い立つということばが、いちばん適切な形容でありました。なぜかならば、多くの場合その種の変わり者がとかく世間からバカにされがちであるように、右門もこれまであまりにも珍しすぎる黙り屋であったために、同僚たちから生来の愚か者と解釈されて、ことごとに小バカにされながら、ついぞ今まで一度たりとも、ろくな事件をあてがわれたことはなかったからです。けれども、今こそ千載一遇の時節が到来したのです。右門は血ぶるいしながら立ち上がりました。もちろん、その間にも同僚たちはわいわいとわけもなく騒ぎたって、われこそ一番がけに長助殺しの犯人をひっくくろうと、お組屋敷は上を下への混雑でありましたが、しかし右門は目をくれようともしませんでした。二つの事件に必ず連絡があるとにらみましたので、あるとすれば、犯罪のやり口からいって一筋なわではいかない犯人に相違あるまいとめぼしをつけたので、将を射んとする者ほまず馬を射よのたとえに従って、三百両事件を先にほじってみようと思いたちました。立てばいうまでもなくもうあだ名のむっつり右門です。
「急にきつねつきのような形相をなさって、どこへ行くんですか、だんな!」
おしゃべり屋の伝六があたふたとあとを追っかけながら、しつこく話しかけたのにことばもくれず、右門はさっきの町人がいった湯島の玉岸という小料理屋目がけて、さっさと歩みを運びました。