第五章
その頃は飲酒の時代であって、大抵の人は豪飲したものだった。時がその後そういう習慣に齎した改善は極めて著しいものであったので、その頃の一人の男が完全な紳士としての体面を
オールド・ベーリーの寵児であり、普通刑事裁判所の寵児であるストライヴァー氏は、自分の登って来た梯子の下の方の段を用心深くも切り落し始めていた。普通刑事裁判所もオールド・ベーリーも今ではその寵児を特に腕を差し伸べて招かねばならなくなった。そして、民事高等裁判所★の裁判長の面貌の方へ肩で他人を押し除けて突き出ているストライヴァー氏の血色のよい顔が、ちょうど庭一面に生い繁った仲間のけばけばしい花の間から太陽をめがけてぐっと伸び出ている大きな
一頃、ストライヴァー氏は口達者で、無遠慮で、敏捷で、大胆な男ではあるが、弁護士の伎倆の中で一番目立ち一番必要なものの一つであるところの、山なす陳述記録から要点を抜き出すというあの才能を持っていない、ということが法曹界で評判であった。しかし、このことについては著しい進歩が彼に現れて来た。仕事が多くなればなるほど、その精髄を掴む彼の能力が増して来るように思われた。そして、夜どんなに
人間の中でも一番怠惰な、一番前途の望みのないシドニー・カートンは、ストライヴァーには大切な味方であった。この二人がヒラリー期からミケルマス期までの間に★一緒に飲んだ酒の量は、王の軍艦一隻でも浮べられそうなくらいであった。ストライヴァーは、いつも両手をポケットに突っ込んで、法廷の天井ばかり見つめているカートンがいなくては、どこででも、決して事件を引受けはしなかった。彼らは巡囘裁判★にも一緒に出かけた。そしてそこでさえも彼等のいつも通りの酒宴を夜
「十時ですよ、旦那。」と彼がさっき起してくれと頼んでおいた飲食店の男が言った。――「十時ですよ、旦那。」
「ううん、どうしたって?」
「十時ですよ、旦那。」
「何だっていうんだい? 夜の十時だっていうのか?」
「そうですよ、旦那。あなたさまが起してくれってわたしに仰しゃいましたんで。」
「ああ! そうだったな。よし、よし。」
何度かまたうとうとと眠りかけようとするのを、給仕が続けざまに五分間も炉火を掻き

この二人の協議には一度も加わったことのないストライヴァーの書記はもう帰ってしまっていて、ストライヴァー御本人が
「少し遅いぜ、記憶の名人。」とストライヴァーが言った。
「ほぼいつもの時間だよ。十五分くらい遅いかもしれんな。」
二人は、書物がずらりと列んで、書類が取散らかっている、すすけた一室へ入った。そこには炉火があかあかと燃えていた。炉側棚には湯沸しが湯気を立てていたし、ばらばらに撒き散らばっている書類の真中に、一つの
「君は一罎やって来たようだね、シドニー。」
「今晩は二罎だったろう、確か。僕は今まで昼の弁護依頼人と一緒に食事をしていたんだ。いや、あの男の食事をするのを見ていたって言うかな。――どっちだって同じことさ!」
「君があの顔の似ているところへ持って行ったのはね、シドニー、あれは素敵な論点だったよ。どうして君はあんなとこを掴まえたんだい? いつあんなことを思い付いたのかね?」
「おれはあいつはずいぶん美男だなと思ったんだ。それから、おれだって運がよかったなら、奴と同じぐらいの人間になれてたろうと考えたんさ。」
ストライヴァー氏はその年に似合わぬ布袋腹を揺がせるほどに笑った。「君にして幸運か、シドニー! 仕事にかかるんだ、仕事にかかるんだ。」
大いに不機嫌な顔をしながら、豺は自分の衣服を
「今夜の煮詰め仕事は大してないよ、記憶の名人。」とストライヴァー氏は、書類を見

「どれだけ?」
「たった二口さ。」
「むずかしい奴を先にくれ。」
「ほら、それだよ、シドニー。どしどしやるんだ!」
獅子は、それから、酒の載っている

とうとう豺は獅子のためにこぢんまりした食事を纒めてしまって、それを獅子に差し出しにかかった。獅子はそれを細心の注意をしながら食べ、それに自分の択り好みもし、自分の意見も加えた。すると豺はそのいずれにも助力してやった。その食事がすっかり風味されてしまうと、獅子は再び腰の
「さあ、これですんだんだから、シドニー、ポンスを一杯
豺は、また湯気の立っていたタオルを頭から取って、
「
「おれはいつだってしっかりしてるさ。そうじゃないかね?」
「僕はそれを否定しないよ。何が君の御機嫌に触ったんだい? まあポンスをひっかけて、機嫌を直したまえ。」
不満らしくぶつぶつ言いながら、豺は再び言われる通りにした。
「昔のシュルーズベリー学校★時代の昔の通りのシドニー・カートンだね。」とストライヴァーは、現在と過去の彼を調べてでもみるように彼の上に頭を
「ああ、ああ!」と相手は溜息をつきながら答えた。「そうだよ! 相も変らぬ
「なぜやらなかったんだい?」
「なぜだかわかるものか。おれの流儀だったんだろうよ。」
彼は、両手をポケットに突っ込み両脚を前にぐっと伸ばしたまま、炉火を眺めながら、腰掛けていた。
「カートン、」と彼の友人は、あたかも炉側格子はその中で不屈の努力が鍛えられる熔鉱炉であって、昔のシュルーズベリー学校時代の昔の通りのシドニー・カートンのためにしてやれる唯一の思遣りのある仕打は彼をその熔鉱炉の中へ肩で押し込んでやることであるかのように、威張り散らすような風で彼に向って肩肱を張って、言った。「君の流儀はなっていない流儀だし、いつだってそうだったんだ。君は気力でも意思でも奮い起すってことがない。僕を見たまえ。」
「おやおや、これあたまらん!」とシドニーは、今までよりは気軽な機嫌のよい笑い声を立てながら、応答した「君のお説教は御免だよ!」
「僕はこれまでやって来たことをどんな風にやって来たかね?」とストライヴァーが言った。「僕は今やっていることをどんな風にやっているかね?」
「僕に給料を払って手伝わせてやってるってとこも少しはあるようだね。だが、僕にそんなことを言ったって、
「僕が最前列へ出るには出るようにしなければならなかったんだ。僕だって最前列に生れついたんじゃないよ。そうだろう?」
「僕は君の誕生の儀式に立会ったんじゃないさ。だが、どうも僕の思うところじゃ君はそこに生れついたらしいな。」とカートンが言った。そう言って、彼はまた声を立てて笑い、それから二人とも一緒に笑った。
「シュルーズベリー時代の前だって、シュルーズベリー時代だって、シュルーズベリー時代から後今までだって、」とカートンは言葉を続けた。「君は君の列に就いていたし、僕は僕の列に就いていたんだ。僕たちがパリーの学生街の学生同志で、フランス語だの、フランス法律だの、その
「で、それは誰のせいだったのだい?」
「確かに、それが君のせいでなかったとは僕には
「それならだ! あの美しい証人のために僕と乾杯したまえ。」とストライヴァーは自分の杯を挙げて言った。「君の嬉しい話になったろう?」
明白にそうではなかった。というのは彼はまた陰鬱になって来たから。
「美しい証人と。」と彼は自分の杯の中を覗き込みながら呟いた。「おれには
「あの絵のように美しい医者の娘さんの、マネット嬢さ。」
「あの女が美しい?」
「美しかあないかね?」
「ないね。」
「だって、君、あの女は満廷讃美の
「満廷讃美の
「君は知らないだろうがね、シドニー、」とストライヴァー氏が、鋭い眼で彼を見ながら、また片手で自分の血色のよい顔をゆっくりと撫でながら、言った。――「君は知らないだろうがね、僕はあの時、君がその金髪のお人形に同情を寄せていたものだから、その金髪のお人形に何事が起ったか素速く見つけたんだ、と思ってたくらいなんだよ。」
「何事が起ったか素速く見つけたって! 人形だろうが人形でなかろうが、一人の女の子が人の鼻先から一二ヤードのところで気絶したんならだね、望遠鏡なしにだって見えようじゃないか。おれは君と乾杯はするが、美人だということは否定するよ。さあ、これでもうおれは飲みたくない。帰って寝るとしよう。」

物淋しげに、物淋しげに、太陽は昇った。立派な才能と立派な情緒とを持ちながら、それを適当な方面に働かすことが出来ず、自分自身の裨益にも自分自身の幸福にもすることが出来ず、自分の身を枯らす害虫に気づいていながら、それにわが身を蝕むにまかせて諦めている男、その昇る太陽はこの男よりも物淋しいものを照さなかった。
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第六章 何百の人々
マネット医師の静かな住居は、ソホー広場★から遠からぬ閑静な街の一劃にあった。四箇月という月日の波があの叛逆罪の公判の上を乗り越えてしまって、公衆の興味と記憶ということから言えば、それを遠く海の方へ押し流してしまっていた頃の、ある天気のよい日曜日の午後、ジャーヴィス・ロリー氏は、自分の住んでいるクラークンウェル★から出かけて、医師と食事を共にしに行く途中、日当りのいい街々を歩いて行った。ロリー氏は、何度か事務上の事だけに専念することにした後に、結局医師の友人になってしまったのだった。そしてその閑静な街の一劃は彼の生活の中の日当りのいい部分となった。
その天気のよい日曜日に、ロリー氏は、午後早く、習慣上の三つの理由で、ソホーの方へ歩いていたのだ。第一に、天気のよい日曜日には、彼は晩餐の前に医師とリューシーと一緒に散歩に出かけることがたびたびあったからだし、第二に、都合のよくない日曜日には、彼は家族の友人として彼等と一緒にいて、話をしたり、読書をしたり、窓の外を眺めたり、漫然とその日を過したりする習慣であったからだし、第三に、彼は自分の解かねばならないちょっとしたむずかしい疑問を持っていたのだが、医師の家庭の習わしから考えて、その時がそれを解くに好適な時だということを知っていたからであった。
医師の住んでいるその一劃ほど風変りな一劃は、ロンドン中にも見出せそうになかった。その一劃には通り抜ける路がなかった。それで、医師の住居の前面の窓からは、いかにも浮世を離れたようなのんびりした様子の漂っている街の気持のいい小さな
夏の光は朝の間だけその一劃にぎらぎらと射し込んだ。が、街々が暑くなる頃には、その一劃は日蔭になった。もっとも、日蔭と言っても、そこの向うにきらきら光る日の輝きも見られないほど引込んだ日蔭ではなかったが。そこは、静かで落著いてはいるが気の晴れる、凉しい場所であり、不思議によく物音を反響する箇所であり、騒擾の街からの全くの避難港であった。
そういうような碇泊所にはきまって船が静かに泊っているはずであり、また事実泊っていた。医師は大きなひっそりした家の二つの階を借りていた。この家では、
マネット医師は、この住居で、彼の昔の評判を知っているとか、また彼の身の上話が口から口へと伝えられるうちにその評判が
以上のことは、ジャーヴィス・ロリー氏が、その天気のよい日曜日の午後、その一劃にある閑静な家の戸口の
「
もうお帰りになるはずとのこと。
「リューシーさんは御在宅?」
もうお帰りになるはずとのこと。
「
たぶんいらっしゃるだろうが、しかし、お入り下さいと言っていいのか、いらっしゃいませんと言った方がいいのか、それについてのプロスさんの意向を予想することは、女中には確かに出来ないとのこと。
「わたしは心やすい者だから、」とロリー氏は言った。「二階へ上らしてもらうとしよう。」
医師の令嬢は、自分の生れた国のことは少しも知らなかったのに、その国の最も有用で最も愉快な特徴の一つである、わずかな資力を大いに利用するというあの才能を、その国から生れながらに享けているように見えた。家具は質素なものではあったが、ただその趣味と嗜好とにだけ価値のあるいろいろの小さな装飾で引立たせてあったので、その効果は気持のよいものであった。室内の一番大きな物から一番小さな物に至るまでのあらゆるものの配置、色彩の配合、些細なものの節約や、巧妙な手際や、明敏な眼識や、優れた感覚などで得られた優雅な多種多様さと対照、そういうものはそれ自身としても非常に快いものであると同時に、それの創案者をも非常によく

一つの階には三つの室があった。そして、その室と室とを通ずる
「どうも驚くなあ、」とロリー氏はあたりを見

「何だってそんなことに驚くんですか?」という不意の問が彼をびくりとさせた。
その問は、彼がドーヴァーのロイアル・ジョージ
「わたしはこう思っていたんですがねえ――」とロリー氏が言い出した。
「ふうん! 思ってたんですって!」とプロス嬢が言った。それでロリー氏は言葉を切った。
「お変りありませんか?」とその時その婦人は――鋭く、だがあたかも彼に対して何も悪意を抱いていないということを示すつもりであるかのように――尋ねた。
「有難う、達者な
「自慢するほどのことはちっともございませんよ。」とプロス嬢が言った。
「ほんとに?」
「ええ! ほんとにですとも!」とプロス嬢は言った。「私はお嬢さまのことでとっても困ってるんですもの。」
「ほんとに?」
「
「じゃあ、全くですか?」とロリー氏は言い直しとして言った。
「『全くですか』だっていやですが、」とプロス嬢が答えた。「少しはましですわ。そうなんですよ、私とっても困っているんです。」
「その訳を伺えますかな?」
「私は、お嬢さまに少しもふさわしくない人たちが何十人と、お嬢さまの世話を焼きにここへやって来てもらいたくはないんですの。」とプロス嬢が言った。
「そんな目的で何十人とほんとやって来るんですか?」
「何百人とね。」とプロス嬢が言った。
自分の最初に言い出したことが疑われると、いつでも必ずそれを誇張するというのが、この婦人(彼女の時代より前でもそれより後でも他にもそういう人々はあるのであるが)の特徴なのであった。
「おやおや!」とロリー氏は、自分の思い付くことの出来た中でも一番安全な言葉として、そう言った。
「私がお嬢さまと御一緒に暮して来ましたのは――いいえ、お嬢さまが私と一緒にお暮しになりまして、私にお給金を下さいましたのは、と申さなければならないんで、もし私が何も頂戴しなくても自分なりお嬢さまなりを養ってゆけるのでしたら、決して決して、お嬢さまにそんなお給金を出していただくようなことはおさせしなかったんですが、――その一緒にお暮しになりましたのは、お嬢さまがまだ
何がとてもつらいのかはっきりとはわからないので、ロリー氏は自分の頭を振り動かした。自分の
「お嬢さんにちっともふさわしくないいろんな人たちが、始終やって来るんですからねえ。」とプロス嬢が言った。「あなたがそれをお始めになった時だって――」
「わたしがそんなことを始めたって、
「あなたがお始めになったじゃありませんでしたか? お嬢さんのお父さまを生き返らせたのはどなたでした?」
「ああ、そうか! あのことがそれの始めだったと言うんなら――」とロリー氏が言った。
「あのことはそれの終りだったとも言えないでしょうからね? 今申しましたようにね、あなたがそれをお始めになった時だって、ずいぶんつらかったんですの。と言って、私はマネット先生に何も
ロリー氏はプロス嬢の非常に嫉妬深いことを知っていた。が、彼はまた、彼女が
「お嬢さまにふさわしい男は一人だけしかいなかったのですし、これからだってそうでしょう。」とプロス嬢は言った。「その男というのは私の弟のソロモンでしたの。もしあれが身を持崩していませんでしたらばですがねえ。」
また始った。ロリー氏がいつかプロス嬢の身の上をいろいろと尋ねてみたところが、彼女の弟のソロモンというのは、賭博の賭金にするために彼女の持っていたものを何もかも一切捲き上げて、無一文になった彼女を少しも気の毒とも思わないでそのまま見棄てて行ってしまった無情な無頼漢である、という事実が確かになったのであった。そのソロモンをプロス嬢がそのように信じ切っている(そういうちょっとした身の誤りのためにその信用はいささか減ってはいたが)ということは、ロリー氏には全く常談事とは思えなかった。そしてまた、そのことは彼が彼女に好感を抱くについて大いに効力があったのだった。
「わたしたちは今のところ偶然二人きりだし、二人とも事務の人間だから、」と彼は、二人が応接室へと引返して、そこで打解けた気持で腰を下した時に、言った。「私はあんたにお尋ねしたいんだが、――
「ええ、一度も。」
「それだのにあの
「ああ!」とプロス嬢は頭を振りながら答えた。「でも私はあの
「あんたはあの人がその頃のことをよほど考えておられると思いますか?」
「思います。」とプロス嬢が言った。
「あんたの想像するところでは――」とロリー氏が言いかけると、プロス嬢がその言葉をこう遮った。――
「何だって想像なぞしたことは一度もありません。想像力なんてちっともないんです。」
「こりゃあ間違ったな。では、あんたの推測するところでは――あんただって時には推測ぐらいはするね?」
「時々はね。」とプロス嬢が言った。
「あんたの推測するところでは、」とロリー氏は、彼女を親切そうに見ながら、例のきらきらした眼に笑いを含んだ光を閃かして、言い続けた。「
「私は、そのことについては、お嬢さまが私にお話下さいましたことの
「で、そのお嬢さまのお話では――?」
「お嬢さまは先生がそれについて御意見を持っていらっしゃると思ってお出でです。」
「ところで、わたしがこんなにいろんなことを尋ねるのに腹を立てないで下さいよ。わたしはただの気の利かない事務家だし、あんたも婦人の事務家なんだからね。」
「気の利かないですか?」とプロス嬢はつんとして尋ねた。
その謙遜な形容詞を使わなければよかったと思いながら、ロリー氏は答えた。「いや、いや、いや。確かにそうじゃないとも。で、事務のことに戻るとして。――
「そうね! 私にわかっております限りでは、と申してもわずかなことでしょうがねえ、」とプロス嬢は、その弁解の語調のために心を
「怖がって?」
「なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あの
これはロリー氏が予期していたより以上の意味深長な言葉であった。「なるほど。」と彼は言った。「だから考えるのも恐しいんだね。それにしてもだ、
「どうともしようがないんでしょうね。」とプロス嬢が頭を振りながら言った。「そのことにちょっとでも触れるとなると、あの
プロス嬢は自分は想像力を持っていないと言ったにもかかわらず、彼女が「往ったり来たりして歩く」という文句を何度も何度も繰返したのをみると、何か一つの悲しい思いに一本調子に絶えず悩まされている苦痛を感知していることがわかり、そのことは彼女がその想像力なるものを持っていることを証明しているのだった。
その一劃は不思議によく物音を反響する一劃であるということは既に述べた。ちょうど、今
「そら、お帰りですわ!」とプロス嬢が、その会談を打切りにして立ち上りながら、言った。「もうすぐに何百って人が押し掛けて来ますよ!」
そこはその音響学上の性質から言って実に珍しい一劃で、実に一種特別な耳のような場所であったので、ロリー氏が
たとい荒っぽくて、赭ら顔で、
食事時になったが、それでもまだ何百の人々は来ない。この小さな家庭の切


日曜日には、プロス嬢は医師の食卓で食事をすることにしていたが、しかしその他の日には、台所か、それとも三階にある自分自身の室――そこは彼女のお嬢さまの
その日は蒸暑い日であった。それで、食事がすむと、リューシーは、葡萄酒を篠懸の樹の下に持ち出して、みんなそこへ出て腰掛けることにしましょう、と言い出した。すべてのことが彼女次第であり、彼女を中心にして囘転していたので、皆はその篠懸の樹の下へ出て行った。そして彼女は特にロリー氏のために葡萄酒を持って行った。彼女は、しばらく前から、ロリー氏のお酌取りの役を引受けていたのだ。そして、皆が篠懸の樹の下に腰掛けて話している間も、彼女は彼の杯を始終一杯にしておくようにした。あたりの建物の何となく神秘的に見える裏手や横面がそこで話している彼等を覗いていたし、篠懸の樹は彼等の頭上でその樹のいつものやり方で彼等に向って囁いていた。
それでもまだ、何百の人々は姿を見せなかった。彼等が篠懸の樹の下に腰掛けている間にダーネー氏が姿を見せた。が彼はたった一人であった。
マネット医師は彼を懇ろに迎えた。またリューシーもそうした。しかし、プロス嬢は俄かに頭と体とにひきつりを起して、家の中へひっこんだ。彼女がこの病気に罹ることは珍しくなかった。そして彼女はその病気のことを打解けた会話の時には「痙攣の発作」と言っていた。
医師は体の工合がこの上もなくよくて、特別に若々しく見えた。彼とリューシーとの類似はこういう時には非常に目立った。そして、彼等が並んで腰を掛け、彼女は彼の肩に凭れ、彼は彼女の椅子の背に片腕をかけている時に、その似ているところを見比べてみるのは極めて愉快なことであった。
彼は、いろいろの問題にわたって、非常に決活に、絶えず話していた。「ちょっと伺いますが、
「リューシーと二人で行って来たことがあります。だがほんの通りすがりに寄っただけです。興味のあるものが一杯あるなということがわかるくらいには、見物して来ました。まあ、それっくらいのところです。」
「あなた方も御存じのように、私はあすこへ行っていたことがありますが★、」とダーネーは、幾らか腹立たしげに顔を赧らめはしたけれども、微笑を浮べながら、言った。「見物人とは別の資格でいたのですし、またあすこをよく見物する便宜を与えられるような資格でいたのでもありませんでした。私があすこにいました時に珍しい話を聞かされましたよ。」
「どんなお話でしたの?」とリューシーが尋ねた。
「どこか少し改築している時に、職人たちが一つの古い地下牢を見つけたんだそうです。そこは、永年の間、建て塞がれて忘れられていたんですね。そこの内側の壁の石にはどれにもこれにも、囚人たちの刻みつけた文字が一面にありました。――年月日だの、名前だの、怨みの言葉だの、祈りの言葉だのですね。その壁の一角にある一つの隅石に、死刑になったらしい一人の囚人が、自分の最後の仕事として、三つの文字を彫っておいたそうです。何かごく貧弱な道具で、あわただしく、しっかりしない手で彫ってあるんです。最初は、それは D.I.C. と読まれたのですがね。ところが、もっと念入りに調べてみると、最後の文字は G だとわかりました。そういう
「おや、お父さま、」とリューシーが叫んだ。「御気分がお悪いんですね!」
彼は片手を頭へやって突然立ち上っていたのだ。彼の挙動と彼の顔付とはみんなをすっかり驚かせた★。
「いいや、悪いんじゃないよ。大粒の雨が落ちて来たんでね、それでびっくりしたのだ。みんな
彼はほとんど即時に平静に返った。大粒の雨がほんとうに降っていて、彼は自分の手の甲にかかっている雨滴を見せた。しかし、彼はそれまで話されていたあの発見のことに関してはただの一
だが、彼は非常に速く平静に返ったので、ロリー氏は自分の事務家的な眼を疑ったほどであった。医師が広間にある例の
お茶時になり、プロス嬢はお茶を入れながら、また痙攣の発作を起した。それでもまだ何百の人々は来なかった。カートン氏がぶらりと入って来たのだが、しかし彼でやっと二人になっただけだ。
その夜はひどく暑苦しかったので、
「雨粒がまだ降っているな、大粒の、ずっしりした奴が、ぱらりぱらりと。」とマネット医師が言った。「ゆっくりとやって来ますな。」
「確実にやって来ますね。」とカートンが言った。
彼等は低い声で話した。何かを待ち受けている人々が大抵そうするように。暗い部屋で電光を待ち受けている人々がいつもそうするように。
街路では、嵐の始らないうちに避難所へ行こうと急いでゆく人々が非常にざわざわしていた。不思議によく物音を反響するその一劃は、行ったり来たりしている足音の反響で鳴り響いた。だが本物の足音は一つも聞えては来なかった。
「あんなにたくさんの人がいて、しかもこんなに淋しいとは!」と、皆がしばらくの間耳を傾けていてから、ダーネーが言った。
「印象的ではございませんか、ダーネーさん?」とリューシーが尋ねた。「時々、私は、夕方などにここに腰掛けておりますと、空想するんでございますが、――けれども、今夜は、何もかもこんなに暗くって
「私たちにもぞっとさせて下さい。どんな空想だかどうか私たちに知らしていただきたいものですねえ。」
「あなた方には何でもないことに思われますでしょう。そういう幻想は、私たちがそれを自分で作り出した時だけ印象的なのだと、私思いますわ。それは
「もしそうなるとすると、いつかはわれわれの生活の中へ大群集が入って来る訳だ。」とシドニー・カートンが、いつものむっつりした言い方で、口を挟んだ。
足音は絶間がなかった。そしてそれの急ぐ様はますます速くなって来た。この一劃はその足の歩く音を反響し更に反響した。窓の下を通ると思われるものもあり、室内を歩くと思われるものもあり、来るものもあり、行くものもあり、突然止むものもあり、はたと立ち止るものもあり、すべては遠くの街の足音であって、見えるところにあるものは一つもなかった。
「あの足音がみんな私たちみんなのところへ来ることになっているのですか、
「私存じませんわ、ダーネーさん。馬鹿げた空想だと申し上げましたのに、あなたが聞かしてくれと仰しゃいましたんですもの。私がその空想に耽りますのは、私が独りきりでおります時なので、その時は、その足音を私の生活と、それから私の父の生活の中へ入って来る人たちの足音だと想像したのでございました。」
「僕がそいつを僕の生活の中へ引受けてあげますよ!」とカートンが言った。「僕は文句なしで無条件でやります。やあ、大群集がわれわれに迫って来ますよ、
「それから僕には彼等の音が聞える!」と彼は、一しきりの雷鳴の後で、再び附け加えた。「そら、来ますよ、速く、凄じく、猛烈に!」
彼の前兆したのは雨の襲来と怒号とであって、その雨が彼の言葉を
「何という晩だったろう! なあ、ジェリー、」とロリー氏が言った。「死人が墓場からでも出て来かねないような晩だったね。」
「わっしは、そんなことになりそうな晩てえのは、自分じゃ見たことがありませんよ、旦那。――また、見たいとは思いませんや。」とジェリーが答えた。
「おやすみなさい、カートン君。」とその事務家は言った。「おやすみなさい、ダーネー君。わたしたちはいつかもう一度こういう晩を御一緒に見ることがありましょうかなあ!」
おそらく、あるだろう。おそらく、人々の大群集が殺到しつつ怒号しつつ彼等に追って来るのをもまた、見ることがあるだろう。
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