第二章
「お前はもちろんオールド・ベーリー★をよく知っているね?」とこの上もなく年をとった事務員の一人が走使いのジェリーに言った。
「へえい、旦那。」とジェリーはどこか強情な様子で答えた。「ベーリーは知っておりますとも」
「あ、そうだろう。それからお前はロリーさんを知ってるな。」
「ロリーさんなら、旦那、わっしはベーリーを知ってるよりはよっぽどよく知ってますよ。実直な商売人のわっしがベーリーを、」とその問題の役所へ不承不承に出頭した証人に似なくもないように、ジェリーは言った。「知りたいと思ってるよりはよっぽどよく知ってまさあ。」
「よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。」
「法廷へですか、旦那?」
「法廷へだ。」
クランチャー君の二つの眼はお互に更に少しずつ近よって、「こいつあお
「わっしは法廷で待っているんですかい、旦那?」と彼は、眼と眼のその相談の結果として、尋ねた。
「今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。」
「それだけなんですか、旦那?」
「それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。」
老事務員が手紙を丁寧に
「
「叛逆罪さ!」
「それじゃあ
「それが法律だよ。」と老事務員は、びっくりしたような眼鏡を彼に向けながら、言った。「それが法律だよ。」
「人間に
「そんなことはちっともないさ。」と老事務員は返答した。「法律のことを悪く言うものじゃない。自分の胸にあることと声にすることに気をつけるんだよ、ねえ、お前。そして法律のことは法律にまかせておくがいい。それだけの忠告をわたしはお前にしてあげるよ。」
「わっしの胸と声に宿ってるものってのは、旦那、湿気でさあ。」とジェリーは言った。「わっしの暮し方がどんなに
「うむ、うむ、」と老行員は言った。「わたしたちはみんなさまざまな暮しの立て方をしてるんだよ。湿っぽい暮しの立て方をしている者もあれば、
ジェリーは手紙を受け取った。そして、表面に見せかけているほどには内心では敬意を持たずに、「そういうお前さんだって
その時代には、絞刑はタイバーン★で行われていたので、ニューゲートの外側のかの街は、その後にそこの
この忌わしい所業の場所のあちらこちらに散らばっている不潔な群集の中を、こそこそと道を歩くことに慣れた人間の巧妙さでうまく通り抜けて、例の走使いの男は自分の探している戸口を見つけ出した。そして、そこの
しばらくぐずぐず遅滞していた後に、
「何が始ってるんです?」と彼は自分の隣に居合せた男に小声で尋ねた。
「まだ何も。」
「何が始るとこなんですか?」
「叛逆事件でさ。」
「四つ裂きの事件ですね、え?」
「ああ!」とその男はさも楽しみそうに答えた。「あいつは
「もし有罪ときまったら、って言うんでしょう?」とジェリーは但書と言ったような意味で附け加えた。
「いや、なあに! きっと有罪になりますよ。」と相手が言った。「そいつあ心配するにゃあ及びませんや。」
この時、クランチャー君の注意は、さっきの手紙を片手に持ってロリー氏の方へ歩いて行くのが見える門番に
「あの人はこの事件にどんな関係があるんですかい?」とジェリーのさっき口を利いた男が尋ねた。
「わっしはまるで知らねえんで。」とジェリーが言った。
「じゃあ、こんなことをお訊きしちゃ何だが、あんたはこの事件にどんな関係があるんですかね?」
「そいつもまるっきり知らねえんで。」とジェリーは言った。
裁判官が入場し、それに続いて法廷内に非常なざわめきが起ってやがて鎮まってゆき、それらのために二人の対話は中止された。ほどなく、被告席が興味の中心点となった。今までそこに立っていた二人の看守が出て行き、やがて囚人が連れ込まれて、被告席に入れられた。
天井を眺めている例の
こういうすべての凝視と咆哮との対象というのは、日に
この人間を見つめたりこの人間に呶鳴ったりする人々の興味は、人間性を高めるような種類のものではなかった。彼がこれほどの怖しい判決を受ける危険に臨んでいるのでなかったなら――その判決の残忍な細目の中のどれか一つでも免ぜられる見込があるのだったら――それだけ大いに彼は自分の魅力を失ったことであろう。あのように言語道断な切りさいなまれ方をされる宣告を受けることになっている人間の姿、それが
法廷内はしいんとする! チャールズ・ダーネーは、彼を告発した(際限のないべちゃくちゃしたおしゃべりをもって)起訴に対して、昨日無罪の申立をしたのであった。その告発というのは、彼はわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の君主なるわが国王陛下に対する不忠の叛逆者であって、その理由とするところは、彼は、種々の機会に、種々の手段と方法とをもって、フランス国王リューイスが上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下に対してなせる戦争★において、彼リューイスを援助したのである。すなわち、彼は、上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下の領土と、上述のフランスのリューイスの領土との間を往復し、上述ののわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下が
その場にいるすべての人々の心の中で絞首され、斬首されて、四つ裂きにされていた(そして彼自身もそのことは知っていた)被告は、そうした立場にひるみもしなければ、そうした立場にあって少しでも芝居じみた態度を
囚人の頭の上には鏡があって、彼に光を投げ下すようになっていた。これまでに幾多の悪人や幾多の卑劣漢がその鏡に映されては、その鏡の表面からもこの地球の表面からも共に姿を消してしまったのであった。大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を出すことになっているように★、もしその鏡がそれに映った姿をいつか元へ戻すことが出来るならば、この厭わしい場所は実に物凄い幽霊屋敷となることであろう。恥辱不名誉という思いが、それのために鏡はそこに置いてあったのだが、その囚人の心にもちらりと浮んだのかもしれない。それはともかく、彼は姿勢をちょっと変えると、自分の顔に射した一条の光に気づいて、上を見た。そして鏡を見た時に彼の顔はさっと赧らみ、彼の右の手は薬草を押し除けた。
その動作は、偶然、彼の顔を、法廷の彼の左手に当る側へ向かせたのであった。彼の眼と同じ高さのあたりに、裁判官席のそこの隅に、二人の人が腰掛けていて、彼の視線はただちにその人たちに
見物人は、その二人の人物が、二十歳を少し出た若い婦人と、明かに彼女の父親である一紳士とであることを知った。その紳士というのは、頭髪の真白な点と、顔に一種名状しがたい強さがある点とで、極めて目に立つ外貌の男であった。強さと言っても活動的な強さではなくて、沈思黙考しているような強さであった。この表情が現れている時には、彼はあたかも老人であるかのように見えた。が、その表情が掻き動かされて消え去る時――ちょうど今も彼が自分の娘に話しかける際にたちまちそうなったように――には、彼はまだ人生の盛りを越えていない立派な男に見えるようになった。
彼の娘は彼の傍に腰掛けながら、片手を彼の腕に通し、片方の手をその腕に押しつけていた。彼女は、この場の光景の恐しさと、囚人に対する同情とで、父親にひしと寄り添っていた。彼女の
走使いのジェリーは、それまで自己特有の流儀に自己特有の観察をしていて、夢中の余りに自分の指についている鉄銹をしゃぶり取っていたが、その二人が何者であるかを聞こうとして頸を差し伸ばした。彼の近くにいた群集が、その質問を、その親子の一番近くにいる傍聴者の方へだんだんと押し送っていた。そしてその傍聴者のところからそれはいっそうのろのろと押し送られて戻って来て、ようやくジェリーのところに著いた。――
「証人だとさ。」
「どちら側の?」
「反対側の。」
「どっち側に反対の?」
「被告側にだってさ。」
検事長閣下が絞首索を

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第三章
検事長閣下は陪審官に向って次のようなことを告げなければならないと言った。諸君の面前にいる被告人は、年こそ若いが、死刑に価する叛逆の術策では極めて老獪である。彼が吾々の公敵と通信していることは、
検事長の論告が終ると、法廷内ががやがやして来た。それはあたかも雲霞のような大きな青蠅の
次席検事閣下が、それから、彼の指導者の指導に従って、かの愛国者を審問した。名はジョン・バーサッド、紳士である。彼の純潔な精神の物語は検事長閣下がさっき述べたところと寸分の違いもなかった。――それに何か欠点があったとすれば、おそらく、いささか寸分の違いもなさ過ぎたことであろう。彼はその高潔な胸中の重荷を卸してしまったので、つつましげに引下ったであろうが、ロリー氏から遠くないところに腰掛けている、書類を前にした、あの
君はかつて自分で
かの謹直な従僕、ロジャー・クライは、非常な速度でさっさと宣誓しては証言して行った。自分は四年前から誠実にかつ純樸に被告に奉公していたのである。カレー通いの郵船の中で、自分は被告に向って小用
青蠅がまたぶんぶん唸った。そして検事長閣下はジャーヴィス・ロリー氏を呼んだ。
「ジャーヴィス・ロリー氏、あなたはテルソン銀行の事務員だね?」
「そうです。」
「一千七百七十五年の十一月のある金曜日の夜、あなたは用向でロンドンとドーヴァーとの間を駅逓馬車で旅行しましたか?」
「しました。」
「その駅逓馬車には
「二人ありました。」
「その二人は夜の間に途中で降りましたか?」
「降りました。」
「ロリー氏、被告を見なさい。被告はその二人の乗客の中の一人ではなかったか?」
「そうであったとお
「被告はその二人の乗客の中のどちらかに似てはいませんか?」
「二人ともすっかり身をくるんでおりましたし、
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。被告がその二人の乗客のしていたように身をくるんでいると仮定して、彼のかっぷくと身長とに、彼がその中の一人でありそうにもないと思わせるようなところがありますか?」
「いいえ。」
「ロリー氏、あなたは被告がその中の一人ではなかったとは誓わないんですな?」
「それは誓いません。」
「それでは少くともあなたは彼がその中の一人であったかもしれぬと言われるんですね?」
「そうです。ただ一つ違いますのは、その二人とも――私と同様に――追剥を
「あなたはいかにも臆病らしく見える人間というのを見たことがありますか、ロリー氏?」
「確かにそういう人間を見たことがございます。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。あなたの確かに知っておられるところでは、あなたは以前に彼に逢ったことがありますか?」
「あります。」
「いつです?」
「私はそれから数日後にフランスから帰ろうといたしましたが、カレーで、被告が私の乗っておりました定期船に乗船して参りまして、私と一緒に航海をいたしました。」
「
「夜半少し過ぎに。」
「真夜中にだね。そんな時ならぬ時刻に乗船した乗客は被告一人だけでしたか?」
「偶然にも被告一人だけでした。」
「『偶然にも』などということはどうでもよろしい、ロリー氏。その
「そうでした。」
「あなたは一人で旅行していたのですか、ロリー氏、それとも誰か
「二人の
「その二人はここにおられるのだね。あなたは被告と何か話をしましたか?」
「ほとんどしません。天候は荒れておりましたし、その航海は長くかかって海が荒れましたので、私はほとんど岸から離れて岸に著くまで
「
さっきも場内のすべての眼がその方へ振り向き、今また再び振り向けられた、かの若い婦人は、自分の腰掛けていた場所に立ち上った。彼女の父親も一緒に立ち、自分の片腕に彼女の片手を通したままにしていた。
「
そういう同情と、またそういう真心のこもった若さと美しさとに対することは、その被告にとっては、場内のすべての群集と対するよりも遥かにつらいことであった。いわば自分の墓穴の
「
「はい。」
「どこで?」
「ただ今お話に出ました定期船の中で。同じ折に。」
「あなたは今話に出た若い御婦人ですね?」
「はあ! ほんとに不仕合せなことに、さようなのでございます!」
彼女の同情から出たその悲しげな
「
「はい。」
「それを思い出して御覧なさい。」
深い静けさの中で、彼女は弱い声で言い始めた。――
「あの紳士が乗船なさいました時に――」
「あなたは被告のことを言っておられるのか?」と裁判官は眉を
「はい、閣下。」
「では被告と言いなさい。」
「被告が乗船して参りました時に、被告は、私の父が、」と彼女は傍に立っている父親に自分の眼を愛情をこめて向けながら、「たいそう疲労していまして、
「ちょっと話の途中ですが。被告は一人だけで乗船したのですか?」
「いいえ。」
「何人被告と一緒にいましたか?」
「フランスの紳士が二人でした。」
「三人で一緒に相談していましたか?」
「フランスの紳士たちが御自分たちの
「この明細書に似た何かの書類が、彼等の間で遣り取りされていませんでしたか?」
「何か書類がその人たちの間で遣り取りされておりました。けれどもどんな書類だか私は存じません。」
「形や寸法がこれに似ていましたか?」
「そうかもしれません。でもほんとうに私は存じませんの。その人たちは私のごく近くでひそひそ話をしながら立っていらしたのではございますけれども。と申しますのは、その人たちは船室の昇降段の一番上のところに立っていらしたのですから。それはそこに
「では、被告の話したことについて言って下さい、
「被告は、私の父に対して親切で、好意を持って、いろいろ世話をして下さいましたように、私にも打解けて何でも話して下さいました。――それは私の頼りない境遇から起ったことでございましょうが。私は、」とわっと泣き出して、「
青蠅がぶんぶん唸る。
「
「被告は、私に、自分はある面倒なむずかしい性質の用事で旅行しているのだが、その用事はいろいろの人に迷惑をかけることになるかもしれない、だから自分は変名を使って旅行しているのだ、と話しました。また、自分はその用事のために数日前にフランスへ行って来たのだが、これから先も永い間そのために折々フランスとイギリスとの間を行ったり来たりすることになるかもしれない、と申しました。」
「被告はアメリカのことについて何か言いましたか、
「被告はあの戦争がどうして起るようになったかということを私に説明してくれようといたしました。そして、自分の判断し得る限りでは、あれはイギリス側が間違った愚かな戦争をやったのだ、と申しました。また、常談のように、たぶんジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世とほとんど同じくらいの偉大な名声を残すだろう★、と言い足しました。でも、その言い振りには少しも悪気はございませんでした。それは、笑いながら、時間を
芝居の非常に興味のある場面で、多くの眼の注がれている主役俳優の顔に、何か強く目立つ表情が現れるたびに、その表情は見物人に無意識の中に模倣されるものである。彼女がこの証言を述べている時にも、また、それを裁判官が書き留めている間彼女が言葉を切っている合間に、その証言が弁護士に与える印象がよいか悪いかを注視している時にも、彼女の
検事長閣下はこの時裁判長閣下に、念のためと、また形式上から、この若い婦人の父マネット医師を呼び出すことを必要と認める、ということを知らせた。それで彼が呼び出された。
「
「一度だけ。彼がロンドンの私の寓居へ訪ねて来ました時に。約三年か、三年半ばかり前。」
「あなたは彼があの郵船にあなたと同船した乗客に相違ないと認めることや、あるいはあなたの令嬢と彼との会話について話すことが出来ますか?」
「閣下、私にはどちらも出来ません。」
「あなたがそれをどちらも出来ないということには何か特別の理由がありますか?」
彼は、低い声で、答えた。「あります。」
「あなたは、あなたの生国で、公判も、告発さえも受けずに、永い間の監禁を受けるという不幸な目に遭われたのですか、
彼は、あらゆる人の心を動かす語調で、答えた。「永い間の監禁でした。」
「あなたは今問題になっている折に釈放されたばかりだったのですか?」
「皆が私にそう申しております。」
「その折の記憶が少しもありませんか?」
「少しも。私が監禁の身で靴造りに従事しておりましたある時――それがいつであるかということさえ私には言えないのでありますが――その時から、ここにおります可愛いい娘と一緒に自分がロンドンに暮しているのだと気がつきました時まで、私の心は白紙なのです。お恵み深い神さまが私の心の力を囘復して下された時には、娘は私とごく親しくなっておりました。しかし、どんな風にして親しくなって来たのかということを申し上げることさえ私には全く出来ないのです。それまでの経路については少しも記憶がありません。」
検事長閣下は腰を下し、そしてその父と娘とは一緒に腰を下した。
一つの奇妙な事柄がその次にこの事件に生じた。目下の目的は、被告が、まだ逮捕されない誰かある共犯者と共に、五年前の十一月のその金曜日の晩にドーヴァー通いの駅逓馬車に乗って出かけたが、人目をごまかすために、
「君はそれが確かに被告であったということを十分に確信していると今一度言えますね?」
その証人はそれを十分に確信していると言った。
「君はこれまでに誰でも被告に非常に似た人を見たことがありますか?」
被告と見違えるくらいに似た人は見たことがない(と証人が言ったのであるが)とのこと。
「では、あの紳士、あそこにいるわたしの同僚を、」とさっき紙を投げてよこした男を指さしながら、「よく見たまえ。それから次に被告をよく見たまえ。どう思います? 二人は互に非常に似ていやしませんか?」
二人をそうして見比べてみると、その同僚弁護士の風采が放埓なというほどではないにしても無頓著でじだらくなのを差引すれば、二人が互に非常に似ていることは、証人ばかりではなく、その場に居合せたすべての人を驚かすに十分であった。裁判長閣下が、
クランチャー君は、ずっと今までの証言を聴きながら、この時分までには自分の指から全く一


ストライヴァー氏はそれから自分の方の数人の証人を呼び出し、そしてクランチャー君は、次には、検事長閣下がストライヴァー氏がさっき陪審官に合せて造った衣服をそっくり裏返しにしてゆくのを、傾聴しなければならなかった。検事長閣下は、バーサッドとクライとが彼の考えていたよりも百倍も善良であり、被告が百倍も悪人であることを述べ立てた。最後に、裁判長閣下自身が立って、その衣服を時には裏返しにしたり、また時には表返しにしたりしたが、だいたいにおいて、それを被告の屍衣になるようにてきぱきと裁って型をつけて行った。
それから今度は、陪審官たちが審議するために向うへ向き、例の大蠅がまた群って来た。
これまであのように永い間法廷の天井を眺めながら腰掛けていたカートン氏は、この騒ぎの中にあってさえ、座席も変えなければ姿勢も変えなかった。彼の同僚弁護士のストライヴァー氏は、自分の前にある書類を一纒めにしながら、近くに腰掛けている人々と私語したり、時々は陪審官の方を心配そうにちらりと見たりしていたし、すべての観客は多少とも移動したり、新たに集団を造ったりしていたし、裁判長閣下でさえ、その席から立ち上って、壇上をゆっくりと往ったり来たりして歩いていて、観衆の心に裁判長も興奮しているのではなかろうかと疑わせないではなかったのに、この一人の男だけは、
だが、このカートン氏は、場内の細かなことを、見掛よりはもっと呑込んでいるのだった。というのは、マネット嬢の頭が父親の胸へがくりと垂れた時に、彼は、それを見つけて、聞き取れる声で「守衛! あすこの若い婦人を介抱してあげろ。あの紳士に手伝って外へ連れ出してあげるんだ。あの婦人が倒れようとしているのがわからんか!」と言った最初の人であったから。
彼女が連れ去られた時に、人々は彼女を大いに不憫がった。また彼女の父親に大いに同情した。自分の監禁の時代を思い出させられることは、彼には明かに非常な苦痛であったのだろう。彼は訊問を受けた時に強烈な内心の動揺を色に現した。そして、彼を老人に見えさせるあの思いに沈んだような考え込んでいるような様子は、それ以来ずっと、重苦しい雲のように、彼に蔽いかかっていたのであった。彼が出て行った時に、向き直ってちょっと待っていた陪審官は、陪審長を通じて発言した。
彼等は意見が一致しないので、退廷して協議したいと希望した。裁判長閣下は(たぶん例のジョージ・ウォシントンの件を心に思い浮べていたのであろう)彼等の意見が一致しないということに幾分驚いた様子を示したが、監視附きで退廷してもよろしいという意向を告げて、自分も退廷した。公判は終日続き、やがて法廷内のランプが
ロリー氏は、さっきあの若い婦人とその父親とが出た時に外へ出て行っていたが、この時再び入って来て、ジェリーを手招きした。ジェリーは、興味が弛んで人が減っていたので、
「ジェリー、お前何か食べたいなら、食べに行ってもいいよ。だが、遠くへは行かないようにな。陪審官が入って来る時には間違いなく聞いていてほしいのだ。ちょっとでも陪審官に遅れちゃいけないよ。その評決をお前に銀行まで持って帰ってもらいたいんだからね。お前はわたしの知ってる中じゃ一番足の
ジェリーはちょうど指の
「あの御婦人はいかがです?」
「非常に苦しんでおられます。が、お父さんがいたわっておられますし、法廷から出たのでそれだけ気分がよいようですよ。」
「僕が被告にそう話してやりましょう。あなたのような体面を重んずる銀行員が、公然と被告と口を利いているのを見られては、よくないでしょうからねえ。」
ロリー氏は、あたかも自分が心の中でその点を考えていたことに気づいたかのように、顔を赧らめた。それでカートン氏は被告人席の外側の方へ歩いて行った。法廷の出口もその方向にあったので、ジェリーは体中を眼にし、耳にし、
「ダーネー君!」
囚人はすぐに進み出て来た。
「君はもちろんあの証人の
「私がその原因であったことを非常にすまなく思っています。私の代りにあなたからあの
「ああ、出来るよ。君が頼むなら、伝えてやろう。」
カートン氏の態度はほとんど横柄と言ってもいいくらいに無頓著であった。彼は、囚人から半ば身をそむけて、被告人席に片肱で凭れかかりながら、立っていた。
「ぜひお頼みします。私の心からの感謝を受けて下さい。」
「ダーネー君、」とカートンは、やはり半ばだけ彼の方へ向きながら、言った。「君はどうなると思っているかね?」
「最悪の事を予期しています。」
「そう予期しているのが一番賢明だし、また一番ありそうなことだね。だが、陪審官たちが退出したことは君に有利だと僕は思うな。」
法廷の出口にぶらぶらしていることは許されなかったので、ジェリーは、それ以上は聞かずに、その二人――容貌では互に実に似ていながら、態度では互にまるで似ていない――両人とも上にある鏡に姿を映しながら相並んで立っている――を後に残して出て行った。
階下の盗賊や悪漢などの雑沓しているような廊下では、一時間半という時間は、羊肉パイとビールとの助けを藉りて過してさえ、のろのろとたって行った。その
「ジェリー! ジェリー!」彼が戸口のところまで行くと、ロリー氏はそこで既に彼を呼んでいた。
「ここです、旦那! 戻って来ますなあまるで戦争でさあ。ここにおりますよ、旦那!」
ロリー氏は人込みの間から一枚の紙を彼に手渡しした。「大急ぎでな! お前受け取ったか?」
「へえ、旦那。」
その紙に急いで書いてあったのは「放免」という語であった。
「もしあんたがもう一度あの『
彼はオールド・ベーリーをすっかり出てしまうまでは、それ以外に何かを言う機会は、あるいは何かを考える機会さえも、なかった。なぜなら、群集は彼の足をさらいそうなくらいの猛烈な勢でどっと押し出していたし、
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第四章 祝い
法廷の薄暗い灯火のついている廊下から、終日そこで煮られていた人間の
そこよりはもっとずっと明るい明りで見ても、面貌の理智的な、挙止の端正なマネット医師が、パリーのあの屋根裏部屋にいた靴造りだと認めることは、むずかしかったであろう。けれども、誰でも彼を二度目に見ると、おやっと思って彼を見直さずにはいられなかったろう。もっとも、そうしたところで、まだ、彼の低い沈んだ声の物悲しい調子や、何も明かな原因もなしに発作的に彼に覆いかぶさる放心状態までは、観察する機会は来なかったであろうが。ただ一つの外部からの原因、それは彼のあの永年の間の永引いた苦しみに話が触れることであったが、それはいつでも――さっきの公判の時のように――彼の魂の奥底からそういう状態を喚び起すのであった。が、一方、その状態はまたその性質上ひとりでに起って、彼の上に暗雲を曳いて来ることもあった。それは、彼の身の上をよく知らない人々にとっては、まるで、三百マイルも離れたところにある本物のバスティーユ★が夏の太陽を受けて彼の上に投げかける影を見たかのように、不可解なことだった。
彼の心からこの陰鬱な物思いを払い除ける魅力を持っているのは彼の娘だけであった。彼女は、彼をその災難の
ダーネー氏は熱情と感謝とをこめて彼女の手に接吻し、それからストライヴァー氏の方へ振り向いて、彼に厚く礼を言った。ストライヴァー氏は、三十を少し越しただけだが、実際よりは二十歳も
彼はまだ
「私は一生御恩に
「わたしは君のためにわたしの
「劣るどころかずっと
「あなたはそうお考えですかね?」とストライヴァー氏は言った。「なるほど! あなたは一日中出席しておられたんだから、御存じのはずだ。それに、あなたは事務家ですからなあ。」
「ところでその事務家としまして、」とロリー氏が言った。彼は、その法律に精通した弁護士に先刻その一団から肩で押し出されたようにして、今度はその一団の中へ肩で押し戻されていたのである。――「その事務家としまして、私は
「御自分だけのことを話しなさい、ロリーさん。」とストライヴァーが言った。「わたしはまだしなけりゃならん夜の仕事があるんだ。御自分だけのことを話しなさい。」
「私は、自分のためと、」とロリー氏は答えた。「それからダーネー君に代って、申すのです。それからリューシーさんにも代って、それからまた――。リューシーさん、あなたは私が私どもみんなに代って話してもいいとお考えになりませんか?」彼はきっぱりと彼女にそう尋ねて、彼女の父親にちらりと目をやった。
彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で見つめていわば凍ったようになっていた。そのじっと見入った眼付はだんだんと深まって、嫌悪と疑惑との
「お父さま。」とリューシーは、自分の手をそっと彼の手に載せながら、言った。
彼は幻影をゆっくりと払い除けて、彼女の方へ振り向いた。
「あたしたちはお
長い息をつきながら、彼は答えた。「うむ。」
放免された囚人の友人たち★は、彼がその晩釈放されることはあるまいと考えて、――そう考えたのは彼自身が発頭人なのであったが、――もう散り散りになってしまっていた。廊下の灯火はほとんど全部消され、鉄の門はぎいっと軋り音を立てて鎖されかけ、その気味の悪い場所は、明日の朝、絞首台や、架刑台や、笞刑柱や、
ストライヴァー氏は廊下で皆と別れて、肩で風を切って衣裳室へと引返して行ってしまっていた。その一団に加わりもせず、また彼等の中の誰とも一語を
「やあ、ロリーさん! 事務家ももう今じゃあダーネー君と口が利けるようになったという訳ですかな?」
誰一人としてこの日の弁論におけるカートン氏の役割について少しでも感謝の意を表した者はなかった。誰一人としてそれを知りもしなかった。彼は法服を脱いでいたが、そのために別段風采がよくなっているという訳でもなかった。
「事務家の心が善良な直情と事務上の体面との二つに分れる場合に、その人がどんなつらい思いをするものかということが君にわかれば、君も面白がるんだろうがね、ダーネー君。」
ロリー氏は顔を赧くして、むきになって言った。「あなたはさっきもそのことを仰しゃいましたね。会社などへ勤めているわれわれ事務家は、自分が自分の思い通りにならんのですよ。われわれは自分自身のことよりももっと会社のことを考えなくちゃあならんのです。」
「わかってますとも、わかってますとも。」とカートン氏は無頓著に答えた。「そう怒っちゃいけませんよ、ロリーさん。あなたが人に劣らない善い人だってことは、僕は少しも疑いませんよ。いや、人より以上に、と言ってもいいでしょう。」
「それにですな、実際、」とロリー氏は、相手の言うことにも構わずに、言い続けた。「わたしにはあなたがそういう事柄にどういう関係がおありになるのか全くのところわからんのです。わたしはあなたよりはよっぽど年長者だから、それに免じて言わしてもらえるならですな、そういうことがあなたの関する事務だとはわたしには全くわからんのです。」
「事務ですって! とんでもない、僕には事務なんてものはありゃしませんよ。」とカートン氏が言った。
「事務がないとはお気の毒なことですな。」
「僕もそう思います。」
「もしおありでしたら、」とロリー氏は言い続けた。「たぶんあなただってそれに身をお入れになるでしょうがね。」
「いやいや、どういたしまして! ――身を入れるものですか。」とカートン氏が言った。
「えっ、何ですって!」と、彼の冷淡さにすっかりかんかんになって、ロリー氏は叫んだ。「事務は非常に結構なものですし、また非常に尊敬すべきものです。それでですな、事務上から拘束を受けて黙っていたり差控えていたりしなければならないとしても、ダーネー君のような寛大な青年紳士は、その辺の事情を大目に見られることなどはちゃんと心得ておられるのです。ダーネー君、おやすみなさい。御機嫌よう! あなたが
その弁護士にと同様にたぶん自分自身にも少し腹を立てて、ロリー氏はせかせかと轎に乗って、テルソン銀行へと担がれて行った。ポルト葡萄酒★の匂いをぷんぷんさせて、全くの
「君と僕とが落合うとはこれあ不思議な

「私にはまだ、」とチャールズ・ダーネーが答えた。「この世へ戻ったような気が十分しないのです。」
「そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。」
「私は確かに気が遠くなりそうな気がして来ました。」
「それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか――この世か、それともどこか別の世か――と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。」
腕と腕とを組み合せながら、彼は相手の男をひっぱって、ラッドゲート・ヒル★を下ってフリート街に出て、それから、廊道を上って一軒の飲食店へ入った。そこで二人は小さな一室に案内され、チャールズ・ダーネーは上等のあっさりした食事と上等の葡萄酒とでまもなく力を恢復していた。その間カートンは同じ
「君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?」
「私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。」
「それはさぞかし御満足だろうね!」
彼は
「ところが僕はだ、僕の何よりの願いは、自分がこの世のものだということを忘れたいということなんだ。この世は僕にとっては――こんな酒を除けばだね――何のいいところもないし、また、僕もこの世にとってはそうなんだ。だから、その点では僕たちは大して似ちゃあいないんだな。いや、そればかりか、僕たちはどの点でも大して似ていないような気がして来たよ、君と僕とはね。」
「さあ、もう君の食事もすんだのだから、」とカートンはやがて言った。「なぜ君は健康を祝さないのさ、ダーネー君? なぜ君は乾杯をしないんだい?」
「何の祝杯を? 何の乾杯を?」
「なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。」
「では、
「では、
その乾杯をしている間相手の顔をまともに眺めていたカートンは、自分の杯を肩越しに壁に投げつけた。杯は粉微塵に砕けた。それから、彼は
「あれなら暗がりで手を貸して馬車に乗せてやりがいのある美人だね、ダーネー君!」と彼は、新たな杯に酒を
ちょっと眉を
「あれなら同情されたり泣いてもらったりされがいのある美人だよ! どんな気持がするかなあ? ああいう美人の同情と憐憫の対象になるのなら、命がけで裁判されるだけの値打があるかね、ダーネー君?」
もう一度ダーネーは一
「あの
こう言われたことから、ダーネーは、この不愉快な相手が昼間の難関で我から進んで自分を助けてくれたことを、折よく思い出した。それで彼は話をそこへ向けて、彼にその礼を言った。
「僕はどんな礼だって言ってほしくもなければ、言ってもらうだけの資格もないのさ。」というのがその無頓著な応答だった。「第一に、あれは何でもないことだし、第二には、僕はなぜあんなことをしたのか自分でもわからないんだ。ダーネー君、僕は君に一つ尋ねたいことがあるんだがね。」
「どうぞ。あなたの御親切な御尽力に対してわずかな返礼ですが。」
「君は僕が君に特別に好意を持っていると思うかね?」
「全くのところ、カートン君、」と相手は妙に度を失って返答した。「私はそんなことを考えてみたことがないんです。」
「でも今ここで考えてみたまえ。」
「あなたはいかにも私に好意を持っておられるように振舞われました。が、好意を持っておられるとは私は思いません。」
「僕も自分が好意を持っているとは思わないんだ。」とカートンが言った。「僕は君の頭のよさにすこぶる敬服するようになったよ。」
「それにしても、」とダーネーは、
カートンが「そりゃあちっとも差支えはないとも!」と答えたので、ダーネーは
勘定書を払うと、チャールズ・ダーネーは立ち上って、カートンにおやすみを言った。その挨拶には返答せずに、幾らか
「あなたはだいぶお飲みになったと私は思いますがね、カートン君。」
「思うって? 君は僕が飲んでいたことは知っているじゃないか。」
「そう言わなければならないのでしたら、私はそのことを知っています。」
「ではなぜ飲むかってことも
「たいそう遺憾なことです。あなたは御自分の才能をもっと有効に御利用出来ますでしょうに。」
「そうかもしれんさ、ダーネー君。そうでないかもしれんさ。だが、君は酒を飲まんからっていい気になってちゃいけないぜ。どんなことになるか君だってわかりゃしないんだからね。おやすみ!」
一人だけになると、この不思議な人物は蝋燭を取り上げて、壁に懸っている鏡のところへ行き、それに映る自分の姿を綿密にうち眺めた。
「お前はあの男に特別に好意を持っているのか?」と彼は自分自身の姿に向って呟いた。「お前に似ている男だからといって特別に好意を持たなければならん訳があるのかい? 人に好意を持つなんてことはお前の
彼は心の慰めを一パイントの葡萄酒に求めて、それを数分のうちにすっかり飲み尽すと、それから両腕の上に突っ伏して寐込んでしまった。彼の髪の毛は
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