黒猫・黄金虫 |
新潮文庫、新潮社 |
1951(昭和26)年8月15日、1995(平成7)年10月15日89刷改版 |
1997(平成9)年第93刷 |
1998(平成10)年8月20日第94刷 |
黒猫
THE BLACK CAT
エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe
佐々木直次郎訳
私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす私は死ぬべき身だ。で、今日のうちに自分の魂の重荷をおろしておきたいのだ。私の第一の目的は、一連の単なる家庭の出来事を、はっきりと、簡潔に、注釈ぬきで、世の人々に示すことである。それらの出来事は、その結果として、私を恐れさせ――苦しめ――そして破滅させた。だが私はそれをくどくどと説明しようとは思わない。私にはそれはただもう恐怖だけを感じさせた。――多くの人々には恐ろしいというよりも怪奇なものに見えるであろう。今後、あるいは、誰か知者があらわれてきて、私の幻想を単なる平凡なことにしてしまうかもしれぬ。――誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
子供のころから私はおとなしくて情けぶかい性質で知られていた。私の心の優しさは仲間たちにからかわれるくらいにきわだっていた。とりわけ動物が好きで、両親もさまざまな生きものを私の思いどおりに飼ってくれた。私はたいていそれらの生きものを相手にして時を過し、それらに食物をやったり、それらを愛撫したりするときほど楽しいことはなかった。この特質は成長するとともにだんだん強くなり、大人になってからは自分の主な楽しみの源泉の一つとなったのであった。忠実な利口な犬をかわいがったことのある人には、そのような愉快さの性質や強さをわざわざ説明する必要はほとんどない。動物の非利己的な自己犠牲的な愛のなかには、単なる人間のさもしい友情や薄っぺらな信義をしばしば嘗めたことのある人の心をじかに打つなにものかがある。
私は若いころ結婚したが、幸いなことに妻は私と性の合う気質だった。私が家庭的な生きものを好きなのに気がつくと、彼女はおりさえあればとても気持のいい種類の生きものを手に入れた。私たちは鳥類や、金魚や、一匹の立派な犬や、兎や、一匹の小猿や、一匹の猫などを飼った。
この最後のものは非常に大きな美しい動物で、体じゅう黒く、驚くほどに利口だった。この猫の知恵のあることを話すときには、心ではかなり迷信にかぶれていた妻は、黒猫というものがみんな魔女が姿を変えたものだという、あの昔からの世間の言いつたえを、よく口にしたものだった。もっとも、彼女だっていつでもこんなことを本気で考えていたというのではなく、――私がこの事がらを述べるのはただ、ちょうどいまふと思い出したからにすぎない。
プルートォ――というのがその猫の名であった――は私の気に入りであり、遊び仲間であった。食物をやるのはいつも私だけだったし、彼は家じゅう私の行くところへどこへでも一緒に来た。往来へまでついて来ないようにするのには、かなり骨が折れるくらいであった。
私と猫との親しみはこんなぐあいにして数年間つづいたが、そのあいだに私の気質や性格は一般に――酒癖という悪鬼のために――急激に悪いほうへ(白状するのも恥ずかしいが)変ってしまった。私は一日一日と気むずかしくなり、癇癪もちになり、他人の感情などちっともかまわなくなってしまった。妻に対しては乱暴な言葉を使うようになった。しまいには彼女の体に手を振り上げるまでになった。飼っていた生きものも、もちろん、その私の性質の変化を感じさせられた。私は彼らをかまわなくなっただけではなく、虐待した。けれども、兎や、猿や、あるいは犬でさえも、なにげなく、または私を慕って、そばへやって来ると、遠慮なしにいじめてやったものだったのだが、プルートォをいじめないでおくだけの心づかいはまだあった。しかし私の病気はつのってきて――ああ、アルコールのような恐ろしい病気が他にあろうか! ――ついにはプルートォでさえ――いまでは年をとって、したがっていくらか怒りっぽくなっているプルートォでさえ、私の不機嫌のとばっちりをうけるようになった。
ある夜、町のそちこちにある自分の行きつけの酒場の一つからひどく酔っぱらって帰って来ると、その猫がなんだか私の前を避けたような気がした。私は彼をひっとらえた。そのとき彼は私の手荒さにびっくりして、歯で私の手にちょっとした傷をつけた。と、たちまち悪魔のような憤怒が私にのりうつった。私は我を忘れてしまった。生来のやさしい魂はすぐに私の体から飛び去ったようであった。そしてジン酒におだてられた悪鬼以上の憎悪が体のあらゆる筋肉をぶるぶる震わせた。私はチョッキのポケットからペンナイフを取り出し、それを開き、そのかわいそうな動物の咽喉をつかむと、悠々とその眼窩から片眼をえぐり取った。この憎むべき凶行をしるしながら、私は面をあからめ、体がほてり、身ぶるいする。
朝になって理性が戻ってきたとき――一晩眠って前夜の乱行の毒気が消えてしまったとき――自分の犯した罪にたいしてなかば恐怖の、なかば悔恨の情を感じた。が、それもせいぜい弱い曖昧な感情で、心まで動かされはしなかった。私はふたたび無節制になって、間もなくその行為のすべての記憶を酒にまぎらしてしまった。
そのうちに猫はいくらかずつ回復してきた。眼のなくなった眼窩はいかにも恐ろしい様子をしてはいたが、もう痛みは少しもないようだった。彼はもとどおりに家のなかを歩きまわっていたけれども、当りまえのことであろうが私が近づくとひどく恐ろしがって逃げて行くのだった。私は、前にあんなに自分を慕っていた動物がこんなに明らかに自分を嫌うようになったことを、初めは悲しく思うくらいに、昔の心が残っていた。しかしこの感情もやがて癇癪に変っていった。それから、まるで私を最後の取りかえしのつかない破滅に陥らせるためのように、天邪鬼の心持がやってきた。この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが掟であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持がいま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私をせっついたのは、魂の自らを苦しめようとする――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていればこそ、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていればこそ、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていればこそ、つるしたのだった。
この残酷な行為をやった日の晩、私は火事だという叫び声で眠りから覚まされた。私の寝台のカーテンに火がついていた。家全体が燃え上がっていた。妻と、召使と、私自身とは、やっとのことでその火災からのがれた。なにもかも焼けてしまった。私の全財産はなくなり、それ以来私は絶望に身をまかせてしまった。