彼は唇を噛みしめるようにしながら横を向いた。とそこの、三つばかり先のテーブルに、二十七八の美貌の婦人が、綺麗な左手の指を撓めながらこっちを視詰めていた。彼はその婦人に向けて眼をった。彼の全身はその婦人の指の恍惚感に沸騰した。
婦人は、彼の視線ですぐ横を向いてしまったが、暫く前からこっちを視詰めていたに相違なかった。そして彼女は、彼のした話のすべてを聞いたのだ。彼のした動作のすべてを視たのだ。彼はそれを感じて、指環を誇りながらあらゆる女の指を貶した今の自分を、その婦人の前に恥ずかしく思った。
婦人は悠長に、左の肘をテーブルの上に立てた。そして手首を鶴の首のように曲げてその上に頤を載せた。顔の白粉が手首の上に映るようだった。それから婦人は、左の手で器用にマッチを摺って、煙草に火をつけた。彼女の手の一本一本の指は、繊細な神経を持った生物のように動くのだった。
「お待ち遠うさま。」
給仕女がコーヒーを運んで来た。指の間に煙草を挟んだ婦人の手は、魚のように敏捷に角砂糖を撮んだ。そして婦人は銀のスプンで茶碗を掻き廻した。婦人の手の上に、ゆらゆらと銀光の陰影が絡んだ。
蝋石のように白く、靭かに細長い婦人の指を、彼は興奮状態で視詰め続けた。話をどう切り出したらいいだろう? あの指に、この指環を嵌めてもらうのに、どう言って頼むべきだろう? そんなことを考えて胸を跳らせながら……。
「おいくらです?」
婦人の手はコオトの中に潜り込んだ。その手はすぐに、帯の間から蟇口を銜えて来た。そして婦人の指は白い鳥の嘴のように、蟇口の中から銀貨を啄んで女給の前に吐いた。――彼は、仏蘭西へ渡る際に見た彰子の手よりも、より美しく立派な指を初めて見るのだった。
婦人は、鼠色の手袋を袂の中に押し込んで立ち上がった。カッフェを出ようとするのだ。彼はそれを見るとあわて出した。彼は急にポケットに手を突っ込んだ。
「おい! 勘定だ。ここへ置くよ。」
彼はテーブルの上に一枚の紙幣を投げつけて、婦人の後に引き付けられるようにして出て行った。
婦人は銀座の舗石道に出た。青や赤や黄や薄紫の燈光がゆらめく中に、漫歩する人々の足音が賑かに乱れていた。婦人は最初、時々背後の方を振り返りながら、漫然とした静かな歩調を尾張町の方へと向けていた。
彼はその後から、婦人のほっそりとした後姿を見失わない程度に離れて、後から後からと流れて来る漫歩者の肩の間を游いだ。あの綺麗な立派な指を見逃してはならないと思いながら……。あの指こそ、この指環のものだと考えながら……。が彼は、五十間とは歩かぬうちに婦人を見失ってしまった。
最初、婦人は彼の先に立って歩いていた。が間もなく、婦人は彼の背後を歩いていた。そして婦人を見失った彼は、時々立ち止まって背後を振り返ったり、背伸びをするようにしながら先を急いだりした。婦人は彼が背後を振り返ると、露店の前に立ち止まって店の品物などを見ていた。彼が背伸びを始めると、婦人は急ぎ足にそのすぐ背後まで追い付いて行った。彼は何度も背後を振り向く。彼女は素早くショー・ウインドーや露店に吸い付くのだ。
尾張町の街角まで来たとき、婦人がそこに停まっている自動車に乗り込んだように思った。彼は身体を横にして、そぞろ歩いている人々の肩の間を駈け抜けた。が、五六歩ほど飛んだとき、自動車は爆音をあげて走り出した。続いて交叉点の交通巡査がピリピリーを鳴らして信号器が赤燈に廻転した。
路を遮られて追っ駈けようの無くなった彼は、舌打ちをして四辺を見廻した。と、そこの足掻きをするような爆音を立てながら停まっている乗合自動車の横に、婦人が、何かを思い惑うようにして立っているのだ。自動車へ乗ったと思ったのは錯覚だったのだ。併し婦人は、驚異の眼をっている彼の顔を見ると、すぐに乗合自動車のステップに足をかけた。彼は、動き出したその乗合自動車に飛び縋った。
車内は山の手へ帰る人達で一杯だった。婦人は漸く中の方に腰をおろすことが出来た。彼は無理矢理に這入って行った。そして彼は婦人の前に立った。と、婦人は、彼の顔を見上げた。彼は浄い恥ずかしさを感じて、視線を距てるためにポケットから夕刊を抜いて拡げた。
併し、彼は夕刊を読むのでは無かった。彼の空想は婦人の美しい指の上で跳っていた。あの指の上でなら、この指環は、きっと素晴らしい芸術的な雰囲気を描き出すに相違ない。あの白い指の上で、青く赤く紫に、きらきらと、輝いて……。だが一体この話はどう切り出すべきだろう?……。
乗合自動車は停留所ごとに人溜まりを呑んで、身じろぎも出来ないほど詰め込んだ胃袋を揺す振りながら、ごとごと走った。靄に包まれた柳並木の濠端に沿うて、ヘッド・ライトの明るい触角を立てながら、日比谷から桜田門、三宅坂の方へと上って行った。
銀座はまだ賑わっていた。その裏露路だった。一方はコンクリートの上層建築。一方はトタン屋根のバラック。その薄暗い街燈の下で、婦人は一人の男と立ち話をしていた。男は毛の立ったハンチングを目深に冠って鼠色の二重廻しを着ていた。
「おかしいったらありやしないわ。先方では逆に、いつの間にか私の後をつけているらしい様子なのよ。今頃、また一所懸命に私を見つけてるかも知れないわ、きっと。可哀想に!……」
婦人は静かに笑いながら話していた。
「実際、おめえの手にかかっちゃ叶わねえな。全くおめえの指は素晴らしい指だよ。俺なんか、今夜はまだ蟇口一つだ。」
「しかも私のなんか、バスの中でなのよ。先様が一所懸命で私に注意しているそのチョッキの、内ポケットで拾ったんですからね。」
「うむ。素晴らしいもんだ。どれ、もう一度よく見せな。おめえの指先も素晴らしいが、それも大したもんじゃねえか。どれ、見せな。」
「見せてあげるけど、手をつけさせるわけには行かないわ。そら御覧。さあ!」
婦人は右手を高く上げた。その靭かな白い指の先に、素晴らしく大きな青光りのダイヤが、街燈の光線を受けて、青く赤く紫に、きらきらと光った。
――昭和四年(一九二九年)『新潮』八月号――
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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