佐左木俊郎選集 |
英宝社 |
1984(昭和59)年4月14日 |
惑いし途
私が作家として立とうと決心したのは、廿一の秋で、今から五年前の事である。そうと意志のきまるまでは、随分種々と他動的に迷わされていたが、私を決心に導いてくれたものは私の病気だった。
私は廿一の歳に二度病気をした。第一回目は関節炎で、神田の馬島病院に二週間入院して、弁護士の今村力三郎先生から――私はその頃、今村先生のお宅に書生をしていたのだが――入院料を百円程払って頂いた。第二回目は肋膜で、京橋の福田病院と赤十字病院に、両方で約五十日ばかりいた。この時には、今村先生は五六百円程払って下さった筈だ。
作家になろうと決心したのは、まだ福田病院にいた時の事で、或る若いお医者様から、癒っても二年ぐらいは、ぶらぶらして休養していた方がいいように聴かされたからであった。私は前々から文学に心を動かされていたのであったが、私の意志の薄弱なところへ持って来て四辺の人々がみんな、文学をやりたいという私の希望に不賛成だったので、私はそれまで学校を更えて見たり、目的を改めて見たりばかりしていた。だが、二年もぶらぶら遊ぶことになると、その間に独学ででも文学をやるとしたら、何か掴むところがあるだろうと思った。で到頭、文学をやることに決心した。
今村家で大変可愛がられていた私は、令息の学郎さんから、読みたいと言えば、大抵の本は求めてもらうことが出来たので、学校の方も一生懸命やる約束で求めてもらうのではあったけれども、私は学校の方は怠けて落第しそうになりながらも、文学の本ばかり読み耽っていた。馬島病院にいた頃にも、やはり学郎さんから種々な本を買ってもらって読んだ。福田病院では、附添に来てくれた美波さんという看護婦が文学好きだったので、私が未だ読書を制められていた頃から、毎日のように読んでもらっていた。そんなこんなのことが、私を文学へと引っぱって行った。
それに私は、前に学郎さんと一緒に甲州の方へ十日間ばかり旅行して、その時のことを学郎さんと二人で「甲斐の旅」という紀行文を作って、今村先生からほめられた事があった。それから、この年の二月、未だ病気をしなかった頃に、今村家を中心として拵えた「流汗主義」という論文的な文章を雑誌「樹蔭」に書いて、この時も今村先生からほめて頂いた。そうで無くてさえ、文学には有頂天だったのだから、佐々木にしてはうまいものだと言う今村先生のおほめを、自分で全かり佐々木はうまいものだ! にしてしまって、下手の横好きという俗諺の通りに、私は到頭、文章家として立とうと決心したのであった。大正九年の初秋、玉蜀黍の葉末に、秋らしい微風の音を聞く頃……。
病弱時代
赤十字病院を退院すると私はすぐに、大船の常楽寺に行って静養する事になった。そこには今村のお嬢さんが絵の稽古旁々松洲先生等と一緒に避暑に行っていたからであった。ところが私は、未だ文章家として立とうと決心したばかりなのに、病院にいるうちから書きたくて書きたくてむずむずしていた。病院からも、早く書いて見たくて、本当に未だ退院の出来ないのを無理に出てしまったのだった。だが松洲先生や[#「松洲先生や」は底本では「松州先生や」]お嬢さんは、私の身体のことを心配してくれて、読書さえも控え目にするように言ってくれた。しかし私は、矢も楯もたまらない程書いて見たくって、松洲先生やお嬢さんには隠れて、墓石の上や、草原の中で書いたりした。だが到頭見つかって、その時には自分でも、自分の身体の事を考えない野蛮的なのに顔を紅くした。それから暫く書くのを罷めていたが、やっぱり書かずにはどうしてもいられないような気がしたので、わざわざ山の中に隠れては書いて来た。
十月になって私は鎌倉へ越して行った――みんなは東京へ引き上げたから。私はここでも創作をすることを許されなかった。二カ月もいるうちに、二篇の短篇、五十枚ばかりきり書けなかった。毎日海岸に出ては、すっかりメランコリイになって泣いてばかりいた。そしてセンチメンタルな詩ばかり作っていた。
私は到頭郷里に帰って行くことにした。病弱な身体で寒い北国に行くことは、みんなから反対を受けた。だが私に取っては、思うままに書くことの出来ないのは、もっと辛かったのだ。そして暮れまでの約一カ月間に、三百枚計画の長篇小説を恰度半分書き上げた。機関車へ乗りたくって、北海道へ飛び出して行った時の事を書いたのだった。
郷里には五月の末までいたが、その間に十篇の短篇小説を書いた。その中の「石油びん」と「小鳥撃」の二篇は、生田春月氏の選で、「新興文壇」という小雑誌に載った。その時の嬉しさは未だに忘れられない。そして私は、田舎で書いた一篇の長篇と十篇の短篇を抱いて東京に出て来たが、また今村家の食客だった。
恩恵を棄て
私は何も書くことの出来ないのに堪えられなくなって、遂に今村家から飛び出して、通信事務員になったり裁判所の雇になったりして勉強はしていたが、読むだけで書くことが出来なかったので、作家になることを断念しようと思った。で或る日、室生犀星氏を訪ねて「顔を紅める頃」という短篇小説を見てもらったら、率直でいいが、もっと勉強しなければいけないと言われた。もっと読めというのであった。私はその言葉に力を得て読書に全力を注いだのであったが、遂にまた病気にかかってしまった。そして又おめおめと郷里に帰った。
郷里では、いい物笑いの的ではあったろうけれども、私は今度こそはという意気込みで、翌年の春までには、二つの長篇小説と、八つの短篇小説を書いた。病気はまもなく癒ったので、寒い吹雪の日も、火の無いところで書いたが、インキが凍るので困った。妹が同情して、自分の小遣い銭で炭を買ってくれた事もあった。父が原稿を書くことにあまり好意を持っていなかったので、原稿紙を買ってもらうことも出来ず、「流れ行く運命」という長篇は全部、小学校の教員をしている友人から、生徒が鉛筆で答案を書いた藁半紙をもらって、そこへ毛筆で書いた。インキを買う金も無かったので。
原稿紙だけでも欲しいだけ買いたいものだというので、私はまた東京へ出て来た。そしてまた裁判所の雇になったが、廿四円ばかりにしかならなかったので、今村の奥さんが宅に来るようにとすすめてくれるので、また図々しくやっては行ったが、今度は私も考えなければならなかった。で或る日、自分が文章家として立とうと思っている事を打ち明けた。無論、みんな反対だった。で私は、労働でもやろうと考えて、今村家から出て川口町の鉄工所へと行った。
その頃、私を今村家へ書生に入れてくれた、私の従兄弟の岡本という人が、東京市の工事担当員になっていたので、私は岡本さんの事務を手伝うことになった。鉄工所には一週間ぐらいしかいなかった。市役所に這入ってから、またまた芸術というものの真髄を掴みたいという野心が起こって、日大の美学科に籍を置いて、哲学とか美学とかいう様な学科に力を入れて見たが、結局、何物も掴み得ず秋になった。
秋になると私は、また無暗に書きたいので役所を怠けて書き出した。随って役所の方との関係が面白く無くなり、それと同時に、工科の学校へでも通うようにして、務めの方を真面目にやってほしいという、上の人達の強制的な要求だったので、私は遂に、文学から遠ざからない限りに於いては、失職者とならなければならなかった。私はちょっとの間路頭に迷っていた。――文学をやることが、どうしてこんなに皆から嫌われるのだろう? と私は思った。
恰度その頃、「現代公論」という政治雑誌が文芸欄を設けることになり、記者を募集しているのを新聞広告で知り、ことによったらと思って応募して見たらうまくパスし、探訪や編輯をやらされ、翌年の春まではそっちで食べていたようなものの、結局、得るところは四つか五つかの短篇を書き得たに過ぎなかった。
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