併し、地主の藤沢は、なかなかそれだけでは諦めきれなかった。その翌年、彼は吾亮に隠れるようにして移住開墾者の間を廻った。彼等は苦しい中から、幾分かずつを返済することにしたのだった。吾亮はそのことを後で聞いて、ひどく憤慨した。
「藤沢さん。そりゃあんまりじゃないかね? もう一二年の間、あなた、待てないこと無かったでしょう。一体、最初私になんと約束したんだ?」
吾亮は事務所へ出掛けて行って地主に詰め寄った。
「まあ岡本さん、穏やかに……私は決して無理にと言うのじやなくて、出来るならと、まあ話の序に話したのが、うまく成功したようなわけで……ですから、今度のところは、どうぞまあ、穏やかに見逃がしておいて下さいな。」
こう言って地主は、吾亮の、鋭い詰問と憤激に燃える眼とから遁れてしまうのだった。
併し藤沢は、抑えている間は縮んでいる発条のように、手を放すとすぐに原状に戻って、まもなくその時の恐怖感を忘れてしまうのだった。彼は貸した食糧が順調に戻って来るようになると、また別の話を岡本吾亮にまで持って来た。
「ね、岡本さん。この土地にも、そろそろ税金がかかるようになったんですがね。一つその、幾らでも一つその小作料を……」
話の途中で藤沢は吾亮の顔を見た。吾亮は何も言わずに、光る眼で藤沢の顔を視つめ続けた。そして吾亮は下唇を噛んだ。
「いや岡本さん、決して無理というのじゃないんですがね。なにしろその……」
「あなたは最初に、私へなんて約束したです?」
吾亮は太い錆のある声で叫ぶように言った。併し慾の深い人間にとって、新しい慾気を満たすためには、古い約束など全然問題ではないのだ。自尊心も道徳も愛情も、場合によっては自分の生命だって投げ出しかねないような人間なのだから。
「前の話は、前の話ですがね。併しその……」
「あなたは、道庁から取り上げられた積もりで、開墾した人にやると言ったじゃないですか? 何も私等だって、あなたからもらわなくたって、あれだけの難儀をして開墾する積もりなら、いくらでももらわれたんです。ただ、手続きの面倒が省けるから、あなたが、自分の力で開墾が出来なくて、取り上げられてしまう土地をもらっただけじゃないですか。」
「その手続きがね、なかなか金のかかる……」
「手続きに使った金ぐらい出しますよ。併し、小作料なら、一粒だって、一銭だって出せません。あなたが現在使用している土地だって、私達が開墾したからこそ、あなたのものになったんだ。あなたは、それだけの広い土地を自分のものにしただけでも、よすぎるくらいじゃないですか。あなたの、名義でもらったから、あなたの所有地にはなっていても、開墾して耕地にしなかったら、あなたのものにだってならなかったじゃないですか。道庁でだって、開墾したものにくれる意志なんだし……」
「いいです。いいです。私が慾を出したから悪いので、皆さんに差し上げますから、幾らにでも、気の向く値段で権利を買い取って下さいな。」
藤沢はそう言ってまた媚笑いをした。
「金のある時にね。併し、権利は早く私等の方へ移してほしいですね。当然のことなんだから。」
「いいですとも。いいですとも。そんなこと明日にでも。」
言いながら、藤沢は、岡本吾亮のために、長い間の計画が崩されて行くのを感じた。
*
開墾場の小屋を一通り廻り終わると、藤沢は落ち葉を踏み付けて事務所へ戻った。彼は窓際のテーブルに対った。そして彼はすぐに算盤を弾くのだった。――いよいよ取り立てることになると、段当たり七十銭の小作料としても、七百五十町歩だから [#ここから横組み]750×7[#ここで横組み終わり] が五千二百五十円。それから農具の貸し付けが十九軒だから [#ここから横組み]19×5[#ここで横組み終わり] が九十五円。そのほかに、食糧として貸し付けた方から……。
突然、硝子窓の彼方に固い兵隊靴の足音がした。藤沢は算盤に手を置いたまま足音の方へ視線をむけた。半分ほど開いている硝子窓の彼方を、誰かが此方へむけて活溌に歩いて来た。右上がりの広い肩。眼深に冠った羅紗の頭巾。宵闇の中に黒い口髯が判然と浮かんで来た。
岡本吾亮だ! 藤沢はガンと眩暈を感じた。彼は立ち上がりながらテーブルの横に手を伸ばした。臆病な胸が急に騒ぎ出した。彼奴のために、また滅茶苦茶にされてしまう! 藤沢はテーブルの横から取り上げた猟銃をすぐ動悸の激しい胸に構えた。そして銃口を窓から突き出した。
「おい!馬鹿なことを止せ!」
吾亮は右腕を顔に当てながら叫んだ。同時に鉄砲の音が響いた。吾亮は蹌踉めいてばたりと倒れた。
藤沢は部屋の隅から毛皮の外套を取って出て行った。彼は震える手で、微かに動いている吾亮に毛皮の外套を着せた。そして彼は溜め息を吐いた。併し彼の全身の戦きは止まなかった。彼は部屋の中に戻って火箸を持って出て行った。胸の傷口のところへ、外套にも穴を拵えるためだった。彼が火箸を叢の中に抛ったとき、銃砲の音で一人の作男がそこへ寄って来た。
「おい! 駐在所へ行って来てくれ。早くだ。駐在所へ行って巡査を呼んで来てくれ。大急ぎだぞ!」
藤沢は無我夢中で叫んだ。若者は声に追い立てられてすぐに駈け出した。そこへ佐平が来た。
「あ、困ったことをしてしまった。大変なことをしてしまったよ。あ、あ……」
藤沢はこう言いながら溜め息を吐いていた。
「どうしたのかね? 鉄砲の音がしたっけ。」
佐平はそう言って屈み込んだ。
「あっ! 吾亮さんじゃねえか?」
叫んで佐平は跳び退いた。そして藤沢の顔を、穴のあくほど視詰めた。
「なあにね、岡本さんは、私の居ねえところから、私のこの毛皮の外套を着て出たらしいんですよ。私はまたそれに気がつかなかったもんでね。ちょうど、私はまたその時、今年もそろそろ熊の出る時分だなあ、なんて考えていたんですよ。そこへ岡本さんがこの毛皮を着て来たもんで……とにかく、大変なことをしてしまった。あ、あ……」
藤沢は溜め息を続けた。佐平は、藤沢のその話の中から、将来に向けた秘密な計画を読み取ることが出来た。佐平は、だが、巡査の来るまでは、何も言うべきではないと、黙り続けていた。
巡査の来るまでには大分時間があった。そのうちに、四辺の小屋から、一人寄り二人集まり、がやがやと吾亮の屍を取り巻いた。やがて焚き火が始められた。そこから一番遠い地点にある吾亮の家には、知らせずにおく筈だったのだが、いつの間にか嗅ぎつけて妻が出て来た。伜の雄吾はその頃、敏感な少年期に達していたのだが、そこへは駈け出して来なかった。沈着な彼の母が、その場を見せないために、近所へ預けたのだった。そして吾亮の妻は、人々の背後の薄暗がりで、静かに泣いていた。
「東京からここまで来て、こんなことになるなんて……私達はこの先どうしたらいいんですか……子供だってまだ働けやしないのに……」
こう言って雄吾の母は啜り泣くのだった。
「岡本の奥さん。その方の心配はしないで下さい。私に責任があるんですから。その方の心配はしないで下さい。私が責任を負うんですから。」
併し彼女の心が、そんなことで穏やかになる筈がなかった。穏和な情緒を滅茶苦茶に掻き立てられた彼女は、何もかも掻きりたい興奮状態にあった。彼女はなおも泣き続けた。
巡査が来た時には夜が闌けていた。焚き火の傍に立って巡査は藤沢を訊問した。藤沢は、佐平に言ったと同じ理由を述べた。
「それでこの人は、おまえとは、おまえの外套を無断で借り着して行くような間柄だったのか?」
「はい。それは、十何年前からの友達で。」
「すると、全然、過失というわけだな?」
「でも、私は、罰を受けないと気が済みません。」
こういう言葉が交わきれている間に、佐平は、啜り泣いている吾亮の妻の方へ歩み寄った。
「家を出るとき、あの毛皮を着てたかね?」
低声にそう言って佐平は訊いてみた。
「今日は、朝出たきりでしたので……」
彼女は少しも藤沢を疑わなかった。彼の表面をそのまま受け取っているのだった。佐平は巡査のところへ引き返した。
「何にせ、熊だか人間だか、見分けのつかねえほど、まだ暗くなかったがな。」
佐平はこう彼等の会話の中に言葉を挿んだ。
「おい! おまえは黙っていろ。今ここで、いいかげんな嘘をつかれちゃ困るじゃないか。」
巡査は佐平の方に眼を光らせて言った。
「いや、いや、すっかり暗くなってからで……」
「宜し。じゃ、とにかく、今夜のうちに駐在所まで来て、本署まで一緒に行ってもらわねばならんな。この外套を背負って。」
「旦那様、私を証人に連れて行ってくだせえ。」
佐平はこう言って滅多に下げたことの無い頭を下げて頼んだ。自分の見透している藤沢の秘密な計畫を、みんな話してやる積もりだった。
「証人だと? おまえを証人に立てたら、どんな嘘を言うかわからんじゃないか。嘘つきの名人を、証人に立てるわけにはいかんな。」
「じゃ誰か他の人でも……」
「自首して出た者に証人がいるか。そんなことは後のことだ。――さあ、じゃ、その毛皮を背負って。」
巡査は藤沢を促してそこを立ち去った。
*
藤沢の罪科は過失致死罪だった。罰金刑で済んだ。そして吾亮の遺族である雄吾とその母とは藤沢の許に引き取られた。
「いいえ、そうまでして頂かなくも、私は東京へ帰ります。東京へ帰ったら、なんとかして食べて行けないことは無いでしょうから。」
こう吾亮の妻は言った。併し藤沢は、その以前から五六人の作男を使って自分も耕作をやっていたので、その人達のための炊事をしたり、自分の身辺の世話をしてくれる婦人を必要としていた。今までは開墾小屋から、百姓女が通って来てくれていたが、吾亮の妻にその役をしてほしいと言うのだった。
「そうでもしてもらわないと、私も気が済みませんからね。給金は、今までの倍にしますわ。」
藤沢が無理にそう言うので、雄吾を伴れて彼の母は、開墾小屋から事務所に移って行った。同時に藤沢は札幌へ引き上げて行った。彼女は啜り泣きの日の多い侘しい冬を送った。
翌年の春。藤沢は例年よりも早く開墾地に出て来た。そしてその夏中を、雄吾の母は、藤沢と一緒に事務所で寝起きをしなければならなかった。もちろん雄吾も一緒ではあったが、五六人の作男は、以前から他の建物に寝起きをしているのだった。
藤沢は、その年はどういうものか、ひどく躁いでいた。何事にも活溌だった。秋になると、貸し付けてあった食糧費をぴしぴしと取り立てた。そして、今年からはいよいよ小作料をも取り立てると提言して、それの実行に取り掛かった。
「小作料をね? この土地は、開墾すれば頂戴できる筈じゃなかったんですかね。」
佐平はこう呆れた者の調子で言った。
「冗談じゃねえ。この土地だって資本金が掛かってんですぜ。」
「じゃ、道庁から直接もらって開墾するんだったな。今頃は自分のものになってたのに……」
こう佐平は言って見たが、それは既に遅い気の付きようだった。
藤沢は二夏を雄吾の母とその事務所で暮らしたのであったが、初雪が来て、その年もいよいよ札幌へ引き上げるとなると、彼は彼女を伴れて帰って行ったのだった。――それから後の噂は、藤沢は最近に妻を亡くし、ちょうど子供が無かったので、彼女を後妻に入れたのだと伝えた。
雄吾はその翌年の夏から作男の仲間に投げ込まれた。そして、藤沢の活溌な行動は加速度をもって進んだ。小作料の取り立ては厳しく実行された。貸し付けてあった開墾中の費用の取り立てにも彼は決して手を緩めなかった。どこの移住開墾者よりも貧しい一団の移住開墾者等は、暗い陰惨な日々の中で、子供が殖えるばかりだった。
その頃、開墾地には美しい娘が三人いた。お糸。おせん。千代枝。その三人は次から次と五年の間にいずれも同じようにして札幌へ伴れて行かれた。――最初、彼女達は畑から事務所へと、炊事婦に傭われて行った。給金が頗るよかった。彼女一人の働きによって、その一家は十分に潤された。事務所で食べさせてもらった上に、小作料と、借りた開墾費用を払っても、彼女の給金はなおいくらか残るのだった。だからその貧しい親達は、娘が可哀想だとは思いながらも、表面には不服な顔を見せなかった。――併し、彼女達を目の前に愛することによって、その開墾地の生活に明るい華やかな生甲斐を見出していた若者達は、それでは鎮らなかった。彼等は開墾地を飛び出して行った。そして、お糸の相手だった耕吉は、浦幌の近くの小さな駅の駅夫をしている。おせんの相手の平六は池田へ行って馬車曳きになっている。佐平等が、自分達は食うや食わずに働いているのに収穫はみんな持って行かれると考えるように、若者達は、美しいものはみんな持って行かれて醜いもの穢いものばかりが残ると考えたのだった。
*
「意気地の無え野郎共さ。耕吉も平六も。あいつらに貴様ほどの度胸があったら、今頃はみんながこんな難儀をしなくて済んだのに……」
佐平爺は悠長に煙草を燻らしながら語り続けた。
「貴様はやはり、雄吾、親父に似ているんだなあ。その度胸のいいところは……」
「度胸じゃねえ。俺、我慢が出来ねえのだ。」
こう言って雄吾は、焚き火に屈み込んで枯れ枝を重ね直した。白い煙があがった。深い天井からばらばらと落ち葉がして来た。風が出て来たのだ。
「うむ、うむ。だからやるのさ。一ぺんで、親父の仇を取って、開墾場の人達みんなを助けて、その上自分の恨みを晴らせるのだもの……」
「あ、やってやるとも!」
雄吾はそう言って膝の上の猟銃を撫でた。
「その上、貴様、母親とも一緒に暮らせるようになるじゃねえか。なあ、そうだろう?」
「あんな、人でなしの母親なんか、どうでもいい。」
「いや! しかしな、貴様からお母さんに話して、この開墾した土地を、我々の所有にしてもらわねえと困るからな。そこを頼むわけなのさ。」
「併し、世の中ってそう調子よく行くものかなあ。俺、やっつけたら、自分も死ぬ覚悟なのだ。」
「だからさ、馬車に乗っている者を撃っちゃ、熊だとは言われめえってことさ。いいか。そこをよく考えて見ねばならねえんだ。」
落ち葉がまたばらばらと散った。白い煙が横に漂うた。風が勢いを得て来たのだ。そして原始林の中には静かに夕闇が迫って来ていた。
*
開墾地にはその年も、そろそろ熊の出て来る初冬が近付いていた。
闇夜だった。まだ宵の口だ。開墾地に散在している移住者の、木造の小屋からは、皆一様に夜業の淡い灯火の余光が洩れていた。十何年を経ても、彼等は最初の仮小屋の中に夜業を続けなければならなかった。十何年前に変わらない雨ざれた小屋は、壁板が割れて風が飛び込み雪が吹き込んだ。屋根は腐って雨が漏るのだった。併し彼等は、最初の夢を裏切られた未来の光のないところで、希望を持たない陰惨な生活を送らなければならないのだった。
原始林を背景にして散在した移住者の小屋から、事務所はやや離れたところにあった。納屋と馬小屋と、作男達の寝る建物とが、その横に黒く並んでいた。事務所からは明るい灯火が洩れていた。間もなく札幌へ伴れて行かれる筈の、おきんが裁縫をしているのだった。
事務所の灯火が消えた。おきんも寝たのだ。
「熊だあ! 熊だあ!」
若い声が突然叫んだ。暗がりに人影が動いた。
「熊だあ! 馬小屋を気を付けろ!」
移住者の小屋から炬火が出て来た。足音が乱れ合った。犬が吠え出した。
「熊だあ! 熊だあ!」
石油鑵が鳴り出した。板木を敲く音。バケツを打ち鳴らす音。人々は叫び合った。
「熊だあ! 熊だあ!」
「事務所の方へ逃げたぞう!」
炬火が四方八方から事務所へむけて駈け出した。黒い人影が続いた。犬が吠え合った。石油鑵が鳴り、板木が響き、バケツが鳴った。人々が叫び合った。開墾地一帯が揺るぎ吠えるのだった。
「熊だあ! 熊だあ!」
「熊だとう?」
炬火の薄明かりの中へ地主の藤沢が事務所から出て来た。鉄砲が鳴った。藤沢は唸って、蹌踉めいて、ばたりと倒れた。
「おっ! こりゃ熊でなくて藤沢さんだで。」
佐平爺が、倒れて唸っている藤沢に近付きながら言った。
「善蔵、貴様誰かと駐在所へ行って来う。熊が出たので追い廻していたら、そこへひょっこり藤沢さんが出て来たので、熊だと思って間違って撃ってしまいましたってな。解ったか。熊と間違ってだぞ。そこの理由をよく話すんだぞ。」
「誰が撃ったって訊かれたら?」
「あ、俺が撃ったって言ってくれ。」
雄吾は猟銃を杖にして傲然と言った。
「雄吾、貴様は札幌さ行って来ねえ気が? 俺が撃ったのだと言っておいてくれ。」
佐平はこう言って、雄吾から猟銃を奪った。二人の若者達は駐在所へ駈け出した。
「この悪熊も、とうとう為留られたな。」
「何を、馬鹿なことを。――おい、火を焚こうじゃねえか。」
炬火が積み重ねられた。上から枯れ木が加えられた。焚き火は闇の中に高く焔先を上げた。人々は、がやがやとそのまわりを囲んだ。犬は遠くからいつまでも吠え止まなかった。
――昭和四年(一九二九年)『文章倶楽部』四月号――
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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