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季節の植物帳(きせつのしょくぶつちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 9:15:10  点击:  切换到繁體中文


       ○
 梅の花は落ち着いています。本当に沈着ちんちゃくな花です。思い切って、一度にぱっと開くことの出来ない花です。梅の花の妙味みょうみはそこにあるのだと思います。あの、早春の鉛色なまりいろの空を背景にして、ふしくれだった、そしてひねくれ曲がった枝に、一輪二輪とほころめるところは、清新フレッシュな、本当になんとも言われない妙味のあるものです。そして又、その時ほど梅の花が純潔じゅんけつに、気高けだかく見えることは無いのです。又、まんまるにふくらんだ白いつぼみが、内に燃える発動はつどうがくのかげに制御せいぎょしながら、自分の爆発する時期を待っているのもいいものです。そして、このとき梅の花は、その中央に雌芯雄芯めしべおしべの色や、ふくらんだ褐色かっしょくつぼみと調和して、最も質朴しつぼくに見え、古典的クラシックな感じを与えるのです。
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 梅の花の美的情緒びてきじょうちょは、小鳥をはなして想いえがくことが出来ません。わけても雀です。そしてその時の梅の花は、本当に冴えざえしく見えるのです。小鳥は又、花の香りをごうとするように、やけに鼻先を突き付けて、さてはつぼみついばんだり、花を踏みこぼしたりするのです。そして小鳥たちの歌う歌から、一声ごとに、明るい世界が開けて行き、梅もそれにつれて、花は香りを深め、蕾ははじけて行くように思われます。
       ○
 梅の樹は老人くさい木です。あの節くれだって、そしてひねくれているところは、なんといっても頑固がんこなお爺さんです。併し、なんとなく気品のある老人です。それだけ梅の樹には、老人がよくうつります。まず私達は、土器かわらけのように厚ぼったく節くれだち、そして龍のようにくねった梅の木を想いえがくとき、その下に、曲がった腰を杖に支えて引き伸ばし、片手を腰の上に載せた白髯はくぜんのお爺さんや、白い頭を手拭てぬぐいに包んで、くわを杖に、ほころびかけた梅の花を仰いでいるお爺さんを想い描かずにはおられないのです。そしてそれは、決して美的な空想ではなしに、私達は奇妙なほど、ひねくれ曲がった梅の樹に、老人のつきまとっているのを見るのです。
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 梅の樹の、最も私達の美的情緒びてきじょうちょくのは、なんといっても、やはりその樹形じゅけいの節くれだってひねくれているところだと思います。利鎌とがまのような月の出ている葡萄色ぶどういろの空に、一輪二輪とほころびかけている真っ直ぐな枝の、勢いよく伸びているのもいいものです。ですが、その若い枝の根元ねもとから、私達は、ひねくれながら横へそれている老木の姿を想い求めずにはいられないのです。
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 さらに私達のなつかしむのは、あの古典的クラシック樹皮じゅひです。渋い渋い感じの、そして質朴な、あの樹皮です。あの龍のような不格好ぶかっこうな老樹が、もし滑々すべすべした肌をもっていたら、それはとても見られたものではないでしょう。それに、絵の具をぬたくったようにくっついているあのうめのきごけが、どんなに私達の心を落ち着かし、古典的クラシックな感じを与えるかわからないのです。それは、うめのきごけが、樹皮の乾燥かんそうしている老幹ろうかんに宿をかりるという、科学的な、又は自然的な関係からばかりでなく、自然の美的情緒を深めるためにも、梅の老樹を灰白色かいはくしょくに、或いは茶褐色ちゃかっしょくにぬりつぶしているような気がします。
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 深い香りの花です。本当に深い香りをただよわせる花です。それがはしゃぎきった空気の中を遠くまで流れて行きます。小鳥も人間も、この香りに花の在所へとさそわれるのです。鼻の感覚の鈍くなったお爺さんもです。
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 梅の花の香りの流れているところは、きっと、それは人里ひとざとです。梅の樹のないところには、その土地に住みなれたお爺さんもいなければ、人のいないところには梅の花も咲かないのです。梅の樹はどこまでも人なつこい木です。いや人間が梅の木につきまとうのかも知れません。路に迷った旅人が、ほっと胸を撫で下ろすのも梅の香りです。それだけ梅の木は人間と密接で、人の世の古い歴史をひそめているのです。

     睡蓮

 睡蓮すいれんは本当に可憐かれんな花です。孤独の淋しさを悩む無口な少女のようにあわれっぽい花です。すべての悩みも悲しみも、苦しみももだえも、胸に秘めて、ただ鬱々うつうつと一人かなしきもの思いに沈むというような可憐な表情を持つ花です。その可憐な表情こそ、睡蓮の花の私達の心を惹いてやまないところです。
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 さびしい睡蓮の花は、淋しい情景のうちに咲いてこそ、その哀愁的美、詩的情緒が私達の胸にぴったりうつって来るのです。巡礼乙女じゅんれいおとめのおつる石童丸いしどうまるのように、親を尋ねて漂泊さまよう少年少女が、村から村へと越える杉杜すぎもりの中の、それも鬱蒼うっそうと茂った森林の中の、そして岸にはあしが五六本ひょろひょろと生えていて、あおい藻などが浮き、鏡のように動かない古池に、ぽっつり夢のように浮いている睡蓮の花を見たら、きっと、泣き出したに相違ありません。かなしい少女の心には、睡蓮のあの可哀想な、淋しそうで悲しそうな、あの気持ちがあまりにもぴったりはいって来るからです。
       ○
 衰滅の美――という言葉があります。私達は、屋島やしまの戦いに敗れた平家の話や、腺病質せんびょうしつの弱々しい少女が荒い世の波風にもまれている話を聞くとき、その哀れな一種の美しさにうたれます。――それが衰滅の美というのでしょう。睡蓮の花はどうかすると、この衰滅の美という言葉に、ぴったりすることがあります。あまりにも可憐な、弱々しい花だからです。
 昔の栄華えいがを語る古城のほとり、朽ちかけた天守閣にはつたかずらがからみ、崩れかけた石垣にはいっぱいこけが生え、そのおほりに睡蓮の花が咲いていたら、私達は知らぬ間に、涙含なみだぐましい気持ちでいっぱいになっているに相違ありません。
       ○
 緑滴みどりしたたるころ、東京近郊では、井之頭いのがしらの池に、あの静かな、原始林のような森林に囲まれ、さびのついた鏡のような池のおもてに、白い夢のように睡蓮の花が浮いています。そのまわりに、小さい水鳥が浮いたり沈んだりして遊んでいるのを見ることもあります。

――昭和六年(一九三一年)『新月』四、五、六月号――




 



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年9月24日公開
2005年12月19日修正
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