六
六社様の祭日の九時頃、菊枝は、朝仕事が済むと次の間で、母の嫁入りの時のだった古箪笥から、二三枚の木綿の着物を取り出して、それに顔を押し当て泣いていた。母の位牌の前には、線香が悠長に燻っていた。
そこへ、婆さんが、二つの新聞紙包みを持って、痛む足を曳きずるようにしてはいって来た。
「なんだけな? 菊枝! 泣いだりなんかして……父つあんがこりゃ……」
菊枝は、着物の上に突っ伏したまま顔を上げなかった。
「なあ、菊枝。さあ、泣いだりなんかしねえでや。」
菊枝の胸の中には、不満な気持ちが満ち満ちていた。彼女は、その幾分かを祖母の前に吐き出そうとして顔を上げた。眼が赤く腫れあがっていた。
「こりゃ菊枝。父つあんが昨晩買って来たのだぞ。ほら、水色の蝙蝠。ほれから、この単衣も……両方で十三円だぢぞ。」
婆さんは柔和な微笑を浮かべて、こう述べたてながら二つの包みをほどいた。素樸なメリンスの単衣であった。濃い水色に、白い二つの蝶を刺繍したパラソルだった。
「ああ、いいこと!」
菊枝は思わず言って、そのパラソルを自分の手に取った。
「この水色の蝙蝠、高えもんだぢな。なんだが、父つあん、借金して来た風だぞ。爺つあんさ見せっと、まだは、喧しくて仕様ねえがら、見せんなよ。父つあんは、昨晩は、縁の下さ隠して置いで、今、魚とりに行くどて、爺つあんと一緒に出はって行ってから、まだ馳せ戻って来て、菊枝さやってけれろって……」
菊枝の頬には、また、別の涙がまろび出た。
「大切にしんだぞ。この着物だって仲々いいもんだようだから……」
「うむ。俺、今日さしたら、後は、ちゃんと蔵って置ぐも。」
菊枝は涙に潤んでいるような声で言った。
「一生懸命稼いでな。自分で稼ぎ出して買った積もりで。――あ、早ぐ支度して出掛けろ。」
菊枝はすぐに立ちあがった。彼女は、涙が流れて仕方がなかった。
七
あくる日は、昨日の祭りの草臥れ休みというので、村では仕事を休むのが習慣だった。
春吉と菊枝とは、朝のうちに一日分の草を刈って、爺さんも休ませ婆さんも休ませ、皆んなゆっくりしようと、草を刈りに出掛けて行った。
仲々いい場所が無かった。どこも皆んな、掃いたように刈られた跡か、短い五六寸ぐらいの草のところばかりだった。二人は、川べりや路傍を歩きまわった。そうして歩きまわっているうちに、町へ通ずる真山街道で、二人は町の方からやって来る豊作の父親に遭った。
「どこさ行って来ました?」
春吉は立ち止まって煙草に火をつけた。菊枝は横から黙ってお辞儀をした。
「俺どこの、豊作の野郎め、東京さ逃げだべって話でね。そんで、停車場さ行って見だのしゃ。もし昨日、上野まで切符買った奴あるが無えが……」と言って、彼も煙管を横にくわえた。
「はあ! 豊あんこ、いねえのがね?」
「昨日出たきり帰らねえので……停車場で訊いたら、上野までの切符、七、八枚も売れだのだぢがら、見当が付かねえもね。」
彼は、ちょっと唇を噛むようにして眼をったが、ぺっと道路に唾をした。菊枝は顔を赤らめて、下水を越え、田圃の畦を川べりの方へやって行った。
――大正十五年(一九二六年)『文藝戦線』
十一月号所収『逃走』[#「『逃走』」は底本では「「逃走』」]改題――
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