二
爺さんは、むっつりと、苦虫を噛みつぶしたような面構えで、炉傍に煙草を燻かしていた。弟の庄吾は、婆さんの手伝いで、尻端折りになって雑巾掛けだった。
「爺つあん、今日は、午めえは草刈っさ行かねってもいいぞ。」と菊枝は、土間を掃こうと箒を取りながら言った。
「俺あ今朝、午の分まで刈って来たから……」
「あ、そうが! そいつは大助がりだ。」
爺さんは、初めて無愛想な面構えをほどいた。菊枝も大変嬉しかった。
この爺さんは、昔は非常な働き手だった。二人前出来ないことは、たった一つ、使い歩きだけで、いっぺんに、西へ行ったり、東へ行ったりすることが出来ないから……と言われたほどの働き手だった。事実どんな仕事でも、大抵は二人前近く働いたものだった。が爺さんは、老衰の峠を越してから、急に怠け者の中へ数えられるようになった。
それでも爺さんは、倅の春吉と、孫の菊枝とが、毎日のように日傭稼ぎに行くので、僂麻質斯の婆さんに攻め立てられ、老衰した身体を、まるで曳きずるようにして、一日に二回ずつは、草を刈りに出なければならなかった。
「ふんとに俺は、棺桶さ入えるまで、こうして稼がねえばなんねえんだな……」
こう言って爺さんは、毎日草を刈りに出なければならなかった。あんなに働いた爺さんだったけれども、いくら若い時働いたことを、今の若い人達に自慢して見たところで、爺さんは、金鵄勲章も、恩給証書ももらっていなかったから。
「今の奴等あ、ろぐろぐ稼ぎも出来ねえで、贅沢べえぬかしゃあがって。――機械でねえげ、仕事はあ出来ねえもんだと思ってからあ。贅沢べえぬかしゃあがって……」
爺さんは口癖のように言うのであった。若い人達は、爺さんのその言葉を嫌った。菊枝は、爺さんのその言葉を、嫌っていたし、怖れてもいた。彼女の要求がいつも爺さんのその言葉で打ち砕かれた。
菊枝の母が、若い年で死んだ時などは、村中に「あの爺つあまに追い廻されちゃ……よっぽどの稼人だって死んでしまうべさ!」という噂が立ったほどだった。
併し、爺さんも弱ってしまった。今は、怠け者の、口喧しい爺さんとしての存在でしかなかった。伜や孫娘のすることに、うるさいほど嘴を入れるだけで、しょぼしょぼと、薄暗い室の中に燻っていた。
三
夜明け前から出掛けて行った父親の春吉が、山畑でひと仕事して帰って来た時は、大百姓の(それは大きな自作農であった)片岡の家に、日傭に行くので、先に食事を始めた菊枝が、ちょうど食事を終わったばかりのところだった。
「父つあん、俺、先に出掛けて、片岡さ寄って行んから、父つあんは、真っすぐに田圃さ行ぐんだ。」
菊枝は、食事の父親に、こう言い置いて、すぐにも出掛けそうな様子だったが、彼女はまだそのままもじもじしていた。
「春吉あ、菊も、いい稼人になったぞ。今朝刈った草なんか、一人前以上だぞ、ありゃ。」
爺さんは煙草を燻かしながら、非常に機嫌がよかった。菊枝は下を俯いて、足指で、板の間に何か書いていた。春吉は、菊枝の立っている方へ眼をやりながら、微かに口元を痙攣させた。
「ふんとに、いい稼人になってけでまあ。――今朝のなんか、二人前以上もあんべがら……」と婆さんは、庄吾が学校へ持って行く握り飯を焼きながら柔和な微笑を浮かべた。
春吉は、たまらなく嬉しかった。今まで爺さんからなど、一度だって、ほめられたことなどはなかったではないか? 口喧しい爺さんから、何かにつけては怒鳴られてばかりいる菊枝ではなかったか? 春吉は、浮き立つほど嬉しかった。
「明日は、どっさり小遣い銭やんべでや。なあ菊!」
春吉は飯を掻き込みながら言った。
「うむ、うむ。五十銭はやれよ。」と婆さんが横から言葉をはさんだ。
「俺、小遣い銭などいらねえから、あのう、あの、パラソル買ってもらいでえな。」
菊枝は、長い間心に潜めていた要求を、初めて言い出していい機会が与えられたように思ったのであった。
全くそれは、長い間心の中に潜められていた切なる要求であった。もうみんな、既に二本のパラソルさえ持っている人があるのに、菊枝はまだ、死んだ母が遺して行った古い蝙蝠傘を持っているだけであった。明日の、六社様のお祭りのことを思うと、彼女はどうしても一本のパラソルがほしかった。
併し、菊枝がそれを言い出すと、爺さんや父親の、今の今まで彼女に示していた悦びの感情は、急に一変してしまったかのようであった。
「なに? パラソル? あの、紫色の、へんつくりんな格好の蝙蝠が?」と春吉は、驚きの眼をった。
「俺、紫色でねえで、水色のいい。紫色では、あんまり派手だから。」
「そんな贅沢なごとばり言って。昔なんか、蝙蝠だって、よっぽどいい人でねえど持たなかったんだ。贅沢ばり言って……」
爺さんは、眼を三角にして横を向いた。
「水色? あんなもんでも、随分高えもんだべでや?」
「五円ぐれえ出せば……」
「五円や?」春吉は驚いたように言って、「五円なら、山の草手間十日分でねえが? そんな高えもの、とっても我々にゃあ……」
「贅沢ばり言って! ほだから見ろ。なんぼ稼えでも、貧乏ばりしてねえげなんねえ。みんな町さばり持ってかれで……」
爺さんは、ますます口を尖がらした。
「この辺で、俺ばんだ持ってねぇの。」
「そんなに高えもんなら、来年になってからでも、買ってもらうんだや。」と、婆さんはやさしく言った。
「そんなもの持だなげえ、お祭りさ行かれねえごったら、明日は、お祭りさ行かねえで、家の田の草でも取れ!」
爺さんは怒鳴りながら煙管で炉端を叩いた。父親の春吉は、もう何も言わなかった。深く考え込むようにして煙草を吸った。
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